きれいな音、キレイな音、何て……綺麗な、音……。
この狭く、尚且つ様々な建物がゴチャゴチャと立ち並ぶ、都市計画が欠片
も考慮されていない日本国の首都に在って、広々としたグラウンドは勿論
のこと、学校部分の約三倍の広さを誇る放牧場まで併設し、人と馬とが仲
良く共存する、アメリカは西部開拓時代の雰囲気が強く漂う、此処は私立
西部高等学校。
Thanksgiving Dayに合わせて、他の高校よりもやや遅めに開催される、そ
の学園祭に、つい最近、六年ぶりの再会を果たし、また互いに情熱を同じ
く燃やすアメフトの試合でも激闘を交えた、銀髪緑眼の友人の招きにより、
遊びに来た瀬那は、その友人・甲斐谷陸が、祭りの目玉であるロデオコン
テストに出場すると聞いて、早速応援に駆けつけようとしていたのだが……。
「あちゃ~……またやっちゃった……」
金銀のモールや造花などで派手に装飾された道標や、地図付きポスター
が至る所に貼られている校内。いくらウッカリ者とはいえ、瀬那が迷子状
態を続けているのには、それなりの理由があった。
① 携帯電話の充電が切れてしまい、陸に連絡が取れない。
② たとえ連絡が取れたにせよ、今は陸の方も、コンテスト出場の最終調
整で、てんてこまいであろうから、こんな些細なことで彼を煩わせたくな
い(大体、この年で迷子って……)。
そして③。とりわけ、この三つ目の理由により現在、瀬那はまるで夢遊病
者のようにフラフラと、学園祭の賑わいとは無縁の古びた木造の建物──
牧場施設の倉庫として使われている所で、実はロデオコンテストの会場は、
この建物の裏手にある植込みを突っ切れば、ほんの五分程度で到達出来
るのだが──の中を彷徨っているのだった。
では、その三つ目の理由とは何か?
③ 風に乗って、不思議に美しいピアノの音が聞こえてきたから。
・
・
・
音源に近付くにつれ、音の幽艶さは深みを増していった。
瀬那の頭の中には最早、年季が入っていて渋いという感覚を通り越し、今
にも崩れ落ちそうな建物に入る時、最初に頭を掠めた、
(が、学校の怪談?)
などといった恐れは、微塵も残っていなかった。
ただ──この音を、もっと近くで聞いてみたいと思うだけだった。
そしてソロソロと忍び足で進む瀬那の足は、ある部屋の前で歩みを止めた。
もとは中の様子がハッキリと見て取れたのであろうガラス窓も、今となって
は塵と埃のせいで、曇りガラスと化している。
(う~ん……)
さすがに、ガラッと躊躇い無く戸を開けて中を確認する勇気は、彼には無か
った(だってもし誰もいなかったら?)。
なので、瀬那はしばらく廊下の壁に背をもたれさせながら、柔らかなピアノ
の旋律に、ウットリと聞き入ったのだった。
(……)
間近で接すると、その演奏の素晴らしさがよりよく分かった。
仮にこの場にいたのが瀬那でなく、きちんとしたクラシック音楽の専門家で
あったとしても、謎の人物(?)が奏でる、このピアノの音色の美しさを形容
するのに、およそ適当な表現は見つけられなかっただろう。
技術的にどうのこうの、芸術的に云々というレヴェルを遥かに飛び越え、そ
れはただただ──人の心に、深く染み入る音色だったのである。
だが奇妙なのは、この不思議な演奏者には、ピアノを弾いている自覚がま
ったく無いということが、こと音楽に関してはずぶの素人である瀬那にさえ、
ハッキリと感じ取れたことだった。
(……どうして?)
この演奏は、誰をも──演奏者本人をも──意識しておらず、従って表現し
たいものも、“何も無い”。
自分の心を捕らえ、この身をこの場から一歩も離れさせず、狂おしいほど惹
かれる音でありながら──同時にまた、空っぽ、なのだ。
(甘くて、優しくて、柔らかくて、でも……何て冷たい、何て哀しい……)
一つ一つの音が鳴り終わった後の余韻すら、曲を構成する一部分となる鍵
盤楽器は、何かに──瀬那にはそれが、演奏者の“過去”に思えたのだが
──思いを馳せるための、いわば道具に過ぎず、それで緩やかな楽曲を奏
でるのは趣味でも何でもなく、単なる追憶の一手段でしかないようだった。
この妙なる調べを紡ぎだしている者の両手指は、ピアノを弾こう、ピアノを弾
きたいという意志を、まったく持っていないのである。
(指が……ただ、漠然と……走らされているだけ……?)
ほどなくして曲は終わった。夢現の心地だった瀬那は、ハッと意識を取り
戻すと、好奇心に耐え切れず、恐る恐る部屋の引き戸を、極力音を立てな
いようにして、僅かに開いた。
・
・
・
引き戸の隙間から垣間見えたのは、長い足が爪先まできちんと存在して
いる、青年らしき人物だった。建物同様、これまた古びて埃にまみれたピ
アノの前に、姿勢良く腰掛けている。
パチパチパチパチパチ……
瀬那はもう、いてもたってもいられなかった。相手が“何”であろうと、彼(?)
が奏でていた美しい音楽に、ただ賛辞を送りたかったのだ。
「!」
突然聞こえてきた拍手の音に、青年(?)はビクリと身じろぎすると、ゆっくり
と後ろを振り向いた。
細く形の良い顎の辺りで、綺麗に切り揃えられた烏羽色(からすばいろ)
の髪が、サラリと揺れる。艶やかに青光りするそれに縁取られた、青年
の白皙の顔の造作はとても品良く、端正なもので、当然のことながら瀬
那の見知らぬものではあったけれど、同時にまた、どこかで会ったことが
あるような既視感をも、彼に覚えさせた。
(制服着てるし、西部高校の人……だよね? でもアメフト部とチアの一部
の人達以外では僕、この学校に知り合いなんていない筈なんだけど……
この人……どこかで会ったこと……?)
目の前の相手を再確認するため、一度ゆっくりと瞬きをした後、瀬那の目に
再び映ったのは──
「やあ、瀬那君か」
「キッドさん……?」
その飄々とした雰囲気や、穏やかな口調、そして物腰からは想像もつかな
いが、あの蛭魔をすら凌駕するかもしれない知性と、神速の“早撃ち”投球
術を持つ、西部ワイルドガンマンズのQBだった。
その無精髭や、不揃いで揉上げ付きの散切り髪、それなりに日焼けしてい
る肌の色や、少し疲れているような、年齢にそぐわぬ微かな皺が刻まれた
目元を中心に広がる、自嘲気味の苦笑、そして仮装一歩手前のウェスタン
・カウボーイ・スタイル。
試合以外の時によく見られる、いつも通りのキッドの姿に、それでも何故だ
か、先程の、日本の雛人形と西洋の磁器人形それぞれの最も良い部分だ
けを抽出したかの如く、高貴に整った面差しを持っていた、不思議な青年の
面影が重なり、瀬那は首を傾げた。
(あれ、何だったんだろ……?)
瀬那の凝視の視線を勘違いしたのか、ワシワシと頭を掻きながらキッドは、
傍に脱いであったテンガロンハットを照れ臭そうに、目深に被った。
「らしくもないトコ見せちゃったねぇ……」
あまり埃を立てないよう、ゆっくりと立ち上がり、ピアノの蓋を閉めようとす
るキッドの手に気付くと、瀬那は光速で駆け寄ってその行動を遮った。
弾みに、二つの異なる大きさの手が重なる。
「っと……、どしたの、瀬那君?」
「あ、あの……キッドさん、今の曲、出来たらもう一回……弾いてもらえま
せんか?」
「?」
怪訝そうなキッドの視線を受け、瀬那は自分の思い切った行動に今更なが
ら赤面する思いだったが、願望は羞恥心に勝った。
「僕……こんな綺麗なピアノ、初めて聞きました……」
一瞬瞠目するも、キッドはすぐ、無精髭で覆われたその口元をほろ苦く歪め、
その苦笑をますます気まずげに深めた。
(ん~……困ったね、こりゃ……)
・
・
・
キッドが今日、ここでピアノを弾いていたのは、ほんの気紛れだった。
学園祭の喧騒に──と、言うよりも、アメフトの試合を除いては、あまり賑や
か過ぎる人混みというのは本来、苦手な彼なのである。故に学園祭の準備
を前日まで極力手伝うようにし、その代わり今日一日は殆ど校舎内にいなく
ても済むようにしていたのだが(ちなみに、いつも影の如く一緒にいてくれる、
寡黙だが誠実な人柄の親友は、どうしてもと頼まれた幾つかの力仕事のた
め、学園祭会場の方にいた)──
いざ自由時間となると、昼寝をするほど疲れてもいなければ、本や雑誌など
も持ち合わせておらず、校内でも今日は人通りの少ない所を選んで、何とな
く手持ち無沙汰に散歩をしていた時、気紛れに入り込んだ倉庫。そして偶然
目に付いたピアノの蓋を、戯れに開けてみたという次第である。
「そんな、人様に褒めてもらうような腕前じゃ……」
「上手なのかどうかとか、難しいことは僕、よく分かりません。ただ、僕はキッ
ドさんのピアノの音、凄く好き……」
恐らくは無意識に口にしたのであろう、瀬那の言葉に、キッドはテンガロンハ
ットを更に深く被り、表情を隠そうとした。
(おいおい、そんな買い被んないでよ……)
そんな彼の心情など露知らぬ瀬那は、ピアノに視線を固定したまま、そっと、
黄ばんだ鍵盤の一つを押してみる。
ポイ~ン……#
だが出たのは、先程までの夢幻のように美しい音色には程遠い、酷く耳障
りな、狂った音。
「な、何これ!?」
彼は困惑顔をキッドに向けた。
「あ~……このピアノねぇ、何年も調律されてなかった上に、壊れる前から
もう、随分と誰も弾いてなかったみたいなんだよ。俺がさっき弾いてたのは
……辛うじて壊れてないキーや、狂ってて、もともとのとは違う音を出しちゃ
うキーを組み合わせた、要するに、継ぎはぎ演奏だったの」
あの黄金造りの牢獄でやらされた稽古事は、ピストル射撃に限らなかった。
決して才能が有った訳ではなく、また自分でもそれほど打ち込んだつもりは
無かったのだが、金に飽かせて用意された一流の教師陣と、先代だか先々
代だかの頃に、オーストリアからわざわざ取り寄せたと聞く名器・ベーゼンド
ルファーのおかげか、そこそこの域にまでは達し、今でもまだこんな、自慢に
もならぬ奇妙な芸当が出来た。
だが、この鍵盤楽器の典雅な音色は──よく見られる国内メーカーの、一
般に広く普及した種類のものですら──、銃器以上に、“あの”過去を強く
思い出させる。それ故にキッドはこれまで、自校の射撃部に時折遊びに行
くことはあっても、ピアノには決して、学校の音楽室や体育館のものにすら、
手を触れようとはしてこなかった。
なのに、今日の気紛れは一体どうしたことかと、今更ながら舌打ちする思い
で、いささか憮然としていたキッドが、しかし、負けん気が強く前途有望なあ
の後輩が密かに想いを寄せている、その幼馴染でもあると聞く、他校アメフ
ト部の小柄なエースの口から、続いて耳にしたのは──滅多に物事に動じ
ない彼に、再び目を見張らせるに十分なほど、意外な言葉だった。
・
・
・
「ピアノが……喜んでます」
愛らしい小動物を思わせる、つぶらな琥珀の瞳は優しく、古ぼけたピアノに
向けられたままだった。そして、まがりなりにもアメフトを嗜む者の手として、
それなりの傷や肉刺はあるにせよ、己のそれと比べれば遥かに小さく、華
奢な手指が、愛おしげに鍵盤を撫でる。
「喜んでるって……瀬那君は面白いこと言うね。どういう意味?」
キッドのからかうような問いに、瀬那は仄かに顔を赤らめながらも、相手の
質問に対し、正直に思うままを述べる。
「だって……ピアノは誰かに弾いてもらって、その音でまた誰かをいい気分
にするために作られるんでしょう? たとえ壊れてても、弾く人が弾けば、あ
れだけ綺麗な音が出せるのに、ずっとこんな生殺しみたいな……でも今日、
ここにキッドさんが来て、上手に弾いてくれたおかげで、このピアノはもう一
度、自分の存在理由を確認出来た。自分の音を好きだって言ってくれる人
間も来たし……あ、でも僕みたいなのに褒められてもしょうがないか……」
アハハ……と照れ笑いをする彼の、その純粋さが眩しかった。
そしてこのボロボロのピアノの思いがけない幸せに引き比べ、ふと考える。
あの煌めく檻の中に置かれていた“ピアノの皇帝”にして“皇帝のピアノ”は、
今頃、一体どうしているだろうか、と。
瀬那の言によれば、どのピアノも誰かを楽しませるために存在している筈
なのに、昔はただ、義務として淡々と弾くガキんちょの練習用。そして今は、
状態こそ完璧に保たれていようが、“あれ”を弾く者も、その演奏を聞いて
楽しむ者も、誰一人としておらず、優美な室内装飾の一つとしてしか存在
していないであろう、あのベーゼンドルファーは?
「……」
「……あの、キッドさん?」
再び遠い日の記憶に意識を引きずられそうになるも、目の前の小さな少年
の呼びかけに、キッドはあと一歩の所で踏み止まった。
過去との完全なる決別も
未来に待つであろう決着も
今だけは忘れよう
今だけは、この小さな“彼”がもたらしてくれた、羽毛のように柔らかく優しい
“夢”に、静かに微睡んでいたい……。
・
・
・
ポーン……♪
「ピアノも……瀬那君にそう言ってもらって、嬉しがってるみたい。何か、もう
少し弾いてよって今、言われたような気がするからねぇ……」
「わ、やったvvv」
カウボーイの被る大きな帽子の下から瀬那に向けられたのは、キッドにして
は珍しい、純然たる好意だけで構成された、明るい微笑だった。
ポポーン……♪
ウィンクを一つ投げかけ、再び鍵盤の上に両手を置くと──古びて黄ばんだ
部分すら、心持ち一つで象牙製のように感じられるのだから、ますますもって
不思議なものだ──、傍らに寄り添う瀬那の琥珀色の双眸が、喜びと嬉しさ
と期待で、パァァと、更に輝きを増した。
(大曲の……複雑な動きはもう、出来ねぇこの両手両足だけど……今日は
君のために、生まれて初めて、俺は……心を込めて、ピアノを弾くよ……い
や、弾かせてもらいたいんだ)
淡い夕陽が差し込み始めた中、柔らかな和音の旋律がゆっくりと、再び流れ
出す。演奏者一人、観客一人、たった二人だけでも互いに充分、心満ち足り
て“夢見心地”の演奏会が今、再び幕を上げた。
★☆おしまい☆★
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
トロイメライ(Träumerei)、ドイツ語のトラウム(traum/英語で言うdreamなの
ではないかと)から派生した言葉で、夢見心地、或いは夢想や空想(に耽る
事)といった意味らしいです。
シューマンの“Kinderszenen”(『子どもの情景』)と言うシリーズ?(音楽詳し
くないんで、適当な表現が思い付かないっス……orz)の中の一つとして、日
本でも有名ですよね。ちなみにこのシリーズ?は、作曲者本人の語ったとこ
ろによれば、「子ども心を描いた、大人のための作品」なのだそうです。
色々なサイトさんで試聴してみたのですが、“ピアノ概論”様のMIDIが、一番、
香夜さんの想像するキッドさんの演奏に近く感じられたので、それを聞きなが
らお読みになられては如何でしょうと、お勧めさせて頂いた次第です(直リン
はもっての外ですし、フリーウェアとはあっても、拙ブログのような所で使わせ
て頂くのは畏れ多くて。何より、ブログに於ける音曲のUP方法が分からなか
ったので/苦笑)。
武者小路家のピアノ、ベヒシュタインとベーゼンドルファー、どっちにするかで
すっごく迷いました。スタインウェイも有名ですが、これはちょっと違うかなと、
最初から除外(でもあれもとっても良いピアノなのだそうですね)。結果として
は、年間限定生産(技術等の関係上、決まった台数しか作れないようです)
と皇帝云々の謳い文句、そして何より、“弾く人間を、ピアノが選ぶ”という表
現に惹かれ、ベーゼンに決定。正直、『トロイメライ』を弾くのに適した音や性
質なのかどうかは微妙なところですが、まあその辺はDon't think, feel......!
の方向でお願い致します(笑)。
キッドさんの両手脚がどうのこうのというのは、単に、弾かなくなって結構経
つから、ショパンの革命のエチュードみたいなのはもう、無理無理絶対無理
というような意味であって、断じてWJ今週号の影響では御座いません。だっ
てこの話、書いたのも初UPも去年だもん!(思い出し号泣)
更新②(拍手レスとブログコメントへのお返事のやつです)にも書きましたが、
諸事情により、いつもより推敲の時間と機会が少なく、しかも今回の更新は
激情に駆られるままUPしたものなので、所々に誤字脱字があったり、改行
や段落分けすべき所が間違ってたり、全体的に粗削りな仕上がりになって
いるんだろーなーと、自分でも分かってはいるのですが、出来る時に出来る
だけやっとかないと、ホント今、色々とアレなんで……ハイ。や、キッドさんの
事以外は皆、瑣事ばかりなんですけどね、重なるとちょっとめんどいって言う
か……。
とりあえず、キッドさんの御無事と西部の逆襲を願って、UPしときます。原作
の方が理想的な展開になってくれた場合には一旦下げて、完璧な状態で再
々度UPしたいニャ~。
この狭く、尚且つ様々な建物がゴチャゴチャと立ち並ぶ、都市計画が欠片
も考慮されていない日本国の首都に在って、広々としたグラウンドは勿論
のこと、学校部分の約三倍の広さを誇る放牧場まで併設し、人と馬とが仲
良く共存する、アメリカは西部開拓時代の雰囲気が強く漂う、此処は私立
西部高等学校。
Thanksgiving Dayに合わせて、他の高校よりもやや遅めに開催される、そ
の学園祭に、つい最近、六年ぶりの再会を果たし、また互いに情熱を同じ
く燃やすアメフトの試合でも激闘を交えた、銀髪緑眼の友人の招きにより、
遊びに来た瀬那は、その友人・甲斐谷陸が、祭りの目玉であるロデオコン
テストに出場すると聞いて、早速応援に駆けつけようとしていたのだが……。
「あちゃ~……またやっちゃった……」
金銀のモールや造花などで派手に装飾された道標や、地図付きポスター
が至る所に貼られている校内。いくらウッカリ者とはいえ、瀬那が迷子状
態を続けているのには、それなりの理由があった。
① 携帯電話の充電が切れてしまい、陸に連絡が取れない。
② たとえ連絡が取れたにせよ、今は陸の方も、コンテスト出場の最終調
整で、てんてこまいであろうから、こんな些細なことで彼を煩わせたくな
い(大体、この年で迷子って……)。
そして③。とりわけ、この三つ目の理由により現在、瀬那はまるで夢遊病
者のようにフラフラと、学園祭の賑わいとは無縁の古びた木造の建物──
牧場施設の倉庫として使われている所で、実はロデオコンテストの会場は、
この建物の裏手にある植込みを突っ切れば、ほんの五分程度で到達出来
るのだが──の中を彷徨っているのだった。
では、その三つ目の理由とは何か?
③ 風に乗って、不思議に美しいピアノの音が聞こえてきたから。
・
・
・
音源に近付くにつれ、音の幽艶さは深みを増していった。
瀬那の頭の中には最早、年季が入っていて渋いという感覚を通り越し、今
にも崩れ落ちそうな建物に入る時、最初に頭を掠めた、
(が、学校の怪談?)
などといった恐れは、微塵も残っていなかった。
ただ──この音を、もっと近くで聞いてみたいと思うだけだった。
そしてソロソロと忍び足で進む瀬那の足は、ある部屋の前で歩みを止めた。
もとは中の様子がハッキリと見て取れたのであろうガラス窓も、今となって
は塵と埃のせいで、曇りガラスと化している。
(う~ん……)
さすがに、ガラッと躊躇い無く戸を開けて中を確認する勇気は、彼には無か
った(だってもし誰もいなかったら?)。
なので、瀬那はしばらく廊下の壁に背をもたれさせながら、柔らかなピアノ
の旋律に、ウットリと聞き入ったのだった。
(……)
間近で接すると、その演奏の素晴らしさがよりよく分かった。
仮にこの場にいたのが瀬那でなく、きちんとしたクラシック音楽の専門家で
あったとしても、謎の人物(?)が奏でる、このピアノの音色の美しさを形容
するのに、およそ適当な表現は見つけられなかっただろう。
技術的にどうのこうの、芸術的に云々というレヴェルを遥かに飛び越え、そ
れはただただ──人の心に、深く染み入る音色だったのである。
だが奇妙なのは、この不思議な演奏者には、ピアノを弾いている自覚がま
ったく無いということが、こと音楽に関してはずぶの素人である瀬那にさえ、
ハッキリと感じ取れたことだった。
(……どうして?)
この演奏は、誰をも──演奏者本人をも──意識しておらず、従って表現し
たいものも、“何も無い”。
自分の心を捕らえ、この身をこの場から一歩も離れさせず、狂おしいほど惹
かれる音でありながら──同時にまた、空っぽ、なのだ。
(甘くて、優しくて、柔らかくて、でも……何て冷たい、何て哀しい……)
一つ一つの音が鳴り終わった後の余韻すら、曲を構成する一部分となる鍵
盤楽器は、何かに──瀬那にはそれが、演奏者の“過去”に思えたのだが
──思いを馳せるための、いわば道具に過ぎず、それで緩やかな楽曲を奏
でるのは趣味でも何でもなく、単なる追憶の一手段でしかないようだった。
この妙なる調べを紡ぎだしている者の両手指は、ピアノを弾こう、ピアノを弾
きたいという意志を、まったく持っていないのである。
(指が……ただ、漠然と……走らされているだけ……?)
ほどなくして曲は終わった。夢現の心地だった瀬那は、ハッと意識を取り
戻すと、好奇心に耐え切れず、恐る恐る部屋の引き戸を、極力音を立てな
いようにして、僅かに開いた。
・
・
・
引き戸の隙間から垣間見えたのは、長い足が爪先まできちんと存在して
いる、青年らしき人物だった。建物同様、これまた古びて埃にまみれたピ
アノの前に、姿勢良く腰掛けている。
パチパチパチパチパチ……
瀬那はもう、いてもたってもいられなかった。相手が“何”であろうと、彼(?)
が奏でていた美しい音楽に、ただ賛辞を送りたかったのだ。
「!」
突然聞こえてきた拍手の音に、青年(?)はビクリと身じろぎすると、ゆっくり
と後ろを振り向いた。
細く形の良い顎の辺りで、綺麗に切り揃えられた烏羽色(からすばいろ)
の髪が、サラリと揺れる。艶やかに青光りするそれに縁取られた、青年
の白皙の顔の造作はとても品良く、端正なもので、当然のことながら瀬
那の見知らぬものではあったけれど、同時にまた、どこかで会ったことが
あるような既視感をも、彼に覚えさせた。
(制服着てるし、西部高校の人……だよね? でもアメフト部とチアの一部
の人達以外では僕、この学校に知り合いなんていない筈なんだけど……
この人……どこかで会ったこと……?)
目の前の相手を再確認するため、一度ゆっくりと瞬きをした後、瀬那の目に
再び映ったのは──
「やあ、瀬那君か」
「キッドさん……?」
その飄々とした雰囲気や、穏やかな口調、そして物腰からは想像もつかな
いが、あの蛭魔をすら凌駕するかもしれない知性と、神速の“早撃ち”投球
術を持つ、西部ワイルドガンマンズのQBだった。
その無精髭や、不揃いで揉上げ付きの散切り髪、それなりに日焼けしてい
る肌の色や、少し疲れているような、年齢にそぐわぬ微かな皺が刻まれた
目元を中心に広がる、自嘲気味の苦笑、そして仮装一歩手前のウェスタン
・カウボーイ・スタイル。
試合以外の時によく見られる、いつも通りのキッドの姿に、それでも何故だ
か、先程の、日本の雛人形と西洋の磁器人形それぞれの最も良い部分だ
けを抽出したかの如く、高貴に整った面差しを持っていた、不思議な青年の
面影が重なり、瀬那は首を傾げた。
(あれ、何だったんだろ……?)
瀬那の凝視の視線を勘違いしたのか、ワシワシと頭を掻きながらキッドは、
傍に脱いであったテンガロンハットを照れ臭そうに、目深に被った。
「らしくもないトコ見せちゃったねぇ……」
あまり埃を立てないよう、ゆっくりと立ち上がり、ピアノの蓋を閉めようとす
るキッドの手に気付くと、瀬那は光速で駆け寄ってその行動を遮った。
弾みに、二つの異なる大きさの手が重なる。
「っと……、どしたの、瀬那君?」
「あ、あの……キッドさん、今の曲、出来たらもう一回……弾いてもらえま
せんか?」
「?」
怪訝そうなキッドの視線を受け、瀬那は自分の思い切った行動に今更なが
ら赤面する思いだったが、願望は羞恥心に勝った。
「僕……こんな綺麗なピアノ、初めて聞きました……」
一瞬瞠目するも、キッドはすぐ、無精髭で覆われたその口元をほろ苦く歪め、
その苦笑をますます気まずげに深めた。
(ん~……困ったね、こりゃ……)
・
・
・
キッドが今日、ここでピアノを弾いていたのは、ほんの気紛れだった。
学園祭の喧騒に──と、言うよりも、アメフトの試合を除いては、あまり賑や
か過ぎる人混みというのは本来、苦手な彼なのである。故に学園祭の準備
を前日まで極力手伝うようにし、その代わり今日一日は殆ど校舎内にいなく
ても済むようにしていたのだが(ちなみに、いつも影の如く一緒にいてくれる、
寡黙だが誠実な人柄の親友は、どうしてもと頼まれた幾つかの力仕事のた
め、学園祭会場の方にいた)──
いざ自由時間となると、昼寝をするほど疲れてもいなければ、本や雑誌など
も持ち合わせておらず、校内でも今日は人通りの少ない所を選んで、何とな
く手持ち無沙汰に散歩をしていた時、気紛れに入り込んだ倉庫。そして偶然
目に付いたピアノの蓋を、戯れに開けてみたという次第である。
「そんな、人様に褒めてもらうような腕前じゃ……」
「上手なのかどうかとか、難しいことは僕、よく分かりません。ただ、僕はキッ
ドさんのピアノの音、凄く好き……」
恐らくは無意識に口にしたのであろう、瀬那の言葉に、キッドはテンガロンハ
ットを更に深く被り、表情を隠そうとした。
(おいおい、そんな買い被んないでよ……)
そんな彼の心情など露知らぬ瀬那は、ピアノに視線を固定したまま、そっと、
黄ばんだ鍵盤の一つを押してみる。
ポイ~ン……#
だが出たのは、先程までの夢幻のように美しい音色には程遠い、酷く耳障
りな、狂った音。
「な、何これ!?」
彼は困惑顔をキッドに向けた。
「あ~……このピアノねぇ、何年も調律されてなかった上に、壊れる前から
もう、随分と誰も弾いてなかったみたいなんだよ。俺がさっき弾いてたのは
……辛うじて壊れてないキーや、狂ってて、もともとのとは違う音を出しちゃ
うキーを組み合わせた、要するに、継ぎはぎ演奏だったの」
あの黄金造りの牢獄でやらされた稽古事は、ピストル射撃に限らなかった。
決して才能が有った訳ではなく、また自分でもそれほど打ち込んだつもりは
無かったのだが、金に飽かせて用意された一流の教師陣と、先代だか先々
代だかの頃に、オーストリアからわざわざ取り寄せたと聞く名器・ベーゼンド
ルファーのおかげか、そこそこの域にまでは達し、今でもまだこんな、自慢に
もならぬ奇妙な芸当が出来た。
だが、この鍵盤楽器の典雅な音色は──よく見られる国内メーカーの、一
般に広く普及した種類のものですら──、銃器以上に、“あの”過去を強く
思い出させる。それ故にキッドはこれまで、自校の射撃部に時折遊びに行
くことはあっても、ピアノには決して、学校の音楽室や体育館のものにすら、
手を触れようとはしてこなかった。
なのに、今日の気紛れは一体どうしたことかと、今更ながら舌打ちする思い
で、いささか憮然としていたキッドが、しかし、負けん気が強く前途有望なあ
の後輩が密かに想いを寄せている、その幼馴染でもあると聞く、他校アメフ
ト部の小柄なエースの口から、続いて耳にしたのは──滅多に物事に動じ
ない彼に、再び目を見張らせるに十分なほど、意外な言葉だった。
・
・
・
「ピアノが……喜んでます」
愛らしい小動物を思わせる、つぶらな琥珀の瞳は優しく、古ぼけたピアノに
向けられたままだった。そして、まがりなりにもアメフトを嗜む者の手として、
それなりの傷や肉刺はあるにせよ、己のそれと比べれば遥かに小さく、華
奢な手指が、愛おしげに鍵盤を撫でる。
「喜んでるって……瀬那君は面白いこと言うね。どういう意味?」
キッドのからかうような問いに、瀬那は仄かに顔を赤らめながらも、相手の
質問に対し、正直に思うままを述べる。
「だって……ピアノは誰かに弾いてもらって、その音でまた誰かをいい気分
にするために作られるんでしょう? たとえ壊れてても、弾く人が弾けば、あ
れだけ綺麗な音が出せるのに、ずっとこんな生殺しみたいな……でも今日、
ここにキッドさんが来て、上手に弾いてくれたおかげで、このピアノはもう一
度、自分の存在理由を確認出来た。自分の音を好きだって言ってくれる人
間も来たし……あ、でも僕みたいなのに褒められてもしょうがないか……」
アハハ……と照れ笑いをする彼の、その純粋さが眩しかった。
そしてこのボロボロのピアノの思いがけない幸せに引き比べ、ふと考える。
あの煌めく檻の中に置かれていた“ピアノの皇帝”にして“皇帝のピアノ”は、
今頃、一体どうしているだろうか、と。
瀬那の言によれば、どのピアノも誰かを楽しませるために存在している筈
なのに、昔はただ、義務として淡々と弾くガキんちょの練習用。そして今は、
状態こそ完璧に保たれていようが、“あれ”を弾く者も、その演奏を聞いて
楽しむ者も、誰一人としておらず、優美な室内装飾の一つとしてしか存在
していないであろう、あのベーゼンドルファーは?
「……」
「……あの、キッドさん?」
再び遠い日の記憶に意識を引きずられそうになるも、目の前の小さな少年
の呼びかけに、キッドはあと一歩の所で踏み止まった。
過去との完全なる決別も
未来に待つであろう決着も
今だけは忘れよう
今だけは、この小さな“彼”がもたらしてくれた、羽毛のように柔らかく優しい
“夢”に、静かに微睡んでいたい……。
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ポーン……♪
「ピアノも……瀬那君にそう言ってもらって、嬉しがってるみたい。何か、もう
少し弾いてよって今、言われたような気がするからねぇ……」
「わ、やったvvv」
カウボーイの被る大きな帽子の下から瀬那に向けられたのは、キッドにして
は珍しい、純然たる好意だけで構成された、明るい微笑だった。
ポポーン……♪
ウィンクを一つ投げかけ、再び鍵盤の上に両手を置くと──古びて黄ばんだ
部分すら、心持ち一つで象牙製のように感じられるのだから、ますますもって
不思議なものだ──、傍らに寄り添う瀬那の琥珀色の双眸が、喜びと嬉しさ
と期待で、パァァと、更に輝きを増した。
(大曲の……複雑な動きはもう、出来ねぇこの両手両足だけど……今日は
君のために、生まれて初めて、俺は……心を込めて、ピアノを弾くよ……い
や、弾かせてもらいたいんだ)
淡い夕陽が差し込み始めた中、柔らかな和音の旋律がゆっくりと、再び流れ
出す。演奏者一人、観客一人、たった二人だけでも互いに充分、心満ち足り
て“夢見心地”の演奏会が今、再び幕を上げた。
★☆おしまい☆★
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トロイメライ(Träumerei)、ドイツ語のトラウム(traum/英語で言うdreamなの
ではないかと)から派生した言葉で、夢見心地、或いは夢想や空想(に耽る
事)といった意味らしいです。
シューマンの“Kinderszenen”(『子どもの情景』)と言うシリーズ?(音楽詳し
くないんで、適当な表現が思い付かないっス……orz)の中の一つとして、日
本でも有名ですよね。ちなみにこのシリーズ?は、作曲者本人の語ったとこ
ろによれば、「子ども心を描いた、大人のための作品」なのだそうです。
色々なサイトさんで試聴してみたのですが、“ピアノ概論”様のMIDIが、一番、
香夜さんの想像するキッドさんの演奏に近く感じられたので、それを聞きなが
らお読みになられては如何でしょうと、お勧めさせて頂いた次第です(直リン
はもっての外ですし、フリーウェアとはあっても、拙ブログのような所で使わせ
て頂くのは畏れ多くて。何より、ブログに於ける音曲のUP方法が分からなか
ったので/苦笑)。
武者小路家のピアノ、ベヒシュタインとベーゼンドルファー、どっちにするかで
すっごく迷いました。スタインウェイも有名ですが、これはちょっと違うかなと、
最初から除外(でもあれもとっても良いピアノなのだそうですね)。結果として
は、年間限定生産(技術等の関係上、決まった台数しか作れないようです)
と皇帝云々の謳い文句、そして何より、“弾く人間を、ピアノが選ぶ”という表
現に惹かれ、ベーゼンに決定。正直、『トロイメライ』を弾くのに適した音や性
質なのかどうかは微妙なところですが、まあその辺はDon't think, feel......!
の方向でお願い致します(笑)。
キッドさんの両手脚がどうのこうのというのは、単に、弾かなくなって結構経
つから、ショパンの革命のエチュードみたいなのはもう、無理無理絶対無理
というような意味であって、断じてWJ今週号の影響では御座いません。だっ
てこの話、書いたのも初UPも去年だもん!(思い出し号泣)
更新②(拍手レスとブログコメントへのお返事のやつです)にも書きましたが、
諸事情により、いつもより推敲の時間と機会が少なく、しかも今回の更新は
激情に駆られるままUPしたものなので、所々に誤字脱字があったり、改行
や段落分けすべき所が間違ってたり、全体的に粗削りな仕上がりになって
いるんだろーなーと、自分でも分かってはいるのですが、出来る時に出来る
だけやっとかないと、ホント今、色々とアレなんで……ハイ。や、キッドさんの
事以外は皆、瑣事ばかりなんですけどね、重なるとちょっとめんどいって言う
か……。
とりあえず、キッドさんの御無事と西部の逆襲を願って、UPしときます。原作
の方が理想的な展開になってくれた場合には一旦下げて、完璧な状態で再
々度UPしたいニャ~。