五木寛之「運命の足音」幻冬舎文庫
1月に読み終えた本の1冊。
五木寛之氏の本を、かつて1冊だけ読んでいた。
題名も忘れるぐらいの印象で、
「やっぱりちょっと違うなぁ」という読後感だ。
『人生の目的』がベストセラーになった時、
ある人が「結局は、人生の目的なんてない」ということを
書いていると聞き、「な~んだ」と一笑に付した。
読みもしないで、その人のことを深く知らないで、
私は五木寛之という人を、足蹴に扱ったのだった。
そんな折、上沼昌雄師がその著書中で
五木寛之氏の『運命の足音』に触れておられた。
その内容に、あまりにも驚き、
早速『運命の足音』を購入した次第だった。
上沼師が触れてくれていなければ、読むことはなかった本。
カバーの絵も、私好みでは決してない。
それでも五木寛之氏にとっては、
「このことを書いてからでないと死ねない」
というほどの本なのだ。
五木寛之氏が12歳、敗戦時に朝鮮半島におり、
ソ連兵が責めてきた。
その侵入してきたソ連兵が母にすることに対して、
父も五木寛之少年も何もすることが出来なかった。
やがて母は、その日以来一言も話さず、病気で亡くなっていく。
あとがきでは、
「私は悪人である。12歳の夏から57年間、
ずっとそう思い続けてきた」
と書き始められている。
57年間、1日も母のことを忘れたことはなかったと言う。
こんなに重いものを背負ってきたのかと知った。
こんなに重いものを背負いながら、歩んできた著者。
本の中身で言われていることは、なるほどと思うこともあれば、
やはりちょっと違うと感じるところもある。
著者の言うように、運命は確かに「重苦しい響き」があるだろう。
その運命の背後に、神の摂理や大きな御手を見出したなら、
そこに「あたたかさ」を生まれてくるのだろうと思う。
この著書を通して、五木寛之氏が真実に誠実に生きてきた、
そして生きていることを知ることができる。
そんな人を一笑にふし、足蹴に扱っていた自分をこそ、
足蹴に扱われる人のように思えてならなかった。
いたく反省した。
1月に読み終えた本の1冊。
五木寛之氏の本を、かつて1冊だけ読んでいた。
題名も忘れるぐらいの印象で、
「やっぱりちょっと違うなぁ」という読後感だ。
『人生の目的』がベストセラーになった時、
ある人が「結局は、人生の目的なんてない」ということを
書いていると聞き、「な~んだ」と一笑に付した。
読みもしないで、その人のことを深く知らないで、
私は五木寛之という人を、足蹴に扱ったのだった。
そんな折、上沼昌雄師がその著書中で
五木寛之氏の『運命の足音』に触れておられた。
その内容に、あまりにも驚き、
早速『運命の足音』を購入した次第だった。
上沼師が触れてくれていなければ、読むことはなかった本。
カバーの絵も、私好みでは決してない。
それでも五木寛之氏にとっては、
「このことを書いてからでないと死ねない」
というほどの本なのだ。
五木寛之氏が12歳、敗戦時に朝鮮半島におり、
ソ連兵が責めてきた。
その侵入してきたソ連兵が母にすることに対して、
父も五木寛之少年も何もすることが出来なかった。
やがて母は、その日以来一言も話さず、病気で亡くなっていく。
あとがきでは、
「私は悪人である。12歳の夏から57年間、
ずっとそう思い続けてきた」
と書き始められている。
57年間、1日も母のことを忘れたことはなかったと言う。
こんなに重いものを背負ってきたのかと知った。
こんなに重いものを背負いながら、歩んできた著者。
本の中身で言われていることは、なるほどと思うこともあれば、
やはりちょっと違うと感じるところもある。
著者の言うように、運命は確かに「重苦しい響き」があるだろう。
その運命の背後に、神の摂理や大きな御手を見出したなら、
そこに「あたたかさ」を生まれてくるのだろうと思う。
この著書を通して、五木寛之氏が真実に誠実に生きてきた、
そして生きていることを知ることができる。
そんな人を一笑にふし、足蹴に扱っていた自分をこそ、
足蹴に扱われる人のように思えてならなかった。
いたく反省した。