○6時30分起床、起床時室温28℃。
*夢に母が登場。研究室を訪問した。あれこれ世話を焼いてくれた学生数人(実在)、女性老教授(こちらは仮想)。夢の中でも母は・・・・!
71.9
125 69 48
*どうもjcomメール関係の受信が不調のようだ。ま、いいか。
*携帯の充電口関係が接続不良。買い換えの時期か?
○足裏着地訓練、足首柔軟化体操、両膝屈伸、偽装ストレッチングボード、その他。
*13時~13時50分 児童公園で運動。駆け足もどき、サッカードリブルもどき、鉄棒周辺でいろいろ。まだ足は引きずります。ギッタンバッタンです。
○【セガン 史上初の知的障害児者学校の創設者 2】
「セガンが世界で初めて白痴の子どものための学校を創設した。」
それがいつのことなのかの確定情報は無い。それがどのような内実を伴っていたのかの確定情報も無い。となると、「へー、そうなんだ、すごいねー、立派だねー。」という世間話程度の「セガン研究の到達」でしかないわけだ。「盲学校」や「聾唖学校」のような、教育史実とはまったく違うとしか言えない。
じつは、セガンの死後100年祭(1980年)にあわせて、在野の社会史研究者(ティエイエ)が著名な精神医学博士(ペリシエ)との共同で、「白痴学校」の基礎情報史料(の一部)を発掘し公刊していた。「セガン研究40年」の大先生をはじめ多くの人がその情報を手にしていなかっただけだ。それによると、当該の学校は、パリ・ピガール通り(現在のパリ9区)の共同住宅の屋根裏部屋2室に置かれた、との「推定」がなされていた。開設時期については明言されていないが、よく読むと、1843年以降の時期を想定している。それは明らかに史実ではない。
屋根裏部屋2室!そういう空間が「学校」になり得るのか?(19世紀半ば以降の)パリ大改造以前の共同住宅の屋根裏部屋の、住む人にとっての劣悪な状況一般については一通りの知識があるので、この「推定」にはいささかの疑問を抱き続けており、現在の私は、別の「推定」をしている・・・。
「聾唖学校」や「盲学校」のような寄宿型(強制収容型)か、それとも通学型(自主就学型)か。当時の白痴への処遇から考えると通学型はあり得ないのだが・・・。
「学校」か「私塾」か。「私塾」ならば公権力によって開設認可がなされていないが、「学校」ならば公文書が残っている可能性がある・・・。
「セガン研究」に深入りする動機も意欲も能力も無かった私にとって、「セガンが創設した白痴学校」史実の調査は、最終的に、「セガン研究40年」の大先生に、「力及ばずまったく不明です。申し訳ありません。」と報告するに、何のためらいもなかった。しかし、他のフランス近代教育史研究課題(1871年のパリ・コンミューン下の教育改革・学校創設)のためには、19世紀に私人が「学校」を創設する、ということの必要な手続き等情報については、知っておきたいことだった。「それなら、国立パリ古文書館で調べたらいいですよ。」と、フランス人知人が示唆してくれた。

同古文書館には、2005年~2008年、勤務大学の授業休暇期間を利用して通った。同館の門をくぐった延べ日数は10日ほどになる。毎度毎度、入館手続きをし、レファレンス係に調査趣旨を述べ、関係周辺史料を出してもらう・・・。フランス文字筆記体が踊る変色した史料の束(化粧箱大の箱数個)から当事・関係資史料を選び出す作業に、絶望感が襲ってくる。
2008年11月初旬、AJ 16 156と分類記号・番号が記された史料箱の中に、求めて止まない史料類を見いだした。心臓が飛び出る!
公教育大臣が視学長官に宛てた諮問文書(書簡)
視学長官が公教育大臣に宛てた答申文書(書簡)
公教育大臣が視学長官に宛てた決定文書(書簡)
これらを総合することによって、セガンの「白痴学校」の設立経緯、設置条件等がくっきりと浮かび上がってきた。セガンが公教育大臣に、「学校設立の許可願い」の書状を出したことに端を発している。残念ながら、その書状そのものは見いだすことが出来ていない。
1838年にセガンの請願(直訴)がなされ、1839年12月31日に公教育大臣による設置許可がなされていた。
これらのことを明らかにした先行研究類の存在を私は知らない。
(以上の文書詳細は、拙著『一九世紀フランスにおける教育のための戦い セガン パリ・コミューン』(2014年、幻戯書房)に、綴った。)
(続く)
*夢に母が登場。研究室を訪問した。あれこれ世話を焼いてくれた学生数人(実在)、女性老教授(こちらは仮想)。夢の中でも母は・・・・!
71.9
125 69 48
*どうもjcomメール関係の受信が不調のようだ。ま、いいか。
*携帯の充電口関係が接続不良。買い換えの時期か?
○足裏着地訓練、足首柔軟化体操、両膝屈伸、偽装ストレッチングボード、その他。
*13時~13時50分 児童公園で運動。駆け足もどき、サッカードリブルもどき、鉄棒周辺でいろいろ。まだ足は引きずります。ギッタンバッタンです。
○【セガン 史上初の知的障害児者学校の創設者 2】
「セガンが世界で初めて白痴の子どものための学校を創設した。」
それがいつのことなのかの確定情報は無い。それがどのような内実を伴っていたのかの確定情報も無い。となると、「へー、そうなんだ、すごいねー、立派だねー。」という世間話程度の「セガン研究の到達」でしかないわけだ。「盲学校」や「聾唖学校」のような、教育史実とはまったく違うとしか言えない。
じつは、セガンの死後100年祭(1980年)にあわせて、在野の社会史研究者(ティエイエ)が著名な精神医学博士(ペリシエ)との共同で、「白痴学校」の基礎情報史料(の一部)を発掘し公刊していた。「セガン研究40年」の大先生をはじめ多くの人がその情報を手にしていなかっただけだ。それによると、当該の学校は、パリ・ピガール通り(現在のパリ9区)の共同住宅の屋根裏部屋2室に置かれた、との「推定」がなされていた。開設時期については明言されていないが、よく読むと、1843年以降の時期を想定している。それは明らかに史実ではない。
屋根裏部屋2室!そういう空間が「学校」になり得るのか?(19世紀半ば以降の)パリ大改造以前の共同住宅の屋根裏部屋の、住む人にとっての劣悪な状況一般については一通りの知識があるので、この「推定」にはいささかの疑問を抱き続けており、現在の私は、別の「推定」をしている・・・。
「聾唖学校」や「盲学校」のような寄宿型(強制収容型)か、それとも通学型(自主就学型)か。当時の白痴への処遇から考えると通学型はあり得ないのだが・・・。
「学校」か「私塾」か。「私塾」ならば公権力によって開設認可がなされていないが、「学校」ならば公文書が残っている可能性がある・・・。
「セガン研究」に深入りする動機も意欲も能力も無かった私にとって、「セガンが創設した白痴学校」史実の調査は、最終的に、「セガン研究40年」の大先生に、「力及ばずまったく不明です。申し訳ありません。」と報告するに、何のためらいもなかった。しかし、他のフランス近代教育史研究課題(1871年のパリ・コンミューン下の教育改革・学校創設)のためには、19世紀に私人が「学校」を創設する、ということの必要な手続き等情報については、知っておきたいことだった。「それなら、国立パリ古文書館で調べたらいいですよ。」と、フランス人知人が示唆してくれた。

同古文書館には、2005年~2008年、勤務大学の授業休暇期間を利用して通った。同館の門をくぐった延べ日数は10日ほどになる。毎度毎度、入館手続きをし、レファレンス係に調査趣旨を述べ、関係周辺史料を出してもらう・・・。フランス文字筆記体が踊る変色した史料の束(化粧箱大の箱数個)から当事・関係資史料を選び出す作業に、絶望感が襲ってくる。
2008年11月初旬、AJ 16 156と分類記号・番号が記された史料箱の中に、求めて止まない史料類を見いだした。心臓が飛び出る!
公教育大臣が視学長官に宛てた諮問文書(書簡)
視学長官が公教育大臣に宛てた答申文書(書簡)
公教育大臣が視学長官に宛てた決定文書(書簡)
これらを総合することによって、セガンの「白痴学校」の設立経緯、設置条件等がくっきりと浮かび上がってきた。セガンが公教育大臣に、「学校設立の許可願い」の書状を出したことに端を発している。残念ながら、その書状そのものは見いだすことが出来ていない。
1838年にセガンの請願(直訴)がなされ、1839年12月31日に公教育大臣による設置許可がなされていた。
これらのことを明らかにした先行研究類の存在を私は知らない。
(以上の文書詳細は、拙著『一九世紀フランスにおける教育のための戦い セガン パリ・コミューン』(2014年、幻戯書房)に、綴った。)
(続く)