星を数えながら

日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など
小さくても星のようにキラリ☆光ることを
分かち合えればいいなぁ。

『運命の足音』

2009年02月21日 09時18分13秒 | 読書・映画
五木寛之「運命の足音」幻冬舎文庫
1月に読み終えた本の1冊。

五木寛之氏の本を、かつて1冊だけ読んでいた。
題名も忘れるぐらいの印象で、
「やっぱりちょっと違うなぁ」という読後感だ。

『人生の目的』がベストセラーになった時、
ある人が「結局は、人生の目的なんてない」ということを
書いていると聞き、「な~んだ」と一笑に付した。
読みもしないで、その人のことを深く知らないで、
私は五木寛之という人を、足蹴に扱ったのだった。

そんな折、上沼昌雄師がその著書中で
五木寛之氏の『運命の足音』に触れておられた。
その内容に、あまりにも驚き、
早速『運命の足音』を購入した次第だった。

上沼師が触れてくれていなければ、読むことはなかった本。
カバーの絵も、私好みでは決してない。
それでも五木寛之氏にとっては、
「このことを書いてからでないと死ねない」
というほどの本なのだ。



五木寛之氏が12歳、敗戦時に朝鮮半島におり、
ソ連兵が責めてきた。
その侵入してきたソ連兵が母にすることに対して、
父も五木寛之少年も何もすることが出来なかった。
やがて母は、その日以来一言も話さず、病気で亡くなっていく。

あとがきでは、
「私は悪人である。12歳の夏から57年間、
 ずっとそう思い続けてきた」
と書き始められている。
57年間、1日も母のことを忘れたことはなかったと言う。

こんなに重いものを背負ってきたのかと知った。
こんなに重いものを背負いながら、歩んできた著者。

本の中身で言われていることは、なるほどと思うこともあれば、
やはりちょっと違うと感じるところもある。
著者の言うように、運命は確かに「重苦しい響き」があるだろう。
その運命の背後に、神の摂理や大きな御手を見出したなら、
そこに「あたたかさ」を生まれてくるのだろうと思う。

この著書を通して、五木寛之氏が真実に誠実に生きてきた、
そして生きていることを知ることができる。

そんな人を一笑にふし、足蹴に扱っていた自分をこそ、
足蹴に扱われる人のように思えてならなかった。
いたく反省した。

ヘンリー・ナウウェン

2009年02月20日 08時58分45秒 | 読書・映画
この方の書物は全部購入して、読破したい、
そう思っている人が何人かいる。
その内の1人がヘンリー・ナウウェンだ。
(ある人はナウウェン、ある人はナーウェンと訳している。
 何となく、ナウウェンの方が味があるような感じがする)

今年に入ってから、ナウウェンの本3冊を読み終えた。
正確に言うと、2冊はナウウェンの著書、
そしてもう1冊は、ナウウェンの生涯を他の人が綴ったものだ。


酒井陽介
「ヘンリー・ナーウェン
 傷つきながらも愛し抜いた生涯」ドン・ボスコ社、2008年

「推薦のことば」に
「ナーウェンは、現代人に自分の心の現実(寂しさとか疲れとか傷など)
 に気づかせ、それから逃げてはいけないこと、
 むしろそれに目をそらさず、
 忍耐強く向かい合うことを教えてくれた人」
と紹介している言葉が、まさにその通りだろう。

ナウウェンは、世界中で多くの人々に愛読されているが、
祖国オランダでは、やっかみや批判があり、
その晩年まで著作は、あまり省みられなかったそうだ。
どこかキリストに似ているように思う。


「母の死と祈り-魂の暗夜をこえて」 
 聖公会出版、2003年



「慰めの手紙」聖公会出版、2001年

上記2冊は、ナウウェン最愛の母が天に召された後、
母の死について家族や友人という身近な人に書かれたものと、
母の死について父に宛てた手紙が本になって出版された。

くしくも先月、私の母が「硬膜下出血」で入院した際、
時を同じくして読んでいたのがこれらの3冊だった。
母は退院後、以前よりもバイタリティに溢れているが(笑)、
肉親の死について思い巡らされたのも事実だった。

「慰めの手紙」は、何度か読んで整理しないと分からないこともある。
「母の死と祈り」で、ナウウェンの最後の言葉が印象的だった。

 「母は、生きた人生をとおして、
  非常に多くのことを教えてくれましたが、
  その死によってさらにいっそう多くのことを
  教えようとしております。

  わたくしは、それを受けとめていかなければなりません。
  わたくしは、そのことがよくわかっています」
  
ナウウェンを読んで思うこと、
それは自分を誤魔化さないということだ。
自分の内側にある闇に対して目をそらしたり、
責任を転嫁したりしないということだ。

神の前に静まり、じっくりと神の光に照らされていく、
私に必要なことだと思う。
今年、あと何冊ナウウェンを読もうかと考えている。

藤原正彦

2009年02月19日 10時06分02秒 | 読書・映画
年始に大先輩の先生と話しをしていて、
「藤原正彦の随筆は面白いよ。
 お父さんの新田次郎のことや、
 お母さんの藤原ていとのやりとりが面白い。
 K先生に紹介したら、早速購入して読んだそうだ」
というようなことを言われた。

随筆の題名を聞いておけば良かったと後悔したが、
『日本人の矜持』(新潮社)という本が105円売っていたので、
早速購入して寝ながら読んでみた。



対談集、座談会などと言うのは、
相手の意見にうなずきながら話しが進という日本人らしさが出て、
どちらかが自分の意見を2割程度抑えている印象を残す。
結局、「そうそう、そうですよね」という感じで終わるものだ。

まぁそれでも9人の方々の考えも知ることができるし、
初・藤原正彦として、彼の言いたいことを掴むことができたと思う。

続けて月曜日、ベストセラーになった『国家の品格』(新潮新書)が、
105円で売っているのをやっと見つけたので購入して読み終えた。



キリスト教に対する理解や西欧に対して、
ややステレオタイプを持っておられるなぁと感じたが、
基本的には「真実」を求めている人だということがよく分かる。
そして真実を求めている人の生き方は、
誠実な生き方をするんだなぁということも伝わってきた。

藤原氏の文章から、以下のことを私自身の思索としていきたい。
「徹底した実力主義も間違い」
「論理的に正しいことと、善悪は別次元です」
「論理は、ほとんど常に自己正当化に過ぎません」
「いくら文明が進歩しても、文化は後退することがあるんです」

そしてこの本がベストセラーになり、
多くの人に読まれたことの意味も探ってみたい。

「エバン・オールマイティ」

2009年01月06日 09時22分48秒 | 読書・映画
親しくしている先生から、DVD映画をお借りした。
その中にあったのが「Evan ALMIGHTY」だ。

現代版「ノアの方舟」と言ってもいい内容で、
コメディタッチで描かれており、とても面白かった!
神様を演じているのがモーガン・フリーマンというのも面白い。



私が心に残ったシーンと会話があった。
(見たい方は、読まない方が良いかも・・・)

国会議員になった夫が突然、方舟を作り出すことになり、
妻は全く理解が出来なくて、子どもたちを連れて実家に帰る。
その途中だと思うが、ある店で店員に扮するモーガン・フリーマンと
夫のことを理解できなくなった妻との会話である。

 「誰かが神に『忍耐を与えて下さい』と祈ったとすると、
  神は『忍耐』をくださると思う?
  それとも神は『忍耐のチャンス』をくださると思う?
  『勇気』を下さいと祈ったら、神は『勇気』をくださるのか、
  それとも『勇気を持つチャンス』をくださるのだろうか。
  
  『家族の絆』をお与え下さいと祈ったら、
  神はすぐさまその場しのぎの感情を与えてくれると思う?
  それとも『互いに愛し合う機会』を与えてくださると思う?」

もちろん神様は、忍耐や勇気、愛を与えて下さるお方だと思う。
そしてそれらが自分の内側から結ばれて行く実になっていくように、
それらを用いる機会(チャンス)をも与えるのであろう。
また共にいて励ましてくれるのだろう!



「北の零年」

2008年10月18日 13時48分29秒 | 読書・映画
三浦綾子さんの「泥流地帯」や「続泥流地帯」を読んだこともあり、
以前から頭の片隅にあった「北の零年」という映画を見た。
だいたい史実を基にした映画だということで期待していた。

淡路島という暖かいところから、北の果てに移住させられて、
そして一生懸命に開墾をし、開拓をしていく。
偉いなぁと思う。大変だったろうなぁと思う。

その中で繰り広げられる様々な人間ドラマ。
裏切られたり、弱みにつけ込まれたり、
事態が逆転したり、信じ続てけいったり・・・。

何と言っても吉永小百合が、吹雪の中を幼い子どもを連れていき、
「あなた」「あなた・・・」と夫を呼ぶシーンは圧巻だった。


それでもその夫は・・・。

映画の終わり方が、「いかにも」という感が否めないけれど、
それでも見て良かったと思える邦画だった。


『続泥流地帯』

2008年10月10日 09時35分19秒 | 読書・映画
少し前に『続泥流地帯』を読み終えた。
妻が寝静まった後、夜中まで読んでいた。
予想以上に、何度も何度も涙が出てくるシーンがあった。
全ての方にお勧めしたい良い本だ。
誰か映画にしてくれないかなぁって思う。

印象に残った言葉の中に以下のものがある。
 
 「大変だからと言って投げ出せば、そりゃあ簡単だ。
  しかしなあ俺は思うんだ。大変だからこそ、いや、
  大変な時にこそ持ちこたえる馬鹿がいないと、
  この世は発展しないんじゃないか」
 
 「失ったものばかり数え上げてみても、生きる力にならん。
  自分に残されたものを、数えて感謝しなくちゃなあ」

 「泥流は自然を荒らすことはできても、
  人の心まで荒すことはできないはずだ」

 「実りのある苦労なら、誰でもするさ。
  しかし、全く何の見返りもないと知って、
  苦労の多い道を歩いてみるのも、
  俺たち若い者のひとつの生き方ではないのか。
  自分の人生に、そんな三年間があったって、いいじゃないか」
 
 「人間の思いどおりにならないところに、
  何か神の深いお考えがあると聞いていますよ。
  苦難に遭うときに災難と思って嘆くか、試練と思って奮い立つか、
  その受けとめ方が大事なのでないでしょうか」

他にも心に迫る言葉やシーンがたくさんある。
何年か後に、もう一度読み直してみたいと思う。

「復興をする」ということ、一度壊れてしまったもの、
駄目になってしまったこと、諦めてしまったこと、
どうにもならなくなってしまったこと・・・、
しかしそれでも復興していく。

ゼロからのスタートではなく、マイナスからであったとしても、
それでももう一度立ち上がっていく、
そんな本当の勇気を教えられたように思う。

ここ最近は、曽野綾子さんの本をたくさん読んでいた。
彼女の人と違った視点をなるほどと思いながら読んでいた。
そして学生時代によく読んだ三浦綾子さんをもう一度読み直し、
やはりまっすぐに物事を見つめていくすがすがしさを感じた。

十勝岳の様子


『アマデウス』

2008年09月27日 09時15分17秒 | 読書・映画
ここ最近読んだ2冊の本に、『アマデウス』のことが記されていた。
これはきっと見た方が良いに違いないと思い、
『アマデウス』のDVDを借りてきて鑑賞した。

最初の数分で気づいたことは、
「あ、この映画、大学生ぐらいの時に見た・・・」
ということだった!
私はどうも見た映画の記憶が残りにくい・・・。

モーツァルトと言えば、上品な音楽を作っているという印象だったが、
この映画で描かれている姿は、高笑いをする様子だった。


そしてこの映画の見所の1つであるサリエリとのやりとり。
秀才のサリエリは、モーツァルトの音楽的天才がよく分かるのだ。
しかし、どうしてあんなに品のない粗野な男に、
神様は天賦の才を与えたのか、そのことのゆえに嫉妬する。

嫉妬のために気も狂わんばかりになっていくサリエリ。
この映画は実に嫉妬の本質の部分を描き出している。
確かにサリエリはモーツァルトに嫉妬しているのだが、
その本質は、神に対する思いだったことがよく分かる。

「こんなに一生懸命、神に仕えているのに、
 どうして神はこうも不公平なのか」

これがサリエリの本心なのだろう。
サリエリの嫉妬は、神に対するものであり、
それが憎しみとなっているのだ。

アマデウスとは、モーツァルトのミドルネームのようだ。
その意味は「神に愛される」「神を愛する」というラテン語らしい。
サリエリ自身は、「神に愛されている」ことを知ることができたら、
「神を愛する」人生になっていたのではと思う。

嫉妬、神との関係、人生における不公平、才能、父との関係、
そういったことが大きな主題になっている映画なんだろう。

誰の心の中にもサリエリのようなものが存在していると思う。
個人的には、サリエリが目を輝かせて、
お菓子の説明をするシーンが印象的だった。



『世紀の誤審』

2008年09月23日 10時16分45秒 | 読書・映画
Book offでいつものように105円で買った本、
生島惇『世紀の誤審 オリンピックからW杯まで』
(光文社新書、2004年)。
そんなに深いことが書かれているわけでもなかった。
就寝前の気分転換にはもってこいの本だった。

2000年のシドニーオリンピックの柔道100キロ超級で、
篠原信一の鮮やかな内股すかしが一本と認められず、
相手のポイントとなってしまい、結局銀メダルに終わってしまった。
表彰式での篠原の悔しさを、自分の悔しさのように感じていた、
そんな8年前の自分の気持ちを思い起こしていた。

「弱いから負けた。それだけです。
 誤審ですか? 不満はありません」

篠原の気持ちが分かると言えば、横柄な話しだと思うのだが、
それでも剣道をしていたので、同じ武道家の精神と言うか、
篠原の何万分の一ぐらいの気持ちを理解できただろうか。

「誤審」云々ではなく、その後の残り時間で、
一本を取ることができなかった、そのことに対して、
前述の篠原の言葉が出てくるのだろうと思う。

スポーツに限らず、人の評価というものには、誤審がつきものである。
誰も完璧な評価、絶対的な評価をすることは出来ないのだ。
人が人に対して下す評価というものは、不完全なものなのだ。
一面的であり、限定的であり、時には偏狭でさえもあり得るのだ。

そのことをわきまえているならば、
そんなに人の言葉に惑わされることもないだろう。
卑屈になったり、反対に天狗になったりすることもないだろうし、
いつまでも悔やんだり、自己憐憫することもないだろう。

ただ、全てを知っておられる神様がいる、
それこそが力であり、強さであり、それだけで十分なんだろう。

『泥流地帯』

2008年09月13日 09時42分17秒 | 読書・映画
「夜更かしし過ぎないでね」
という妻の迫害(?)に屈することなく、
以前から読もう、読もうと思っていた
三浦綾子さんの『泥流地帯』を読み終えた。

この『泥流地帯』の最後の場面は、何度も紹介してきた。
しかし紹介している私自身が、読んでいないことに、
少々後ろめたさを感じていたことと、
最近小説を読んでいないなぁと思っていたので、
この2-3日で一気に読み終えたという次第だ。

開拓農民の生活の苦しさ、母との別れ、
貧しさゆえに進学を諦めたこと、
幼なじみが売られていくこと、
そんな中でのあんちゃんやじっちゃん、ばっちゃんの優しさ、
意地悪い教師と支えて励ましてくれる教師・・・
読みながら、何度も何度も涙が出てきた。

そして最後の十勝岳の噴火により、村が流されていき、
じっちゃんやばっちゃん、妹までも流されていくシーンに、
様々な思いが去来してきた。

そして、やはり最後の兄弟の会話が胸を打つ。

  拓一が目をあけて耕作を見た。
  拓一は自分を見つめていた耕作に、
  「何だ?」とやさしく尋ねた。あわてて耕作は、
  
  「なあ兄ちゃん。まじめに生きている者が、
   どうしてひどい目にあって死ぬんだべな」
  と先程の言葉をくり返した。

  「わからんな、おれにも」
  
  「こんなむごたらしい死に方をするなんて・・・・・
   まじめに生きていても、馬鹿臭いようなものだな」
 
  「・・・・・そうか、馬鹿臭いか」
  
  拓一はじっと耕作を見て、
  「おれはな耕作、あのまま泥流の中でおれが死んだとしても、
   馬鹿臭かったとは思わんぞ。もう一度生まれ変ったとしても、
   おれはやっぱりまじめに生きるつもりだぞ」

  「・・・・・・・・・・」
  
  「じっちゃんだって、ばっちゃんだって、
   おれとおんなじ気持ちだべ。恐らく馬鹿臭いとは思わんべ。
   生まれ変ったら、遊んで暮らそうとか、
   生ま狡く暮らそうなどとは思わんべな」

  耕作は黙ってうなずいた。


『続泥流地帯』も必ず読もうと思った。


「レ・ミゼラブル」

2008年09月12日 09時51分42秒 | 読書・映画
以前に教会の花が盗まれたことがあった(花泥棒)。
その時のことをいつかの礼拝でもお話ししたところ、
教会員の方が映画『レ・ミゼラブル』のDVDを貸してくれた。

『レ・ミゼラブル』は、ドラマや映画やミュージカルになったり、
また日本でも時代劇風にアレンジしされているようだ。
本当はユーゴの原作を読めばいいのだろうが、
文庫本で5冊にもなっており、あまりにも長編なので時間的に難しい。
そこでお借りしたDVDを喜んで見させて頂いた。

原作と違うんだろうなぁという脚本しているところ、
大作を2時間にまとめているので、少々分かり難いところ、
そんな場面もあったけれど、しかし、見て良かった!!!

やはり冒頭で司教から真実な心で赦されたこと、
それがジャン・バルジャンの人生の大きな変化をもたらしていた。
私はこの映画の底流に流れているものの1つは「赦し」だと思った。
「赦す」ことができる人と、そうでない人の大きな違い、
そのことを特に警部との対比で描いていると思う。

警部は法を守る人、正しさを追求する人、何1つ悪くないのだ。
しかし赦すことができない、そのことが警部を苦しめ、
結局、追い詰めているはずが追い詰められ、不自由な生き方になっている。

反対に赦された経験を土台にして、赦すことに生きたジャン・バルジャン。
いろいろな試練などが起こってくるが、
それでも赦し続けていくことで、自由に生きていくことになる。

原作はそれほど単純なものではなく、
もっといろいろ込み入っているのだと思う。
しかし映画としては、大切なことを伝えることができていると思う。
良い映画を見させて頂いて、感謝だった!