皇紀二千七百年党 代表 廣田晋一郎

皇紀二千七百年記念式典をやりませう。
そして国家百年の礎を築く皇紀二千八百年党へ。

春野町・弘岡中学校 弘岡下中学校

2020-03-30 14:26:04 | 春野町の学校跡
昭和47年 弘岡小学校と平和中学校が統合し現在の春野中学校が発足する。


地図には「記念碑」の記号があるがそれが学校跡の石碑である。









ここには高等小学校があった。(尋常小学校は現在の小学校、高等小学校は中学校)

この後ろにも学校の歴史を伝える記述があり


現在の「春野高校」の前身の「園芸高校」もこの場所に由来する。

また実業女学校、実業補習学校も併設していた。

広い敷地跡の西には校門跡があり、その横には祠がある。



学校敷地の石垣



国旗掲揚台か二宮さんの立っていた場所



またこの付近に弘岡下小学校があったようだが、石碑には「尋常小学校」の文字はない。
あくまで「高等小学校」のみ。

しかしその卒業生の残した「66」の文字は春野西小学校に統合になる昭和41年度の1966年だ。



もしかして高等小学校・実業女学校・実業補習学校の西に尋常小学校が隣接してたのかもしれない。


明治時代から学校の場所で、敷地もかなり広く、いずれにせよこの地域の教育の中核的な役割を担っていた場所になる。

弘岡下小学校については、また改めて正確な情報を入手したい。


校庭跡にはナイターの設備さえある。

小学校が春野西小学校に統合となり中学校が春野中学校に統合となった後も子供たちのたくさん集まる場所であったようで、その歴史は明治の時代から100年ほどは続いていたようである。


春野町・平和中学校

2020-03-30 00:45:21 | 春野町の学校跡
現在の高知市春野町の春野中学校は昭和47年、当時の春野町の平和中学校と弘岡中学校が合併して誕生した中学校である。

当時の春野町の各村の小学校が合併統合してそれぞれ春野東小学校・西小学校が誕生したのが昭和41年。

今から半世紀程の昔に現在の春野東小学校の少し西に平和中学校があり、この二つの学校に児童生徒教員を合わせ1000人以上が登校出勤していた時代があった。

【地理院地図・昭和47年】
地理院地図「土佐長浜」昭和47年



そして現在でも小学校の西に学校跡らしき敷地跡と建物があり、そしてこれが平和中学校の校舎跡。


いや、しかしこれが当時最大で500名程の生徒がいたといわれる中学校の校舎であるはずがない・・・
と思っていたのだが、間違いなくこれが平和中学校の校舎跡であるとの事だった。

当時あった校舎の西の端の部分で、もっと正確な表現をすると2年Ⅽ組の教室のあった場所であったそうだ。

なるほど、それでこの重ねられたセメント瓦の説明もつく!!


この景色の中に木造切妻二階建ての東西に長い校舎と体育館まであったそうだ。


また平和中学校の発足については調べていないが、戦後に尋常小学校が「小学校」となり、尋常高等小学校が「中学校」となり、児童生徒数の増加、交通網の整備により合併統合が進む中で新しく用意された場所のようで、それは春野東小学校も同じであるようだ。

【大日本帝国陸地測量部・明治41年】


●その後、平和中学校と春野東小学校が建設される場所

●このころは秋山小学校西この地図の西にあり(下地図参照)西諸木にも小学校があった(当然東諸木にもあった)

●その後秋山小学校が建設される場所

●甲殿小学校(昭和25年に秋山小学校に統合となる)

【同じく・明治41年】東諸木周辺

当時の諸木村には小学校が二校あった。


●東諸木の小学校
●甲殿の小学校

【同じく・明治41年】


●西分小学校
●当時の秋山小学校



【地理院地図・昭和33年】


●昭和33年に地図には平和中学校が記載されている。
戦後、尋常小学校は現在の「小学校」となり、多くの小学校は尋常高等小学校の戦後の姿である「中学校」を(とりあえず)併設する事となる。
そして殆どの小学校がその後の児童数生徒数の増加に対して敷地校舎を含めて物理的な限界を迎え、各地域で統合してより広い敷地で大きな校舎を建てていく事となる。
中学校の名前が「平和」であるのは当時のこの地域の芳原村 諸木村 秋山村が市町村合併で春野村、春野町となる手前に「平和村」であった時代があったからである。そしてこの学校の北にある団地の名前が「平和団地」であるのも同じ理由である。

●その後 西諸木の小学校は東諸木の小学校に統合されている。

●その後、秋山小学校が開設され、甲殿小学校は秋山小学校に統合となる(昭和25年)


【地理院地図・昭和47年】

下二つは秋山小学校跡と諸木小小学校跡


そして昭和42年、春野東小学校がスタートしこの二つの学校に児童生徒教員あわせて毎日1000名近くの人々が往来する時代があったのである。
昭和47年には平和中学校は弘岡中学校と統合し現在の春野中学校が誕生するわけだが、その流れのなかで、その後現在の春野運動公園の少し東の県道沿いにある老人福祉施設のある場所に新たな小学校を建設する話まで出てきていた。

結局その話は流れがそこまでに至らなかったから実現はしなかったが、さらにその流れは逆流し、小学校建設予定地の話まで上がっていた場所が、遂には老人福祉施設建設予定候補地となり、それが現実のものとなってしまった。

もっと言えば、あの場所はもとは果樹園で地元の子供たちの絶好の昆虫採集の場所でもあった。