星を数えながら

日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など
小さくても星のようにキラリ☆光ることを
分かち合えればいいなぁ。

クリスマスコンサート

2006年12月28日 08時25分23秒 | 友だち・人物のこと
24日のイヴの夜に、
「時田直也クリスマスコンサート」を開いた。
沢山の方々が集い、共にクリスマスをお祝いし、
時田さんの歌声とお話しに耳を傾けた。

「とっても、とっても温かい方だなぁ」、
駅に迎えに行った初めから、
リハーサルや本番、お別れの握手をするまで
その第一印象は終始変わらなかった。

盲目のバリトン歌手の時田さんのお話しを聞きながら、
その心の温かさは、父親の存在が大きいということを感じた。
「お前が生まれてきて、本当に嬉しい」
ことあるごとに、父親はそう語ってきたそうだ。
歌手になって大成したからではなくて、
子どもの時からずっと
「お前が生まれてきて、本当に嬉しい」
何度も何度もその言葉を聞き続けてきたそうだ。

「あなたがいてくれて、本当に嬉しい」
そういう言葉を言ってくれる人が周りにいるって
とってもとっても大切なことなんだと思う。
「あなたがいるだけで、本当に嬉しい」
自分がそういう言葉を伝えることも
とってもとっても大切なことなんだろう。

私は司会者として、時田さん夫婦に
プロポーズの再現をして頂いた。
とんでもない注文を、恥ずかしそうに2人はしてくれた。

「僕の眼になってくれないか?」と時田さんが尋ねると、
「私、ド近眼やで」と答えた奥さん。

ロマンチックではない返答に驚いた時田さん。
でも、「ド近眼な私で良ければ、あなたの眼になりたい」
という気持ちは十分伝わってきた。

時田さん、公衆の面前で恥ずかしいことをさせてしまって、
どうもすみませんでした。
でも、時田さん夫婦に出会えて、私はとっても嬉しいです。
今度、ゆっくりとお茶でも一緒に飲みましょう!


キャンドルサービス

2006年12月22日 09時07分03秒 | Weblog
少し早めだが、20(水)の夜にキャンドルサービスをした。
(←画像は、一昨年のもの)

キャンドルサービス、訳すと燭火礼拝。
披露宴で新郎新婦が、各テーブルを回ってキャンドルに
ライトをつけるというサービスではなく、
闇を照らすキリストの光を象徴するキャンドルライトを灯しながら、
礼拝(サービスには礼拝という意味がある)を捧げるひと時。

今年は、「キリストの光が、その方の生涯を照らして下さるように」
という祈りを光に託しながら、蝋燭の火を隣の方に分かち合った。
また、自分の蝋燭に火が灯される時、
「私のために祈ってくれている方がいる」
ということを感謝しながら光を受け取った。

「蝋燭は、おのが身を減らして 世を照らす」
そんなキリストの光を心に映して互いに持ち帰った。
どんなに分け与えても蝋燭の火は減ることはなく、
分かち合えば分かち合うほど、光の数は多くなり明るくなる。

イルミネーションを飾る家々も増え、
外側がとても明るくなるこの季節。
(最近は、少し寒く感じる青色が増えているような)
内側に、キリストの光を灯す、
静かなキャンドルサービスの夕べであった。




分かり合えないことも

2006年12月20日 15時23分49秒 | 考えたこと
「諦めないで話せば、必ず分かってもらえる」、
「人と人とは、分かり合える」、
ずっとそう思ってきたけれども、
実際はそうでもないということが分かってきた。

分かり合えない寂しさっていうものがある。
そこには、自分を分かってもらえない寂しさも、
相手を分かろうとしない気持ちも含まれているのかもしれないが。

100%、お互いがお互いのことを分かり合えることは、あり得ない、
そう心得ている方が、現実的でもあり、心の健康にもつながる。
相手の気持ちや考えを100%分かったということは、
どこかその相手の存在を小さくしてしまっているのではないだろうか。
相手は自分とは違うゆえに、100%同じではあり得ないだろう。
なのに100%相手を理解した、分かっているということになれば、
そこには思い込みがあり、時におごりにつながるものが芽生えているのだろう。
100%分かりえないところに、相手の人格を尊ぶ思いが生まれるのだろう。

100%分かり合えることを前提にするのではなく、
分かり合えないところに、何かを発見するものでありたい。
だからこそ60%でも、70%でも相手に分かってもらえれば、
もうそれは喜んでもいいぐらいのことではないだろうか。
また分かり合えないからと言って諦めたり投げ出すのでもなく、
50%ぐらいまでは分かりあえるだろうと、
誠実な努力も必要だろうと思う。

抽象的な思索であった。




プレゼント交換

2006年12月15日 08時59分52秒 | 日常の出来事
←これは、私の愛用している筆箱(ペンケース)。
もう15年間使い続けている。
ムーミンのイラストが殆ど消えかけて、
幽霊のようにかすかに残っている。
黒ずんだ汚れや、少しの破れもある。

何故このペンケースを使い続けているかと言うと、
もちろん気に入っているからということもあるが、
プレゼントを贈る気持ちを教えて頂いた品物という理由もある。

今から15年前の教会でのプレゼント交換で、
私はこのペンケースやシャーペン、物差しなどを含めた
文房具セットをゲットした。
当時、500円程度のプレゼント交換ということであった。
「500円程度」と言われれば、450円から550円ぐらいだろうと
私の中で勝手に枠組みを決めていた。
また恐らく常識的にもそうではないかと思っている。

しかし、どう見積もっても私がゲットしたプレゼントは1000円はしている。
当時、高校3年生だった私は、その事実に驚いたのである。
そこでそのプレゼントを提供(?)して下さった方を見つけ出し、
喜びを伝え、「1000円以上しているでしょ?半額かセールだったんですか?」
と、今から思うと失礼な質問だが高校生の率直な疑問をぶつけてみた。

その方は当時20代後半、教会に来られて間もない方であった。
そして私の質問に、
「セールじゃないよ。どうせ貰うんやったら良いものを貰うと嬉しいでしょ」
と、いともたやすく答えたことに驚いたのである。
何だかその気持ちはとても大切だなぁと思っているからか、
今でもこのペンケースを使っている。

それからいろんな場所で何度かプレゼント交換の機会があったが、
やはりその時も、目安の値段よりもはるかに高いプレゼントを
用意している方を見つけてきた。

クリスマスプレゼント、贈る気持ちを大切にしたいなぁと
ペンケースを眺めながら思うのであった。

クリスマスを前に

2006年12月13日 19時00分21秒 | 日常の出来事
色々なファイルを整理していたら、
以前に切抜きをしていた「詩」を発見した。
もう何年も前の『いのちのことば』という小雑誌で、
内山薫さんという方が、日記の中に走り書きしていたものだそうだ。

探していたわけでもないのに、
思いがけず何かを探し当てたような嬉しさ。
そしてクリスマスを前にして、
私のところにまで訪れて下さるキリストに
改めて感謝が沸いてきた。


  「かたくなだ」と言われるから  
    ますます かたくなになるんだよね
  「暗い」と言われるから  
    ますます 落ち込むんだよね
  「悲しんでばかりじゃ・・・」と言われても  
   悲しいんだよね
  否定されるから  
    ますます 硬直しちゃうんだよね

  神様は 私の弱さを指摘されない
  私に「おまえ前がどうなれ」とおっしゃらない
   「かたくなな心を 
    わたしが やわらかくしてあげよう」
   「暗い心に わたしが 光をあげよう」
   「悲しみの心に わたしが喜びを あげよう」と言って下さる
  神様ご自身が  「わたしが こうしてあげよう」
    と言ってくださる
  私に「溝から這い上がれ」とおっしゃらない
   「わたしが そこへ行ってあげよう」
    と言ってくださる

                       (後半省略)



狭心症と広心症

2006年12月08日 17時45分01秒 | 友だち・人物のこと
妻の母は、ほんわかしていて、とても幸せそうだなぁと思う。
いろいろ苦労を重ねてきているはずなのに、
そういう「苦労じわ」を心に刻むことなく、
素朴に「笑いじわ」を見せてくれる。

妻が実家に帰ると、とにかくよく話しをする。
妻がトイレに行ってもまだ話しているというから面白い。
聞けば聞くほど、いろんな話しが次から次へと出てくる。

またとても筆まめで、葉書の裏側に細かい字でいっぱい
日常の出来事などを記して、書ききれずに宛名の面にまで。
特に何かの用事があるというわけではないが、
娘を思う気持ちからか、話すように書いておられる。

その中で、薬局の薬剤師との会話が記されていた。
少し狭心症の気があるようで、心臓が苦しくなった時にと
湿布のような心臓用貼り付け薬を処方してもらっているようだ。
ある日、首や肩がとてもこっていた時に、心臓用貼り付け薬を思い出し、
血管を広げる効用だからと思い、首や肩に貼ったということを
薬剤師にお話しされたようだ。

すると薬剤師の表情が一変し、
「そ、それで、どうなりましたか!」と尋ねられ、
「いあやぁ、どうにもなりませんでしたよ」と答えたそうだ。
そして薬剤師に、心臓用の薬を他に使ってはいけませんと
重々注意を受けたそうだ。

母にすれば思い違い、まぁいいんじゃないの、という感じだろうが、
専門家の薬剤師にすると、とんでもない用い方だったようだ。
心臓用なので、微量のニトロか何かが塗布されているのだろうか。
知らないということは、少し間違うと怖いなぁと思う反面、
笑い話としてけろっとお話しされるお母さん、
狭心症の気があっても、心は普通の人よりもずっと広いなぁと思う。

ありがた迷惑

2006年12月06日 08時24分52秒 | 考えたこと
「親切心」って大切だなって思う。
しかし「親切」でしたつもりが、「大きなお世話」になることがある。
それをいわゆる「ありがた迷惑」と呼ぶ。

先日、ある方の善意を受けた。全くの善意である。
その方にやましい心は一切ないことは良く分かる。
それでも内心 
「何故、そんなに単純にこうされたのか。
 それでは余計にしんどいことになる。
 何故、本当のところを分かってくれないのだろうか。
 まさに、余計なお世話、大きなお世話である」
そんな思いが心の中だけではなく、私の顔の表情にまで渦巻いていた。

本当のところを言おうか言わまいか、かなり葛藤したが、
最終的に言わないことに決めた。
もちろん、事の次第によれば、本当のことを言った方が良いこともある。
しかし今回は、「ありがた迷惑」の「ありがた」だけを感謝して頂いて、
「迷惑」は私の方で密かに受け止めようと決心した。

考えてみれば、私も数多くの「ありがた迷惑」をしてきているのだろう。
自分では良かれと思ってやったこと、言ったことでも、
実は余計に問題を複雑化してしまっていることもあっただろう。
その場合も、自分の動機は「善意」だからと、
相手の立場よりも自分を弁解することもあったであろう。

そう思うと、相手に「複雑な顔」をしたことを申し訳なく思ってきた。
どうして「すがすがしい顔」が出来なかったかと後悔している。
「我関せず」の冷めた人間関係が多い中、純粋に善意を行ってくれたのだ。
たとえ「ありがた迷惑」のように感じたとしても、
「迷惑」の方に心を向けるのではなく、
その「ありがた」を「ありがたく」受け止める心の広さを持たせて頂きたいと思った。




思いがけないプレゼント

2006年12月06日 08時00分17秒 | 日常の出来事
先週の祈祷会の奉仕を終えて、
ふと携帯を見ると「着信あり」の表示。
父からの電話で「帰って来たら電話ちょうだい」
というメッセージが留守電に入っていた。

早速家に帰って電話をすると何故か母が出てきた。
「お父さんがどこの散髪屋に行こうか迷っていたら・・・」
と話しが始まる。母の話しは、なかなか本題に入らない。
必ず1から10まで話さずにはおれない。(私も似ているが・・・)
だからついつい「それで?用件は?」とトーンが大きくなる。

よくよく聞いてみると、何と懸賞でテレビが当たったというのだ!
日立プラズマ WO 42インチ(定価42万円)
さすがに驚いた。父が散髪屋も入っている近くの温泉の待合室で、
「自由にお持ち帰りください」という表示のあるマイナー雑誌を持って帰り、
母が最後のページにあった懸賞葉書に感想を沢山書いて送ったら、
1名様にというプラズマテレビが当たったということだ。
ヤマト運輸の方が3人がかりで2階の居間に運び入れてくれたそうだ。

クリスマスを前にした思いがけないプレゼントに両親は大喜びし、
早速喜びを共有しようと電話をかけてきたということだった。

クリスマスの最大のプレゼントは、イエス・キリストの誕生!
同じような、いやもっともっと大喜びしていいはずだろう。
そしてもっともっとこの喜びを分かち合いたいものだ。

PS.
その話しを聞いた我が妻は、今まで懸賞などには無関心だったはずが、
早速どこやらの懸賞に応募をしたそうだ。
微笑ましいと言うか、何と言うか。

100点満点

2006年12月05日 08時36分57秒 | Weblog
聖書から語られるメッセージで、忘れられないメッセージ、
自分の信仰の大きな土台となったメッセージ、
何かの時にふと思い出されるメッセージ、というものがある。

今から2年前だろうか、11月23日(祝)の関西教区青少年賛美大会で
アッセンブリー京都教会の長澤聖志師が語られたメッセージ、
「喜びの置き場所」(私が勝手に命名した)もその1つだ。

「私たちは神様に喜ばれるために一生懸命頑張るのではありません。
 もうすでに神様に喜ばれているから、一生懸命になれるのです」
言葉は正確ではないが、そういうことをメッセージで語られていたと思う。
ある意味大きな衝撃を受けた、そんなメッセージだった。

その長澤先生に、電話で少しお話しを聞いた時、
「以前はマイナス100点の自分を変えるために一生懸命していた。
 何とかマイナスを取るために、頑張っていた」と言われていた。
話しを聞きながらすぐに話しの先を読む私は、きっと長澤先生は
「イエス・キリストを信じて、今はそのマイナスが取れて、
 ゼロになった。スタート地点に立った」と言うだろうと予測していた。

しかし私の予想は、完全に裏切られたのである。
「イエス・キリストを信じて、100点満点を頂いたから、
 今はもう嬉しくて、何かをせずにはおれないんです」と語られた。
聞きながら、何だか涙が出てくるような思いになった。

数年前の平井堅の「LIFE is ...」という曲に
 「自分を強く見せたり 自分を巧く見せたり
  どうして僕らはこんなに 息苦しい生き方選ぶの?」
と歌い出す切ない系のナンバーがある。
点数を稼ぐために、いつも良く見せることを目指していたように思う。
減点されないように、悪く思われないように、
どこかでいつも自己弁護の言葉を探していたように思う。

そんなことしなくても、イエス・キリストの十字架によって、
足りないところ、減点されなければいけないところは、
もうすでに赦されているんだ、何も足さなくてもいいんだ、
もう100点満点をもらっているんだ、そう思うと本当に感謝だなぁと思う。

時々喜びの置き場所を間違えて、疲れたり、つぶやいたりしてしまう。
今はもう、すでに神に喜ばれている、
そんな思いをいっぱいにしてクリスマスを迎えたい。