星を数えながら

日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など
小さくても星のようにキラリ☆光ることを
分かち合えればいいなぁ。

時を忘れて

2006年09月23日 18時40分38秒 | 聖書・賛美・メッセージ
今日、夕方になって思い起こされた詩。
山口博子さんというゴスペル・シンガーが、
作詞作曲されているらしい。
一度この歌を聞いてみたいなぁと思う。
きっと心に沁みこんでくるんだろうななぁ。

「時を忘れて」 山口博子
  目を閉じなければ 見えない世界がある
  口を閉じなければ 言えない言葉がある
  耳をふさがなければ 聞こえない声がある
  歩み止めなければ 会えない人がいる
  少しぐらい遅れたとしても
  大切なものを見つけたいから 
  道であり真理であり命である主に
  尋ね求める 時を忘れて

  目を閉じなければ 見えない世界がある
  口を閉じなければ 言えない言葉がある
  耳をふさがなければ 聞こえない声がある
  歩み止めなければ 会えない人がいる
  疲れすぎて 自分を見失う
  乾いた大地が 水を求めるように
  愛と霊といのち 注がれる主に
  祈り求める 時を忘れて

確かに「言葉にできない」

2006年09月22日 08時08分42秒 | 驚いたこと
昨日は調子が悪くて仕事を休んでしまった。
体が不調だと、気分まで滅入ってくる。
また気分が滅入ると、体がだるくなる。

ユーモアって素敵だなぁと思う。
ユーモアって「にもかかわらず笑う」ということだと、
柏木哲夫先生や渡辺和子先生が引用されていた。
笑えない時、笑いたくない時、にもかかわらず、
楽しみや喜びを誰かと分かち合うということだろう。

そこで数日前に見つけたBLOGをシェアしたい。
http://blog.livedoor.jp/yswebsite/archives/51161986.html
(本当は、trackback?とかするんでしょうけれど、
 何だか機能と意味がよく分からないBLOG初心者なので、お許し下さい)

小田和正の「言葉にできない」は、中学生の時によく聞いた。
まさか思い出のこの歌が、こんなBGMに用いられるなんて・・・。

思わず笑ってしまうこと間違いないでしょう!
妻に見せると、最初意味が分からなかったようで、
しばらく眉間にしわをよせながら見ていた。
私にはその顔の方が面白かった。
解説を入れるとようやく意味が分かり、笑い始めた。
本当のユーモアは、もう少し上品なものでしょうが。
夏の疲れをお癒し下さい。


彼岸花

2006年09月20日 12時03分24秒 | 動植物から
教会の隣の畦道(あぜみち)に、彼岸花が咲き始めている。
不思議だなぁと思う。
毎年毎年、お彼岸の季節をちゃんと知っている。
いやぁ、本当に不思議だ。

それにしても一気に大きくなって、一気に花を咲かせる。
見た目には一気にと思うが、彼岸花は球根を持っているそうだ。
その球根に栄養を貯め込んでいるようだ。
そして貯め込んだ栄養を、お彼岸の季節に一気に開花させるそうだ。

インスタントに花が咲いているわけではない。
やはり助走期間があるんだなぁ。
芽が出ない時、花が咲かない時、
それは目に見えない球根を作っている時期なのだろう。

みんなでぎょうざ

2006年09月19日 13時53分17秒 | 日常の出来事
日曜日の夕方から、教会の青年部と中高生が、
ぎょうざを作ろうということで、わいわいがやがやしていた。
生地から作るということで、めんぼうを使いながら
薄かったり、分厚かったり、大きかったり、小さかったりと
いろんな生地ができていった。

一生懸命ミンチを手でこねている人、
えびの皮をむいている人、
普通のぎょうざに、えびぎょうざ、スープぎょうざなどなど
何だか楽しそうに皆でぎょうざを作っていた。
中には円盤の形にする人、巨大ぎょうざを作る人もいた!

私は用事があったので、結局みんなと一緒に食べられなかった。
後で話しを聞いてみると、大学生の男の子が、
ぎょうざの中にいろいろな具材を仕掛けていたようだ。
例えば、豆板じゃん、岩のり、梅、グミ・・・・。
みんなで「まず~!」と言いながら、爆笑しながら食べていたようだ。
もちろん、普通のぎょうざは美味しかったようだ。

夜遅く家に帰って、早速みんなのぎょうざを食べてみた。
皮が分厚かったが、なかなかのお味だった!
ただ、豆板じゃんぎょうざに当たったが、
みんながいないと爆笑も起こらず、ただのまずいぎょうざだった・・・。

みんなと楽しく食べると、まずいものも爆笑に変わり、
普通のものも、美味しく食べられるんだなぁ。





季節はずれ

2006年09月16日 08時01分16秒 | 動植物から
昨日の朝、水遣りをしていると
妻が「あらぁ、咲いてる~!」と言う。
振り返ってみると、ライラックが初めて花を咲かせた。
←ちょっと分かりにく画像だが・・・。

「季節が違うけどね~」と妻。
どうやらライラックは、春(4~5月)に咲く花らしい。
昨年、妻が北海道出身だからと、工務店の社長が事務所の前に
植えてくれたものだが、今まで一度も花を咲かせていない。
やっぱり大阪は暑いからなぁと思っていた。
8月に葉っぱが暑さのせいで枯れてきているようで、
いつの間にか全部とってくれていた。
すると、青々とした葉っぱが出てきた。
そして、朝晩が涼しくなってきたこの頃、花を咲かせたというわけだ。

時には、季節はずれの思いがけない咲き方もいいかもしれない。
無計画は困るが、何でも計画通りというのも面白味にかけるだろう。
思いがけない花を咲かせる時が、きっと誰にでもあるのだと思う。

余談だが、ヨーロッパの民間伝承では、
白い花のライラックを家に持ち込むと
不吉なことが起こるとされているそうだ・・・。
いや、教会の事務所の外だから(笑)

不幸中の幸い

2006年09月15日 07時36分28秒 | 友だち・人物のこと
毎月の家庭集会に集っているご婦人の方が、
ひき逃げにあって入院されたと聞き、
驚いて心配しながらお見舞いに行ってきた。

お部屋にはおられず、リハビリに行かれたとのこと。
エレベーターから車椅子に乗って出てこられる
そのご婦人のお顔を見て、本当に安心した。

「あれぇ、先生、来てくれたの!」
「ICUに入っているかと思って、心配したんですよ」
そんな挨拶の後、よくよく事情を聞いてみると、
お姉さんと自転車で走っている時に、
急に軽自動車が飛び出してきてあてられて、
右手を後輪にひかれたそうだ。
転んだ際に、右足の甲も骨折されたとのこと。
右手の甲は、ひびがはいったそうだ。
ひかれたその瞬間、「あ~、かたわになった」と思ったそうだ。

結局、いまだひき逃げの人は現れず、2ヶ月間の入院が必要とのこと。
とんだ災難にあわれたのだが、何故かご婦人との会話には笑いがあった。

  夜道に一人で事故にあったわけはなく、
  お姉さんや助けてくれる方がいたこと。
  ひかれたのが頭ではなく、右手だったこと。
  右腕が使えなくなると思ったけれど、
  リハビリで回復できること。
  病院のすぐ裏がお姉さんの家があること。
  また近所に2人の息子さん夫婦が住んでおられること。
  2人の嫁がとても親身になってくれていること。
  予定を変更して、事故前に引越しを終えていたこと。
  引越し先の団地が、まるでホテルのように美しいこと。
  病院の御飯がとても美味しいこと。
  理学療法士の方々は、優しくてハンサムな方ばかりということ。
  (最後の2つは、とても重要なようだ!笑)

ひき逃げをして、いまだ名乗り出ない人を恨む言葉が一言も出てこない。
唯一口にされた不足は、晩酌が出来ないことだと、笑いながら言われていた。
次から次へと、「不幸中の幸い」を数えている。
最後にお祈りをした後は、
「やっぱりイエス様が守ってくれたんですね」と言われた。

どんなに痛かっただろうし、辛かっただろうかと思う。
それでもこのご婦人は、心までは事故にあわれていなかったようだ。
1日も早い回復を祈るとともに、人生の先輩から大切なことを教えられ、
すがすがしい思いをしながら帰りの車を運転していた。

レッツ・ロール

2006年09月14日 07時35分40秒 | 読書・映画
9.11から5年。
あの日、あの時、聖書神学校の男子寮で見たあの衝撃的なニュース。

今年、日本でも公開されているが、
同時多発テロでハイジャックされたユナイテッド航空93便機内、
その様子を描いた「ユナイテッド93」という映画。
その映画を見る前に、どうしても読んでおきたい本を読み終えた。

本を読みながら、電車の中で涙をこらえるのに必死だった。
ワシントン激突という最悪のシナリオを阻止すべく
立ち上がった人たちの中に、リサの夫トッドがいた。
彼は「レッツロール」という言葉を残しテロ犯人に立ち向かった。
彼は教会学校の先生をしていた。
彼の生徒、青年会の女の子が、彼に贈った詩を紹介したい。

  私にはとびっきりすてきな友人がいました。
  多くの人を、死をもって救ってくれたその人。
  彼は心から神を信じていました。
  背が高くて、スポーツマンだったその人。
  バスケットボールがとても得意でした。
  シカゴ・ブルズの大ファンで、
  書斎は、マイケルのポスターだらけ。
  一歩一歩人生を
  信仰を持って歩んだその人。
  問題があるときは、まず祈り、
  たとえ目に見える結果に満足できなくとも、
  勇気を持って行動したその人。
  妻と息子たちを心から愛し、
  今は、ここにいなくとも
  もう一人の子供の誕生を心待ちにしているその人。
  自分の思いを越えて、
  神のみこころのとおりになることを願ったその人。
  最後に、青空めがけて飛行機に乗って、
  ホワイトハウスを、いのちをかけて守りました。
  アメリカの国旗がその人を称えて、
  誇らしげにはためきます。
  神に愛されているその人、
  それはあなたのことです、トッド・ビーマー。
  あなたは、今天国にいる。
  そのことを私たちは確信します。
  トッド、私たちは、あなたのことを決して忘れません。

リサ・ビーマー『レッツ・ロール』
いのちのことば社 フォレストブック より


思いがけないお祝い

2006年09月13日 08時10分32秒 | 日常の出来事
日曜日の午後、教会員のご婦人が新居に引っ越したということで、
神様の祝福をお祈りしに出かけた。
初めて訪れる地域で、迷わないで着くだろうかと心配していたが、
バイパスから斜め右方向に、一目でよく分かるほどに
立派な建物が立ち並んでいた。

今まで住まわれていた府営団地が取り壊されるということで、
少し離れた街の新しい府営団地に入居することになった。
しかし、団地には見えない外観である。
落ち着いた、でも温かみのある色合いで、
まるでマンションのようであった。
内装もなかなかお洒落で、バリアフリーの作りで、
ご婦人もとても喜んでおられた。

おそらくそのご婦人の人生で最後の引越しになるだろう。
最後に素敵な住まいに移れたことを、皆で一緒に喜び、
そして全ての災いから守られることと、神様の祝福をお祈りさせて頂いた。

そこで事件(事故)は起こった。
電気屋さんが取り付けた電気器具、どうも向こうの部屋と
こっちの部屋のものを入れ替えて欲しそうな様子だった。
そこで、はりきって椅子に乗り、電気器具をはずそうとした。
1つは私の背が低く、否、天井が高いために手が届かなかった。
もう一人の方にお願いをして、私は補助にまわったその時、
電気器具が見事にすり抜け、大きな音をたてて木端微塵に砕け散った!

思わず声も出なかった。幸い怪我もなかった。
そこで、2人で新しい電気器具を買いに走り、今度は慎重に取り付けた。
以前のものは十数年使っていた古いものだったので、
新築に新しい電気器具を私たちからのお祝いにということになった。
結果的に、そのご婦人もご遠慮しながらも得したような(?)お顔になり、
壊した私たちも、お祝いということと、笑い話の土産話ができたと思っている。

災いから守られるようにと祈った直後の出来事、
神様は災いを笑いに、お祝いに変えて下さった!

食欲の秋

2006年09月09日 17時50分43秒 | 動植物から
午前中、教会の植木の水遣りをしている時、
「あ゛~」という奇妙な妻の悲鳴が裏の方から聞こえた。
早速行ってみると、大きな青虫を発見したようだった。
緑の青虫が2匹、黒い青虫が2匹。

それほど虫に強いわけではないが、
妻が見ている手前、何とかせねばならないだろう。
火バサミを持ってきて、茎から離そうとすると、
鮮やかな緑色の液体を噴射しながら抵抗している。
なかなかの力で茎にしがみついている。

やっとのことで、4匹を茎から引き剥がし、
殺虫剤を噴射した後に、パチリと撮った写真である。
小さく見えるが、大きいので10センチぐらいはあった。
いったいどんな蛾になっていたのだろうか。

よくよくプランターを見ると、葉っぱがほとんど食べられていた。
まぁ雑草のように生えていたものだからかまわないが。
そして糞と思われるものが、たくさん転がっている。
これだけ葉っぱを食べたら、出るものも出るだろう。

しかし、すごい食欲である。
そう言えば、昨日のインターネットニュースで、
インドネシアで、体長6Mのニシキヘビが、羊を丸のみし、
動けなくなったところを捕獲されたということだ。
その写真が載っていたが、ちょっとこれは異様だ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060906-00000391-reu-ent.view-000

食べれると思ったのだろうか。
消化できると思ったのだろうか。
チャレンジしてみたかったのだろうか。
よっぽどお腹がすいていたのだろうか。

食欲の秋。
エサウのようになってはいけないぞ、と自戒しつつ。
ヘブル12:16

誤字

2006年09月08日 07時57分04秒 | 日常の出来事
一昨日届いたある方からのメールの最後に、
 「どうぞご慈愛ください」
と記されていた。
あー「ご自愛」の間違いだなぁ、と思ったが、
何だか「ご慈愛ください」に、ホッとさせられた。

「ご自愛ください」とは、自分で自分の体を大切にすることだろう。
もちろん、ねぎらう気持ちが出ている言葉だろう。
しかし「ご慈愛ください」を目にした時に、
神様の慈しみ(いつくしみ)と神様の愛によって、支えられますように、
と言うようなメッセージが伝わってきた。

自分で自分を大切にできないような忙しさとか、いろいろあると思う。
それでも「神様があなたを慈しんでいるよ」、「神様の愛は変わらないよ」
というメッセージを受け取る時、本当の意味で「自愛」できそうな気がする。


去年、弟が天国に召された時、沢山の弔電を頂いた。
ある方が、「弟様のご昇天の報に接し・・・」と送って来られた。
普通、キリスト教会用語(?)では、
「召天」(天国に召されたとの意)を使う。
「昇天」は、キリストが天に昇って行ったことを指す。

しかし、「昇天」の文字を見た時、
「あー、弟はイエス様のように天に昇って行ったのか」と思うと、
何だかとても慰められたことを思い出す。

間違っているということは、正しくないということだろう。
しかし、時に人間の正しさよりも、
間違ってしまったことから何かを発見することがあるのかもしれない。