星を数えながら

日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など
小さくても星のようにキラリ☆光ることを
分かち合えればいいなぁ。

「落胆しない」

2009年01月17日 08時26分46秒 | 聖書・賛美・メッセージ
2009年1月4日 新年礼拝メッセージの中から
「落胆しない」Ⅱコリント4:1-6



パウロは偉大な働きをした人物でしょう。
たくさんの地域で、多くの人々に福音を宣べ伝えました。
しかし彼の伝道旅行の1/4は、牢獄の中だったと言われています。
何度も何度も捕まり、鞭打たれ、長い間閉じ込められるのです。
それでもキリストに似る者となったパウロは、
「落胆しない」信仰生活を送ったのです!

っと言っても正確には、落胆することもありました。
悩むこともありました。パウロもやはり私たちと同じ人の子ですから。
しかし彼は時に落胆することはあっても、
いつまでも落胆し続けることはなかったのです。
思い煩うことはあっても、思い煩い続けることはなかったのです。

1.なぜならパウロの心の中には、
 神のあわれみ、神の愛が注がれていたからです。(4:1-2)
 神のあわれみを受けた務めだから、神の愛が注がれている、
 そこを土台としていたから、落胆し切ることはなかったのです。
 神の愛やあわれみは、どんな落胆させる出来事よりも大きいのです。

2.またパウロは、この世の神(=サタン)を認識していたから、
 だから落胆し続けることはありませんでした。(4:3-4)
 サタンが働くと、私たちは普通、思い悩むものです。
 しかしパウロは、この世において、サタンはいつでも働いてくる、
 そういう認識を持っていたから、いちいち落胆しないのです。

 またサタンがどんなに働いても、最終的な勝利者は、
 イエス・キリストだと知っているから、落胆し切らないのです。

3.最後にパウロは、どんな時にもキリストの栄光を信じていた、
 だから落胆し続けることはなかったのです。(4:5-6)
 どんな暗闇もキリストの栄光に打ち勝つことは出来ないからです!

今年もサタンは私たちの目を曇らせ、キリストを見えなくさせ、
神から私たちを離そうと執拗に働いてきます。
私たちを一時的に落胆させるような出来事があるでしょう。
いや今年もきっとあるのです。

しかし恐るるに足らずです。
私たちには、勝利者イエスが共にいるのですから!
神の愛を信じ、キリストの栄光が現わされると信じていくなら、
たとえ私たちは落胆することはあっても、
落胆し続けること、落胆し切ってしまうことはないのです!

スプリング・キャンプ

2009年01月16日 09時23分13秒 | 関西教区
年頭に、スプリングキャンプの案内を各教会に配布した。
今回は、私が広報を担当するということで、
元旦礼拝を控えた年末、そして結婚式の準備をしていた年始、
700枚の案内と40枚のポスターを作成した。

テーマは「With Him~主に導かれて」。
聖句が出エジプト記13:21‐22で、
「昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の前から離れなかった」
とあるので、ポスターの背景を入道雲っぽいものにした。
(誰も気づかなかったが・・・笑)



教会の兄姉にも手伝ってもらおうと、
案内&申込用紙を3つ折りにすることをお願いした。
印刷の終わった案内を持って行き、実例を示した。
その直後、大きな失敗に気づく。

両面印刷した安内&申込用紙の裏表の天地が逆だった・・・。
単に上下が逆ならば、
「今回はそれで・・・」と容赦してもらうのだが、
申込用紙を切り取る案内なので、
申込用紙の裏は空欄でなければならないのだ。
しかし、きっちりとキャンプの案内が印刷されていた。

結局、もう一度コーナンに走ってカラー用紙を購入し、
700枚の裏表を印刷し直したのだった・・・。
間違いに気づいた時の脱力感は、言葉にできない。
さすがの私も、リポビタンDを飲まずにはおれなかった(笑)

気を取り直し、兄姉に手伝ってもらい、
案内とポスターの袋詰めも無事に終わった!
終わってみるとこっちのもの。後はキャンプが楽しみだ。
何と言っても、もともと関西教区におられたF師が講師なのだから。

私が中高生の時から、尊敬している先生だ。
とっても楽しみ、楽しみ!
関西の中高生は、F先生を知らない世代がほとんどに?
きっと中高生たちは、大きな恵みをつかむだろう!

っと思って期待していたら、そうだ、私はちょうどその頃、
関東南西教区のキャンプに行っているのだった・・・。
余裕があったら、1日目だけ参加して、
それから関東に飛ぶことにしようか?

結婚式③

2009年01月15日 09時04分14秒 | 嬉しかったこと
先週土曜日の結婚式でのハプニング。

その①:フラワーガールとリングボーイ
 この出来事は、これから10年間は語り継がれるだろう。
 新郎の可愛い甥と姪がこの大役を務めてくれたのだが、
 前日リハーサルでも、なかなか上手くいかなかった。

 我が妻が思いついたのが、お菓子でおびき寄せる作戦。
 リングボーイが前方にいる私に指輪を届けるため、
 「この指輪とお菓子と交換しようね!」と言うと、
 「うん!」と目を輝かせて返事をした。

 途中で何度も迷走しながら、私に指輪を届けてくれたのだが、
 2人ともお菓子をもらうと、そのままバージンロードを
 逆走していったのだ!!!
 その可愛い姿と言ったら、何とも言えない。


 
 「あれで緊張がほぐれました」と新婦が後で言っていたそうだ。
 そういう意味では、2人の果たした役割はとっても大きい(笑)

その②:新郎のピアノ伴奏
 新郎は高校生の時から「新郎がピアノを弾いて、
 花嫁を迎える。ええと思わん?」と言っていた。
 そしてその希望がかなったのだ。
 仕事が終わった後に練習を重ねてきたらしい。

 しかし途中で何度か引き間違えて奏楽が止まってしまった!
 それでも新郎は「おぉ!」と言いながら、諦めないで引き続けた。
 
 プロの奏楽者が弾いても生み出すことのできない、
 何とも言えない「あったかい雰囲気」が会場を覆っていた。



その③:指輪交換
 前日のリハで、「過去に新郎と新婦の指輪が間違って渡されたことも」
 そんなことを司式をする私が話していた。
 「間違えないように、新郎の指輪には、印をしといてね」と、
 お願いをして結婚式に臨んだ。
 「こんなに大きな新郎の指輪、間違えるわけないやん」と笑った。
 ↓青い印の入った指輪↓


 そして私は、印の入った新郎の指輪を、間違えないように、
 ちゃんと新郎に渡したのだった!!!
 新郎は私から貰った新郎の指輪を新婦にはめようとした時、
 2人ともにこやかにほほ笑んでいる。
 私は「???」。私だけが分かっていなかったようだ!

 結婚式後の写真撮影で、新郎から私の「渡し間違い」を聞いた!
 そうか、新郎の指輪を新郎に渡してはいけなかったのだ(笑)
 間違わないように気を付けて、しっかりと渡し間違った私だった。
 
 でも、指輪交換をしている時の2人の笑顔を私は生涯忘れないだろう。
 そんな素敵な笑顔を、私は一番近くで見ていたのだ。



「ハプニングは必ずあります」という私の予言通り、
結婚式に関するだけでも、以上の大きな3つのハプニングがあった。
もちろん、同じ失敗や間違いを繰り返さないように、
(特に司式者の私!次は指輪を間違えないぞ)
反省し、次回の課題とし、気をつけていきたい。

しかしキリストの教会で挙げられた結婚式であるゆえに、
ハプニングがハプニングで終わることはなかった。
これが一番素晴らしいことだった。
カナの婚宴でハプニングを喜びの奇跡に変えて下さった、
そのキリストが共に結婚式の真ん中におられたからだろう!

まるで人生の縮図のような結婚式だった。
私たちはこれからも迷走したり、逆走したり、途中でとまったり、
間違えたりする、そんなハプニングがきっとあるだろう。
それでもキリストが共にいれば大丈夫、大丈夫、
そういう祝福に満ちた結婚式だったんだなぁと神様に感謝している。
 

結婚式②

2009年01月14日 08時17分48秒 | 嬉しかったこと
土曜日の結婚式当日、始まる前に信徒と共に祈った。
新郎新婦のために、また両家の祝福はもちろんのこと、
カナの婚宴(ヨハネ2章)のようなキリストの御業がなされるように、
水を汲むしもべのように陰でのお手伝いのために、
当日の朝も、みんなで心を合わせて神様にお祈りをした。

祈り終わった後、私は信徒の皆さんにこう言った。
「ハプニングは、必ずあります。失敗してもいいです。
 うまくやろうとか、ちゃんとしなければ、
 そんな気持ちを前面に出さなくても大丈夫です。

 私たちが緊張すると、親族の皆さんも緊張します。
 そしてただでさえ緊張している新郎新婦が、
 ガチガチになってしまいます。

 何があっても笑顔でいきましょう。
 祝福する気持ちを前面に出していきましょう!
 今、隣の方に満面の笑顔を見せてあげて下さい。
 (みんな、はにかんでいた・・・笑)」

そんなことをお話した。
私たち教会員は、結婚式場のプロではないので、
昨今のブライダル産業に乗せられたような、
商業的なサービスはとても出来ない。
(もちろん出来る限りのおもてなしはするけれど)

それでも、この日のために昨年から心を込めて祈り、
準備をし、祝福する気持ちをいっぱいで結婚式に臨んだ。

その結果、私の予言通り(?)数々のハプニングがあった!
しかし「ちゃんとしなければ」という気持ちではなく、
「祝福する」気持ちが前面にあったので、
ハプニングがハプニングのまま終わらなかったのだ。

それは、また明日ということで・・・(続く)



 

結婚式①

2009年01月13日 09時43分29秒 | 嬉しかったこと
1/10(土)、教会で結婚式が執り行われた。
弟と同じ日に結婚式を挙げる新郎。
その名前の通り、とっても愛らしく美しい新婦。

嬉しい時って、どうして涙が出てくるのだろう。
まだまだ駆け出しの牧師で、2回目の結婚式の司式だが、
緊張よりも、嬉しさゆえの涙をこらえるのに必死だった。
司式をしながら、途中で危ないところがあった(笑)
「まだ式の前半、こらえろ、こらえろ!」と、
何度も自分に言い聞かせていた。



「あなたはこの姉と結婚し、
 神の定めに従って夫婦となろうとしています。
 あなたはその健やかな時も、病む時も、
 これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、
 その命の限り、堅く節操を守ることを約束しますか」

「はい。誓います」

大きな声ではなかったけれど、
新郎新婦の確かな誓いの言葉が天に響いていた。

2人の固い約束の証しとして、指輪を交換した。
その指輪は単なる指輪ではなく、
指輪を見る度に、神の前で誓約したことを思い起こすしるしだ。



リングには終わりがないように、
お2人の愛が永遠でありますように・・・


洗礼式

2009年01月10日 08時55分15秒 | 嬉しかったこと
年末に、洗礼を受けることを決心されたご婦人。
抗癌剤を投与しながらの闘病生活で、
本当は皆と一緒に礼拝を捧げたいと強く希望しているのだが、
医師からは「人混みに入ってはいけません。
抵抗力が弱っているので、何かに感染する恐れがあるので」
と強く釘を刺されている。

そこで新年最初の日曜日の夕方、
教会役員とその婦人を誘ってこられた方と一緒に、
滴礼での洗礼式をもった。

我が妻はその婦人と一緒に聖書の学びをし、
時々訪問しては祈ってきた。
しかし年末から風邪をひいてしまい、うつしてはいけないと
母子室の窓からのぞきつつ、洗礼式に参加した!
(ガラス越しに手を振り、挨拶をしている姿は、
 さながら皇族の年始の挨拶風景のようだった・笑)

洗礼式の始まる前に、ピアの奏楽者と心を合わせて祈った。
「これから神様が最も喜ばれる奉仕をさせて頂きます。
 小さき私たちです。それでも神様は、この喜びの務め、
 最も尊い奉仕、最も祝福に満ちた奉仕を与えて下さいました。
 聖霊の喜びあふれるひと時となるように、導いて下さい」
自分で祈ったその祈りに、自分が一番大きくうなずいていた。



洗礼を受けた65歳のご婦人。
「私は病気が治るとか治らないとか、
 ご利益を求めに教会に来たのではありません。
 1人の人間として、神様を求めて教会に来ました。
 ヨハネ4章を読んで、今までは知らない神を拝んでいましたが、
 自分の罪を告白し、悔い改め、
 これからはイエス・キリストを信じていきます」
その信仰告白に主の御名を崇めるばかりだった。

年始から神の家族が加わったことを感謝し、
参加できなかった教会員の思いが詰まった色紙と、
美しい花束を贈呈し、素敵なひと時を持たせて頂けた。
 


鈴焼

2009年01月09日 10時09分24秒 | 嬉しかったこと
一年間のいろいろな感謝を込めてということで、
年末にある方から「鈴焼」を頂いた!



昨年も同じものを頂き、とっても美味しかったのだ。
そして近所の方におすそ分けをしたところ、
これまたとても気に入って下さり、
製造元に問い合わせをしたということだった!

和歌山の「香梅堂」というところで製造・販売しているそうだ。
現在インターネットと電話での販売を控えているそうで、
残念ながらその店のみでの販売ということらしい。

「老若男女を問わず
 幅広いお客様に親しまれている味は
 他には真似の出来ない
 弊店だけのオリジナル
 特に、類似品にはご留意下さい」

おそらく一切の保存剤などを使用していないため、
賞味期限がけっこう早いのだろう。
しかしこれがまた何とも言えない美味しさなのだ。
ここの鈴焼を知ってしまったら、
他店のものは食べられなくなるかも!
(目の前にあれば食べるかもしれないが・笑)

30半ばの男性が、ここまで言うのだから間違いなし!
一度、何かの機会にご賞味あれ。

追記
最近、このblogを愛読して下さっているから、
レストランや食べ物のことを紹介する記事が増えたので、
「その方向で進んでいくんですね~」と言われた!

別にグルメblogの路線を走るつもりはないのだが、
私は「食べることを喜び、喜んで食べる人」(特に後者)は、
人生を楽しんでいる人であり、心が健康な人だと思っている。
そして私も、「少しずつそうなっているのかも!」と思いつつ、
愛読者の言葉を聞いていた。

「主と同じ姿に」②

2009年01月08日 10時39分04秒 | 聖書・賛美・メッセージ
2009年1月1日 元旦礼拝のメッセージから(続き)
「主と同じ姿に」 Ⅱコリント3:18

キリストに似る者となるために、
私たちは以下の2つのことを大切にしていきましょう。

1.主に向かって礼拝を捧げる
 昨晩、大晦日の夜、床に就いて1つの夢を見ました。
 それは、紅白歌合戦の総合司会をしている夢です(笑)
 白組司会者の中居君が余計なことを話すので、
 放送時間を気にしている自分がいました!
 
 きっと大晦日の夜、長い時間、紅白を見ていたから、
 紅白の世界が私の無意識の世界を占領してしてまったのでしょう。

 何と交わるか、何を大切にするか、何に自分の思いと時間を用いるか、
 その対象に私たちはだんだんと似てくるのです。
 主に向く時(3:16)、つまり主に礼拝を捧げていく時、
 私たちの品性はキリストの品性、神の似姿へと変えられていくのです。

 命に関わる大切なことは、誰かに代わってもらえません。
 「代わりにご飯を食べといて」、「忙しいから代わりに寝といて」、
 「私の代わりにトイレに行って」・・・・。
 命に関わる大切なことは、誰にも代わってもらえないのです。

 神様に礼拝を捧げること、これは私たちの命、魂に関わることで、
 他の誰かに代わってもらうことは出来ないのです。
 「教会では、他の人が礼拝を捧げているからいいかぁ」、
 そんなことはありません。神様はあなたと交わりたいのです。
 あなたが礼拝を捧げることを喜んでおられるのです。

 私たちは神を礼拝するために造られたのです。
 だから礼拝を捧げると、命が輝き出すのです。

 主に自分自身を向け、礼拝を捧げることを大切にして行く1年を
 今年も過ごさせて頂き、キリストに似る者とならせて頂きましょう!



2.御霊によって生きる
 自分の頑張りで、キリストの似る者にならなくてもいいし、
 なることはできないものなのです。
 「これは霊なる主の働きによるもの」なのです。

 自分で自分を変えることが出来れば、
 私たちには神様が必要なくなるでしょう。

 「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
  わたしがきたのは、義人を招くためではなく、
  罪人を招くためである」マルコ2:17

 まだまだキリストに遠い者だと謙虚に自覚している人、
 そして私には神様の助けが必要であると自覚している人、
 その人のために聖霊という助け主が与えられているのです。
 この聖霊に助けられて、満たされて、聖霊に頼って、
 私たちはイエス様の御足の跡を歩んで行けるのです。

多くの人々が、いろいろな願いを持つこの元旦、
「キリストに似る1年を歩ませて頂きたい」、
そういう決心を年始にできるということは、とても幸いなことなのです!

「主と同じ姿に」①

2009年01月07日 09時29分57秒 | 聖書・賛美・メッセージ
2009年1月1日 元旦礼拝のメッセージから
「主と同じ姿に」
Ⅱコリント3:18

今年の私たちの教会の御言葉は、
「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。
 これは霊なる主の働きによるのである」
Ⅱコリント3:18です!

あのヘンリー・ナーウェンが、50歳代に入り、
「自分の人生には過去と同じだけの時間はない」
そう気づいた時、単純な問いが湧いてきたそうです。
それは、「年を重ねて、私はよりイエスに近づいただろうか」
という問いです。


過去の輝かしい業績、人々からの賞賛をどんなに持ち出しても、
魂の底ではその問いかけに「YES」と言えないことを偽れませんでした。
「年を重ねて、私はよりキリストに似る者となっているだろうか」
この問いかけが、ヘンリー・ナーウェンの人生を変えたのです。

(私はナーウェンの邦訳された書籍、彼に関する書籍を、
 全部読みたいと思っている。
 彼の本は読書をしているというより、
 一緒に神の前に出ている気がするのだ。
 年始に「ヘンリー・ナーウェン~傷つきながらも愛しぬいた生涯
 を注文した。楽しみ、楽しみ)


ジョン・ストットというイギリスの偉大な伝道者が、
一昨年、公の働きを退きました。敬虔な伝道者です。
エリザベス女王のチャプレンなどもされたそうです。


ジョン・ストットの最後のメッセージは、
「私は、この地上での長い旅の終わりに差し掛かっているこの時に、
 私が心に留めていることを皆さんと分かち合いたい。
 神は、神を信じる人々にキリストに似た者となってもらいたいのです。
 キリストに似ることは、神が神を信じる人々に願っていることです」
という内容でした。それが最後のメッセージです。

私たちはキリストに似る者となっているでしょうか。
本年だけではありません。「キリストに似る者となる」、
これはクリスチャンの天国に行くまでの目標なのです。

キリストに似るとは、
キリストの品性である御霊の実を結ぶこと(ガラ5:22-23)、
キリストの心を心としていくこと(ピリピ2:5)、
自分の内に生きているキリストを他者が発見するこ(ガラ2:20)
と言えるでしょう。

(続く)


「エバン・オールマイティ」

2009年01月06日 09時22分48秒 | 読書・映画
親しくしている先生から、DVD映画をお借りした。
その中にあったのが「Evan ALMIGHTY」だ。

現代版「ノアの方舟」と言ってもいい内容で、
コメディタッチで描かれており、とても面白かった!
神様を演じているのがモーガン・フリーマンというのも面白い。



私が心に残ったシーンと会話があった。
(見たい方は、読まない方が良いかも・・・)

国会議員になった夫が突然、方舟を作り出すことになり、
妻は全く理解が出来なくて、子どもたちを連れて実家に帰る。
その途中だと思うが、ある店で店員に扮するモーガン・フリーマンと
夫のことを理解できなくなった妻との会話である。

 「誰かが神に『忍耐を与えて下さい』と祈ったとすると、
  神は『忍耐』をくださると思う?
  それとも神は『忍耐のチャンス』をくださると思う?
  『勇気』を下さいと祈ったら、神は『勇気』をくださるのか、
  それとも『勇気を持つチャンス』をくださるのだろうか。
  
  『家族の絆』をお与え下さいと祈ったら、
  神はすぐさまその場しのぎの感情を与えてくれると思う?
  それとも『互いに愛し合う機会』を与えてくださると思う?」

もちろん神様は、忍耐や勇気、愛を与えて下さるお方だと思う。
そしてそれらが自分の内側から結ばれて行く実になっていくように、
それらを用いる機会(チャンス)をも与えるのであろう。
また共にいて励ましてくれるのだろう!