背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

『舟を編む』

2013年08月10日 06時00分49秒 | 日本映画


 下高井戸シネマで新作『舟を編む』を観てきた。今年4月に公開され、話題になった映画らしい。午後3時半からの一回上映だったが、お客さんがたくさん入っているのには驚いた。下高井戸シネマは定員120名程度の小さな映画館だが、80名ほどいたと思う。客層は年配の方から若い人まで幅広かった。
 最近私は予備知識をほとんど持たずに、近年作られた映画を観ることにしている。この映画もそうだったのだが、実は昨年の夏、座・高円寺の小劇場で渡辺美佐子さんの朗読会があって、誘われて聴きに行った時、終った後のパーティで美佐子さんから今度出演する映画の話を聞いた。ちょうどパーティが始まる前に監督とプロデューサーが来て、打ち合わせをしたとのことだったが、内容はファンタジーで、宮崎あおいと共演すると言って、美佐子さんが楽しみにしているとおっしゃっていたのを覚えていた。それで、この『舟を編む』に美佐子さんと宮崎あおいが出演しているのを知り、封切りの時は知らずに見逃していたので、昨日観に行ったわけである。が、どうも映画が変更になったようで、ファンタジーでもなければ、宮崎あおいとの共演場面もなかった。

 最初、タイトルの『舟を編む』とは何のことだか分からないまま映画を観ていたが、大海のような言葉の海を、辞書という舟で渡っていくということで、舟を辞書にたとえ、日本語の辞書を編纂する編集者の話であった。出版社の営業マンとしてはウダツの上がらなかった主人公の若者が、陽の当たらない辞書編集部に異動になって、新しい日本語辞典の編纂に情熱を傾け、長い年月をかけて完成させるというのがメインストーリー。そこに、同じ編集者でタイプのまったく違う同僚との友情、下宿屋のおばあさんの孫娘との恋愛をからませている。
 この映画、前半は大変面白く観ることができた。が、後半の一時間は、なんだこれは!と思うシーンが目立ち始め、急につまらなくなった。140分近い映画で、ともかく長すぎるし、なぜこんなにダラダラ、話を延ばしていくのかと思う。最近の映画はどれもこれも長すぎる。90分から100分の間に映画はおさめるべきではなかろうか。だいたい人間の集中力が続くのは90分がいいところである。そして、私が観た新作のほとんどが、一時間を越えると、退屈するか、不自然さを感じないわけにいかないのは、まとめ方とラストに至る収束の仕方が下手なのだと思う。『舟を編む』も同じで、前半は90点くらいの高得点だったのが、後半は60点くらいに下がってしまった。
 監督は石井裕也という人で、調べてみると30歳の若手の映画監督である。女優の満島ひかりと結婚したようだ。有望な監督のようで、この映画の前半の面白さから推察して、きっと今後を期待できる監督のように私にも思えた。
 主演は松田龍平、相手役は宮崎あおい。『北のカナリアたち』に出ていた二人で、私もようやくこの二人の顔と名前が一致するようになった。主役の松田龍平の無口で人付き合いの苦手な変人ぶりは、初めのうちは大変好感が持てて良いのだが、最後まで変わらないので、いい加減見飽きてしまった。途中からもっと変化をつけるべきだろう。最後まで挙動不審な目をしていないで、時には目を輝かせるとか、喜怒哀楽を表情に出すとか、饒舌になるとか、変えていかないとダメだろう。彼の演技プランにも、監督の演出にも工夫がほしかった。この映画は松田龍平が宮崎あおいに恋をして、彼女に求愛するまでは面白いのだが、そのあと、映画が違う方向に行ってしまい、二人の描き方が急に付け足し程度になっていた。後半は確か12年後(10年後だったか)の話になるが、二人が夫婦になっても他人行儀のままで、これではなんのために求愛して結婚したのか、納得がいかない。見ていて疑問に感じた。宮崎あおいという女優はカエルみたいな顔をしていて、演技もとりたてて良いとは思えないのだが、後半は彼女もどう演技していいのか分からなかったにちがいない。12年後には、子供が出来て松田龍平がマイホームパパになって、彼女と幸福な家庭を築き、辞書編纂の仕事に打ち込んでいるようにするか、あるいは折角結婚したのに松田が辞書編纂の仕事を優先して宮崎をかまわないので、離婚の危機に直面しているとか、どちらかにするべきだった。この映画は、多分後者のような方向に描こうとしたのだろうが、あれでは中途半端だった。
 同僚のオダギリジョーとその恋人の黒木華の二人は役にはまって、非常に良かった。とくに主役の松田と同僚のオダギリとの二人の場面は、そのコントラストと不思議な友情がよく描けていて、感心した。松田と宮崎の二人の場面よりずっと良かった。
 ほかに助演者では、加藤剛(大岡越前もずいぶん年をとったなと思った)、小林薫(あの無精ひげは良くない)、伊佐山ひろ子(手堅い演技で良かった)、鶴見辰吾(まあまあ)、渡辺美佐子(下宿屋のおばあさんではどうもぴったりしない感があった)、八千草薫(加藤剛の奥さん役で、後半に急に出て来て重要な役を演じる)などが私の知っている顔ぶれ。後半から編集部に配属になる若い女の子(池脇千鶴という)もまずまず良かった。
 後半は60点くらいだと書いたが、映画が迷走してしまったとしか思えない。原作があって、三浦しをんという人気作家のベストセラー小説とのこと。脚本は監督ではなく、渡辺謙作という人が書いたようだが、原作に忠実に描かざるを得なかったのだろうか。ともかく、後半で、辞書監修者の加藤剛の病死とその妻の八千草薫にスポットを当てて、ここをくどくど描いたのが良くなかったと思う。それと、辞書の編集作業中(四校)にドラブルを起こして、発行が遅れそうにしたのもわざとらしく、作為が目立っただけで、効果がなかった。編集部の人員を増やして、徹夜で作業を続ける場面も不自然。みんな無精ひげを生やし、インスタント食品を食べ、ゴミを散らかしたままにするのはやりすぎだと感じた。辞書の編集は、地道で計画的なはずだから、最後にあんなにあわただしくなるわけがない。ドラマを盛り上げようとしたのだろうが、観ている方が乗っていけないのでは意味がない。後半は、夫婦生活と同僚との友情にウェイトを置いて、30分くらいにまとめ、あっさりと終った方がはるかに良い映画になったと思う。前半が面白かっただけに残念に感じた。


 

『武士の家計簿』『ゲゲゲの女房』『アントキノイノチ』

2013年08月09日 11時57分41秒 | 日本映画
 明大前のツタヤで借りてきた邦画の準新作DVDを夜中に一本ずつ観ている。四本借りて、すでに三本見た。



 『武士の家計簿』(2010年)。面白かった。「そろばん侍」(藩の経理担当)を主人公にした一風変わった時代劇だが、その着眼がユニーク。この間見た『天地明察』より数段面白い。主演の堺雅人が大変良かった。女房役の仲間由紀恵も良く、中村雅俊、松坂慶子の夫婦も適役。祖母役の草笛光子をもっと個性的にすれば、ホームドラマとして申し分なかった。ただし、ちょっと長すぎる。最後の30分は、蛇足で不要に思えた。跡継ぎの長男が生まれたあたりで、冒頭の明治時代に戻って終っていればもっと作品が引き締まったのではなかろうか。監督は森田芳光。一昨年に61歳で亡くなったが、私らの世代では常に先頭を走っていた映画人で、お客の入る娯楽作品の話題作を何本も作り、最も功績のあった映画監督だった。やるだけのことはやったと思うが、彼が亡くなって、ぽっかり穴の開いたような気持ちになった。



 『ゲゲゲの女房』(2010年)。漫画家の水木しげるの奥さんが書いた実話小説を映画化したもの。NHKの朝のドラマでも人気を呼んだようだが、私はそれを見ていない。映画は非常に面白かった。最近見た新作の邦画の中で、私が一番感心して観た作品だった。監督は鈴木卓爾という人。元俳優で、脚本も書き、映画も監督もするようだ。原作が面白いということも大きかったのだろうが、映画の作り方もそれにマッチしていたし、キャスティングも良く、不可思議でブラックユーモアの効いた奥床しさを巧く表現していた。主演は、吹石一恵と宮藤官九郎(くどうかんくろう)。この二人が非常に良かった。吹石一恵は、以前、中原俊監督の『素敵な夜、ボクにください』(2007年)に主演していたのを見て注目した女優で、明るくちょっと能天気な役だったが、『ゲゲゲの女房』では進境著しく、いい女優になったと思った。水木しげるを演じた宮藤官九郎は、才人だという噂は聞いていたが、俳優として見るのは初めてだった。まさに異能の役者で、最近見た映画の中では最もインパクトのある男優だと感じた。『ゲゲゲの女房』という映画は、近年稀に見る佳作だと思う。

 『アントキノイノチ』(2011年)は大変長い映画(131分)だったが、眠気も催さず、最後まで一気に見た。原作はさだまさしの小説、監督は瀬々敬久(ぜぜたかひさ)。以前、同監督の『東京エロチカ』という映画をビデオで見たことがあった。昔のアングラの自主映画のような作品で、途中で二、三度中断して、結局最後まで観たと思うが、観念的で独善的な詰まらない映画だった。それでずっとこの監督のことは忘れていたのだが、昨夜『アントキノイノチ』という彼の最新作を観て、演出力もあり、かなり力量のある監督だなと思った。それでも、この監督には、どこか鬼面人を驚かすようなあざとさが目立つ。ファーストシーンもそうだし、友達が突然飛び降り自殺をする場面、ラストでヒロインがトラックにはねられる場面など、何箇所もあって、わざと衝撃的な場面を加えて、観客を驚かそうとしているとしか思えない。やっと生きがいを見つけたヒロインを死なせる必然性はまったくないのに、どうしてあんな結末にしてしまうたのかまったく分からない。(原作はどうなっているのだろうか?)主演の二人、岡田将生と榮倉奈々が非常に良く、助演の松坂桃李も熱演していたし、素晴らしいと思う場面がたくさんあったのに、監督が最後に自分で作品をぶち壊してしまった。後味の悪さが残り、もう一度観たくない映画になってしまったのが残念である。


映画『少年H』

2013年08月06日 05時23分55秒 | 日本映画


 8月5日(月)、午後3時半より日比谷の東宝本社の試写室で新作の『少年H』を見る。なかなか良い映画だった。原作は舞台美術家の妹尾河童の自伝小説(戦前から敗戦後まで)で、監督は降旗康男。つい最近、高倉健主演の映画『あなたへ』を撮ったばかりで、それに続く作品だ。降旗監督はその前に何年かブランクがあって、もう映画は撮らないのかと思っていたが、喜寿(77歳)を過ぎてからの連作である。降旗さんとは二度ほど、ほんのちょっとだけ話したことがあるが、物静かで寡黙な人だった。四年前と二年前で、一度目は、池袋の居酒屋で酔っ払っていたことしか覚えていない。二度目は、内田有作さんのお別れの会でお会いしたが、ちょうど『あなたへ』がアップして編集中の頃だった。デジタル映像の編集は全部若い人に任せているとおっしゃっていた。
 さて、『少年H』。Hとは、妹尾河童の本名の妹尾肇(はじめ)のイニシャルで、ヘンタイのHとは無関係。映画の初めに、母親が手編みの真っ赤なセーターに大きくHの文字を入れたものを主人公の妹尾少年に渡して着せるシーンがあり、前半は少年がずっとこのセーターを着て登場するのだが、それが大変印象的だった。この映画は、ひと言で言えば、戦争中の家族愛を描いたもので、ヒューマンな作品として成功作と評価して良いと思う。
 妹尾少年の父親は、神戸で洋服の仕立て屋をやっていて、クリスチャン。母親もクリスチャンで、両親ともしっかりとした考え方を持つ人として描かれている。父親は水谷豊、母親は元キャンディーズの伊藤蘭が演じていた。二人とも良かったが、しばらく見ないうちに、老けたなあ!水谷豊は私と同年齢。ランちゃんは、二つか三つ年下だと思うが、なんだか夏川静江みたいになってきたと思う。(私がこの映画の伊藤蘭を夏川静江のようだと言うのは、大変な褒め言葉で、夏川静江は戦前は大スター、戦後は主に母親役を務めた名女優で、私が尊敬する大女優の一人である)
 私はこの30年間ほどの芸能界についてかなり疎いので、映画を見終わって、パンフレットを読んで知ったのだが、水谷豊と伊藤蘭は実際にも夫婦だとのこと。二人が結婚したことは、そういえば聞いたような気もするが、もうすっかり忘れてしまっている。水谷豊の最初の奥さんはアメリカ人だったと思うが、その後離婚して、ランちゃんと再婚したようだ。確かテレビドラマで共演したアメリカ人で、そのドラマを私はずっと見ていた記憶があるが、内容もそのアメリカ人の顔もすっかり忘れてしまった。私の脳細胞もどんどん死滅して、記憶がずいぶん喪失したようで、物忘れが激しい。芸能人の顔だけ浮かんで、名前が出てこないことが度々ある。(一年ほど前に青山のレストランで女性の芸能人を見かけて、その名前が一週間出てこなかったことがある。藤原紀香だった)。伊藤蘭は、キャンディーズの「ランちゃん」時代、私は好きだった時期もある。今でもカラオケの持ち歌の一曲は、彼女の歌った「小さな悪魔」、いや違う、「私の悪魔」だったか?「小さな悪魔」は確かニール・セダカのヒット曲で、ランちゃんがキャンディーズ時代、スーちゃんを押しのけて、メインボーカルになった記念すべきヒット曲は?といった具合で、ネットを調べて、この続きを書くといった羽目になる。その結果、「やさしい悪魔」と判明。それから、ランちゃんがメインボーカルを務めた最初の大ヒット曲は「年下の男の子」で、これまた勘違いしたのは、私のカラオケの持ち歌は「やさしい悪魔」ではなく「年下の男の子」だった。思い出せば、あれは確か昭和48年か49年だったと思うが、キャンディーズが売り出したばかりの頃、東大の駒場祭に出演したことがあった。パニックになるほどの大変な騒ぎで、ミーハー的な連中を馬鹿にして私は見に行かなかったのだが、その時ファンになった東大生が大勢いたのを覚えている。キャンディーズは大学の学園祭を回って、大学生の間で圧倒的な人気を博したが、人気の中心はなんと言ってもランちゃんだった。
 『少年H』の話に戻ろう。主役の妹尾少年を演じた吉岡君という子役が非常に良かった。妹役の女の子もうまく、この二人に、水谷豊と伊藤蘭が父母役となって、愛情ある良き家族を構成して映画が展開していく。初めの20分で映画の世界に引きずり込まれ、あとはところどころ感心しながら、またいくつかの場面で描き方に疑問を感じながら、映画を見た。二時間をちょっと超える作品だったが、決して長いとは感じなかった。全体的な印象は、良い映画で、見て満足のいくものだった。
 最後に、感心したところと疑問を感じたところなどに触れておきたい。
 妹尾少年が決していじけず、終始しっかりした男の子として描かれているのが大変良かった。周りの友達の描き方も陰湿でなく、好感が持てた。父親と母親のわが子に対する接し方もよく描けていた。ちょっと教科書的、模範的すぎるような気もしたが、水谷豊が噛んで含めるようにゆっくりと話すのはいいのだが、もっと彼の個性を出して、元不良少年が社会的に更生したといった面が現れるように演技してほしかった。悟りきったようで、落ち着きすぎていたのが、逆に人間的な魅力をなくしてしまったと思う。父親にも時々ガキっぽさが出る場面があれば良かったのにと感じた。ランちゃんも同じで、自分のポリシーを持っているのは良いのだが、控え目に演じすぎていた。時にはもっと強い母親になっても良かったと思う。感情的に抑えすぎているのだ。家庭内では、もう少し喜怒哀楽が出るのが普通だし、あんな平穏な家庭も珍しいのではなかろうか。
 パンフを読むと、降旗監督は、水谷豊と伊藤蘭には演技上の注文を出さず、二人に任せたらしいが、二人の個性を引き出すように演出するのも監督の役目ではなかろうか。父と子の場面で疑問に思ったところが二箇所あった。空襲で焼け野原となったあとに、生死の分からなかった二人が全焼した家の跡地で再会するシーン。一人佇む妹尾少年に父親がゆっくり近づいていくのだが、あそこはわざとそのように演出したと思うのだが、どう見ても不自然。セリフも変だった。息子が生きているのを見て、駆け寄るべきであるし、妻の安否をすぐに尋ねるべきだろう。折れたフォークが出て来たり、焼けたミシンを見せたりするよりも、もっと重要なことをおろそかにしてはダメだ。もう一箇所は、敗戦後、妹尾少年が自信を失くした父親を難詰する場面。水谷豊がずっと黙っているのだが、どうもこのあたりの父親の描き方が中途半端だった。
 この映画を見て、疑問を感じたり、不満を覚えたのは、すべて脇役のからむエピソードの場面だった。うどん屋で働くおにいちゃんが赤狩りで検挙されたり、入隊した女形の役者が脱走して首吊り自殺したり、特高に連れて行かれた父親が拷問されたり、中学の軍事教官が二人出て来て妹尾少年への対応がまったく違ったり、すべて登場人物が類型的で、リアリティを感じなかった。警察官の演技はひどすぎる。あれじゃ、東映のヤクザ映画ではないか。
 この試写会のハガキは岸部一徳さんの事務所アンヌフの佐藤さんからいただいたのだが、一徳さんの役は近所のオジサンで、つまらない役だなあと思った。『上京ものがたり』は、印象的な良い役だったが、『少年H』の役は、妹尾一家とのからみもなく、外野にいる傍観者にすぎなかった。『天地明察』の役もひどかったが、顔見世だけで出演するのは惜しいし、考えものである。

 夕方の5時半過ぎに映画を見終わって、久しぶりに銀ブラをした。新しい歌舞伎座を外から眺める。壁が新しくなって、全体的に白っぽく見える。建物の構えは以前と変わっていない。取り壊して、まったく違った感じの建物になるかと思っていたので、期待はずれだった。もう客足も少なくなったらしいので、今度、中に入ってみようと思う。晴海通りをそのまま真っ直ぐ歩いて、松竹本社ビルを眺め、勝どき橋まで行って、隅田川の日暮れ時の景色を楽しむ。潮のにおいがする。橋の上から眺めると、下流の方にも上流の方にも両岸に高いビルが立ち並んでいて、新しい東京を実感する。私は、進化するモダンな東京も好きだ。築地の鮨屋街を散策する。まだ三、四十軒の鮨屋が営業しているが、どこも中を覗くと、客の数はまばらだった。回転寿司のような安っぽい鮨屋には結構客がいたが、老舗の高級そうな鮨屋はガラガラのようだ。
 築地においしい玉子焼き屋さんがあったのを思い出し、探してみたが見つからず。店の名前も忘れてしまったのだから、分かるわけがない。
 明大前のツタヤで邦画のDVDを4本借りる。ジャス喫茶マイルスへ寄って、1時間半ほどジャズ鑑賞。リー・モーガンの若い頃のアルバムをリクエスト。ほかにジョニー・グリフィン、シェリー・マン、サラ・ボーンなどを聴く。11時頃帰宅。




『精霊流し』、立石散策

2013年08月05日 01時11分54秒 | 日本映画
 8月2日(金)、さだまさし原作の映画『精霊流し』をDVDで見る。10年前の映画だ。もっと良い映画になるはずが、失敗作になってしまったという感じの作品だった。まず、脚本と監督に問題があったのではないかと思う。観客を感動させようという作為が見えすぎてしまうと、観ている方は乗っていけない気持ちになる。原作を読んでいないので詳しくは分からないが、主人公にまつわる大きなストーリーが二つあって、一つは出生の秘密、もう一つは、恋人を兄弟のように育った男に取られ、失恋する話なのだが、どちらも映画を見た限りでは不自然に感じられた。ということは、映画の作り方と演出の仕方がまずかったとしか言いようがない。それと、キャスティング。内田朝陽という主人公の男優に魅力がないのが最大の問題。そして、松坂慶子、田中邦衛、蟹江敬三、彼らの芝居がわざとらしくて良くない。とくに松坂慶子はいつも同じで、私が最も魅力を感じない女優の一人だ。この三人がみな、役に成りきれず、自分の出来合いの演じ方をそのまま出しているだけなので、映画を詰まらなくした。酒井美紀だけが役をしっかり演じて、ずば抜けて良く、この女優は役者として天性の何かを持っていると感じた。彼女の演技を見たのは、この映画が初めてだったように思うが、いい女優だと感心する。高島礼子がまずまず良く、あとは山本太郎が個性的で良かったくらいだ。仁科亜季子(明子)の芸者役はひどく、主人公の次に大事な男役の池内博之という男優がひどい。監督は田中光敏という人だが、見せ所を多くしようというスタンドプレイばかりが目立ち、登場人物たちのドラマが描けないまま、上っ面のストーリー展開だけで終ってしまった。その展開も変に思うことばかりで、いくらなんでも付いていけなかった。

 8月3日(土)、夕方、神保町の一誠堂へ行く。先日、私が発行した映画の本を数冊配達したのだが、閉店後で本を社長夫人に預けたまま、その代金をもらわずに帰って来たので、集金に行った。タンゴ喫茶ミロンガへ寄るが、女店長のかよさんはあいにく休みだった。神保町から御茶ノ水まで歩き、JRで日暮里へ行き、京成線で立石へ行く。車内に浴衣姿の若い女の子が目立つ。花火大会か盆踊りでもあるのだろうか。生まれて初めて葛飾区立石という町に来た。故・内田有作さんの奥さんで、写楽と北斎の研究家である内田千鶴子さんから電話をもらう。「仮面ライダー」のプロデューサーの平山亨さんが7月31日に亡くなったという連絡。お通夜も葬式も近親者だけで済ませたという話。平山さんの身体が相当悪いことは知っていたが、とうとうあの世へ行ってしまった。平山さんと知り合ったのは5年ほど前だが、東映の助監督時代の話を平山さんからはずいぶん伺った。録音を取らず、私の記憶に残っているだけだが、それについてはまたここで書きたいと思う。
 立石駅前でガラクタ屋の伊東幸夫さんに一年ぶりで会う。彼は今、お花茶屋に住んでいて、昭和30年代の面影が立石という町のあちこちに今でも残っていると言うので、探訪に来たわけだ。伊東さんと一時間ほど商店街や住宅街を歩き回る。土曜日の夕方7時頃だったせいか、あるいは廃業したのか、シャッターの閉まっている店も多かったが、いかにも下町のローカルな商店や居酒屋が目立つ。東立石の住宅街には、もしかすると戦前からあったのではないかと思われる古いアパートがあった。誰も住んでいないようだった。原稲荷神社の近くに、廃寺とゴム製作所があり、これも一見に値する建物だった。7時半頃から小さな居酒屋で伊東さんと飲んで話す。伊東さんは、私が企画している映画の実在のモデルなので、シナリオの感想を聞く。ガラクタ屋の実状についてもいろいろ質問をして、話を聞く。3時間ほど飲み屋に居て、10時半頃、店を出る。
 12時過ぎに帰宅。夜中に、DVDでロック・ハドソンとドリス・デイのラブ・コメディ映画『花は贈らないで』(1964年)を見る。監督は『シンシナティ・キッド』『夜の大捜査線』などを撮ったノーマン・ジュイソンだが、馬鹿馬鹿しい作品で、駄作だった。



『上京ものがたり』ほか

2013年07月31日 06時05分22秒 | 日本映画
 7月28日(日)、高田馬場で脚本家の石森史郎さんの誕生会に出席。82歳になって、今なお現役で映画や芝居の脚本を書かれ、小説まで書いている化け物のような人だ。石森さんの誕生会にはこの四年、毎年出席している。石森シナリオ青春塾の生徒さんと昔からのお弟子さんが主催するパーティで、私は弟子ではないが、親しくさせていただいている。この日は、石森さんの大学時代からの親友である映画監督の田口勝彦さんも出席していて、田口さんの前に私が座ったため、ずっと田口さんとお話しする。東映東京の助監督時代のことをいろいろお聞きする。二次会では漫画研究家の本間正幸さんとずっと話す。女流漫画家の上田トシコについて彼にいろいろ教えてもらう。

 7月30日(火)、岸部一徳さんの事務所のマネージャーの佐藤さんから試写会のハガキをいただいたので、今日は京橋テアトルという試写室へ行き、『上京ものがたり』という新作を見てきた。漫画家の西原理恵子の同名自伝小説の映画化で、結構面白く見ることができた。主人公の奈都美(なつみ)を演じた女優が良く、これがこの映画の一番のポイントだったと思うが、私の好みのタイプというわけではないのに、好感が持てた。主人公がほぼ出ずっぱりなので、主人公に魅力がなければこの映画は終わりだったと思う。パンフを見ると、主演女優は北乃きい。変な名前である。私は今の若い女優を五人も知らないが、彼女もこの映画で初めて見た。(宮崎あおいも満島ひかりも先日『北のカナリアたち』を見て初めて知ったくらいの無知度である)この北乃きいという女優、顔も声もデビューした頃の藤圭子にちょっと似ているなと思って、ずっと見ていた。ただし、藤圭子の方がずっと美人だったが。一生懸命、真面目に演じていたのが良かったし、ナチュラルな演技でちょっとブスになったり、とても可愛くなったりで、見飽きないで見ていられた。欲を言えば、あと一つ、愛嬌と茶目っ気があれば最高だったと思う。脇役ではダメな父親役の岸部一徳さんが京都弁でなかなかイイ味を出していた。あと、子役の女の子が大変良かった。主人公の奈都美の恋人役の男優もまずまず良かったが、これは脚本と演出上の問題で、人物としての描き方が生ぬるく、魅力に欠けていたと思う。エレベーターに乗っている掃除婦の役で原作者の西原理恵子が出て来るが、インパクトあり。
 瀬戸朝香は重要な役なのに、良くなかった。顔も演技もきつい感じで、自然な感情表現が出来ない。キャバクラに勤める子持ちの母親役としては不適格だろう。その姉の役をやった女優も演技がやや大袈裟で、見ていて疑問を感じた。主役と子役との心の交流がうまく表されていただけに、この二人のミスキャスティングが余計気になった。瀬戸朝香と姉役の女優が加わると、急にバランスが崩れ、映画が空々しくなってしまうように感じた。監督の演出力にも疑問を感じる。とくに、病院の前の道路に姉が出て来て、女の子を連れ戻すシーンがひどかった。また、瀬戸朝香が死んでも、大した感慨も起らないのは、そこまでに母の娘に対する情愛が描けていないからだろう。
 美大にいるデッサンの上手な女学生もセリフが下手で、とくに「描く描く描く」が棒読みで、もっと変化をつけて言わせなきゃダメだなと思った。
 最近の映画監督は、演出力がないというのか、これだという自分が求めるイメージがないのか、あるいは安易に妥協して役者に任せてしまうのか、もっと登場人物に即した演技というものを追求しないといけないのではないかと思う。
 『上京ものがたり』を見た後、京橋のフィルムセンターへ寄る。清水宏の特集をまだやっていたので、7時から『風の中の子供』を見る。昭和12年の作品。子供たちの生活を描いた素朴な映画だが、監督の作為が目立つところがあり、多少気になる。こういう映画を見て、感動する人もいるかもしれないが、私は子供が主人公の映画というのは、非常に難しいと思っている。もう一本『團栗と椎の実』という短篇も見る。『風の中の子供』と似たような映画。子供も大人もやや類型的で、良く言えば素朴、悪く言えば単純すぎる。
 明大前のジャズ喫茶マイルスへ寄って、ジャズを一時間ほど聴く。LPレコードを昔ながらの音響装置で聴かせてくれる都内でも稀少な場所。四十年以上前、私が浪人時代に行っていたジャズ喫茶で、今でも同じママさんがやっている店である。ウェス・モンゴメリーとウィントン・ケリー・トリオのハーフノートの実況録音盤をリクエストしてかけてもらう。