・梶井基次郎『檸檬』冒頭。
・どうも、太字の部分、多くの人が、「(学生の身でありながら)酒色に浸る悪行のために肺尖カタルやら神経衰弱やらになった」と読んでるようなんです。悪行の結果、病気になった、と。たしかに常識的に考えて、そういうこともあるでしょう、普通に。直前にはお酒のたとえも出てくるので、余計、そう思えてしまうところです。
・ただ、このお酒のたとえは、やっぱりたとえなんですね。「~やうに」だし。一滴の酒が飲めなくても、この比喩を用いることはできる。もちろん、自身が酒飲みであれば、説得力は増しますね。さすが経験者、ということで。
・ところが、そんな経験の主なのかどうかは、どこにも書いていない。小説の冒頭ですから、そんなことまで、読者には分からない。ただ何となく、ああ、昔の学生はそうだよな、と不健康な小説を読んだことのある人とか、訳知りの人が何となく理解できるくらいのところ。
・といいますか、この冒頭部分、「はっきり書かない」ことをモットーにしている節がある。「不吉な塊」「焦燥と云はうか、嫌悪と云はうか」「いけないのではない」・・・はぐらかしてばかりですよね。何なのかをずばっと言わないんです。もちろん、自分でも言わく言いがたい複雑な感情」ということなのかもしれません。それなら仕方ない。
・しかし、読む方の身にもなってみましょう。といっても、我々のことですが、こういう語り口はズルイんじゃないかと思います。あーでもない、こーでもない、これに似てるけど違う・・・
・これは、あれですよね。子供が我がままなことを言いつのったときの、お母さんの殺し文句(?)と一緒じゃないですか。「好きなようにしなさいっ!」 何が起こるか分からない、得体のしれない闇世界にでも突き落とされかねない不安が広がりますよね。心の中に。その手法じゃないのかな。はっきり言いきらないことで、読み手の想像力のままに、頭のなかに創造させてしまうという。
・めちゃくちゃうまい、と思ったりします。よく言われることですが、文学の表現は「「美しい」という言葉を使わないで美しさを伝えることだ」とか。たしかにそうなんでしょう。言語というか名付けの働きを、考えてみる必要があります。
・たとえば、「一旦、ライオンという名前がつけられたら、人間はどこか安心してしまう。その瞬間、魔獣を恐懼するような感情は立ち消え、鉄炮さえあれば対抗的できるモノに成り下がってしまう」という言説です。どういうメカニズムかははっきりしませんが、とりあえず名前があるということは、誰かがそのものの性質なり性格なり生態なりを知っている、人間としてはすでに認知された物体であり、未知の存在ではない、ということだ。ならば同じ人間である自分も、恐れる必要はないのだ、と心のどこかで思えるということなんでしょう。
・一旦、言葉は与えられた。でも、言葉を与えられる前の、人間を恐怖のどん底に落としていた魔獣としての存在感と恐ろしさ、それを表現するのが文学の表現というものだ、という考え方です。これはむずかしい。はっきり書けばそれで終りになってしまう。だったら、はっきりかかないこと、なんとなく指し示すだけにとどめること、あとは読者の想像にまかせること。「ヒントは差し上げました。あとは、どんな風に考えてもいいです。好きなようになさい」。
・『檸檬』の冒頭は、そんなカラクリを実行したものなんじゃないか。「不吉な塊」の名状し難い存在感をそのまま読者に感得してもらう手法として見ていいんじゃないかと思うんですね。はぐらかしにはぐらかして。
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧へつけてゐた。焦躁と云はうか、嫌悪と云はうか――酒を飲んだあとに宿酔があるやうに、酒を毎日飲んでゐると宿酔に相当した時期がやつて来る。それが来たのだ。これはちよつといけなかつた。結果した肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くやうな借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなつた。蓄音器を聴かせて貰ひにわざわざ出かけて行つても、最初の二三小節で不意に立ち上つてしまひたくなる。何かが私を居堪らずさせるのだ。それで始終私は街から街を浮浪し続けてゐた。(日本近代文学館複製版により新字旧仮名で表記)
・どうも、太字の部分、多くの人が、「(学生の身でありながら)酒色に浸る悪行のために肺尖カタルやら神経衰弱やらになった」と読んでるようなんです。悪行の結果、病気になった、と。たしかに常識的に考えて、そういうこともあるでしょう、普通に。直前にはお酒のたとえも出てくるので、余計、そう思えてしまうところです。
・ただ、このお酒のたとえは、やっぱりたとえなんですね。「~やうに」だし。一滴の酒が飲めなくても、この比喩を用いることはできる。もちろん、自身が酒飲みであれば、説得力は増しますね。さすが経験者、ということで。
・ところが、そんな経験の主なのかどうかは、どこにも書いていない。小説の冒頭ですから、そんなことまで、読者には分からない。ただ何となく、ああ、昔の学生はそうだよな、と不健康な小説を読んだことのある人とか、訳知りの人が何となく理解できるくらいのところ。
・といいますか、この冒頭部分、「はっきり書かない」ことをモットーにしている節がある。「不吉な塊」「焦燥と云はうか、嫌悪と云はうか」「いけないのではない」・・・はぐらかしてばかりですよね。何なのかをずばっと言わないんです。もちろん、自分でも言わく言いがたい複雑な感情」ということなのかもしれません。それなら仕方ない。
・しかし、読む方の身にもなってみましょう。といっても、我々のことですが、こういう語り口はズルイんじゃないかと思います。あーでもない、こーでもない、これに似てるけど違う・・・
・これは、あれですよね。子供が我がままなことを言いつのったときの、お母さんの殺し文句(?)と一緒じゃないですか。「好きなようにしなさいっ!」 何が起こるか分からない、得体のしれない闇世界にでも突き落とされかねない不安が広がりますよね。心の中に。その手法じゃないのかな。はっきり言いきらないことで、読み手の想像力のままに、頭のなかに創造させてしまうという。
・めちゃくちゃうまい、と思ったりします。よく言われることですが、文学の表現は「「美しい」という言葉を使わないで美しさを伝えることだ」とか。たしかにそうなんでしょう。言語というか名付けの働きを、考えてみる必要があります。
・たとえば、「一旦、ライオンという名前がつけられたら、人間はどこか安心してしまう。その瞬間、魔獣を恐懼するような感情は立ち消え、鉄炮さえあれば対抗的できるモノに成り下がってしまう」という言説です。どういうメカニズムかははっきりしませんが、とりあえず名前があるということは、誰かがそのものの性質なり性格なり生態なりを知っている、人間としてはすでに認知された物体であり、未知の存在ではない、ということだ。ならば同じ人間である自分も、恐れる必要はないのだ、と心のどこかで思えるということなんでしょう。
・一旦、言葉は与えられた。でも、言葉を与えられる前の、人間を恐怖のどん底に落としていた魔獣としての存在感と恐ろしさ、それを表現するのが文学の表現というものだ、という考え方です。これはむずかしい。はっきり書けばそれで終りになってしまう。だったら、はっきりかかないこと、なんとなく指し示すだけにとどめること、あとは読者の想像にまかせること。「ヒントは差し上げました。あとは、どんな風に考えてもいいです。好きなようになさい」。
・『檸檬』の冒頭は、そんなカラクリを実行したものなんじゃないか。「不吉な塊」の名状し難い存在感をそのまま読者に感得してもらう手法として見ていいんじゃないかと思うんですね。はぐらかしにはぐらかして。
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