今日のNHKテレビでは、初公開の特集ものとして「宇宙の渚」が放映されている。
こういうもののために、どれほどの資金が使われただろう。
何千兆円にも、なるだろう。
こんな大金を使ったものが、そんなに美しいものと、云えるだろうか。
「東日本大震災」で家族を失い、親を失い、散り散りバラバラになりながら健気に生きていこうとしている人々こそ、美しいというべきこと。
「宇宙開発」などのために、大枚の金を使うよりも、そうした金を、いつ襲うか知れない災害のための基金として蓄えておいた方が、いざという時に役に立つ。
こんな番組を作るのに資料を提供して稼いだり、製作したり、見ていたり、そして「地デジ化」と大騒ぎした世の中とは、美しくも何も、醜い方に思われてしまう。
「律正論」の「律」とは、「 行動を秩序づけるためのおきて。さだめ。」のことを言う。
それ故に「律正論」とは、この「秩序」が正しく行われるようになさしめるための「理論」である。
我々が産まれ生きている「この世」、といっても他に別の世がある訳でもなく、これが随一の世なのだが、この世はいつも動いている。流転し変動し、変化している。
この「いつも常に動き、流転し、変動」しているということは、反対のことを言えば「動かない」でいたら「淀み」が生じてしまい腐ってしまうことを意味し、この事から「動き、流転し、変化」するということは、新線を保つということとなる。
我々人間においても、生命あるものは「生命体」といい、「動植物」という様に、「動く」ことが基本づけられている。
ところが人間は、「文化文明」の発達によって「豊かで、楽しく、楽(快適、便利)」な生き方をしようとすることとなり、それは「動かない」で甘受することが、「人間らしい人間」の生き方と思うようになってしまっている。
このために人間は、肉体にも心、精神にも「サビ」が付いてしまっている。
この「肉体と心・精神」のサビを落とすことが、今の我々の愁眉の急になっている。
それを急き立てるように天地自然は、天災地変を巻き起こして、「律正論」を展開させている。