いつも何気なく見詰めていたり見過ごしていたものに、ふと心を止めてみてみると、それらのもの全てに信念に生きていることに気が付いた。それは志を持って生きているといって良いかも知れない。石ころの一つ、草木の一草、犬猫の一匹、テーブルやイスの一つにも信念と志を感じてしまう。もっともそれは気張ったものでも力んだものでもなく、静かなとでもいうべき信念と志とを感じて止まない。
そして人間はどうなのだろうかと、思ってしまう。
私達人もある程度の信念と志を持っているだろうとは、思う。しかしその信念と志は堅牢なものとは言い難い。最も子供たちにそれを求めるのは無理というものだが、成人した大人たちなら断固とした信念と志を持って欲しいものだが、五官と言葉、コミニケーションに流されて右往左往してしまっている。もともとは因と縁とによって信念と志は左右される事なく貫いてきたものなのだが、人はそれが利益不利益、楽苦によって信念と志を揺るがせることになってしまっている。殊に言葉による影響は大きい。即ちコミニケーションであり情報でありマスメディアである。このマスメディアに信念と志があるならよい。しかし一般にマスメディアは、世論という波に流されていて、どこに信念と志があるのか定かでない。主に世論の要望、ニーズを吸い上げ答える、そこに重きを成している感がある。最もマスメディアが信念や志を振り回していたら、企業として立ち居かないだろうが。
私たちの持つべき信念と志は、因と縁をして生きていくことを目的として、持つべき信念と志であるべきものである。五官や言葉によらなければならないにしても、それにおぼれ流されるべきではない。