冷艶素香

現ES21がいろんな人達から愛されていたり、割れ顎の堅物侍を巡って、藤と金の人外魔境神未満ズが火花を散らしたりしてます。

April shower (前編)─真“春”の“日”の夢─

2007年05月10日 | もう一つの大奥(瀬那総受/読切り)
大奥ではほぼ毎年恒例、冬から春にかけ、一の側長局の中庭に雪
が降り積もった際の名物行事として、“雪中御投物”──即ち、雪合
戦がある。

ポスポスポスッ!

「水町っっっ、よさないか!!!」

何より脱ぐな、いいかげん己の立場を自覚しろ、うちの部屋の体面を
どこまで汚す気だと、硬質の美しさに恵まれた顔と声の両方で、相部
屋の水町に激しい怒りを示すは、御手付き中臈の筧。

「やーだもんね~♪ そりゃそりゃそりゃっ!」

暦の上では既に春とはいえ、白銀の残雪未だ眩しいこの日に水町は
何と上半身裸、下は※湯文字一枚きりである。破廉恥極まりない格
好ではあるが、彼の突飛な振舞にはもう、大奥中が慣れ切ってしまっ
ており、加えてその明るく罪の無い性質もあってか、あちらこちらから
クスクスと聞こえてくる忍び笑いも、陰にこもった意地の悪いものでは
なく、どちらかと言えば子どもの悪戯に「やれやれ……」と、肩をすくめ
る大人たちのそれであった。唯一人怒っている筧の、なまじ彫りの深
い秀麗な顔立ちであるだけに、その迫力も人一倍はあろうかという憤
怒の様など、まるでどこ吹く風とばかり、水町は好戦的な表情と態度
を崩さず、長い両腕を風車のようにグルグルと回しながら、敵陣に対す
る猛攻の手を決して緩めようとはしない。

ポスポスポスポスポスッ!

「む……やるな……」

それに対し、仁王立ちも厳めしく果敢に応戦するは何と御内証の方、
進典侍。時は奇しくも※三月朔日、衣替えの日ゆえ、進典侍の本日
の御召物は表裏共に白き、※真綿入りの白襲(しらがさね)である。
ただし動きやすいようにと、一番上には※羅紗の※打裂羽織(ぶっ
さきばおり)、下半身の裾に白く細い※本天の縁(へり)──黒糸で
進氏の家紋が連続刺繍してある──を付けた黒羅紗の野袴に対し、
こちらは襟口、袖口、前身頃などが、家紋を銀糸でやはり連続刺繍
した黒本天で縁取られ、全体としては実用的な※野装束(のしょうぞ
く)となっている。

「だが……勝つのはこちらだ」

頭上の古風な※梨子打烏帽子(なしうちえぼし)を固定する白鉢巻を、
進典侍は気合いを入れ直すため、改めてギュッと結び直す。そうして
敵陣を見据える眼光も凛々しく、彼もまた反撃を開始した。

ゴゥッッッ……!

進典侍は水町と違い、一度に一つの雪玉しか投げない。ただしその雪
玉は、普通の人間が「雪玉」と聞いて想像し得るものの、数倍の大きさ
であり、またそれを進典侍は抜群の制球力でもって操るのだ。

戦いは一進一退の攻防を繰り返していた。
                     ・
                     ・
                     ・
ポーイポイッポーンポスンポポポーンッポーンポスポスッ
ポーイッ……


「聞きしに勝る絶景だねぇ」
「わぁ~……」

さわやかに晴れ渡った空から燦々と降り注ぐ陽光を浴びて、キラキラと
眩しく輝く、辺り一面の銀世界に飛び交うのは何も、物騒な雪の白球
だけではない。

白雪に映え、御庭に更なる彩りを添えながら宙を飛び交う、上等の反物
・疋物の端切れで作られた色とりどりの愛らしい小さな巾着──延命袋。
その中には※丁銀や豆板銀といった銀貨、或いは銀細工、乃至は水晶
や※軟玉など※準貴石細工の小さな神像や仏像、動物の像、または帯
留や数珠といったこまごまとした贅沢品が、これまた白地の端切れに包
まれて入っており、他には懐紙に包まれた金平糖など高価な干菓子を
入れたもの、良質の香料を惜しみ無く使った練香を小さな袋一杯に詰め、
それ自体を匂玉としたものなどもあった。

これらの小さなお楽しみ袋は、雪合戦を観賞される各局部屋の旦那さま
方やそのお仕え人たちから、激戦の合間を縫って源平双方の勇者たち
──今年は例外として、基本的にはお末・お半下の混成部隊である──
へ、個人敢闘賞として投げ与えられるものである。それとは別に、勝ち組
のための豪華な賞品もまた用意されていることから、この勇ましく賑やか
な中にもどこか風流な大奥冬の陣に於ける士気が、毎年、極めて高いの
は当然のことであった。

「瀬那~♪ 見てる~!?」
「見てるよ~!」

雪まみれの手をブンブンと振り回し、水町が自分の存在をある※お透見
屏風(おすきみびょうぶ)の方向に向かって主張すると、少し掠れた声の
返事が返ってくる。その※懐かしき御声を耳にすると、筧も慌ててそれま
での渋面を取り繕うのだった。

数日前に引いた風邪をうっかりとこじらせて寝込んでしまった幼将軍は現
在、「とっとと治せ」との蛭魔局の厳命により、大奥の紫苑の方の許にて
療養中の身であった。局自身は、昨年暮れから目白押しの新年の儀式・
公式行事がやっと一段落したこともあり、正月に果たせなかった初詣をし
に行くと言って、昨日から大奥を留守にしている。

御自分に都合の良いように利用する場合を除いては、大奥の者たちの信
心、並びに迷信深さを、涙で化粧が流れ落ち、頭が腰に付きそうなほどに
仰け反って呵呵大笑しながら馬鹿にされる御方が、一体どういう風の吹き
回しかと、周囲の者たちは皆、訝しんだが、真相を探る勇気のある者は誰
一人としていなかった。

ちなみに瀬那の病身が中奥ではなく大奥、それも紫苑の方の傍にあるの
は、蛭魔局の指示によるものである。このところ世情、政局共に安定して
はいるが、自分が城を空けている間、万が一にも何かの折、表の瑣末事
が幼将軍を煩わせ、療養に差し支えては本も子もないとの配慮から、紫
苑の方の見識と如才の無い人あしらいなら、堂上出の上臈側室という確
固たる地位もあり、不測の事態が起きた時の表政庁との折衝も任せられ
ようと踏んだのだ。

加えて、紫苑の方を除く三人の側室たちには、看護のように集中力と細か
な気配りが必要とされる仕事は向いていないということが、彼らの普段の
行動から局には、容易に想像がついたということもあった──貴重なカラク
リ人形や※和時計を始め、繊細優美なお道具類を無意識の内に大量破壊
する進典侍然り、恋わずらいが昂じて、幼主の前では普段の端然とした様
子からは考えられないほど吃ったり転んだり、ついでに海の御部屋以外の
場所ではその構造が並外れた長身に合わないせいで、欄間などにしばしば
額をぶつけてしまう筧然り、いつでもどこでも愛玩動物と一緒に奇声を上げ
ながら走り回ってはすぐに着物を脱いでしまい、上様の御姿を見れば、時と
場所と状況をわきまえず即、抱きつこうとする水町然りである。

クイクイ

ふかふかとした毛織の※手套(しゅとう)に包まれた小さな手が、キッド
の※黄貂(きてん)の皮衣を遠慮がちに引っ張った。

「瀬那君、どうかした?」
※「香炉峰の雪……如何ならん?」

おやこれは進典侍のご教育の賜物かと一度大きく瞬きをすると、キッド
は「ん~……そうだねぇ……」と、しばし逡巡した。が、ここまで来てしま
った以上、もう何をしても結果は大して変わるまいと、肩をすくめて苦笑
すると、恐る恐るといった感じの上目遣いの幼将軍に、「あと四半時(十
五分)したらちゃんと床に戻るんだよ?」と念押しした上で、侍女たちに
お透見屏風をどけるよう命じた。

「キッドさん、有難う御座います!」
「ハイハイ、どう致しまして(……俺もホント甘いよねぇ)」

ほぼ治りかけているとはいえ、だからこそ大事を取ってもうしばらくの間は
おとなしく寝ていなければならない筈の瀬那だったが、無礼講の“雪合戦”
の存在を聞くといてもたってもいられなくなり──いいかげん退屈していた
らしい──、「ほんのちょっとの間だけでも見に行っちゃ駄目ですか?」と、
つぶらに潤んだ、寝間着を着ているせいもあって白い仔犬を思わせる瞳で
キッドを見上げ、その美しい袖に縋り付き、やれやれとキッドが白旗を掲げ
たのが、ちょうど半時前のこと。そして今年の雪中御投物が図らずも上様
の御臨席を賜ると知った、大の遊び好きにして上様大大大好きの水町と、
「有事の際に備えての鍛練の一種か」と、何かを激しく勘違いした進典侍
が、源平それぞれの大将に立候補して、今に至るという訳だ。

(さて、と……瀬那君結局は最後まで見たがっちゃうだろーし、皆見てるし、
御局さまへの言い訳どーしたもんかねぇ……?)

臈たけた看護士は、世にも高貴にして愛らしい患者に更にもう数枚の羽
織やら何やらを手ずから重ね着させてやりながら、いつも通り捉えどころ
の無い、しかし以前と比べれば、心なしか満ち足りているようにも見える
微苦笑を、更に深めるのだった。
                      ・
                      ・
                      ・
そうして宴たけなわの頃。滅多に無い解放感と高揚感に支配され、わぁわ
ぁキャアキャアと盛んに喚声を上げる勇者たち。観戦者たちもその興奮と
熱気、そして明るい陽射しと五色七彩の美しい眺めに触発されてか、華や
かな笑い声を立てながら賑やかな応援をし、更にしきりと延命袋を投げる。

「……僕も、何か」

さすがに飛び入り参加という訳にはゆかないが、自分も何らかの形で皆と
一緒に楽しみたい──そうだ!

すっくと立ち上がったかと思うと、急に室内の桐箪笥を漁り始めた瀬那に、
今度は一体何事かと、キッドは訝しげな視線を向けた。

「あった!」

瀬那が手にしていたのは去年の暮れ、生地の見立てから始まるすべての
工程をキッドに一任して仕立ててもらった、己の冬用の羽織数枚であった。
瀬那の成長期を見越し、かなり大きめに仕立てられたそれらの内から、今
日のように澄み切った早春の淡い空の色に、地紋雲枠の綿入れ羽織を一
枚。そしてもう一つ、縦横とも僅かに用いられた銀糸がチラチラと星のように
瞬く、※黒別珍(くろべっちん)の長羽織。

二枚に引きずられるようにして部屋から出て来たかと思うと、突如として縁
側に立った幼将軍を、何事かと皆が注視する中、彼の細い二の腕は二枚
の羽織を交互にふわりと宙へ放った。昼の空は水町の手元へ、夜の空は
進典侍の手元へ。

「進さんと水町君まで風邪引いちゃまずいですから、着れるかどうか分かん
ないけど、もし良かったら……!」

貴人の御召物を拝領するというのは時代や国を問わず、大きな栄誉である
ことが多い。大奥もその例に漏れず、しかも、あどけない印象ばかり強い当
代の上様の、“放る”という、珍しくも小粋な行動に、観衆は一斉にどよめい
た。

お褒めに与った当人たちはと言えば、真っ先に小躍りして喜びそうな水町は
予想外にも、朱を上らせた小麦色の両頬を羽織に押し当てながら、俯いてい
る。進典侍の表情もパッと見には分かりにくいが、その頬骨から端正な口元
にかけて、普段の精悍なものとは違う、何とも言えぬ柔らかな線が浮かんで
いた。

「「……」」

面白くないのは筧とキッドである。

(何でいっつも水町ばっかり……)

自分は水町ではないのだから、水町のように振る舞うことは出来ない。
分かり切ったことではあるのだが、瀬那を想い、少しでも今の距離を縮
めたいと、日々重ねている自分なりの努力がなかなか実を結ばず、自
由奔放に振る舞う水町の方が却って、今日のような僥倖に恵まれたり
しているのを見てしまうと、普段は理性によってしっかりと抑制されてい
る嫉妬の念がこの時とばかり、ムクムクと頭をもたげてくる。

「ふーん……」

脇息を前にトンと置くと、片腕で押さえ込むようにして体重をかけ、もう
片方の腕は肘をつき、キッドは点々と無精髭の散った、けれど形の良
い顎を支える。

(……ここんとこずっと瀬那君と理想の暮らししてて柄にも無く浮かれ
ちゃってたけど……世の中ってどっかでちゃ~んと収支合うように出
来てんだ……いいこと尽くしの後にはやっぱロクなことがねぇ……瀬
那君に悪気が無い分、余計に凹むんだよね……)

あの二枚の羽織は“瀬那のために”作ったものなのに、それを製作者
本人の見てる前で、躊躇いなく他の者に与えてしまうというのは、如
何なものか。

「「……」」

スィ……とキッドが筧に無機質な視線を投げれば、今日この場に於い
てのみ、それは筧にはねつけられることなく受け止められ、ここに臨時
同盟が結ばれた。
                     ・
                     ・
                     ・
ヒュンヒュンヒュンヒュンヒュン───ジャララララララララララッッッ!

「のあっ!?」
「む……!」

※白鯨をも捕らえる怒り……もとい、錨が唸りを上げて水町と進典侍に
襲い掛かる。彼ら二人が仰け反って出来た隙間をかいくぐり、分銅付き
の銀の鎖は瀬那の羽織を絡め取ったかと思うと、あっという間に操り手
の許へと戻っていった。

水町と進典侍がギン!と睨み付けたその先に佇んでいたのは──

「折角の瀬那君の御厚意、雪水に汚したとあっては申し訳ないから、俺
が一時預かっておこう。何、頑健な貴殿らのこと、さして問題あるまい?」

引き戻した鎖から丁重に二枚の羽織を外し、己の大きな袂に仕舞い込む
筧の、氷の微笑。そしてその両手に構えられたしろがねの狂気──もと
い凶器、鎖鎌(筧にとっては守り刀の代わりなのだそうだ)。厳しい中にも、
人に自然と畏敬の念を起こさせる雄大な冬の北海の双眸──だが流氷
の蒼く清冽な輝きが跡形も無く失せてしまったそこには、どんよりとして、
不吉ささえ感じさせる鉛色しか残っていなかった。

「返せよっ、筧の馬鹿ー!!!」

怒りに任せて水町が雪玉を筧めがけて投げつける。

パン!

ところがそれは標的に届くことなく、別の雪玉に儚くも粉砕されてしまった。
のみならず、更には水町の顔面にも、静観の姿勢を崩さぬ進典侍の精悍
な顔面にも“同時に”、冷たい感触と乾いた音が炸裂して──水町を遥か
に上回る投球速度に加え、進典侍を超える制球力。こんな神業の如き早
撃ち(?)が出来るのは、この大奥に於いてはただ御一方──

「ほらほら、余所見してちゃ駄目だよ~? まだ決着ついてないんだから
ねぇ」

何時の間にやら庭先に降り立っていた紫苑の方。のほほんとした口調
はそのままに、やや骨ばった両手の長い指で更に二つずつの雪玉を弄
んでいる。と、それまで両肩に中途半端に引っ掛けていた皮衣がするり
と、金色の雲のように滑り落ちた。そして現れた春の白躑躅(しろつつじ)
──表白、裏紫──ただし本日のお掻取は表裏共に同じ意匠、その内
側に着る紫の小袖と揃って初めて“白躑躅”となっている。

小袖は白糸の刺繍による一面の雪の華、即ち待雪草で埋め尽くされて
おり、お掻取の白地には菫が描かれている。いつもながらの衆に抜きん
出た御趣味に、ただただ感嘆の吐息を漏らすだけの者たちの中にあって、
絵心のある、その中でも更にごく一部の者たちだけは、表裏一体となっ
て鮮やかな対照を見せる御方様の装いの、特に菫と裏地の色に注目し
ていた。あの独特の紫色はもしや、今や幻と言われる※貝紫によるもの
ではなかろうか、と。

瀟洒と豪奢が不思議に入り混じった相変わらずの“矛盾”の結晶を、紫
苑の方はどこから探し出してきたのか美しい組紐で袖を括り上げ、また
それを※腰紐ともして、裾をからげた。

「……何か我らに含むところでもあるのか」

硬い声で問う進典侍に対し、微笑みと共に返されたのは更に数個の雪
玉と──

※「天也。也(天なり。人に非ず)」

寧静、恬淡を旨とすると荘子の考え方も含め、先人の教えというものは、
各時代の様々な人間によって、それぞれに都合よく解釈されることがし
ばしばである。神様の思し召しだよと薄く笑った紫苑の方は、※綿帽子
を目深に被り直すと、緩やかな弧を描いたままの口元を除いては、すべ
ての表情を隠してしまった。その背後に立ち昇る、例えるなら薄紫の紗
のように柔和な気配が、今日ばかりは晴天に加えて周囲に白が多いせ
いか、やけに禍々しく目に映るのは何故だろう?

「※君子は豹変す、か……含蓄に富んだ言葉だ……」

四書五経を諳んじているからと言って必ずしもその人間が儒学で言う
ところの聖人君子であるとは限らないというのもまた、古来より万人周
知の事実である。進典侍の手指がベキボキゴキキ……と不気味に鳴
った。

「キッドさんも参加するんですかー!? 凄いや、どの組が勝つんだろ?」
(上様、お願いで御座いますからもう少し場の空気をお読みになって下さ
いまし──!)

当事者たちを除き、身分の貴賎に関係無く、その場に居合わせた者たち
全員の切なる願いも虚しく、真の決戦の火蓋が今、切って落とされた。
                      ・
                      ・
                      ・
「筧君、一緒に見よう?」

もう後で※黒鍬(くろくわ)と御庭番たちに雪掻きしてもらう必要無ぇよな
……どうせだからあいつら三人とも肺炎にでもなって寝込んでくんねーか
な……と、乾き切っていた筧の心と瞳に突如として潤いが。

「せせせせせ瀬那君!?」

旦那様、頑張って下さい……!!!と、自称腹心の部下である大平と
大西始め、海の御部屋のお仕え人たちが生温かい目で見守る中、筧
が慌てて座布団など御座の用意をと、焦って立ち上がろうとするのを瀬
那は、ふるふると小首を左右に振って制し、座にとどまるよう押し戻す。
そして──

「アハハ、一緒♪ 一緒♪」

あろうことか筧の膝の上にちょこんと腰掛け、その柳のお掻取の青き裏
地の海の中へと、自ら潜り込んでしまったのである。着ている者の意思
とは関係無しに前が引き合わされたことで図らずも、白の表地に施され
た柳絞りの、しだれ柳の枝葉のようにも見える線文様が、まるで瀬那を
絡め取ったかのような印象さえ受ける。

「あったか~い……」

常日頃からは考えられぬこの陽気さ、積極性、そして甘ったるい匂い。
どうも彼はお目付役のキッドがいなくなった途端、甘酒を好きなだけ飲
んで、酔っ払ってしまったようだ。

(俺が引きずり込んだ訳じゃなし……い、いいんだよな???)

思わず背後を振り返ると、忠義者たちが一様に親指を上向けにグッと
押し立てていた。紅毛の流儀で「良し!」という意味である。

赤子を抱くようにそっと小さな身体に両腕を回し添えて支えてやれば、
愛おしい小さな両手がごく自然に摑まってくる。そこから感じられる子
ども体温は、筧の全身をどんな防寒具よりも温かに包んだ。

(やっべ……すんげぇ胸バクバク言ってる……瀬那君に気付かれたら
……でも気付いてほしい気も……)

筧の複雑な想いを知ってか知らずか、無邪気な想い人はただ朗らか
な笑い声を上げ、観戦に熱中している。その無垢な心の蕾に初めて
の春を知らせ、開花させたのが自分でなかったことは、今でも歯軋り
するくらい口惜しいけれど、過ぎ去ってしまったことは最早、どうにも
ならない。せめて、己こそがいの一番に結実出来たなら──

(でも今はいい、今はこれだけで十分だ……)

筧はありったけの想いを込めて、彼にとってのこの世の至宝を抱く腕
に力を込めた。このささやかな幸せがとこしえのものとなってくれるの
であれば、他にはもう、何も欲しくない。

今の筧の願いはそれだけ、それだけ、それだけだったのに。

ドズシャァァァ! ドシャドシャボタボタボタ……

雪“ダマ”と言うよりも、雪“ダルマ”と呼んだ方がしっくりとくるような
物体が三つ、見事に筧の頭だけに命中した。不思議なことに瀬那は
まったく無事で、砕け散った雪の一片一片までもが筧の背中と周囲
にのみ、散乱している。この衝撃で、筧の頭から肩にかけてを覆って
いた※柳色の肩掛けがずり落ちた。水気がどんどんと浸透してゆく
濃紺の髪はしっとりと、徐々に黒味を増してゆき、そこからポタポタと
滴り落ちてゆく、日の光を受けて虹色に煌めく雫は、筧の涼やかに
整った両の目元、すっきりと通った鼻筋、白皙の両頬、そして細く上
品に整った顎から直接、或いはきちんと剃刀を当てられた滑らかな
襟足と首筋を流れ落ちて、重ね着した小袖、肌襦袢と徐々に浸透し
てゆき、ついにはその全身をしとどに濡らす。

芸術的なまでに計算し尽された、三方から同時の一点集中攻撃。

「「「漁夫の利(か/かよ/かい)?」」」
「……」
「か、筧くーん!!!」

瀬那の酔いもやっと醒めたようで、慌てて懐から懐紙と手巾を取り
出すと、見上げる位置にある、麗しくも能面のように生気の無い筧
の顔をせっせと拭き始めた。

「……有難う、瀬那君。もう大丈夫だから」

大きな掌が瀬那の小さな手をすっぽりと優しく包み込む。すると瀬
那もまた、けぶるように優しい微笑みを小さな顔に浮かべた。

君の笑顔さえあれば何も怖くはない。

「俺、恋路とかそういうの邪魔されんの好きじゃねえよ」

銀色の海蛇が唸りを上げて再び牙を剥くかと思われた、まさにその
──

     →『April shower (後編)─夢に夢見た胡蝶の涙─』へ続く

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