星を数えながら

日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など
小さくても星のようにキラリ☆光ることを
分かち合えればいいなぁ。

ニュースレター8

2008年09月30日 10時08分22秒 | 関西教区
「青少年ニュースレターNo.8」を発送した。
今回は先日の大学生キャンプのレポートがあり、
一読するだけで「いいキャンプだったんだなぁ」
という思いが伝わってくる内容だ!
ボートに乗っている写真なんて、とってもGoodだ。

「青少年ニュースレター」での私の仕事は、
レイアウトを考えたりなどの編集作業が中心だ。
レポートの文章は担当者に任せるようにしてから、
内容に幅が出てきたかなぁと感じて喜んでいる。

今回、このニュースレターを手渡したある方から、
「毎月、毎月、大変ですね~」と言われた。
そう言えば、前回も同じ言葉を言われたのを思い出した。
もちろん何の悪気もないことは分かるのだが、
正直なところ、内心「ムッ」としてしまったのだ。

気のせいかもしれないが、少し嫌なものを感じたのだ。
「毎月、毎月、ここまでしなくてもいいのにねぇ」
そういう言葉の響きを私の方が勝手に感じ取ってしまったのだ。
(最近、被害妄想が出てきたのかもしれない・笑)

もしかしたらすぐに顔に出てしまう方なので、
自分の心の中で少々感じた嫌な思いが表情に出たかもしれない。
しかし約1秒(笑)、すぐさま気持ちを立て直して、
「青少年のためですから!」と作り笑顔半分で答えた。

私の友人が自分の好きなタイプの人として、
「自分の仕事に誇りをもって、喜んで仕事をしている人」
と言っていたのを思い出す。
もちろん仕事ゆえに、喜んで出来ないことも沢山あるだろう。
でもそこに意味と意義を見出して仕事をすることが大切なのだろう。

「大変だから、面倒くさいから、ややこしいからしない」、
仕事に限らず何事においても、そういうものではないだろう。
たとえ大変でも、面倒でも、ややこしくても、
それでも大切だから、意味や意義があるからするのだろう。

「雑用と言う用はない。
 物事を雑にした時に、雑用になるのです」
という言葉もあわせて思い出した。

誰かが一生懸命にしたことに対して、
「大変ですね~」、という言葉よりも、
「Good Job!」(英語で言う必要もないが・笑)、
「とっても良いですね」、そういう積極的評価の言葉の方が、
きっと大いにねぎらいの言葉になるんだろうなぁと思った。
「Good Job!」って、いい言葉だなぁと思った。

『アマデウス』

2008年09月27日 09時15分17秒 | 読書・映画
ここ最近読んだ2冊の本に、『アマデウス』のことが記されていた。
これはきっと見た方が良いに違いないと思い、
『アマデウス』のDVDを借りてきて鑑賞した。

最初の数分で気づいたことは、
「あ、この映画、大学生ぐらいの時に見た・・・」
ということだった!
私はどうも見た映画の記憶が残りにくい・・・。

モーツァルトと言えば、上品な音楽を作っているという印象だったが、
この映画で描かれている姿は、高笑いをする様子だった。


そしてこの映画の見所の1つであるサリエリとのやりとり。
秀才のサリエリは、モーツァルトの音楽的天才がよく分かるのだ。
しかし、どうしてあんなに品のない粗野な男に、
神様は天賦の才を与えたのか、そのことのゆえに嫉妬する。

嫉妬のために気も狂わんばかりになっていくサリエリ。
この映画は実に嫉妬の本質の部分を描き出している。
確かにサリエリはモーツァルトに嫉妬しているのだが、
その本質は、神に対する思いだったことがよく分かる。

「こんなに一生懸命、神に仕えているのに、
 どうして神はこうも不公平なのか」

これがサリエリの本心なのだろう。
サリエリの嫉妬は、神に対するものであり、
それが憎しみとなっているのだ。

アマデウスとは、モーツァルトのミドルネームのようだ。
その意味は「神に愛される」「神を愛する」というラテン語らしい。
サリエリ自身は、「神に愛されている」ことを知ることができたら、
「神を愛する」人生になっていたのではと思う。

嫉妬、神との関係、人生における不公平、才能、父との関係、
そういったことが大きな主題になっている映画なんだろう。

誰の心の中にもサリエリのようなものが存在していると思う。
個人的には、サリエリが目を輝かせて、
お菓子の説明をするシーンが印象的だった。



ニス塗り

2008年09月26日 08時04分52秒 | 日常の出来事
教会の玄関扉のニスが剥がれてきていたので、
月曜日、火曜日と、私の休日を返上して(笑)、
えっせらことニス塗りに励んでいた。

本当はプロの方にお任せしているのだが、
忙しくてなかなか来てもらえず、
経費削減をもくろんで、思い切って自分でやってみた。

まずはやすりをかけてニスを剥がしていくのだが、
これがなかなか剥がれないのだ。
2時間ぐらいかけたが、精根尽き果ててしまい、
全部を剥がすことを諦め、汚くなっているところだけにした。

水性で匂いも殆どしないニスを用いたのだが、
それが悪かったのかのり具合が薄いのである。
月曜日はやすりがけと2回のニス塗り。
火曜日は3回のニス塗りと合計5回もニスを塗った。

所詮、素人の塗り方だからどこまで持つか分からないが、
せめて春までは持って欲しいものだ。
最後に防水スプレーで仕上げようと思う。

それにしても、扉の内側と外側では、痛み方が全然違う。
内側は、いつまでも真新しいままだが、
外側は風雨にさらされ、よくぞ13年間も頑張ってくれたと思う。

え、私? もちろん両腕の付け根のあたりに痛みが・・・。
それでも、良い仕事をした後の心地よい疲労感であった。
トム・ソーヤのように、代わりに塗ってくれる人は現れなかったが、
後日近所の方が仕上がり具合を見に来られていた(笑)


花より団子?

2008年09月25日 09時11分58秒 | 妻とのこと
先週火曜日、委員会のために神戸に行った時、
最寄りの駅前にopenしていたショッピング街で昼食をとった。
その時に、私好みの小物などを売っている店があり、
思わず衝動買いのようにランチョンマットを購入した。

「プレゼント用ですか?」と店員に尋ねられたので、
「はい」と答えて、わざわざプレゼント用に包んでもらった。
布ではなく、葦のような素材で、なかなかgoodなものだ。
早速妻にプレゼントとして手渡した。

そして翌々日の木曜日、約半年間「組織神学Ⅲ」を教えていた、
中央聖書神学校関西分校での最後の講義(試験)だった。
今までの仕事量をこなしながら、新たな奉仕として
我ながらこの半年間よく頑張ったという思いを込めて、
帰りに最近よくCMで見る季節限定の「月見バーガー」を、
自分へのご褒美として買って帰った!

そして閉まりかけのシャトレーゼに飛び込んで、
お夜食用(?)のケーキも購入した。
もちろん妻の分も忘れてはいけない。

違うのである、火曜日と木曜日の妻の反応が。
それは明らかに違うのだ。
ランチョンマットを買って帰った時も、それなりに喜んでいた。
しかしあくまでも「それなり」の喜びだった。

しかし「月見バーガー」とケーキを手渡すと、
心の底から喜びが湧き上がってきているのがよく分かるのだ。
(「月見バーガー」とシャトレーゼのケーキで、
 そんなに喜んでもらえるなら、まさにお安い御用だ!)

私が「花より団子やなぁ」と言うと、
妻は「両方かなぁ」とのたまわれた。
まぁ、ごもっともなことですな!


「花婿の友人として」

2008年09月24日 08時45分30秒 | 聖書・賛美・メッセージ
日曜日の礼拝メッセージの中心
「花婿の友人として」ヨハネ3:22-36

「花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、
 その声を聞いて大いに喜ぶ。
 こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。
 彼は必ず栄え、わたしは衰える」

信仰が自分中心になってしまうと、恵みが見えなくなってしまう。
現状のマイナス面ばかりを誇張して数えてしまったり、
嫉妬やねたむ思いが沸いてきたり、周りにいる人を尊重できなくなる。

そんな自分中心になってしまっているヨハネの弟子たちに対して、
ヨハネは「彼は必ず栄え、わたしは衰える」と言った。
自分は光ではなく、光であるキリストを証しするために来たのだと。

私たちはキリストのために生きているだろうか?
自分のことばかり、自分の幸せばかりを見つめていないだろうか?
自分が幸せになるためのキリストではなく、
キリストのための私となって生きているだろうか?

自分の生涯が終わる時、「あの人はいい人だった、
本当に素晴らしい人だった」と言われたいのだろうか?
それとも、「あの人の信じている神様は本当の神様だった。
信仰をもって生きるって本当に素晴らしいことだ」
と言われたいだろうかのか?

前者と後者は、微妙なようで、見つめている方向が違うのだ。
ヨハネは断然後者を選ぶ。だからこそ、
「彼は必ず栄え、私は衰える」と言えるのだ。

厳しいかも知れない。しかしヨハネの言葉は、花婿の友人としての言葉だ。
つまり花婿の友人として、花婿のためには喜んで犠牲を払いたい、
そんな喜びの思いが満ち溢れた言葉なのだ。
花婿の友人として、花婿の喜びは自分の喜びと同じなのだ。
どんな苦労も惜しくはない、そんな喜びに満ち溢れているのだ。

何よりも私たちのことを友と呼んでくれるイエス様、
「人がその友のために自分の命を捨てること、
 これよりも大きな愛はない」(ヨハネ15:13)
そう言って命がけの愛を示して下さったイエス様。
そのイエス様のためならば、私たちは喜んで何でもしたくなるのだ。

花婿の友人として、喜んでキリストのために生きていく。
その時、自分の幸せのために生きることが本当の幸せではなく、
キリストのために生きること自体が既に幸せなのであり、
そしてこれ以上の喜びがないことを体験していくのである。

『世紀の誤審』

2008年09月23日 10時16分45秒 | 読書・映画
Book offでいつものように105円で買った本、
生島惇『世紀の誤審 オリンピックからW杯まで』
(光文社新書、2004年)。
そんなに深いことが書かれているわけでもなかった。
就寝前の気分転換にはもってこいの本だった。

2000年のシドニーオリンピックの柔道100キロ超級で、
篠原信一の鮮やかな内股すかしが一本と認められず、
相手のポイントとなってしまい、結局銀メダルに終わってしまった。
表彰式での篠原の悔しさを、自分の悔しさのように感じていた、
そんな8年前の自分の気持ちを思い起こしていた。

「弱いから負けた。それだけです。
 誤審ですか? 不満はありません」

篠原の気持ちが分かると言えば、横柄な話しだと思うのだが、
それでも剣道をしていたので、同じ武道家の精神と言うか、
篠原の何万分の一ぐらいの気持ちを理解できただろうか。

「誤審」云々ではなく、その後の残り時間で、
一本を取ることができなかった、そのことに対して、
前述の篠原の言葉が出てくるのだろうと思う。

スポーツに限らず、人の評価というものには、誤審がつきものである。
誰も完璧な評価、絶対的な評価をすることは出来ないのだ。
人が人に対して下す評価というものは、不完全なものなのだ。
一面的であり、限定的であり、時には偏狭でさえもあり得るのだ。

そのことをわきまえているならば、
そんなに人の言葉に惑わされることもないだろう。
卑屈になったり、反対に天狗になったりすることもないだろうし、
いつまでも悔やんだり、自己憐憫することもないだろう。

ただ、全てを知っておられる神様がいる、
それこそが力であり、強さであり、それだけで十分なんだろう。

半徹祈祷会

2008年09月20日 09時10分44秒 | 聖書・賛美・メッセージ
教会では月に1度、半徹祈祷会なるものを持っている。
もう何十年も続いているものだ。
昔は「徹夜祈祷会」で、教会に泊まり込んで祈っていたそうだ。
それがやがて午前2時までの「半徹祈祷会」となった。

時代の移り変わりの中で、20年ぐらい前からだろうか、
現在は午後11時までとなり、「半徹夜祈祷会」と言うよりも、
「半々徹祈祷会」と言った方が良さそうだ!

最後まで祈られる方は、だいたい10人ぐらいだが、
月に一度のこの祈りの時、神様との交わりの時を大切にしている。
こういう時が設けられていないと、ついつい様々なことに流されて、
いつの間にか神様との関係が希薄になっていってしまう。

祈りの中で、神様の臨在(神様がここにおられるという実感)に触れる、
これほど大きな喜びはないだろうと思う。
祈りとは、私たちの側が何かぺちゃくちゃ話しているのではなく、
神様ご自身も、私たちに語りかけて下さり、励まして下さるのだ。

私たち夫婦は伝道者として、毎月ではないけれども、
参加している方々のそばに行き、心から祝福をお祈りしている。
その方のために、またご家族のために、
神様の栄光が豊かに現れることをお祈りしている。

この水曜日の半徹祈祷会では、皆のそばに行って祈っている時、
「神様の栄光の目撃者、体験者になる」、
そんな思いが湧き上がってきて、とても感謝だった。
神様が生きておられることを、目撃するだけではなく、
体験させて頂けるのだ、そんな励ましが与えられた夜だった。

結婚式

2008年09月19日 09時50分09秒 | 友だち・人物のこと
今週の月曜日、当教会出身の方が横浜で結婚式を挙げられた。
何としても参加してお祝いをしたいと思っていたが、
いろいろな諸事情でどうしても出席できなかった。
それでも思いは、お2人を祝福する気持ちでいっぱいである。

教会から祝電を打たせて頂いた。
出席された方に聞くと、数ある祝電の中で、
本文が読まれた唯一の祝電で、しかもトップに読まれたそうだ。
だいたい以下のような文面を贈らせて頂いた。

 「ご結婚、おめでとうございます。
  この夏の暑さは、お二人のせいだったのですね!
    ヨハネ3章29節
    『花婿の友人は立って彼の声を聞き、
     その声を聞いて大いに喜ぶ』
  泉佐野福音教会にとっても大きな大きな喜びです。
  お二人の歩みに、神様の豊かな祝福をお祈り致します」
               泉佐野福音教会 牧師・信徒一同

ちょっぴり期待はしていたが(笑)、
まさか本当に読んで貰えるとは思わなかった。
「この夏の暑さ…」のくだりでは、
会場全体が和やかになったとのことだった。

花婿の友人として、本当に嬉しいなぁと思う。
心からおめでとうございます!

マリーゴールド

2008年09月18日 10時23分49秒 | 動植物から
先月に植えたマリーゴールドが、
ちょうどいい感じで咲いてきたので、
皆によく見えるようにと玄関横に移動させた。

携帯画像ではうまく伝わらないが、
何とも言えない奥深い輝きをしているのだ。
また独特のにおいが、除虫の働きをしてくれるそうだ。

妻が北海道にいた時は、よく道端に落ちている種を拾い、
花壇やプランターに植えていたそうだ。
枯れにくく丈夫な花だということだ。

7月の終わりに北海道へ行った時、
あじさいの横に、ヒマワリ、コスモス、マリーゴールドなどが、
いっせいに咲いていたのを思い出した。
私の頭の中は「???」だったが、
北海道では、いっせいにいろいろな花が咲きだすとのことだった。

夏の終わりから秋口に咲くマリーゴールドを見ながら、
短い雪のない期間に、ここぞとばかりに一斉に花々が咲いている、
そんな北海道のことを思い起こしていた。

「救うために」

2008年09月17日 08時44分41秒 | 聖書・賛美・メッセージ
9/14、日曜日の礼拝メッセージの中心。
「救うために」ヨハネ3:17-21

「神が御子を世につかわされたのは、
 世をさばくためではなく、御子によって、
 この世が救われるためである」ヨハネ3:17

キリストが来られたのは、私たちをさばくためではない。
「そんなことでは駄目だろう」、
「また同じ失敗をして、いっつもあなたはそうだ」、
「結局あなたはそういう人なんだ」、
そうやって私たちの罪を指摘し、暴きだし、非難し、
駄目な奴だと烙印を押すために来られたのではない。

しかし私たちは、自分自身を、また他の人をさばいてしまう。
自分を諦めてしまったり、人に対してレッテルを貼ったり、
悪い噂を簡単に信じてしまって色眼鏡で物事を見たりする。
光を見つめるよりも、悪い部分、闇の部分を探し出し、
そして自分を、他人をさばいてしまう。

自分自身の闇、他の人の闇、全ての出来事の闇、
そして闇を探し出し、さばいてしまうという私たちの闇、
そこに光を照らすためにキリストは来られた。

私たちに出来ることは、それを信じるか、信じないか。
「信じない者は、すでにさばかれている」(18)、
つまり、闇の中に閉ざされ続けているということだ。

キリストの光は、どんな闇をも照らすことができる。
どんな闇からも、救い出すことができる。
ご一緒に、キリストの光を信じていこう!