「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

『ポケモンGO』で「わからせる」

2023年11月01日 | 日記
 『ポケモンGO』(以下『GO』)をまだやっている。ただ、『GO』 以外のポケモンのゲームはやったことがないし、ポケモンというコンテンツにあまり魅力は感じていない。ただ『GO』は、旅行とか遠出した時に場所の記憶と同期できるし、ゲームの中にもその痕跡が残せるので重宝している。未知の場所に行っても「ジム」のメダルなどを取っておくと、観光的な意味で記念になる。また、遠距離にいる友人との通信手段ともなっており、アイテムのやり取りをすることで、互いの生存確認になる。また、恐らく自分の住居と生活範囲が近いのだろうな、という未知の人ともフレンド登録をしているので、すれ違っているかもとか、家の前のポケストップで取得したアイテムを送られたりすると、少し怖い思いもする。しかし、身元が割れることはほぼないので、それもスリルだといえなくもない。



 また『GO』にはクリアするべきタスクというかクエストがあり、それをクリアするとアイテムをもらえるという仕様がある。一応プレーの目標とできるもので、それをクリアするために様々なミッションをこなす。たいていは歩くことで解決するミッションだ。ただここではポケモンのことが直接書きたかったわけではなく、そのクエストの中でゲーム内のキャラクターが話をするのだが、そのキャラクターが話す台詞で思う所があったので、それについて書いてみたい。『GO』の中で「ロケット団」という敵の組織が登場し、それと戦うというミッションがある。その敵の組織を「懲らしめる」ためのミッションがあり、その時に味方のキャラクターが、「許さないという態度を示してほしい」といういい方で仕事を依頼してくるのである。つまり、敵の組織に対してこちらの「許さない」という態度を示してほしいというものなのだ。

 これを読んだ時、この論法ってここ20年くらいよく聞くようになった論法だよな、と思った。これに似た「スラング」(?)に「わからせる」というのがある。これはゲームなどでよく使う言葉遣いだが、「わからせていけ」などという場合は、こちらの力を示せ、あるいは、こちらの意志を攻撃の苛烈さによって知らしめてやれ、くらいの意味が含まれている。半分冗談で、ゲームなどで「わからせる」というという時は攻撃の意志を見せるという、攻撃そのものよりは意志表示のメッセージ性が強調されることとなる。この「態度を示す」や「わからせる」という時に感じるのは、これらの表現が、ここ20年くらいでより頻繁に表現されるようになった、「テロとの戦い」でのレトリックに似ているということだ。テロリストとは交渉しない、テロリストに間違ったメッセージを伝えてはいけない、テロリストとは取引をしない……などがそれにあたる。要は、テロリストにはこちらの意思表示、即ち妥協しない、許さないというメッセージを「正確」に伝えるべきであって、少しでも相手に妥協するような交渉やメッセージを与えてはいけないというものである。これは特に「911」以降に強くなった気がしているが、僕などはまずは争いがある場合は「交渉」がまずはあるべきなのではないか、と思っていたので、この頑なさは何に由来するのか不思議であった。

 ここで不思議かつ不可解だと思うのは、そのようなこちらの意志が、なぜテロリスト側に「正確」に示せると思い込んでいるのかが、全くわからないということである。そもそもこちらのメッセージは何を根拠に「正しく」伝わるということになっているのだろうか。この正確性は、こちらになにがしか絶対的で正当な立場に立っているという前提がなければ表現できないはずだ。テロリストに対してそのような正当な立場が取れるという確信がなければ、「わからせる」というような「膺懲」の表現というのは出てこないだろう。駅を歩いていても「テロは許さない」というポスターを見ることがある。許さない主体とは一体誰なのか。このポスターのメッセージは「正確」にテロリストに伝わっているのだろうか。そもそもこのメッセージは僕には「正確」に伝わっているのだろうか。テロリストと僕の間にこのメッセージを理解するときの差異はあるのだろうか。あるいは差異などあってはならないのだろうか。僕もまたテロリストと同じように理解しなければならないのか。即ちこのポスターのメッセージを正確に理解するためには、僕自身がテロリストであるかのように、このポスターを読まなければならないのだろうか。間違ったメッセージにならずに「わからせ」られるためには、部外者や傍観者ではなく、僕自身がその言葉を伝えられる目的のように、テロリストとしてやはり読まなければならないように思う。そうしなければ正しく伝わっていることを確認できない。

 駅のポスターの「テロは許さない」というメッセージを読みながら、ああ、僕らは許されないのだと思ってしまった。これを読んでいる人はそれが「正確」にメッセージとして伝わっているならば、自らをテロリストになぞらえて読んでいるはずである。ならば、駅でそのポスターを「正確」に読み取っている人々は、そしてここ20年そういうメッセージは誤解されないように常に「わからせる」ために発せられているわけだから、駅の構内で自分たちを無意識にテロリストになぞらえてポスターを読んでいる人は構多いと思う。そのような理由から、自分たちは許されないんだ、と僕が受け取ったような感慨を抱いた人は結構多いのではないか。無意識だからそれに気づいていないだけだろう。こう考えると、「テロを許さない」「テロリストとは交渉しない」「テロリストに間違ったメッセージを与えない」という言葉は、それ自体はテロリスト(外側)に向けられているというよりは、むしろ内側に対する統治と管理のメッセージとして伝えられているということなのだろう。このメッセージが「正確」に伝わるという根拠は、やはり自分がテロリストの立場になって読まなければ理解できないもののはずだ。駅構内の誰もが潜在的なテロリストと想定されなければ、こういうメッセージは「正確」な根拠で伝わらない、というかそうでないならその「正確」さの根拠をだれも確認できない。

 そういう意味では、このようなメッセージはまさしく「外側」と「内側」がすでに区別不能の地点だからこそ発せられている、ともいえる。つまりはそのような内と外の不分明さのセキュリティのためのメッセージだともいえる。このメッセージはテロリストに伝えられているというよりは、「全員」に伝えられているといえそうである。ならばこの「全員」にメッセージを伝えている、メッセージの主体は何処にいるのだろうか。一体誰が全員に「正確」に「わからせ」ようとしているのであろうか。ここ20年非常に強く押し出されている、メッセージを「正確」に伝える、あるいは「敵」を絶対に「許さない」(というメッセージを伝えなければならない)という、「正確」さや「正当性」をめぐるイデオロギーは、外側にいる「敵」やテロリストへというよりは内側というか、内と外との境界を不安定化させて、その内なる「敵」を含めた「全員」に対してのメッセージをつくりだしてしまっているように思う。つまり「全員」に無差別に「わからせ」ようとしているのである。

 この「正確」で「正当」なメッセージを誤解なく「わからせる」ことができる、ということ自体の問題がここにある。このメッセージの「正確性」への信奉は、無意識に「全員」が管理され、「わからせ」られることを許容してしまう論法を引き寄せる。しかも、そのような「正確」なメッセージは一体誰が発しているのかわからないようになっているのである。むしろそのメッセージを「正確」に理解しようとすると、それを理解する側が自分たち自身を管理される側、即ちテロリストとしなければ、「正確」な理解の位置へと到達しないようになっている。言葉の意味の理解ではなく、「正確」さを求めることで言葉を理解する位置がそのような位置になってしまうのだ。「911」以降、この手のレトリックが非常に多くなり、胡散臭く思っていた。テレビなどを見ていても、偉そうな報道関係者が、訳知り顔で、「間違ったメッセージを送らないように」「テロリストを許さない」などという時、この人は誰の立場で発言していて、このメッセージを聴き、そして理解しているのは一体誰なのかを、考えさせられてきた。その時何か嫌なものを常に感じてきたのだが、それは、無意識の間に「敵」の位置へと置きなおされてテロリストにされ、「わからせ」られていたからではないか。そして、そのメッセージを発するキャスターなどを見ながら、その発言の源泉がどこにあるのか見えないという気味悪さがあったのだと思う。「正確」に意味が伝わるとは、いったいどういう状況なのだろう。

 『GO』のクエストをしながら、そのようなことを考えていた。

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