青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

信念と志

2008年01月01日 | 人生設計

いつも何気なく見詰めていたり見過ごしていたものに、ふと心を止めてみてみると、それらのもの全てに信念に生きていることに気が付いた。それは志を持って生きているといって良いかも知れない。石ころの一つ、草木の一草、犬猫の一匹、テーブルやイスの一つにも信念と志を感じてしまう。もっともそれは気張ったものでも力んだものでもなく、静かなとでもいうべき信念と志とを感じて止まない。

 そして人間はどうなのだろうかと、思ってしまう。

 私達人もある程度の信念と志を持っているだろうとは、思う。しかしその信念と志は堅牢なものとは言い難い。最も子供たちにそれを求めるのは無理というものだが、成人した大人たちなら断固とした信念と志を持って欲しいものだが、五官と言葉、コミニケーションに流されて右往左往してしまっている。もともとは因と縁とによって信念と志は左右される事なく貫いてきたものなのだが、人はそれが利益不利益、楽苦によって信念と志を揺るがせることになってしまっている。殊に言葉による影響は大きい。即ちコミニケーションであり情報でありマスメディアである。このマスメディアに信念と志があるならよい。しかし一般にマスメディアは、世論という波に流されていて、どこに信念と志があるのか定かでない。主に世論の要望、ニーズを吸い上げ答える、そこに重きを成している感がある。最もマスメディアが信念や志を振り回していたら、企業として立ち居かないだろうが。

 私たちの持つべき信念と志は、因と縁をして生きていくことを目的として、持つべき信念と志であるべきものである。五官や言葉によらなければならないにしても、それにおぼれ流されるべきではない。

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能動的と受動的と

2008年01月01日 | 人生設計

局面的個別的な対応や対処に止められ、全体的に一体的総合的な対応や対処がなれなかったことの、宗教性の希薄なことが大きな原因となっていると感じている。といっても私の宗教観は、一般とはちょっと異色なものかもしれないのだが、それを展開しながら語ってみたい。

 私達が、私達の存在は本源は一体なのだが、認識としては能動性と受動性とに分別してしまっている。簡単に言うと「与えるもの」と与えられるもの」,即ち「与えるもの」と「受けるもの」とに分別している。ここに迷いの発端がある。

 居幾で言えば「与えるもの」は教師で「うけるもの」は生徒だが、これだけでは教育とはならない。それは「与えるもの」は「売れるもの」の思いを知り「受けるもの」は「与えるもの」の思いに触れてこそ教育となりえるからだ。しかしこれでも真の教育とはなりえず、それというのも当事者以外の二つの第三者が介在しているがために、「与えるもの」と「受けるもの」以外に「優位、評価、選択」といったエゴが入り込み、教育現場を混乱させている。この二つのものとは、一つは教育委員会や行政機関、業者、家族など、いまひとつは教育後卒業後の思惑が「与えるもの」と「受ける物」に影響を及ぼしている。こうしたエゴや思惑を打開するには、局面的な個別的な対応でも対処でも対応できないだろう。それは哲学でも道徳も倫理も受け付けないからである。どうしてもそれ以上の論理を展開しなければならなくなる。例えば「汝の敵を愛せよ」とか「右の頬を打たれたら、左の頬も打たれよ」という具合に、常識とはかけ離れた論理を必要とする。

 しかしこうした常識とはかけ離れた論理も、能動性と受動性との相関的真実、べつにいえば結び付きの実態というものを見詰めるならば了解しえる。それが宗教である。

 最も権勢思考や権益思考でいると、それは見えないものであることを断っておかなければならない。

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