【歴史の捏造に加担する文部科学省】
昭和12年7月7日の盧溝橋事件を発端に始まった支那での騒動は当初「北支事変」と呼ばれていて同年9月2日に「支那事変」と呼ぶ事に閣議決定しました。(昭和12年9月2日・朝日新聞夕刊より)
そして昭和16年12月8日の宣戦布告、真珠湾攻撃があり、12日にその戦争を「大東亜戦争」と呼ぶ事に閣議決定しました。そして支那事変も含めて「大東亜戦争」と呼ぶ事にしたのですが、それは12月9日に蒋介石の重慶政府から「宣戦布告」があったので「事変」が「戦争」になったのです。(昭和16年12月13日・朝日新聞朝刊より)
現在の日本の学校の教科書は文部科学省の学習指導要領を基に各教科書出版会社が教科書を作成し、それを文科省が検定し認可となったものを各教育員会が採用する検定教科書です。
今までの教科書には「支那事変」の事を「日華事変」「日中戦争」と表記するものも存在していましたが、文科省の認識はあくまでも『本来であれば戦争とは宣戦布告で始まり講和をもって終結するものだから宣戦布告の存在しない「事変」の事を「日中戦争」と呼ぶ事はふさわしくはないが、ページ数行数の限られた教科書の内容だからある程度表現方法には幅を持たせている。「支那事変」を「日華事変」と呼んでいるのは戦後、支那から「支那」という言葉は使わないで欲しいという要請があったので日本の「日」と中華の「華」をとって「日華事変」と呼んでいる。』というものでした。
文科省も戦後の自虐史観の中にありながらも、つい先日まで「事変」と「戦争」の区別はしっかりと出来ていた訳です。
それが平成29年度から「事変」ではなく「戦争」となってしまっているのです。
その事について文科省に問い合わせをしてみたところ、『最近は支那事変、日華事変と表記している書籍は少なく「日中戦争」と表記している書籍が大半なので時代の流れに合わせて「日中戦争」と表記する事にした。』との回答でした。
そこで上記の内容を話し、『それでは全く回答になっていませんよね、「事変」の事を「戦争」と呼んでいるのですから、もしかして実は「宣戦布告があったのですか??』と聞いてみると『ありません・・・・』との事。
担当者はなんとか話を逸らしたいらしく、他にもいろいろな分野で指導要領内容に変更があった話を強調するので、その話を聞いた上で『なるほど、そうなんですか、それは勿論学術的な根拠に基づいての内容ですよね!!』と言ってみると、『はい勿論です!!!!』と言われるので、『ですので私はその「事変」を「戦争」と呼ぶ事になった学術的な根拠を教えて頂きたいのですが!!』と尋ねてみると『・・・ありません・・・』という始末。
『大体教科書に「日中戦争」という言葉が使われるようになったのも文部省、文科省が「戦争とは宣戦布告に始まり講和を持って終結するもの」とい正しい認識を持ちながらも「支那事変」の事を「日中戦争」と呼ぶ事を容認してきたからでしょう。自分達でその原因を作り放置してきたから今の状態になっているのに、一体何を言っているのですか??大体その時今の「中国」ありましたか?????』とも聞いたのですが担当者は沈黙するばかりで全くお話になりませんでした。
当時の支那に日本軍が駐留していたのは1900年の義和団の乱の結果として結ばれた北京議定書という国際条約に基づくもので、それはイギリス、フランス、ロシア、アメリカ等を含む欧米列強も同じで、その理由は支那に国際条約に基づき合法的に居留する自国民の安全を確保するためです。
本来であれば国際条約に基づき合法的に居留する外国人の安全を確保するのはその国の義務、責任なのですから、それだけで当時の支那がどんな国であったか容易に想像がつきます。
そして国際条約に基づき合法的に居留、駐留する日本人、日本軍に対して蒋介石国民党、毛沢東共産党が危害を加えてきた訳ですから、あれは「テロ」みたいなものです。
昭和12年7月7日の盧溝橋事件を発端に始まった支那での騒動は当初「北支事変」と呼ばれていて同年9月2日に「支那事変」と呼ぶ事に閣議決定しました。(昭和12年9月2日・朝日新聞夕刊より)
そして昭和16年12月8日の宣戦布告、真珠湾攻撃があり、12日にその戦争を「大東亜戦争」と呼ぶ事に閣議決定しました。そして支那事変も含めて「大東亜戦争」と呼ぶ事にしたのですが、それは12月9日に蒋介石の重慶政府から「宣戦布告」があったので「事変」が「戦争」になったのです。(昭和16年12月13日・朝日新聞朝刊より)
現在の日本の学校の教科書は文部科学省の学習指導要領を基に各教科書出版会社が教科書を作成し、それを文科省が検定し認可となったものを各教育員会が採用する検定教科書です。
今までの教科書には「支那事変」の事を「日華事変」「日中戦争」と表記するものも存在していましたが、文科省の認識はあくまでも『本来であれば戦争とは宣戦布告で始まり講和をもって終結するものだから宣戦布告の存在しない「事変」の事を「日中戦争」と呼ぶ事はふさわしくはないが、ページ数行数の限られた教科書の内容だからある程度表現方法には幅を持たせている。「支那事変」を「日華事変」と呼んでいるのは戦後、支那から「支那」という言葉は使わないで欲しいという要請があったので日本の「日」と中華の「華」をとって「日華事変」と呼んでいる。』というものでした。
文科省も戦後の自虐史観の中にありながらも、つい先日まで「事変」と「戦争」の区別はしっかりと出来ていた訳です。
それが平成29年度から「事変」ではなく「戦争」となってしまっているのです。
その事について文科省に問い合わせをしてみたところ、『最近は支那事変、日華事変と表記している書籍は少なく「日中戦争」と表記している書籍が大半なので時代の流れに合わせて「日中戦争」と表記する事にした。』との回答でした。
そこで上記の内容を話し、『それでは全く回答になっていませんよね、「事変」の事を「戦争」と呼んでいるのですから、もしかして実は「宣戦布告があったのですか??』と聞いてみると『ありません・・・・』との事。
担当者はなんとか話を逸らしたいらしく、他にもいろいろな分野で指導要領内容に変更があった話を強調するので、その話を聞いた上で『なるほど、そうなんですか、それは勿論学術的な根拠に基づいての内容ですよね!!』と言ってみると、『はい勿論です!!!!』と言われるので、『ですので私はその「事変」を「戦争」と呼ぶ事になった学術的な根拠を教えて頂きたいのですが!!』と尋ねてみると『・・・ありません・・・』という始末。
『大体教科書に「日中戦争」という言葉が使われるようになったのも文部省、文科省が「戦争とは宣戦布告に始まり講和を持って終結するもの」とい正しい認識を持ちながらも「支那事変」の事を「日中戦争」と呼ぶ事を容認してきたからでしょう。自分達でその原因を作り放置してきたから今の状態になっているのに、一体何を言っているのですか??大体その時今の「中国」ありましたか?????』とも聞いたのですが担当者は沈黙するばかりで全くお話になりませんでした。
当時の支那に日本軍が駐留していたのは1900年の義和団の乱の結果として結ばれた北京議定書という国際条約に基づくもので、それはイギリス、フランス、ロシア、アメリカ等を含む欧米列強も同じで、その理由は支那に国際条約に基づき合法的に居留する自国民の安全を確保するためです。
本来であれば国際条約に基づき合法的に居留する外国人の安全を確保するのはその国の義務、責任なのですから、それだけで当時の支那がどんな国であったか容易に想像がつきます。
そして国際条約に基づき合法的に居留、駐留する日本人、日本軍に対して蒋介石国民党、毛沢東共産党が危害を加えてきた訳ですから、あれは「テロ」みたいなものです。