Senboうそ本当

広東省恵州市→宮崎県に転居。
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神武東征を検証したところ・・・

2021年01月19日 | 宮崎の観光情報

古事記の内容について、どこまでが史実でどこまでが創作なのかは諸説あります。中でも私の最大の関心事は『神武東征』。初代天皇(神武天皇)が宮崎から近畿地方へ移住して、大和朝廷を興したという話。宮崎県民の一人としても気になる。史実なのか?作り話なのか? 宮崎を捨てて近畿地方へ移住した本当の理由は? 古事記によると“東征”と言いながらも、実際に組織された兵力はしょぼかったらしいです。しかも年月を無駄に費やしてる。関連図書をいろいろ調べてはみたけれど、決定的な情報は見つかりませんでした。以下に私がナルホドと感じた記述を紹介します。

 

 また、この遠征事業の目的地についても、記紀の伝承では最初から畿内大和となっているが、東征の流れを改めて見てみると、神武の軍勢が畿内に到達するまでに、安芸の国たけりの宮(広島県安芸郡府中町?)に7年滞在し、その後吉備の国高嶋の宮に8年駐留したと記述されており、これらの滞在の意味する所を類推してみると、如何に少人数とはいえ、畿内とは無関係の場所に一軍を長期間駐留させる必然性についての疑問が生じるのである。
勿論、計15年の滞在は誇張であるとしても、両地に夫々1年以上留まったのが事実だとした場合、その長期駐留には何か別の理由があったと考えるべきではないか。(ちなみに、出征時の神武は45歳であったとされており、記紀の記述だと畿内に達した時、既に還暦を迎えていた事になる)一つの仮定として、本来は中国地方への入植を意図して遠征したものが、種々の事情でそれが不可能となったが為に、仕方なく東へ東へと移動してゆき、最終的に大和の地を征したとも想定できるのである。

日本古代史 シロウト談義 第三章 : 日本古代史の流れ - 古代日本の王朝の変遷について - 『神武東征』の検証 より (著作者 富山 至)

 

 

神武軍が邪馬台国の正規軍であるなら、長髄彦(ながすねひこ)に敗れた後は一旦、本拠地に帰るか、少なくとも摂津か播磨などの西方に一歩退いて態勢を整え、本国からの後援をまって新たな戦を起こせばよいものをそうはしていない。神武は少数の兵力で紀伊迂回を行い、側面から長髄彦を突く奇襲戦術をとっている。これが、邪馬台国の王や将軍の率いた軍勢とはとうてい思われない。神武はせいぜい一部隊の長という描写であって、後援・後続の軍隊の派遣もまったく見られないのはどうしたものだろうか。

「神武東征」の原像 邪馬台国東遷の是非 より (宝賀 寿男 2006年 青垣出版)

 

 

 ところが正史『日本書紀』は、日本の建国を中国に劣らず古くするため、初代神武天皇の即位を紀元前六六○年に設定したので、神武天皇より古い時代の卑弥呼の実像は、神代のアマテラス大神と重ね合わせて神話の世界に棚上げし、三世紀の邪馬臺国の時代に神功(じんぐう)皇后という虚像を置いて卑弥呼・臺与の二役を担わせることにより、中国史書との整合を図ったのである。

邪馬台国・日向への道 神武の系譜 より (山田 昌行 2007年 鉱脈社)

 

天皇家のルーツの神聖さを強調したいのなら、苦労しながらわざわざ辺境の「膂宍の空国(そししの むなくに)」と蔑視した日向から遠征したとも、また、後世になって「野蛮人」として卑しめた隼人の地に降臨し、隼人の娘と結婚して子孫に隼人の血が入っていることなど、書かなくてもよかったはずである。ニニギを大和の三輪山にでも降臨させ、そこから発展したことにすればよかったはずである。
 しかし、そう書けない事実、消しがたい強烈な印象で、「日向出発」と語られる神武東遷伝承があった。神武東遷に隋伴してきた家臣団は近畿大和に定住して有力な氏族となり、その子孫もたくさんいた。東遷の伝承は、代々、口承や何らかの文字記録で伝えられ、『記』『紀』編纂時の有力氏族に記憶として、あるいは記録=本辞として、残っていたことであろう。

邪馬台国・日向への道 神武東遷の動機 より (山田 昌行 2007年 鉱脈社)

 

※姶良(あいら)カルデラの爆発も影響した? 神武天皇の東征が紀元前60~70年頃だとしたら、そのころ鹿児島県の姶良カルデラで大規模な噴火があり、鹿児島を中心とする南九州はとても人の住める状況ではなくなったとか。

 

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1 コメント

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Unknown (名無し)
2024-02-28 10:46:22
日本の歴史を改竄したのは、中国の属国とは見られたくなかった思惑があったようてす。
ナガスネヒコは、孝元天皇の御子であり大彦です。物部勢力に押され北陸を伝って逃れていった経緯があります。
四道将軍との肩書がありますが、息子の武渟川別命(東海道将軍)と北へ北へと戦いに敗れて落ち延びてます。出雲系(縄文系)は、そうして滅ぼされました。
結果、青森までこの子孫は落ち延び十三湖(富家が由来・十三でトミ)で安藤氏となります。
神武天皇は五十猛の御子で丹後から畿内に進出したアメノムラクモ、海部氏です。神武東征は、宇摩志麻遅命がオオタタネコ(八咫烏)に導かれ畿内に入りました。初代大王の功績を物部の歴史にしたようです。
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