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広島東洋カープ、リーグ優勝おめでとうございます

2017-09-19 01:15:16 | 雑記

プロ野球セ・リーグ。広島東洋カープが2年連続のリーグ制覇を達成しましたね。

 

古くからファンを続ける一人として、これほど嬉しいことはありません。最高です。

緒方監督、選手やスタッフの皆様、そしてファンの皆様、本当に有難うございます。

そして、自らもカープファンとして、心から「おめでとうございます」の言葉を

贈りたいです。本当に良かった。強かった。チーム力が、頭一つ抜きんでていた。

 

2年連続のリーグ優勝は、チームとして実に「37年ぶり」の快挙となります。

ひところ低迷期もあったカープでしたが、若手選手が実力をグイグイつけていき、

年を追うごとに選手層も厚みを増していった感じです。そして、エルドレッドや

ジョンソンを始めとする外国人選手の活躍。さらにベテランや中堅も見事に機能

して、チームとしての歯車が巧くかみ合い、それがここ数年で結実したという

感じがしますね。今後しばらくは、現在のようなカープ最強時代が続くのでは

ないでしょうか。穴らしき穴が見つかりません。しいて言えば投手力の安定性を

増すことでしょうか。

 

ところで37年前の昭和55年、カープはチーム初のリーグ連覇を成し遂げました。

野手では山本浩二、衣笠祥雄、水谷実雄、高橋慶彦、ジム・ライトル、水沼史郎、

木下富雄といった主力級メンバーが活躍。一方の投手陣も、福士敬章、山根和夫、

北別府学、池谷公二郎、江夏豊などが台頭。今振り返っても、実に錚々たる布陣。

それを適材適所に配して見事な采配を振るう、名将・古葉竹識監督の辣腕も光り

ました。まさに、第一次カープ黄金期ともいえる主役たちでしたね。打ってよし、

守ってよし、走って良し、投げてよしで安定した強さを見せつけ、周囲の誰もが

認める「最強」の時代を築きました。

 

それまでミーハーな巨人ファンだった在京(神奈川)の私も、この「赤ヘル旋風」の

影響を大いに受けて、この1980年をもってカープファンに「鞍替え」したクチです。

当時は小学3年生ごろ。それまで愛用していた真っ黒なジャイアンツ帽を脱ぎ捨てて、

地元オダキューOXの2F、階段脇のスタンドに掛けてあった赤い広島帽(バッジ付)を、

母にせがんで買って貰ったのです。因みに、このオダキューの2Fは婦人服なども置いて

あって、当時かなりのマセガキだった自分は、服や下着を着けたマネキン人形を下から

覗き込み、女性店員に思いっきり注意された事があります(全く自慢にならないね)。

 

ただ、学校でカープ帽を被る同級生は意外と少なくて、正直言ってやや浮いていました。

「カープ旋風、赤ヘル旋風」といっても、それはやはり地元・広島が中心の現象であり、

その余波が我々の住む首都圏エリアの大人世代や高校生、中学生に届いていましたけど、

我々のような小学低学年世代だと、巨人や西武、日ハムといった人気選手を多く擁する

在京チームが、まだ人気の中心でしたからね。近鉄とか阪急の帽子を被る子も多かった。

クラスで一人だけカープ帽で浮いていた私ですが…あ、一人じゃなかったな。もう一人、

同級生で仲の良かった女の子のUさんも、毎日カープ帽で登校してました。でも、彼女は

熱心な広島ファンという訳ではなくて、お兄さんの「おさがり」を被っていただけですが。

彼女とはやたらウマがあう感じで、同じカープ帽を被っていた連帯感もあって、卒業まで

仲良しでしたね。恋愛うんぬんではなくて、気のおけない友人でした。6年間同じクラス

だったなぁ、Uさん。卒業以来全然会ってないけど、元気でいるかな。足の速い子だった。

 

それはともかく、この時代の強いカープに強い憧れを抱いていた私。普段はTV画面を

通して試合の応援をしていましたが、どうしても生でゲームを見たい気持ちが沸いて、

カープの試合に連れて行ってくれるよう、父に頼み込んだ事があります。1981年の話。

その甲斐あって、同年6月某日、後楽園球場で行われた巨人-広島戦に、家族で観戦に

訪れたのです。まだ、東京ドームなんてなかった頃の水道橋。いつもは少数派で多少

気後れ感のあったカープ帽も、この時ばかりは誇らしげに被ったことを思い出します。

人生初の「生カープ」、ドキドキしました。陣取ったのは、3塁側内野応援席(レフト

スタンドの近く)。ただ、今とはちょっと状況が違って、在京のカープファンはまだ

それほど多くはなくて、スタンドも「広島ファンでギッシリ」ではなかったのです。

周りを見ると、内野も外野も巨人ファンばかりの状況。やはり在京で肩身は狭かった。

 

それを露骨に象徴していたのが、試合開始前の時間に行われた「応援合戦」です。

この時代、試合が始まる前にファン同士で相手チームをディスりあう、いわゆる

「ヤジコール」の応酬というのを必ずやっていたんですね。昭和テイストですな。

しかも、ただ無秩序に野次るのではなく、「ドドン、ドドン、ドンドンドン!」

という太鼓や手拍子の調子に合わせて、リズムよくヤジの文句をぶつけるのです。

まぁ、分かり易く言えば、「お前の、母ちゃん、でーべーそー」のリズムですな。

格調高い表現を使えば、「七五調」。まぁ、思いっきり格調は低かったけどね。

 

で、これをライトスタンド⇒レフトスタンドの順で、延々と叫び合った訳です。

一応「野次る中にも礼儀あり」で、先攻⇒後攻と互いに順番を守っていました。

互いの悪口を言うのですから険悪なムードになる気もしますが、当時決して

そんな感覚はなくて、逆に微笑ましい程の一体感が両スタンドにありました。

 

もちろん、この試合でもカープの応援団側から、ライトスタンドに向かって

様々なヤジを飛ばしましたが、残念ながら、全ての内容は覚えていません。

それでも、ワンフレーズだけ、36年経った今でも記憶に刺さっているのが、

「巨人の ハッピは よーしのやー!巨人のハッピは よーしのや~!!」

というヤジ。これを、近くで指揮する応援団長のお兄さんの言われるがまま、
 
声をからさんばかりに、一塁側の巨人ファンに向かって怒鳴ってましたね。

通訳すると、オレンジ色したジャイアンツ応援団のハッピ(法被)が、牛丼の
 
吉野家の店員の格好に似ている…という風に、相手をからかった訳ですな。
 
しかし、すかさずライトスタンドのジャイアンツ大応援団から帰ってきたのが、

「聞こえない!聞こえない!!」の大合唱(「ドドンガドン!」のリズムで)。
 
ネタはまあまあだったが、元気が無さすぎた…。まぁ、圧倒的に数では負けて
 
ましたからね…それに、試合前なので客の入りが少なくて、コチラの応援団の
 
頭数が十分に揃っていなかった。ライトスタンドの方は巨人ファンで最初から
 
超満員だったけどね。まぁ、この応援合戦では、試合前に完全に決着がついて
 
しまった感じでした。子供ながらに、随分悔しい思いをしたのを覚えています。
 
 
しかし、肝心の試合ではカープが投手、打線とも大変好調で、先発のエース
 
山根和夫が投打にわたる大活躍を見せて(糸を引くような右中間の2塁打
 
とか打ったんだよな。カッコ良かったな、山根…)、見事8-2でカープの
 
快勝となりました。ヤジでヤラれた分、嬉しかったなぁ。巨人・先発の
 
浅野投手をガンガン打ち込み引きずり降ろすなど、会心の勝利でしたね。
 
 
そういえば、当時のカープには「高橋」姓の選手が二人いたんですけど
 
(野手の高橋慶彦と投手の高橋里志)、後楽園のセンター電光掲示板の
 
打順表示には、高橋(慶)ではなく「高橋よ」とひらがなで表記されて
 
いたんです。子供ながらに「「よ」とはなんだ、「よ」とは。僕は高橋
 
慶彦選手のファンなんだ、ちゃんと「慶」と書け!」と勝手にムカついて
 
ました。細かいドット表示の効かなかった当時ならではの出来事ですが、
 
あれは手抜きにしか見えなかったな…。高橋よ。
 
 
 
それにしても、ホントあの頃のカープは強かったな。まさに、その再来が
 
今という時期もしれません。エルドレッドに当時のライトルが重なったり…。
 
(左右逆ですけどね。顔も全然違うけど、存在感という意味では似ている)。
 
後は、今の「緒方時代」が出来るだけ長く続いて、いずれ「古葉」越えを
 
果たして貰いたい、なんて期待しています。まずはCSを無事突破、そして
 
来たる日本シリーズでは念願の日本一に向け、邁進して下さい。ガンバレ、
 
広島東洋カープ。

 

 

では、今回はこの辺で。駄文、長文失礼しました。

 

(広島東洋カープ、リーグ優勝おめでとうございますの項、了)