背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

蔦屋周辺の人物たち~恋川春町

2014年06月02日 02時19分45秒 | 蔦屋重三郎とその周辺
 延享元年(1744)、紀伊藩に仕える桑島九蔵を父として生まれる。幼名は亀之助。20歳のとき伯父倉橋忠蔵の養子になり、駿河小島(おじま)1万石松平家の家臣となる。本名は倉橋格(かく、いたる)、通称は隼人、のちに寿平。明和2年、十両二人扶持。勤めのかたわら絵を学び、狩野派の鳥山石燕(せきえん)に師事。また、浮世絵師の勝川春章(しゅんしょう)を師にしたとも言われている。狂歌も詠み、狂名は酒上不埒(さけのうえのふらち)。号は、寿山人、寿亭主人など。
 安永2年(1773)年、洒落本『当世風俗通』の挿絵を描く。この頃すでに朋誠堂喜三二と親交を結ぶ。また、恋川春町という画号(筆名でもあった)を使い始める。この名は、小島藩の上屋敷があった小石川春日町にちなみ、加えて絵師勝川春章の名になぞらえたものとされている。
 安永4年(1775)、恋川春町の名で自画自作の草双紙『金々先生栄華夢』を版元鱗形屋から刊行し、大好評を博す。これが、春町の鮮烈なデビューとなり、のちに黄表紙文学の開祖と呼ばれる。


『金々先生栄華夢』
 
 翌5年、『高慢斎行脚日記(こうまんさいあんぎゃにきにっき)』以下4篇を刊行。この間、小島藩でも昇進し、取次兼留守居添役となる。その後、養父の隠居を受けて家督相続し、石高100石となり、内用人に就任している。
 『三升増鱗祖(みますますうろこのはじめ)』(1777)、『三幅対紫曾我(さんぶくついむらさきそが)』(1778)、『無益委記(むだいき)』(1779)など多数の自画作を出し、朋誠堂喜三二と並んで黄表紙全盛時代を築く。安永9年から天明元年は、1年ほど休筆。版元を蔦屋に代えた喜三二に倣って、春町も蔦屋から黄表紙を出すようになる。

 「日本古典文学大系」(岩波書店)付録の月報(昭和33年10月)に掲載された濱田義一郎氏の「喜三二と春町」は味わい深いエッセイであるが、そこにはこう書いてある。
「春町が『楠無益委記』を書けば(喜三二が)『長生見度記』を以て和する。こういう唱和の形で二人の文学活動は続けられる。春町は独創的で尖鋭な問題提起者、喜三二はフンワリとそれを受けて、ゆったりした鈍角的なスケルツオを奏でるのである」

 喜三二は、春町より9歳年上で、親友というよりむしろ兄貴分のような人であり、私の推測では、春町に吉原の遊びや通人の何たるかをコーチした人である。そして、二人とも、版元の鱗形屋孫兵衛から数冊のベストセラーを出し、その後、鱗形屋の経営破綻によって蔦屋重三郎と切っても切れない深い関係になり、さらにベストセラーを出し続ける。
 濱田氏は、恋町の『無益委記』(むだいき 無駄に生きるのもじり)に呼応して、喜三二が『長生見度記』(ながいきみたいき 長生き見たいのもじり)を書いたことを述べているが、恋町の『金々先生栄華夢』をさらに面白く潤色したのが、喜三二の『見徳一炊夢』(みるがとくいっすいのゆめ)であり、逆に喜三二の『文武二道万石通』を一層辛口に作り変えたのが、春町の『鸚鵡返文武二道』であった。二人は良きライバルだったとも言える。
 喜三二は、約30作の黄表紙を書いたが、春町はそのうちの半数に絵を描いて、喜三二の友情に報いている。春町が売れっ子作家になり、自画作に追われながらも、喜三二のために作画を描いたのはよほどの恩義を感じていたからではあるまいか。春町は、結婚して子持ちになってから、両親と仲の悪い妻を離縁したそうだが、その時、喜三二は春町に新しい女性を紹介して再婚させたという。二人の関係を知る興味深いエピソードである。


「酒上不埒」 北尾政演(山東京伝)画、天明6年正月発行、狂歌本『吾妻曲狂歌文庫』より

 春町の生涯の自画作は30数作で、親友の喜三二ほかの作者の約20作品にも挿絵を提供している。また、『無頼通説法』(1779)といった洒落本や噺本も書いている。
 天明7年(1787)には年寄本役120石に昇進。同じ頃、田沼意次のあとをうけて松平定信の寛政の改革が始まると、翌8年正月、これを題材とした黄表紙『悦贔屓蝦夷押領(よろこんぶひいきのえぞおし)』(北尾政美画、蔦屋版)を刊行し、評判をとる。同年正月には喜三二の『文武二道万石通』も大ヒットしている。天明9年正月、春町がそれと同趣向の作『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶにどう)』(北尾政美画、蔦屋版)を刊行し、これも大ヒット。しかし、この「文武二道」両作は定信の文武奨励の改革政治を揶揄したともとられかねない性質のもので、喜三二は藩主の命で断筆したと言われ、春町は定信から出頭を命じられるが、病気を理由にこれに応じなかったと言われている。その後、間もない寛政元年(1789)7月7日、病死。その死を自害とする説もある。享年46歳。
 春町の墓は新宿の成覚寺にある。法名は寂静院廓誉湛水居士。墓碑に辞世の詩と句があり、「生涯苦楽四十六年、即今脱却浩然帰天」
「我もまた身はなきものとおもひしが 今はのきははさびしかりけり」



最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
お助け頂けないでしょうか (mimi)
2019-11-08 00:04:49
こんにちは、初めまして。私は大学生で無益委記についての発表を来月控えいています。といっても、全然資料が見つからず、焦っていたところ、このブログにたどり着きました。
春町が『楠無益委記』と『長生見度記』の関係性について、詳しく教えていただけたら幸いです。


返信する
訂正・前回のコメントについて (とと)
2016-09-06 20:40:01
こんばんは。先ほどコメントを書かせていただきました、とと、と申します。

先ほどのコメント内にてとんでもない間違いをしていたのですが、背寒様がブログ記事でご紹介されていらっしゃいました本の題名は『日本古典文学大系』というのですね。私の誤読が原因でございました。大変申し訳ございませんでした。
間違いに気づいてから早速その本を注文してまいりました。先ほどのコメントの浜田義一郎氏の件に関しましては何卒お気になさらないでくださいませ。。

それでは、改めまして。
背寒様、朋誠堂喜三二と恋川春町に関する情報をブログ記事にまとめて公開してくださり、ありがとうございました。浜田氏の興味深いエッセイにつきましても、ブログ記事内でご紹介してくださいましたことに重ねてお礼申し上げます。
それでは失礼いたします…。また訪問させていただきますね。
返信する
背寒様のブログを拝読致しました。 (とと)
2016-09-06 20:17:41
初めまして。とと、と申しますが通りすがりの者です。突然のコメント、失礼いたします。

文頭から私事で恐縮ですが、私は江戸期の文化人に興味を持っており素人ではありますが趣味も兼ねて調べ物をしております。今回、背寒様の朋誠堂喜三二と恋川春町に関するブログ記事をすべて拝読させていただきました。豊富な資料の数々、背寒様の機知に富んだ考察に感銘を受けました。
私も背寒様のように研究ができればと存じております。
少々話は変わりますが、こちらの記事中に出てきました浜田義一郎氏のエッセイ「喜三二と春町」について1つお伺いしたいことが御座います。背寒様のブログを拝読致しましたあと、実は私も『日本古典文学全集』を購入したのですが、浜田義一郎氏のエッセイが書かれた月報付きの本ではなかったようで(その本はもちろん愛読いたしております)、個人的にそのエッセイがとても気になっております。
そこでお伺いしたいのですが、浜田義一郎氏のエッセイが書かれた月報が入っている『日本古典文学全集』の本の名前をお教えいただけないでしょうか。お手数をおかけ致しますが、もしよろしければ何卒よろしくお願い申し上げます。

長文のうえ、乱文で申し訳ありません。それでは失礼いたします。
返信する

コメントを投稿