1990年(平成2年)、都内S区の某・パチンコ店内でパッキーカードを買うバブリーな若い女性の図(画像をよく見ると、店名も分かるw)。90年4月からパチンコ歴がスタートした私にとって、この時代のホールの雰囲気は、たとえパッキーであっても「郷愁」を覚える。
シマ端のカード券売機、見本カードの配色(初期のパッキーは、上下の色分けがなく単色)、女性の化粧、服装、髪型など、色々な部分に「時代」を感じる。券売機上のドル箱も、どこか古臭い。
青いカード(右から4番目)は3000円券だろう。で、一番右の黄色っぽいのが10000円券。万券カードを買う事など、滅多になかったが。万券カードでもキッチリ1万円分の度数しかなく、テレホンカード(←死語)のような「プレミア」は付かなかった。その代わり、使用済みカードが1万円分以上溜まると、クジを引いて景品を貰える店もあった。この数年後、「偽造カード」問題が深刻化して、5000円以上の高額カードは使用停止となる(その後、購入店舗以外でのカード使用も禁止に)。
コチラも同じ時代(1990年12月頃)、パッキー券売機に群がるムサ苦しい男どもの図(笑)。やはり、カードの色は初期型の「単色タイプ」だ。
90年4月のパッキー導入当初は、「1000円」「3000円」「5000円」「10000円」の4種類があり、客やホールの要望により「2000円」券が追加され、5種類となった。
ただ、ホールによっては、左端の1000円券をいつも「売切れ」にして、2000円からしか購入できない、というケチな所もあった。
「パッキーカード」のネーミングだが、幸運を意味する「ラッキー」や「ハッピー」を、「パチンコ」と組み合わせて作った造語「パッキー」に由来する。これを、アルファベットで「PAQY」と表記した訳だ。
カード発行元は、ご存じ「日本レジャーカードシステム」(日本LEC)。高額なシステム導入料や月利用料、カード負担料の問題、K察OB天下りなどの癒着、偽造カード問題などで、後に批判の矛先が向くが、当初は「夢のある新システム」の管理組織として注目された。勿論、この時期からプリペイドカード制度に警鐘を鳴らす関係者もいたが…。
パッキーのルーツをたどると、1986年(昭和61年)に「一店舗内でのみ使えるハウスカード」(西陣「パラカード」など)が宮崎のホールなど一部で導入された事が、誕生の契機となった。
暴力団との癒着や脱税が問題となっていた折に、経理の透明化や財務の健全化、そしてユーザーの利便性向上など、カード導入によって多くのメリットが生まれるとされた。
これがパッキー導入時の大きな「根拠」となったが、その後もホールの脱税などは絶えず、システム導入が当初の目的を果たしたかは、大いに疑問である。
ホール経営側からみても、当初は店舗別の「ハウスカード」構想とされていたものが、いつの間にか官僚や政治家、大手商事、通信会社、カード管理会社等を巻き込んだ「共通カード」構想へと変わった事に、違和感を覚えた店は多かったという。
ちなみに、パッキー導入に関しては、古いタイプのワンマン経営者と、新しい企業型経営を目指す後継者との間で、経営方針を巡って対立が起きていたともいわれる。この問題を映画化したのが、1990年6月に公開された松竹映画「パチンコ物語」(主演:古尾谷雅人、共演:財津一郎ほか)だ。公開時の評判は、残念ながらイマイチだったようだが、今や貴重な「歴史資料」である。興味ある方は、アマゾンなどで中古VHSを購入してみては如何だろうか。高田純次扮する釘師がクラッシックカーで営業後のパチ屋に乗り付けて調整する場面など、何気に見どころも満載だ。
1990年4月のパッキー導入開始時は、現金機の「旧要件機」全盛の時代であり、CR機(=カードリーダー、かの「ゴト師株式会社」では「カードリーディング」と表記)はまだ存在しない。16ラウンドの新要件機すら、発表されていない頃だ。
当初は、シマの端でパッキーを購入し、それを台間の専用玉貸機に挿し入れ、玉貸ボタンで玉を借り、玉取出し口から出た玉を手に取り、上皿にジャラッと乗せる(以下、カードがなくなる度にこの繰り返し)、という原始的な方法だった。そして、新要件期の1991年に入ると、玉貸機と上皿とを直接結ぶ、半自動補給の「レール」を付けるホールもチラホラ現れた。
一方、遊技台付属の玉貸ボタンを押すと、上皿の奥から直接500円分の玉が出てくるCR機は、1992年8月になってようやく登場した(京楽「CRフラワーショップ」など、6社6機種が同時発表)。
旧要件時代といえば、100円や500円の小銭で玉を買っていた頃だ。そんな中、「最低でも1000円が必要で、余った度数のお釣りも出ない」カードを購入する事は、当然抵抗も大きかった。その為、当初は500円分の「お試しカード」も出回った。真新しいパッキーカードを買い、8R継続の古いハネモノを打つのは、何となくアンバランスだった。
1990年4月に、首都圏11店舗が導入を開始したパッキーは、2か月後の同年6月に19軒、同年12月で30軒超と、ジワジワと勢力を拡大していく。ただ、そのペースは遅く、ホール全体の割合からみれば、パッキー導入店は非常に少数であった。
このスローペースは、「CR花満開」(1993年5月)の登場まで続く。そして、かの「ダービー物語事件」(1993年10月)を契機に、カード導入の流れが急速に早まった事は、レトロファンなら誰もが知るところであろう。まさに、お上の意のままに・・・である。
なお、1990年12月の時点(導入開始から8ヶ月)で、首都圏でパッキーを導入していたホールは、次の通り。皆さんが馴染みだったホールの名前は、入っているだろうか。これらはカード導入店の「ハシリ」だが、やはり資金面の負担などもあって、有名チェーンの名が多く並ぶ。
・ピーアーク溝の口(神奈川・川崎市高津区溝の口)
・宇宙センター錦糸町店(東京・墨田区江東橋)
・宇宙センター西新井東店(東京・足立区梅島)
・宇宙センター西新井西店(東京・足立区西新井栄町)
・宇宙センター流山店(千葉・流山市駒木台)
・宇宙センター新田店(埼玉・草加市新田)
・パチンコやすだ2号店(東京・板橋区大山)
・パチンコやすだ7号店(東京・豊島区東池袋)
・パチンコやすだ9号店(東京・豊島区東池袋)
・パチンコやすだ11号店(千葉・稲毛市※小仲台)※現・千葉市稲毛区
・パーラー日拓高田馬場店(東京・新宿区高田馬場)
・パーラー日拓稲毛店(千葉・稲毛市※小仲台)※・現・千葉市稲毛区
・日の丸パチンコ都立大店(東京・目黒区中根)
・日の丸パチンコ広尾店(東京・渋谷区広尾)
・日の丸パチンコ中目黒店(東京・目黒区上目黒)
・日の丸パチンコ五井2号店(千葉・市原市五井柳前)
・日の丸二号館(千葉・市原市姉ヶ崎)
・ジャパンニューアルファ藤沢店(神奈川・藤沢市亀井野)
・ジャパンニューアルファ相模原店(神奈川・相模原市下九沢)
・ジャパンニューアルファ相模原南店(神奈川・相模原市相模大野)
・ダイナム日立店(茨城・日立市金沢町)
・ダイナム亀有1号店(東京・葛飾区亀有)
・ミナミ六本木店(東京・港区六本木)
・三益球殿相武台店(神奈川・相模原市相武台)
・金時新宿ホール(東京・新宿区歌舞伎町)
・アクア90(東京・中央区月島)
・東横十番館(神奈川・横浜市戸塚区川上町)
・パーラージアス新百合ヶ丘(神奈川・川崎市麻生区)
・グランドホール長後(神奈川・藤沢市長後)
・ツバメ溝の口(神奈川・川崎市高津区溝の口)
新宿・歌舞伎町の「金時」に、溝の口の「ツバメ」…今はなき「戦場」の名を目にすると、実にノスタルジックな気分になる。
「ツバメ」といえば、アーケードの「ヤストモショッピングセンター」の出口、東急溝の口駅の階段前で営業していた店だ。、駅再開発によって、残念ながら消滅してしまった。この当時、溝の口エリアでは、ピーアークとツバメの二店舗がパッキーを早々に入れていた。ピーアーク溝の口は、かなり早い段階でパッキーを導入し、ツバメが後を追いかけた形だ。
「金時」や川崎の「ジアス」は、導入当初はパチスロコーナーのみパッキー対応だった。「ジアス」では、1000円のカードを買って、500円分の度数で25枚のコインを買う事も出来た。当時のジアスは、コンチネンタルとサファリラリー、それにスペーススペクターなんかを置いていた。サファリラリーの「1枚掛け・小役抜き」で店員に手厳しく怒られたのも、あの店だった。歌舞伎町の風俗店が並ぶ路地沿いの「金時」には、アラジン、クレイジーバブルス、ムサシにワイルドキャッツが並んでいた。90年暮れに新規オープンしたと思ったら、二年持たずに閉店してしまったが…。
高田馬場の日拓も、当初は地下フロアだけがパッキー対応になっていた。90年当時は一発台の「ベータ」なんかも置いてあり、財布の中身はおぼつかないのに、「3000円1本勝負!」てな感じでパッキーを買って打った覚えがある。
1990年の12月といえば、東日本のパッキーカードに続き、西日本エリアでもプリペイドシステムの「パニーカード」が導入された時期だ。確か、導入1号店は兵庫県のホールだったハズ。その他、ジャッキーカード(1996年~)、「ナスカカード」(1996年~)、「JCSカード」(1996年~)など多くのカードシステムが登場したが、これらについては別の機会に触れる。
何だかとりとめのない記事になってしまったが…二枚の画像から、何とか内容を膨らませたつもりだ。パッキー導入当時の状況など、多少は参考になる部分もあろう。駄文に最後まで付き合って頂いた事に、感謝したい。
警察ざたにするパチ屋もパッキーゴトでは損失はなかったはず何でだろ?。
管理人さんパッキー(ゴト)についての追記事出来たらお願いします。
利権の為に無理矢理システムを導入させる辺りはバブル時代の流れですかな(^_^;)
僕的にはCR花満開打った位しかメリットを思い出せないですね。
パニーとパッキーの互換性もありましたっけ・・記憶が薄いのはトシだからかな・・><
パチンコ玉は200円単位で買っていた時代の人なので、2000円単位とかあり得なかったです。
データランプにはもう、回転数表示が付いていたのでしょうか?この辺もいつ頃から付き始めたのか、イマイチ記憶が定かではありません。結構後の時期まで、カウント機を持ち歩いていましたから店によっても全然違っていたのでしょうね。