背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

『の・ようなもの』

2013年08月28日 23時13分38秒 | 日本映画


 森田芳光の初長編映画『の・ようなもの』(1981年)を初めて観た。もう32年前の作品で、彼が映画監督として世間に注目されたデビュー作と言ってもよい映画である。田舎(栃木県?)から上京したと思われるまだ修業中の若手落語家を主人公(伊藤克信)に、その日常生活を描いたちょっぴりペーソスが漂うコメディであった。やりたいことや描きたいことをできる限り表現しようとした森田芳光の実験性と奔放さと斬新さはさすがであり、今観ても大変面白い映画だと思った。デビュー作には、良くも悪くも、映画作家の個性というものが表れるが、森田監督の特長は、観客を意識したエンターテイメント性であり、映像表現の意外性もセリフの面白さも、良い意味での「受け狙い」だと言えるだろう。深刻なことを真面目に描くのは苦手と言うか、多分照れ臭いのだろう。70年安保の世代(団塊の世代)より少し下の彼は、思想とかイデオロギーは胡散臭く、そんなものには不信感を抱いていたのかもしれない。彼の本領は、面白いことへの飽くなき追求であり、深刻な事柄でもドライでユーモラスに表現することであった。
 『の・ようなもの』の出演者も、普通の俳優を使わず、ユニークな顔ぶれだった。この頃すでに人気女優だった秋吉久美子が大胆にもトルコ嬢(ソープ嬢と改称する前だから古い)を演じ、兄弟子役の尾藤イサオは歌手から俳優に転身した頃だったのか。ほかにも懐かしいタレントが揃っていた。漫才の内海好江、将棋指しの芹沢博文、落語家の春風亭柳朝は、故人である。内海桂子、入船亭扇橋はまだ元気なようだ。ほかにも、でんでん、鷲尾真知子、ラビット関根(関根勤)、小堺一機、室井滋、三遊亭楽太郎などが出演していたが、私のように二、三十年ほど時間が止まっている者にとっては違和感がないが、今の彼らの顔をよく知っている人が見たら、昔日の感があるだろう。
 森田芳光が大学(明治大学)の落研にいたことは有名だが、この映画には、落語のネタがいくつか使われ、また落語通ならあの噺のパロディだと分かるような場面もあった。例えば、主人公の志ん魚(とと)が高校生の彼女の家(堀切駅)から夜中に歩いて浅草まで帰るくだりは、「黄金餅」のパクリであろう。タイトルの『の・ようなもの』は、三遊亭金馬の十八番「居酒屋」の中で小僧が酔客に酒の肴を言うセリフ「できますものは、つゆはしらたらこぶあんこうのようなもの」から採ったという。
 なにしろこの映画は、アイディアのてんこ盛りのような作品で、受けようが受けまいが、次から次へとアイディアを繰り出してくるので、終始、目が離せない作品であった。主人公の志ん魚の落語がまったく笑えないところが逆におかしく、秋吉久美子がボディー洗いしたり、兄弟子のでんでんが夜中に迫ってきたり、エロチックな見せ場もあり、人名の固有名詞(例えば、ジャンゴ・ラインハルトの名前が突然出て来た時は驚いた)を使ったセリフも効果的であった。主役の伊藤克信は、言われてみれば確かにアル・パチーノに目と鼻のあたりが似ているのだ。


『世界の中心で、愛をさけぶ』

2013年08月27日 23時48分11秒 | 日本映画


 ほとんど予備知識のないまま観た。長い映画(138分)だったが、飽きることなく見ることができた。現在の男女関係と過去の純愛の回想が交錯するので、最初はなにがなんだか分からず、面倒臭くなって途中で見るのをやめようかと思ったが、途中から盛り上がってきたので、最後まで見ることができた。簡単に言えば、高校の時好きだった女の子が白血病で死んだことをずっと忘れられなかった男が、現在の恋人の行動によって、過去の思い出に正面から向かい合い、やっと心の整理をつけて、現在の恋人との愛を確かめるというストーリーであった。メインの登場人物は、男の主人公が「サクちゃん」こと朔太郎といい、現在を演じるのが大沢たかお、10年ほど前の高校時代が森山未來なのだが、たかだか27歳と17歳の違いなのだから、同じ男優でできないものかと感じた。二人は少し似ているが、どうしても違和感が付きまとった。女の方は、現在の恋人の律子が柴咲コウ、高校時代の恋人の亜紀が長澤まゆみで、この二人は違う人物なので、問題なかった。
 こういう悲恋のラブストーリーは昔はよくあった。女性の観客が泣きながらハンカチをびっしょりにして見る映画である。邦画なら『愛と死をみつめて』(吉永小百合、浜田光夫主演)、洋画なら『ある愛の詩(ラブ・ストーリー)』(アリ・マッグロー、ライアン・オニール主演)が代表作であろう。どちらも若い男女の純愛で、女の方が不治の病にかかって最後は死ぬストーリーだ。『世界の中心で、愛をさけぶ』もこのタイプの映画で、こうした映画が21世紀になって製作され、2004年に大ヒットしたということを知って、私は驚くと同時に、何十年経とうが、悲恋物を好む女心は変わらないんだなと思った。私個人の好みとしては、男が死ぬのはいいが、女が死ぬ映画は苦手である。進んで見たいとは思わない。『ある愛の詩』を高校時代に映画館で見た時は、周りの女性がみんなしくしく泣いているのを感じて、辟易したのを覚えている。女性の観客向けのお涙頂戴的な映画は、どうしても途中でしらけてしまう。
 ところで、悲恋物の原点は、高村光太郎の詩集「智恵子抄」だと思うが、これは夫婦愛で、男も女もかなり年齢が高く、女の病気は結核だった。「智恵子抄」は二度映画化され、テレビでもドラマ化されている。「智恵子抄」のことは、『世界の中心で、愛をさけぶ』の中にも、二度セリフに出て来るので、明らかに作り手が意識していたのだと思う。男の主人公が朔太郎というので、詩人の萩原朔太郎が引き合いに出され、「智恵子抄」を書いた詩人か?というやり取りなのだが、別にこんなわざとらしいセリフを入れることもないと感じた。父親が萩原朔太郎の詩が好きだったので、命名したと言うだけでいいのではないか。
 『世界の中心で、愛をさけぶ』という映画は、ストーリー上、あちこちに奇異に感じる部分はあったものの、高校時代の純愛がよく描けていたし、森山未來と長澤まゆみの熱演で良い映画になっていた。大沢たかおは、ウォークマンを聴きながら、思い出に耽りながら郷里をウロウロしているだけで、画面に出すぎのような気がした。柴咲コウの律子という役は、長澤まゆみ(亜紀)が白血病で入院中に声を録音したカセットを朔太郎に配達する小学生(その母親が同じ病院に入院中)で、この小学生は子役で良いのだが、10年後になぜ律子が、朔太郎の恋人になっているのかが分からなかった。また、最後に録音した亜紀のカセットを、交通事故に遭って朔太郎に渡せず、10年後に律子はこのカセットを聴いて、失踪するのだが、この辺も私には理解できなかった。朔太郎と二人の女性(亜紀と律子)の関係を強引に結びつけようとしているから不自然なのだ。朔太郎の現在の恋人の律子は、彼の昔の恋人で白血病で死んだ亜紀のことを知らず、何かのきっかけで亜紀のことを知り、失踪する設定にすれば良かったのではないか。それと、郷里の写真館の主人として「シゲしい」という中年男が出て来て、朔太郎の親戚らしいが、この役を演じた山崎努に新鮮味がなく、いつもの山崎努そのままで詰まらなかった。
 監督は行定勲(ゆきさだいさお)で、この映画のヒットで一躍メジャーな監督になったらしいが、この監督の映画は、以前『北の零年』のDVDを借りて途中でまで観て、詰まらなくてやめた記憶がある。『春の雪』は予告篇を見たが、本編は未見。『今度は愛妻家』という映画は雑誌「シナリオ」で脚本を読んだことがあり、是非見たいと思っているのだが、ビデオショップにDVDが見当たらない。恋愛映画を作るのが好きな監督のようだが、真面目な人のようで、ユーモアのセンスはなさそうである。映画のテンポもなく、森田芳光とはタイプが違う。その森田芳光が『世界の中心で、愛をさけぶ』で映画監督の役としてちらっと出演していたが、どういう訳なのか分からない。


『間宮兄弟』『阿修羅のごとく』

2013年08月27日 00時44分42秒 | 日本映画
 一昨年の暮に亡くなった森田芳光の監督作品を2本観た。森田芳光の映画は、『家族ゲーム』以降5本ほど見ているが、1990年代から亡くなるまでの映画をまったく見ていなかったので、遅ればせながら、最近DVDを借りて見始めた。この間は『武士の家計簿』(2010年)を面白く観た。



 さて、一本目の『間宮兄弟』(2006年)は、東京のアパートに同居している仲の良い兄弟の話で、この二人の主人公の設定がユニークで面白く、なかなかユーモラスな映画だった。兄弟愛、家族愛の話にラブコメディを加味した作品とでも言おうか。ひと頃「カウチ・ポテト族」という言葉がはやったが、間宮兄弟はいわゆるカウチ・ポテト族で、二人とも美男子ではなく、しかもオクテで恋人がいない。兄はノッポで痩せ型、弟はチビで肥満型。兄はビール工場の研究員、弟は小学校の用務員で、二人とも結婚適齢期の社会人なのだ。そこで、まず兄貴の方に恋人を見つけようと、弟が一役買って、身近なところから二人の女性を選んで、自宅のアパートへ夕食に招待する。一人は、弟が勤めている小学校のオールドミスの女教師で、もう一人は、通いつけのビデオショップの可愛い女店員。実は二人の女性にはそれぞれ男の恋人がいるのだが、夕食メニューの自家製カレーに釣られて、二人ともなぜか招待に応じるところから話が始まる。そのあと、いろいろあって、女教師の方は候補から消え、女店員とその妹が間宮兄弟とペアになりそうな雰囲気で映画は終る。
 『間宮兄弟』の出演者で私が知っているのは、常盤貴子(女教師)、高嶋政宏(間宮兄の同僚)、中島みゆき(間宮兄弟の母)、加藤治子(間宮兄弟の祖母)、戸田菜穂くらいの人たちだった。間宮兄弟を演じたのは、兄が佐々木蔵之介、弟が塚地武雅(ドランクドラゴンというお笑いコンビの一人)、ビデオショップの女店員が沢尻エリカ、その妹が北川景子とのこと。
 原作は江國香織。私はこの女流作家の作品をまったく読んでいない。父親は江國滋だそうだが、彼の落語解説書はずいぶん読んでいるのだが……。



 二本目の『阿修羅のごとく』(2003年)は、向田邦子の原作で、以前NHKで連続テレビドラマがあったそうで、私は何話か見た記憶がある。親父役が佐分利信で、四姉妹の一人がいしだあゆみだったのを覚えている。それはともかく、二十数年ぶりに森田芳光監督が映画化した。いかにも森田作品らしく、シリアスなストーリーがテンポの速いコメディタッチで描かれていた。映画の出来は上々で、135分という長さを感じなかった。
 この映画、女優陣の競演が見どころだった。長女大竹しのぶ、次女黒木瞳、三女深津絵里、四女深田恭子、それに母親役が八千草薫。ほかに桃井かおり、紺野美沙子、木村佳乃といったところ。主役は黒木瞳のように思えたが、若い頃の美しさがなくなって、やや能天気な平凡な主婦役を演じていた。八千草薫が夫の浮気を知っていて知らん振りの落ち着いた母親役で、味わい深い自然な演技をしていた。彼女は老いても十分通用する女優だと思う。私の個人的好みでは、三女の深津絵里が一番良く、地味で冴えない娘から、結婚を境に容貌も心も美しく変わっていく感じをうまく演じていた。男優では、父親役の仲代達矢は相変わらずで、次女の夫の小林薫も役にはまっていた。三女の深津絵里の恋人役が中村獅童で、興信所の調査員だったが、三枚目役をユニークに演じていたと思う。彼はまともな二枚目役より、ちょっとイカれた三枚目役の方が個性が出るように感じるが、この映画ではまだ無理して役を作っている印象があり、もう一皮むければ良くなるように思えた。ただし、この映画はもう十年前の作品で、中村獅童もその後、山あり谷ありで、迷走したようだ。大竹しのぶの愛人役の坂東三津五郎はミスキャストで、恐妻家の浮気男の役はいただけない。
 また、音楽(担当大島ミチル)が良く、場面転換の時に入る音楽が大変効果を発揮していた。

 『間宮兄弟』と『阿修羅のごとく』は、どちらも森田芳光の喜劇的センスと場面転換のあざやかさが目立ち、観ていて楽しい作品であった。


『十三人の刺客』

2013年08月24日 05時59分21秒 | 日本映画


 リメイク版『十三人の刺客』(監督三池崇史)をDVDで観た。
 工藤栄一監督、池上金男(池宮彰一郎)脚本の『十三人の刺客』はこれまで三、四度見ているので、どうしても比較してしまう。オリジナル版はまた見たいと思うが、正直言って、リメイク版は一度見れば十分で、二度見たいとは思わなかった。リメイク版は現代風にアレンジしているが、残酷さとクライマックスの殺陣場面の長さと迫力を際立たせているだけで、感動とはおよそ程遠い映画になっていた。こういう作品はサムライ物のアクション映画と呼んだ方が良いのだろう。アメリカ人の監督でも作れるようなサムライ物で、本質的にはオリジナル版の『十三人の刺客』よりもハリウッド映画の『ラストサムライ』の方に近いように感じた。つまり、アメリカ人が描くサムライであって、日本人(戦前派ないし戦中派)が描く侍ないし武士ではない。
 リメイク版には時代劇のエッセンスが稀薄で、感じられなかった。武士が死ぬということへの美意識が欠如しているうえに、大義名分や忠誠心も描けていない。いや、作り手にそういったものを描こうという意図がなかったと言えるだろう。ストーリーは原作をなぞっているが、三池崇史という若い監督の関心はバイオレンス(暴力)とホラーにあるとしか思えない。前半のおどろおどろしさはとくに醜悪で、明石藩の暴君の残虐ぶりを執拗に描きすぎていた。手足を切り落とされた肉塊のような女を登場させる場面など、グロテスク極まりない。この暴君に嫁を手ごめにされ、息子まで殺されてしまった尾張藩の家老牧野のやり場のない無念さと命がけの報復こそ、『十三人の刺客』の前半の要所なのだが、リメイク版では残虐さを強調するあまり、この一番大切な場面がボケてしまった。それに、家老牧野を演じたのはオリジナル版では月形龍之介で、リメイク版は松本幸四郎だったが、月形の類稀な名演に比べ、幸四郎のあの重みのなさは何なのだろう。明石藩の行列を食い止め、暴君の前に立ちはだかる場面は見せ場のはずだが、気迫も何も伝わってこない。演出にも問題があったのだろう。幸四郎は『天地明察』にも出演していたが、こうした時代劇に出演する必要はないとしか思えない。老中役の平幹二朗も頼りなかったが、倉永左平太役の松方弘樹もわざとらしく、主役の役所広司が予想以上に良かったからこの映画が観られたものの、あとの俳優はテレビ時代劇のレベルにすぎない。
 今の邦画界で、昔のような時代劇を作れと言っても、監督もスタッフも役者も揃わない現代では無理な話なのかもしれない。時代劇が観たければ、戦前から昭和30年代終わりまでの時代劇を再見して満足するしかないのだろう。

『レオニー』

2013年08月11日 11時41分31秒 | 日本映画


 『レオニー』をDVDで観る。2時間を越える長い作品で、彫刻家イサム・ノグチの母親であったレオニー・ギルモアという女性の半生を描いた伝記映画だった。最初の20分ほどで退屈して、途中で何度もやめようと思ったが、最後まで見た。
 この映画は2010年秋に公開された時、出演者の中村獅童さんの事務所から試写会の招待状をいただいたのに、仕事の都合で見に行けなかった。今頃になって見ようと思ったのは、この映画のプロデューサーの永井正夫さんと最近知り合いになって、製作の苦労話を聞いて興味を覚えたからである。
 この映画は評判があまりかんばしくなく、話題にもならずに終ってしまったようだが、映画興行というのは水物で、作品の良し悪しと観客の動員数は一致しないことも多い。いい映画がヒットするとは限らないし、話題性のある映画、動員力のある映画というのは、作品の完成度とは別で、何か観客を引きつける大きな魅力があるかないかにかかっている。映画の全盛期ならば主演スターの魅力や監督の知名度で客が入ったが、今の時代は大スターも大監督も不在。もちろん今でも出演者や監督の人気が動員力の一因になるのだろうが、昔に比べれば雲泥の差である。現代にマッチするような映画自体の内容的魅力や話題性がなければ、客はわざわざ映画館まで足を運ばないにちがいない。
 『レオニー』という映画は、出演者と監督の知名度はともかく、こういう映画を今さら作って話題にする人がいるのだろうかと感じる映画であった。が、それでも、観客が映画を見て感動すれば良いと思うのだが、はたしてこの映画を見て感動した人がいたのであろうか。私は感動するどころか、うんざりしてしまった。主人公の女性は色気もなく地味だし、相手役の中村獅童は役に合わず(詩人で文学者の役はどうかと思う)、波瀾万丈の女性の人生は、ただ伝記の流れをたどっているだけで、事件の羅列的な説明にすぎず、ドラマもなければ、主人公の苦悩も何も描けていない。映像的な見てくればかりに頼って、中身の稀薄な作品だった。監督・脚本とも松井久子という人で、いわば「女の一生」といった大作に挑むだけの力量がないまま、独りよがりの映画を作ってしまったとしか私には思えなかった。原作はドウス昌代が書いたイサム・ノグチの伝記とのことで、松井さんという人はこの伝記を読んで感動し、イサム・ノグチの母親の生涯をどうしても映画化したいという情熱に取りつかれてしまったのだろう。聞くところによると、7年か8年かけて映画化を実現したそうで、彼女のすごい情熱は賞賛に値すると思うが、映画は出来たもので評価される。ヒットしなくても映画の出来が素晴らしければ満足できるだろうが、いかんせん『レオニー』は作品的に佳作のレベルにも達していなかった。
 脚本、キャスティング、演出、すべてに問題があったと思う。人が情熱を傾け一生懸命作った作品を酷評するのは、できるだけ控えたいと思うが、もうすでに酷評してしまったかもしれない。最近、私自身が映画を作ってみようと思っているので、失敗作を見ても腹が立たず、真面目に作っている映画は最後まで見て何が悪かったのか冷静に分析するように心がけている。
 脚本について言えば、多くのことを描きすぎて、メリハリがなかったと思う。あれもこれもと欲張りすぎて、結局何も描けないまま終ってしまった。主眼は、レオニーの野口米次郎に対する愛情の変転なのだろうから、そこを中心に描くべきだった。まずレオニーがなぜ野口を愛したのかがよく分からない(逆も同じ)。レオニーが野口の詩を読んで、才能を感じ、それで日本人の野口を愛するようになったといった程度では、納得がいかないのだ。レオニーは娼婦でもないし、インテリにコロッとだまされるような軽薄な女でもないのだから、野口という男の個性に惹かれて彼を愛するようになったはずである。あの時代、アメリカ人の女性が日本人の男を愛し、子供まで作るというのは大変なことだったと思う。だから、二人が愛し合う出発点をしっかり描くべきだった。ここを描かずして、その後の愛情の変転も何もあったものではない。また、相手役の野口米次郎の人物像はまったくつかめないままだった。脚本に人間が描けていないが最大の欠陥であるが、この役をなぜ中村獅童が引き受けたのかも不可解。最初からこの人物は魅力がなく、彼は何度も登場するが、言葉も行動も矛盾が多かった。監督がこの人物をつかんでいないのだから、見る方が首をかしげるのは当然だと言えよう。