しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

県名と県庁所在地とが同じ県と違う県の意味?と歴史

2010年03月25日 | 廃藩置県

はじめて日本の地理を学んだときに、県名と県庁所在地名をセットで覚えた。その時に多くの人は、例えば奈良県・奈良市や岡山県・岡山市というように県庁所在地の名称がそのまま県名になっていることか多いので、三重県・津市のような例外の18都道府県だけしっかり覚えれば良いということに気が付いて、例外の県だけをしっかり学習する。

県名は明治4年の廃藩置県で決まったものだが、何故このような例外が生じたかについてはあまり考えず、何も知らずに過ごしてきた。



最近この問題に興味を持っていろいろ調べると、たとえば司馬遼太郎が「街道を行く(3)」で次のように書いている。

「明治政府がこんにちの都道府県をつくるとき、どの土地が官軍に属し、どの土地が佐幕もしくは日和見であったかということを後世にわかるように烙印を押した。
その藩都(県庁所在地)の名称がそのまま県名になっている県が、官軍側である。
薩摩藩-鹿児島市が鹿児島県。
長州藩-山口市が山口県。
土佐藩-高知市が高知県。
肥前佐賀藩-佐賀市が佐賀県。
の四県がその代表的なものである。
戊辰戦争の段階であわただしく官軍についた大藩の所在地もこれに準じている。
筑前福岡藩が、福岡城下の名をとって福岡県になり、芸州広島藩、備前岡山藩、越前福井藩、秋田藩の場合もおなじである。

これらに対し、加賀百万石は日和見藩だったために金沢が城下であるのに金沢県とはならず石川という県内の小さな地名をさがし出してこれを県名とした。

戊辰戦争の段階で奥羽地方は秋田藩をのぞいてほとんどの藩が佐幕だったために、秋田県をのぞくすべての県がかつての大藩城下町の名称としていない。仙台県とはいわずに宮城県、盛岡県とはいわずに岩手県といったぐあいだが、とくに官軍の最大の攻撃目標だった会津藩にいたっては城下の若松市に県庁が置かれず、わざわざ福島という僻村のような土地に県庁をもってゆき、その呼称をとって福島県と称せしめられている。」(引用終わり) 

はじめてこの文章を読んだ際に「なるほど」と思った。
例えば四国で言えば、香川県の高松藩、愛媛県の松山藩はともに佐幕派であったが、この2県だけが県庁所在地名と県名が異なる。
実はこの説は、司馬遼太郎より前にジャーナリストの宮武外骨が昭和16年(1941)に「府藩県政史」という本で書いたものらしい。

しかしながら冷静に考えると、江戸幕府のあった東京はいきなり当てはまらない。紀州徳川家のあった和歌山もあてはまらない。大阪も江戸幕府の直轄領であったのにあてはまらない。実際はかなり例外が存在するようだ。

いろいろネットで調べてみると、司馬遼太郎が紹介している宮城県は確かに佐幕派であったが、明治4年(1871)の廃藩置県の時は「仙台県」となり、翌年の明治5年に、人心一新を理由に「宮城県」に名称変更となっている。岩手県も同様で廃藩置県当時は「盛岡県」であったが、「旧藩の因襲から抜けがたい」との理由で、盛岡県が申請した体裁になっている。盛岡県については岩手県のレファレンスコーナーに詳しく書かれている。
https://www.library.pref.iwate.jp/aboutus/kanpo/kanpo160/160_07-08.pdf


石川県についても同様で、廃藩置県時は「金沢県」となっている。そして、翌年に県庁の場所を「北に寄り過ぎている」という理由で石川郡美川町(現白山市)に移して「石川県」と改称し、明治6年に再び県庁所在地を金沢に移したが県名は改称しなかったとややこしい経緯がある。

会津若松についても会津松平家が斗南藩に移封された後は政府直轄地となり、明治2年6月には会津若松に県庁がおかれて若松県と称し、福島県に合併されるまで7年間は県庁所在地であったことになる。

これらの事例はひょっとすれば明治政府が圧力をかけた経緯があるのかもしれないが、それならはじめから「仙台県」「盛岡県」「金沢県」「若松県」を許したことがおかしいということになってくる。

そもそも廃藩置県当初は殆ど藩をそのまま読みかえられ、実施直後の明治4年7月には府県数は3府302県もあったそうだ。その後相当組み替えられて同年の11月には3府72県に統合されたのだが、小さな旧藩同士で県庁を取り合い県名をどうするかで様々な駆け引きが行われたことは想像に難くない。小さい旧藩が集まってできた県なら、県名と県庁所在地が別々にして交渉を決着させることは充分ありうることではないのか。

この問題は、司馬説、宮武説ほど単純なものではなさそうだ。
少なくとも明治政府が佐幕藩や態度があいまいであった藩を懲罰するために主導的に、全国的に県名を改称させたとは考えにくいし、多くの例外の存在と個々の命名事情を無視し過ぎている。

興味のある方は、戸田孝さんの「雑学資料室」の次のページが参考になります。
http://nanyanen.jp/geo-hist/prefname.html
藩名や県名の推移に興味のある方は、「地理データ集」の次のサイトがお勧めです。
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/huken/huken.htm 
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BLOGariコメント

しばやんさん
こんにちは。

ご存知かも知れませんが、私の地元佐賀県について少し補足させて下さい。

1871年の廃藩置県で佐賀藩(肥前藩、鍋島藩)に初め佐賀県が置かれましたが、佐賀県はその後伊万里県→佐賀県→三潴県を経てなんと長崎県と変わり、地元の名士らの懸命な努力により、その後長崎県から分離して現在の佐賀県が誕生しています。

従って薩長土肥の雄藩の一つであった佐賀藩は、「冒頭にその藩都(県庁所在地)の名称がそのまま県名になっている県が、官軍側」と記されていますが、唯一雄藩の中でこの命名規則の例外になった可能性がありました。

私は伊万里県でも長崎県でもない現在の佐賀鍋島藩36万石の城下町『佐賀県佐賀市』出身である事を誇りに思いますね。
 
 
ゆうじさん、コメントありがとうございます。

「宮崎県」が存在しなかった、明治の頃のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-92.html
で、明治4年の第一次府県統合で、「富山県、福井県、奈良県、鳥取県、徳島県、香川県、佐賀県、宮崎県の8県が…存在せず、これらの県は第二次府県統合の後で復活されたということになる。」と書きました。
県の名前が復活したドラマの記事をシリーズで書くつもりでしたが、奈良県と宮崎県以外のネタがあまり見つからなかったので断念した経緯にあります。
おそらく、県を復活せるのにそれぞれ大変な苦労があったのだと思いますが、佐賀県についてはその経緯を詳しく記したデータが見つかりませんでした。

ゆうじさんは佐賀県佐賀市出身なのですね。県の中心地に生まれたことがわかる地名ですね。
ところが、兵庫県神戸市兵庫区とか神奈川県横浜市神奈川区というのが存在します。ちょっと変ですね。 




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