背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

蔦屋周辺の人物たち~喜三二と恋町

2014年06月02日 04時24分13秒 | 蔦屋重三郎とその周辺
 前々回、喜三二の最初の戯作は、安永2年の『当世風俗通』(恋川春町画)であると書いたが、これは『日本古典文学大系』付録の「月報」にある濱田義一郎氏の「喜三二と春町」を参照したものだった。そこには、
「(喜三二は)安永二年に『当世風俗通』で現代通風俗を取り上げた。諧謔と機智に富む文明批判がそこにある。春町との友情――『当世風俗通』に挿絵を書いたのが春町の文学に入る機縁となって、黄表紙流行期に入ると、喜三二は春町に追随して、この「大人の絵本」を作る楽しみに夢中になったようだ」と書かれている。
 また、『江戸の戯作絵本 (一)初期黄表紙集』(社会思想社)の『金々先生栄華夢』の小池正胤氏の解説でも、
「安永四年、それまでわずかに洒落本『当世風俗通』(安永二年)の挿絵を描いていた無名の武士で画家の恋川春町が『金々先生栄華夢』をだした」とあり、さらに『金々先生栄華夢』の絵で金々先生が着ている当時流行の衣装について、
「これは『当世風俗通』の挿絵の上・中・下の息子の姿をそれぞれはめこんだのではあるが、それが話の内容にうまく合致して一層現実感をますことになった」とある。

 つまり、濱田氏は『当世風俗通』の作者・金錦佐恵流を朋誠堂喜三二と断定し、小池氏はその作者が喜三二かどうかは保留にして、二人とも挿絵は恋川春町が描いたとしているわけである。

 しかし、先日、恋川春町のことを加藤好夫氏のホームページ「浮世絵文献資料館」で調べていたら、『当世風俗通』という洒落本は、原本に作者名の金錦佐恵流(金錦は、金銀、金々という表記もある)はあるが、挿絵を描いた絵師名は記されていないことが分かった。絵は春町が描いたというのが定説になっているようだが、文のほうは、喜三二説と春町説の両方あるということである。
 また、『当世風俗通』にはその続編があって、『後編風俗通』または『女風俗通』という題名で、作者は金錦先生であるという。挿絵を描いた絵師は不明だが、恋川春町であろうと推定されている。これもまた、加藤好夫氏の「浮世絵文献資料館」からの情報である。さらに、大田南畝の『杏園稗史目録』には、「当世風俗通 安永二年 春町 続編女風俗通 安永四年 春町」という記述があり、南畝は、この2作とも春町の作品であると見なしていたようだ。加藤好夫氏は、「しかし、安永二年刊『当世風俗通』の作者・金銀佐恵流同様、「続編女風俗通」の金銀先生についても、また春町・喜三二の両説あって、確定していないようである。なお『洒落本大成』六巻の解題は、画工については触れていないが、安永二年の作品同様、春町画と見ているようである。ただ「日本古典籍総合目録」は喜三二作・勝川春章画としている」と注記している。
 
 これでは埒が明かないので、昨日、国立国会図書館デジタルコレクションを覗いてみると、『当世風俗通』の原本と復刻本、そして『後編 女風俗通』の復刻本があった。今は自宅に居ながらにしてパソコンで閲覧できるのだから便利なことこの上ない。復刻本は大正8年に稀書複製会(主事 山田清作)が編集して米山堂という出版社から刊行されたものであるが、既刊の稀書解説本もあり、それを読むと次のように書いてあった。

 「当世風俗通」は安永二年夏の版行にして「後編女風俗通」は同年秋の版行なり。著者金錦先生とあるのは従来久しく恋川春町ならんとの説なりき。さるは春町の名作「金々先生栄華夢」の主人公に金錦先生といふがあり、又序文及び本文の書体の彼が自筆に酷似したればなり。或は享和三年版の「麻疹戯言」の四方真顔の序文中に「朋誠堂作風俗通、而弁疫病本田」とあるによりて、本書を喜三二の作とし、春町は単に挿画と版下とを物したるなりとの説もあり。今遽(にわか)に決定し難し。何れにもせよ、前後二冊ともに同一作者の筆に成れりことは疑ひなきが如し。
 春町は通称倉橋寿平と云ひて駿州小島の藩士なりき。喜三二は通称平沢平角と云ひて秋田の藩士にして留守居役なりき。当時の留守居役は、一藩の外交官にして上中下の交際に鞅掌(おうしょう)し、殊に狭斜の巷に出入すること多かりしかば、此類の著作の材料には富みたり。穿ちの軽妙なるより推せば作者を喜三二とするも当らずとせず。

 恋川春町の筆跡かどうか、『金々先生栄華夢』の序文(左)と『当世風俗通』の書き出し(右)を見比べてみよう。恋町の筆跡は、流麗で、「の」の字の書き方に特徴がある。

 
 似ているようでもあるが、酷似しているとは思えない。これでは判定不能である。 

 上記の引用文にある四方真顔は、春町・喜三二の後輩の狂歌師かつ戯作者で、狂名は鹿都部真顔、のちに四方赤良(大田南畝)の門に入り、四方真顔と名乗ったが、戯作者としては恋川春町の愛弟子でもあり、恋川好町と称していた人物である。その彼が、「朋誠堂作風俗通、而弁疫病本田」と書いているとすれば、朋誠堂喜三二作「当世風俗通」は、かなりの信憑性があるのではなかろうか。また、疫病本田というのは、当時疫病のように流行し、髪の毛が抜けた疫病患者のように月代(さかやき)を広げた本多髷のことで、「当世風俗通」に図解入りで詳述されている。

 
『当世風俗通』より、疫病本多(左)と古来の本多髷(右)

 『当世風俗通』という本は、浜田義一郎氏が言うように、喜三二は戯作の、春町は挿絵のデビュー作と言って良いのではないだろうか。専門家の意見というのも、どうも当てにならない気がして、最近私はほぼすべての研究者の論説に対し疑心暗鬼にとらわれ、非常に困っている。江戸時代の文芸・美術の専門家や研究者というのは、肝心なことを断定的に書くか、あるいはそれを曖昧にして当たり障りのないように書くか、だいたいそのどちらかなのである。不確かな前提の上に立って、推論を築いているとしか思えない著書も多いように思う。写楽論もそうだが、戯作者の研究もそういった印象を受けるものが目立つのだが、まあ、私のような素人がそれをどうこう言っても始まらないので、先を進めよう。

 国立国会図書館デジタルコレクションに収録されている『当世風俗通』の原本および復刻本をところどころ拾い読みしてみた。
 序文は漢文である。ざっと読むと、こんな意味のことが書いてある。
 この書は、東都(えど)の散人、小生こと金錦の著述である。東都の当世風俗は、流行に従い、その変化は尽きることがないが、これを記述した本もなく、小生は風俗が頽廃するのをずっと憂えていた。暇な時に近頃の風俗を書き留めて箱にしまっておいたところ、ある日、友人の剥龍子(?)が来訪し、再三再四請うので授けた。この書があちこちの諸君に好まれ、熟読玩味されて、遊びの一助となることを願う。
 文末に、「金錦 佐恵流識」とあり、「安永二年皆暑日」とある。金錦と佐恵流の間が一文字空いているので、佐恵流のほうは作者名ではないのかもしれない。佐恵流という漢字を当てた「冴える」という言葉は当時の流行語であったらしく、「江戸語の辞典」(講談社学術文庫)を見ると、「①派手に騒ぐ。賑やかに遊興する。景気がよい。②気持が晴々とする。③傑出する」とあり、序文の佐恵流は、①の意味であろうと思う。また、序文は安永2年(1773)の夏に書かれたことが分かる。
 この本は、洒落本と同じ判型(小型本)だが、内容は、洒落本(吉原の客と遊女の関係を描いた会話体の風俗短編小説)というより、遊郭通いをする若者のファッション考現学といったものである。髪形ならびに着物から履物までの服装を、通人の観点から、極上・上・中・下の四種類に分けて、図示しながら解説している。当時(安永初年)江戸で流行した最先端のオシャレな男のファッションが実によく分かり、江戸風俗史研究にとっても大変貴重な本だと思う。
 春町の挿絵を紹介すると、


極上の部類の武士の息子         下の部類の町人の息子

 『当世風俗通』の巻末に、「後編風俗通」の広告(著者名なし)があり、奥付に、「安永二癸巳七月 著々羅館蔵板」とあるが、この版元は不明である。米山堂の復刻本は、国立国会図書館所蔵の原本と全く同じで、明らかにこれを復刻したものであるが、巻末に大坂の版元と思われる石野某の跋文があるので、この原本は大坂で再版されたものであると思われる。

 恋川春町の『金々先生栄華夢』の絵(下に2枚掲げる)と上に掲げた『当世風俗通』の絵を見比べてみよう。よく似ていると感じるがどうだろう。



 ところで、『後編風俗通』も復刻本が国立国会図書館デジタルコレクションにある。こちらは、遊女の良し悪しをそのファッションや姿態から見極めた本で、いわば遊び相手の女の観相学と言えるものだ。
 序文はこれまた漢文であるが、美人の相とはどういうものかについて仲象という人が書いている。安永乙未、すなわち安永四年(1775)に書かれたことが分かる。
 序文の次に目録(目次)があり、版元名、池之端 長谷川と書いてある。
 これは、下谷池之端仲町にあった地本問屋・文会堂長谷川新兵衛のことである。喜三二こと平沢平格は、下谷七間町にあった秋田・久保田藩の江戸上屋敷に住んでいたので、この版元とは近距離にあった。前編の『当世風俗通』の版元もおそらく同じにちがいないと思うのだが、前編の序文にある友人の剥龍子も著々羅館というのも、版元長谷川新兵衛のことではなかろうか。

 『後編風俗通』は、本文の最初に「金錦先生進学解」というガイダンスがあり、以下、美人(遊女)の観相学が図解入りで述べられている。遊女を八風(8タイプ)に分類し、さらにそれぞれを四相に細分化して三十二相になるのだが、女性のことをよく知った男でなければ書けない詳細な解説である。この八風の項目だけ挙げておく。( )内のひらがなは、この本の著者が分かりやすく口語にした注である。

 温風(ぼいやりふう)、風(つんつんとしたふう)、威風(のっしりふう)、不猛風(きゃんでないふう)、恭風(しっとりふう)、不安風(うちあがったふう)、失情風(きのないふう)、淫風(しつぶかふう)。

 「ぼいやり」は、ぼんやりと同じで、柔らかく温かい感じの意で用いている。「きゃんでない」は、おきゃん(おてんば)でないこと。「不安」は、安からず、安っぽくないことで、「うちあがった」は、気品があって奥床しいの意。「しつぶか」は湿深という漢字をあて、湿深いは、多淫、淫乱なこと。


温風の美人
 
 美人の最高位は「温風有真相」で、心が温かく真心のある女性で、最悪なのは、「淫風夜鬼相」で、淫乱で夜は鬼のようになる女性だとして、例を挙げて解説している。

 巻末に跋文(あとがき)があり、文末に「吉陳人題」とある。吉陳人とは誰のことか不明である。また跋文の文頭に絵師の春章への讃辞があるので、この本の挿絵を描いたのは勝川春章だとする説が生まれたのであろう。しかし、恋川春町は、鳥山石燕の門下だったと言われているが、春章の画風を学んだとされ、またその門下でもあったという説もあるほどだから、春町が挿絵を描いたとしても不思議はない。
 
 『当世風俗通』と『後編風俗通』を読み比べてみて感じたことであるが、金錦散人という同じ作者が書き、挿絵は同じ絵師が描いたことは間違いないと思う。そして、後編をざっと読んだ限りでは、作者はいろいろな遊女と付き合った経験のあるその道のエキスパートであるとしか思えない。作者はやはり朋誠堂喜三二だと私は推断する。後編が書かれた安永4年(1775)、春町は30歳で、喜三二は39歳である。春町は小島藩という1万石の小藩の藩士で、この頃はまだ家督相続もしておらず、出世途上であり、遊郭で遊べるだけの金力もなかったと思われる。一方、喜三二は久保田藩25万石の重役であり、遊郭での遊びも年季が入っていたと思うからである。



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