前回の記事で、京都府長岡京市にある長岡天神のことを少し書いた。
「長岡京市」という名称は、以前わが国の都があった「長岡京」から名づけられたのだが、「長岡京」については、教科書にはあまり詳しく書かれていなかった。
ネットで「長岡京」の地図を探すと、「長岡京」は今の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区に跨っているかなり大きな都で、平安京の大きさと比べてもそれほど大差がないことが分かった。長岡京の中心部は「長岡京市」ではなく、むしろ「向日市」にあることは意外だ。
次のURLでは長岡京の大極殿跡などの史跡のレポートが詳しく出ている。
http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1700/25343873.html
光仁天皇の後を受けて即位した第50代の桓武天皇は、それまで都が置かれていた平城京を捨てて、延暦3年(784)に平城京から長岡京に遷都したのだが、これだけ大きな都を建設しながら、そのわずか10年の延暦13年(794)に平安京に遷都してしまっている。
なぜ、そんなに短い期間で都を移すことになったのか。今回は桓武天皇について書くことにしたい。
少し時代は遡るが、671年に天智天皇が没したのち、その子である大友皇子と大海人皇子との間に皇位継承争い(壬申の乱)があり、大海人皇子が勝利して天武天皇となるのだが、それ以降の歴代の天皇はしばらく天武天皇系から出ていたことが系図を見ればわかる。
しかし天武系に男子の血統が絶えてしまって、宝亀元年(770)に天智天皇の孫にあたる62歳の白壁王が即位し光仁天皇となっている。
光仁天皇には皇后である井上内親王とその子・他部(おさべ)親王がいたが、宝亀三年(772)に藤原氏の陰謀によりそれぞれ皇后・皇太子の地位を剥奪されたのちに幽閉され、それから二年後に二人とも同時に亡くなってしまう。おそらく藤原一族の手で暗殺されたのだろう。
そこで光仁天皇は、自分と百済系の渡来人の系列の高野新笠(たかのにいがさ)との間に生まれた山部親王を皇太子としたのち、天応元年(781)に山部親王に皇位を譲って桓武天皇が即位することとなる。下の画像は桓武天皇だ。
桓武天皇は平城京を捨てて、延暦3年(784)に山城国乙訓郡で建築中の長岡京に遷都する。
桓武天皇が平城京を離れて都を遷そうとしたのは、教科書などでは「奈良の仏教界からの決別」にあったという記述が多いのだが、天智系の桓武天皇にとって平城京は、関祐二氏の言葉を借りれば「『祟る天武』の亡霊の巣窟」でもあり、自分の異母兄(他部親王)やその母(井上内親王)が殺された場所である。この魑魅魍魎の住む世界から一日も早く離れたかったということなのであろう。
しかし、ここで事件が起こる。
延暦四年(785)に長岡京造営の責任者・藤原種継が何者かによって射殺されてしまった。
犯人は、桓武天皇の(同母の)弟であり皇太子である早良親王(さわらしんのう)と大伴家持とされ、早良親王は捕えられて、乙訓寺で幽閉されその間無実を主張して抗議の断食をし、淡路国へ流される途上で三十六歳の若さで亡くなってしまう。
藤原種継暗殺の犯人については諸説がある。奈良仏教の勢力や藤原家の関与を疑う説もあれば、早良親王説もあり、桓武天皇自身が怪しいという説まである。
奈良仏教勢力説は教科書などで出てくる説なので省略するが、早良親王説は、親王は桓武天皇の即位の以前は僧侶であり、奈良の東大寺など南都寺院とつながりがあるということで疑わしいとする説で、奈良仏教勢力説に近いものである。
また桓武天皇説というのは、桓武天皇が桓武天皇の第一皇子である安殿親王(あてしんのう)に皇位を継承させるために、早良親王を排除したという説である。早良親王を排除することの最大の受益者が桓武天皇ではないかという観点からは説得力があり、今では結構有力な説になっているようだ。確かにその後の桓武天皇の行動を考えるとその可能性を強く感じるのだが、決定的な証拠があるわけではない。
早良親王が亡くなられた後に、桓武天皇の身の回りや都に、良くないことが相次いで起こっている。この点は前回の菅原道真や前々回の藤原道長のケースとよく似ている。
桓武天皇の夫人である藤原旅子が延暦7年(788)に30歳の若さで亡くなり、翌年の延暦8年(789)には桓武天皇の母親である高野新笠が亡くなり、その翌年延暦9年(790)には皇后の藤原乙牟漏(おとむら)も31歳の若さで亡くなり、都では天然痘が大流行する。
延暦7-9年(788-790)には旱魃のために大凶作となり、延暦9年(790)には都で疫病が大流行となり、早良親王を廃したのち皇太子とした安殿親王(あてしんのう)も病に倒れてしまう。また延暦11年(792)には、桂川が氾濫し長岡京に大きな被害が出た。
これらすべては早良親王の祟りであると考えた桓武天皇は、怨霊のゆかりの地である長岡を退去することを決意し、延暦12年(793)に遷都を打ち出し、延暦13年(794)には平安京に都を移されてしまう。
桓武天皇は平安遷都後も早良親王の怨霊におびえ続け、早良親王の霊を祀り、延暦19年(800)には早良親王に崇道天皇を追号し、種継暗殺事件に連座した大伴家持の名誉回復もはかっている。
お彼岸の時期に祖先の墓参りをするのは日本特有なのだそうだが、歴史的には大同元年(806)の三月に早良親王(崇道天皇)の霊を慰めるために各地の国分寺で7日間「金剛般若経」を読経して供養がなされた記録が「日本後紀」にあり、これが日本で最初のお彼岸の祖先供養の記録なのだそうだ。そしてその年に桓武天皇は崩御されている。
ところで、陰陽道で「北に山(玄武)、東に川(青龍)、南に池(朱雀)、西に道(白虎)」が最良の土地だとする「四神相応」という考え方があり、平安京はその考え方に基づいて造られているそうだ。
即ち北には船岡山があり、東に鴨川があり、南に巨椋池があり、西には山陰道があるという場所である。上の画像は船岡山から見た東山連峰(比叡山から大文字山)である。
桓武天皇は結果として山紫水明の地の京都を都として選び、京都はその後4世紀近くにわたって平安京繁栄の礎を築き、その後も日本文化の中心地として発展して、多くの文化財を今も残してくれている。
もし桓武天皇が長い間怨霊に脅え続けるようなことがなければ、京都に遷都されることはなかったであろうし、そうなれば今の京都も、その後の仏教の発展も、随分異なったものになっていてもおかしくなかったと思う。
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BLOGariコメント
しばやんさんの記事でそのことが良くわかりました。
昔は権力者の意向で、結構簡単に都が遷都されたようですね。
原発災害が終焉しそうもない状態なので、東京も遷都を考えるべきではないかなと思います。
大阪にと橋下知事などは張り切っていますが、どうでしょうか。大阪も災害に強い都市ではありません。
敦賀や福井の原発の脅威がなくなれば、案外京都が日本の首都でいいのかもしれません。
「京都遷都論」はいいですね。桓武天皇の最大の貢献は、災害に強い「京都」という場所を都に選んだという事なのかもしれません。確かに京都は歴史的に見ても天災には強かった印象があります。
「都」といっても、昔は天皇家の御所と政治と経済の中心地はほぼ同じでしたが、今は天皇家と政治と経済とを分けて考えも良いような気がしますね。
ただ、経済に関して言えば東京一極集中は明らかに行きすぎでしたから、徐々に地方分散を図るべきだと思います。
副首都を盛岡か会津か遠野に置けばいいのではないかと思います。災害の恐れのない内陸部ですね。
地震の活動期です。日本列島沿岸部はどこも危険です。沿岸部は海で遊ぶときぐらいにしたいものです。
政治の中心が経済の中心であることはいい面もあるのですが、政治やマスコミが経済のけん制機能を失うことは好ましいものではないことが、東電などの問題を見ても良くわかります。
政治や文化の中心は経済の中心から離れた場所に置き、天皇陛下は日本文化の中心である場所に移られて、経済については一極集中を避けるのが個人的にはベターだと思うのですが、いざ決めるとなると百家争鳴で大変なことになりそうですね。
古代の遷都であれば詔(みことのり)があるのが普通なのですが、明治維新の東京遷都の場合は天皇の詔も政府の布告も何もなかったそうです。
昭和 16年に文部省がつくった「維新史」という史料では、「東京奠都(てんと)」という言葉が使われていて、「遷都」とはいっていないそうです。
実際に日本の首都は東京だとする法的根拠は存在せず、桓武天皇の「平安遷都の詔」を廃止した記録もありません。
つまり、天皇はあくまで行幸中(140年も経ちますが)であると・・・。
まあ、屁理屈ではありますが、実際に明治天皇が京都を離れる際には、反対派を牽制するためあくまで行幸というかたちをとったのは事実で、その後、法律で東京を首都と定めた事実が存在しないことも本当のようです。
であれば、天皇が京都に戻っても何ら問題ないかと・・・(笑)。
ただ、先の大戦の東京大空襲のおり、天皇を安全な場所に移すという当時の政府の意向に対し、国民が危険にさらされている状況で、自分だけ東京を離れることを昭和天皇は頑なに拒んだと聞きます。
未だ災害の危険が消えない関東地方ですが、この状況で東京を離れることは、天皇陛下はきっとしないんじゃないでしょうか。
ご指摘の通りですね。「遷都ではない」として東京に行幸されたのち、新政府の官省を移し、陛下がそのまま東京に居座るかたちで、実質的には遷都したと言えばいいのでしょうか。
三条実美が「国家の興廃は関東人の向背にかかっている」と主張し、天皇陛下を東京に移すことで新政府が関東の人々の心をつかむ事が出来ると考えたようです。明治政府が安定するためには、京都や大阪よりも、関東から東北をしっかり押さえることの方がはるかに重要だったのでしょう。
確かに天皇陛下のお考えは仰る通りで、この状況下で東京を離れる選択はなさそうですね。
私は再び京都への遷都にはチョット反対しちゃうんですよね。
首都機能を有するって事は現在の東京周辺部を見た限りでは自然破壊につながるし、ましてや、首都であるがために、あの9-11NYテロのような被害は起きて欲しくない―と考えちゃうからです。(今の日本に遷都するだけの経済力があるとは思いませんので、安心ですが…)
さて、山城国は渡来系氏族の住まう場所で、太秦地域や稲荷山周辺部には中国系の秦氏が、木津川や宇治川周辺部には朝鮮系の狛氏が根付いていました。
そして、これらの地域は藤原種継など藤原式家の一族の勢力範囲だったんですね。
渡来系氏族の血をひく桓武天皇と、地盤がある藤原式家との利害が一致したため、山城国が選定されたといえるでしょうね。
ところで、「四神相応」の考え方で、一般的な「北→山、東→川、西→道、南→池」に例えると、
北-船岡山
東-鴨川
西-山陰道
南-巨椋池
となるのですが、南の例えとして、赤池だったのでは?という説もありますよ。(平安京=一条から九条って事を考えた時、巨椋池は離れすぎているので…)
「都」とは政治の中心地なのか、経済の中心地なのか、文化の中心地なのか、単に天皇陛下の御所なのか。すべてを1箇所にしていいのか、それぞれ分散させるべきではないのかなどいろんな考え方があるようです。
アメリカの首都はワシントンですが、経済の中心地はニューヨークです。日本も「都」を機能別に分散化させることを考えてもいいような気がしています。今は、あまりにも多くの機能を東京に集中させ過ぎて、もし東京で大地震や大火災がおこれば、国全体が機能しなくなるリスクが大きいと思います。
私は「京都遷都」を本気で考えているわけではないですが、御堂さんも、実現可能性はともかくとして、経済の中心を京都にするのでなければ、必ずしも反対されないように思います。
「赤池」の話は初めて聞きました。どこにあった池なのでしょうか。よろしければご教示ください。
「赤池」という場所は、住所表記で言えば「京都市伏見区中島」に当たります。
名神高速道路・京都南ICを降り、国道1号線(京阪国道)を南下して2つめの信号のある交差点を「赤池交差点」と呼び、東西の通りの名として「赤池通り」と呼んでいます。
この「赤池」の地名の由来は、平安時代後期、、北面武士だった遠藤盛遠が従兄弟の渡辺渡の妻となっていた従姉妹の袈裟御前に横恋慕してしまいます。
その執拗さに困惑した袈裟御前は、夫の寝込みを襲うように盛遠に言い含め、盛遠は渡辺渡の寝込みを襲ったのです。
しかし、そこには夫の身代りになって死ぬことを選んだ袈裟御前の姿が…
盛遠がその袈裟御前の首を池で洗った際、池が血で真っ赤に染まったので事から「赤池」と呼ばれるようになります。
やがて、盛遠は自分の行為の愚かさを恥じ、妻の死に悲嘆に暮れる渡辺渡の許に出向いて罪状を自白し、殺すように嘆願しますが、渡辺渡は生き地獄を味わせるのです。
盛遠は出家をし、文覚(もんがく)と名乗り、袈裟御前の菩提を弔うために恋塚寺(京都市伏見区下鳥羽城ノ越町)という寺院を建てました。その場所は「赤池」から南下した場所にあります。
城南宮には行ったことがありますが、その近くにそんな伝説のある場所があるのは初めて知りました。
「赤池」が残っていないのは残念ですね。
このあたりはコンクリートで固められた施設が多くて、歴史的な雰囲気があまり感じられない場所になってしまっています。
話は戻りますが、「四神相応」の考え方で南を「巨椋池」というのは離れ過ぎているのではないかというのは、確かにそうですね。
歴史は偶然ではなく、仕組まれていると考える方がより納得できます。
P.S
京都は30回以上訪れてはいるのですが、長岡京は実は未だ行った事がありません。比較的近くだと岩清水八幡宮かな?
機会があればこの記事に起因して歩いてみますね。
しかし桓武天皇が早良親王の「祟り」を恐れていたことは歴史的事実のようです。「祟り」を恐れるのは心にやましいことがあるからなのであって、桓武天皇がそこまで「祟り」を恐れさせた原因は桓武天皇自身にあるという説になんとなく説得力を感じています。
長岡京市は光明寺、善峰寺などいいお寺がいろいろあります。京都市内とは一味違う良さがありますよ。