背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

蔦屋重三郎(その1)

2014年05月28日 05時49分16秒 | 蔦屋重三郎とその周辺
 蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう 1750~1797)は、安永・天明・寛政期の江戸出版界に大きな足跡を残した出版社・書店の社長である。一代で、小さな本屋から江戸随一と呼ばれる新興の大出版社を築いた人物で、現代では彼のことを江戸出版界の風雲児、天明文化の演出者、江戸後期の大プロデューサーと呼んでいる。
 重三郎は、遊郭吉原の風俗本および画集、挿絵入り娯楽読み物、流行歌謡本、戯歌(ざれうた)集、話のタネの本などを手がけ、大都会江戸のアップトゥーデイトな大衆娯楽の分野でベストセラーを続々と刊行し、今で言うポップアート、浮世絵においても、吉原名花の遊女たち、街で評判の美人、人気歌舞伎役者などの姿絵を数多く発売し、江戸庶民を喜ばせ、まさに一世を風靡した出版界のヒットメーカーであった。
 
 蔦屋重三郎が大衆的なエンターテインメントに徹した出版事業にいそしむことになった最大の要因は、彼の生まれと育ちにあった。重三郎は、江戸の風俗街吉原のど真ん中で生まれ、吉原という、人間の欲望が渦巻く特殊な環境で育った。遊郭や茶屋を営む人々やその客たち、そして遊女や芸人たちに囲まれて成長し、人間社会の悲喜こもごも、社交術の大切さ、人間の浮き沈み、身分の違いに関わらない人間の本性、金の力、義理と人情、嘘と本音など、子供の頃から実地の社会勉強を重ねてきたにちがいない。
 蔦屋というのは、吉原の妓楼と引き手茶屋の屋号で、重三郎は、そのチェーン店の本家の養子だったという。重三郎は長じて、蔦屋の宣伝担当を任されるようになったようである。吉原の入口である大門(おおもん)の外にいろいろな案内所があって、その一軒でガイドブックを販売することを始めた。「吉原細見(さいけん)」といって、吉原内の地図、遊郭と遊女たちの紹介、値段などを書いた小冊子で、吉原で遊ぶ男たちの必携本である。吉原細見は、鱗形屋(うろこがたや)という老舗の出版社が毎年春と秋に版を変えて発行していた本で、吉原の遊郭各店が宣伝費として資金提供し、また、一定部数が確実に売れる堅実な本だった。重三郎は、まずその小売から始めたのだが、発行元である鱗形屋の社長孫兵衛と親しくなり、吉原の内情に詳しいことから改訂版の編集を行なうようになった。これが、蔦屋重三郎の出発点で、のちに飛ぶ鳥落とす勢いの新興出版社を築くきっかけであった。
 重三郎が妓楼の主人にも茶屋の主人にもならずに、吉原の外に出て、人生の転機をとらえ、出版事業に乗り出すようになったことは、あとで振り返れば江戸文化史にとって非常に大きな意義を持つことであった。文化を花開かせるのは、時代環境や歴史的契機もあろうが、やはりその時代に運命的に登場した人間の活躍によるものである。蔦屋重三郎が現れなければ、天明寛政期の江戸文化はまったく違ったものになっていたと思われるほど、この男は重要な人物であったと言えるであろう。
 山東京伝(画号:北尾政演)の画才文才を発揮発展させ、喜多川歌麿を美人画の大家に育て、東洲斎写楽を売り出し、売れる前の曲亭馬琴や十返舎一九を世話し、著作活動へ導いたのも、蔦屋重三郎であった。



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