巨深に併合された柱谷と賊学は、泥門から海を隔てて、北と南の最も近い
隣国だった。国の豊かさは泥門と比べればそれほどでもなかったが、軍事
力においてはかなりの定評があり、それぞれ泥門とは、友好国という程の
間柄ではなかったが、貿易などで一応の交流はあったし、軍事的には不可
侵条約を結んでいた。柱谷と賊学が存在するおかげで、泥門は海岸線の
警備や、水軍の増強にそれほど気を回さなくて済んでいたと言ってもよい。
しかしそれらの頼もしき二国家が、巨深の軍門に降ってしまった。となれば、
次に狙われるのは泥門である。巨深は南北それぞれの中小国家群に、
その中の雄とも言うべき柱谷と賊学を倒すことで、自分達の実力を見せ
つけて牽制し、泥門攻略に専念出来るようにしたのである。
泥門を足場にして、巨深の名を世界に轟かせたい─壮大な野望を胸に、
数年で民族を一つにまとめあげた若き実力者の名は“カケイ”。その名前
の音を大陸の文字に当て嵌め、「筧」の文字と畏怖の念をもって呼ばれる、
眼光鋭い美丈夫である。また彼の野望を実現化するにあたり、最大の強み
は“ミズマチケンゴ”という、筧に見出され、戦場に於いてその勇が止まる
ところを知らぬ、金色の髪の巨漢であった。大陸の文字では「水町健悟」
と表され、その戦いぶりと目立つ髪から黄金の獅子にも例えられていたが、
普段は大層人懐こく呑気な男であった。
・
・
・
時の泥門国王は、決して暗君ではなかったが、穏やかな気性が災いしてか、
やや優柔不断のきらいがあった。それ故に時として、国内の勢力ある貴族
達のよいようにされてしまうこともあったが、彼にも最低限の譲れない一線
はあったことと、見聞を深める為、諸国を遊学中の皇太子・蛭魔が、時として
フラリと帰国しては、その才智を遺憾無く発揮し、それらの権臣達の企みを
粉砕していたので、完璧ではないにしても、これまでの泥門は一応の平和
と繁栄を維持してきたのである。だが、今回の巨深の侵略は、彼らにとって
は絶好のタイミングで、泥門という国にとっては最悪の時期に始まった。
即ち─皇太子不在時の国王崩御である。
国王という枷が無くなり、目の上の瘤である皇太子は遠い異国の地。王族
の中には、一時的にでも執政を務められるような器量を持つ者─ましてや
奸臣達の企みを抑え込める者は一人もいなかった。泥門はすぐさま大貴族
達の支配下に置かれてしまう。
新たな支配者達の頭の中を占めるのは、巨深が王都に迫るまで、或いは
皇太子が帰ってくるまで、可能な限りの搾取をして他国に亡命すること。
彼らに愛国心などというものは欠片もなく、あるのはただ薄汚い欲望だけ
だった。
泥門が小国というのは、大陸上繋がっている、他の三大国家に比べればと
いう話で、南北の海上に無数に存在する国々と比較すれば、結構な広さの
領土を持っていた。いくら巨深が力をつけてきたとは言え、所詮は海の民。
陸に上がってからもその勢いを維持することは難しかろうし、ましてや地の
利も無い。適当に軍隊を派遣しておけば、王都に居座る時間はまだまだ十
分にある……これが貴族達の読みであった。
確かに、ある意味でその読みは当たっていた。軍の大半を構成する庶民出身
の兵士達が、皇太子が帰ってくるまでは何としてもと、悲壮な決意の下、高い
士気をもって勇敢に戦っていたからである。瀬那も、そんな中の一人だった。
瀬那は本来、気弱と言ってもよいくらいの心優しい少年だ。幼い頃から他の
子ども達にいじめられては、幼馴染のまもり、鈴音、モン太に庇われていた。
争いを厭い、他者に対して手を上げたことすらない彼が、それでも今回の戦い
に身を投じる決意をしたのは、時には乱暴ともいえるやり方ではあったが、彼
なりの愛情表現で瀬那を可愛がってくれた皇太子への恩返し、そして……
一年に一度だけ、東の隣国・王城からやってくる使節団に随行してくる騎士、
進に、二度と会えなくなるかもしれぬという恐怖からであった。
隣国だった。国の豊かさは泥門と比べればそれほどでもなかったが、軍事
力においてはかなりの定評があり、それぞれ泥門とは、友好国という程の
間柄ではなかったが、貿易などで一応の交流はあったし、軍事的には不可
侵条約を結んでいた。柱谷と賊学が存在するおかげで、泥門は海岸線の
警備や、水軍の増強にそれほど気を回さなくて済んでいたと言ってもよい。
しかしそれらの頼もしき二国家が、巨深の軍門に降ってしまった。となれば、
次に狙われるのは泥門である。巨深は南北それぞれの中小国家群に、
その中の雄とも言うべき柱谷と賊学を倒すことで、自分達の実力を見せ
つけて牽制し、泥門攻略に専念出来るようにしたのである。
泥門を足場にして、巨深の名を世界に轟かせたい─壮大な野望を胸に、
数年で民族を一つにまとめあげた若き実力者の名は“カケイ”。その名前
の音を大陸の文字に当て嵌め、「筧」の文字と畏怖の念をもって呼ばれる、
眼光鋭い美丈夫である。また彼の野望を実現化するにあたり、最大の強み
は“ミズマチケンゴ”という、筧に見出され、戦場に於いてその勇が止まる
ところを知らぬ、金色の髪の巨漢であった。大陸の文字では「水町健悟」
と表され、その戦いぶりと目立つ髪から黄金の獅子にも例えられていたが、
普段は大層人懐こく呑気な男であった。
・
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時の泥門国王は、決して暗君ではなかったが、穏やかな気性が災いしてか、
やや優柔不断のきらいがあった。それ故に時として、国内の勢力ある貴族
達のよいようにされてしまうこともあったが、彼にも最低限の譲れない一線
はあったことと、見聞を深める為、諸国を遊学中の皇太子・蛭魔が、時として
フラリと帰国しては、その才智を遺憾無く発揮し、それらの権臣達の企みを
粉砕していたので、完璧ではないにしても、これまでの泥門は一応の平和
と繁栄を維持してきたのである。だが、今回の巨深の侵略は、彼らにとって
は絶好のタイミングで、泥門という国にとっては最悪の時期に始まった。
即ち─皇太子不在時の国王崩御である。
国王という枷が無くなり、目の上の瘤である皇太子は遠い異国の地。王族
の中には、一時的にでも執政を務められるような器量を持つ者─ましてや
奸臣達の企みを抑え込める者は一人もいなかった。泥門はすぐさま大貴族
達の支配下に置かれてしまう。
新たな支配者達の頭の中を占めるのは、巨深が王都に迫るまで、或いは
皇太子が帰ってくるまで、可能な限りの搾取をして他国に亡命すること。
彼らに愛国心などというものは欠片もなく、あるのはただ薄汚い欲望だけ
だった。
泥門が小国というのは、大陸上繋がっている、他の三大国家に比べればと
いう話で、南北の海上に無数に存在する国々と比較すれば、結構な広さの
領土を持っていた。いくら巨深が力をつけてきたとは言え、所詮は海の民。
陸に上がってからもその勢いを維持することは難しかろうし、ましてや地の
利も無い。適当に軍隊を派遣しておけば、王都に居座る時間はまだまだ十
分にある……これが貴族達の読みであった。
確かに、ある意味でその読みは当たっていた。軍の大半を構成する庶民出身
の兵士達が、皇太子が帰ってくるまでは何としてもと、悲壮な決意の下、高い
士気をもって勇敢に戦っていたからである。瀬那も、そんな中の一人だった。
瀬那は本来、気弱と言ってもよいくらいの心優しい少年だ。幼い頃から他の
子ども達にいじめられては、幼馴染のまもり、鈴音、モン太に庇われていた。
争いを厭い、他者に対して手を上げたことすらない彼が、それでも今回の戦い
に身を投じる決意をしたのは、時には乱暴ともいえるやり方ではあったが、彼
なりの愛情表現で瀬那を可愛がってくれた皇太子への恩返し、そして……
一年に一度だけ、東の隣国・王城からやってくる使節団に随行してくる騎士、
進に、二度と会えなくなるかもしれぬという恐怖からであった。