三月は年度末ということもあり、時間が取れず、読書も進まないし、また運動不足にもなり、ブログを書く余裕も失っていた。昨日からはキーボードの打ちすぎだと思うが、左手首が腱鞘炎になって、湿布を張ることとなった。ほぼ腱鞘炎とは無縁の体であったが、ここ二年くらいは年一回くらいで左手首の腱鞘炎になることがある。これまでは数日で治るのであるが、こんなに痛いものとは思わなかった。特に左手首は、中学生の時に大きな骨折をしているので、それも要因の一つかもしれない。また、文章を書く以外に、僕はFPSをキーボードでしており、「WASD」とシフトキーが移動手段で、様々な動作を結構不自然な指の動きでやっているので、悪化したのかもしれない。昨日の夜は痛みで二時間ほど寝られなかった。今は湿布のおかげで快方に向かっている。しかしこうやって文字を打っていると、手首が疼く。
さて、『ディルタイ全集』第三巻と『文学的絶対』が途中までだったので、読書を再開している。『失われた時を求めて』の第五巻も読み始めた。加えて、トム・ストッパード『コースト・オブ・ユートピア ユートピアの岸へ』(広田敦郎訳、ハヤカワ演劇文庫)を読みだしだ。バクーニン一家から話が始まるので読んでみたいと思っていた。こういう並行読みをしていると、全体的にペースが遅くなる。この前書いていた「東アジア反日武装戦線」の『反日革命宣言』と『狼煙を見よ』は読み終わり、ネットにある『腹腹時計』一巻は読めるとして、国会図書館に行って、所蔵されている残りの巻を通読してきた。「日帝本国」などの用語もそうだが、支配や植民地、差別を構造的に把握し、そのような把握をすると、少なくとも国民国家としての日本(国民)は、それからの責任から逃れられない。それはその通りだと思う。資本主義的搾取構造で国民が食っており、「先進国」と呼ばれる地域で生きる人々の多くは、この責任から逃れることはできないだろう。このストイックさは、ポストコロニアリズムやカルチュラルスタディーズ、フェミニズムといった学問が、ものすごく単純なたとえ話でいうと、「太平洋戦争」と呼んでいたものを「アジア・太平洋戦争」と読み換えたり、男女の二項対立に拠らない人称を使ったりするストイックさに、確かに通じるなと思った。絓秀実が『革命的な、あまりに革命的な』(ちくま学芸文庫)でいった、「華青闘告発」が、マイノリティ運動の端緒になったというのは、納得がいく。ならば、そのストイックさをある意味で引き継いでいるこれ等の学問分野は、『腹腹時計』的な「テロ」をどう考えるのか、という疑問があるし、難しい問題であるが、考えるべき問題だと思う。単純に「テロ」はいけない、で済むのか。
もちろん程度の問題はある。しかし、差別や支配というものが構造的なものであり、その構造を名指すには無限の詳細な差異化が必要であり、その差異化を阻んでいるのが、現状の資本主義的帝国主義なのだから、それらは壊れなければならない、という結論を、先に挙げた学問は、単純に「テロ」はいけない、平和な手段で、といういい方で拒否することができるのだろうか。これは「テロ」をするほうがよいと言っているのでは全くない。そうではなく、支配と被支配、差別の問題を真剣に考えると行き着く、構造的な剰余の問題、絓の分析でいえば「享楽」の次元を無視することはできるのか、という問題である。twitterでの単純な反差別や批評的言説を眺めていると(もちろん単純じゃない方もいます)、人を元気にしたり、勇気づけたり、啓蒙したり、楽しかったり……という、それが必ずしも悪いとはいわないが、そういう見方の発端には、「爆弾」作らないとつじつまが合わないよな、と考えた人がいるわけで、しかもそのつじつまを合わせようとしたこと自体が、いま「人道的」といわれる学問の「厳密」な概念やそれを規定する概念用語の成立のストイックさと関わっていると思うと、やはりこの「反日」の問題は無視できないと思う。これ抜きで、学問的ストイックさを信じているのだとしたら、それは勘違いだろう。
話は全く変わるが、大リーグの大谷選手のニュースがうるさいほど続いている。僕は大谷選手個人への特別な感情はないし、成績はすごいのだから、野球選手しての評価はあるのだろう、それにも特に言いたいこともない。僕は学生時代まではプロ野球が好きでよくテレビでも見ていたが、近年は全く見なくなった(いわゆる外でやってる草野球を見るのは好き)。小学生の高学年まで、野球部であった父に、たぶん野球の選手にしたかったであろう願望の下、結構練習をさせられて、基本的動作はそこそこできるのではあるが、センスがないというか、要は野球音痴で、野球選手どころか、草野球のレギュラーもすれすれという実力でプレーするのは遊びの範囲になっている。その大谷選手の「通訳」の仕事をしている男性が賭博で巨額の負債を抱えて、当初の報道では、それを大谷選手が肩代わりをした、という報道がなされたが、後ほど大谷選手の関与はなかった、知らなかったという訂正の報道があった。事実はどうあれ、法律上、大谷選手が関わっていることになると大ごとになるので、説明に梃入れがあったのだろうと思う。
それらのニュースを見ていて、「通訳」の男性と大谷選手の関係の報道の仕方が釈然としなかった。まるで、「通訳」の男性が、大谷選手が知らないところに、とんでもない害悪をもたらして、日本の大谷選手を汚した、というような論調なのだ。もちろん博打で借金をして他人に迷惑をかけるやつはろくでもないやつだ、と思う。それは僕が身近で経験をしたことがある故に、そういいたい。僕はそいつのことを一方的に非難はするし、できれば近くにいてほしくないと思いながらも、しかし、ストイックに考えると、それ自体構造的な問題で、そいつがどれだけ能天気に何も考えずに借金をしたのだとしても、それを招く構造(資本主義的)に僕も加担しているとはいえるよなあ、と考えはした。まあ助けてやれるならできる範囲でやるしかないな、と。諦念である。まあ僕の個人的な話は置いておく。
現在の報道から言うと、確かに大谷選手は博打をやっておらず、とばっちりということになろう。それ自体はいいとして構造的な問題から言うと、多額のお金を扱い、そして報道でも大谷選手の「通訳」の仕事を超えて、心のパートナーであるかのようにこれまでは報道していたわけであり、その地位にいなければ、たとえギャンブル依存症であったとしても、数億円も借金をすることはなかった、といえるのではないか。ストイックに構造上、二人の関係を問題とすれば大谷選手が今回の件に「全く何にも」関わっていないとはいえない。もちろんこれは現在の所の大谷選手の「法律上」の問題を言っているのではない。構造上、関係上という立場のことだ。そう考えるならば、日本のナショナリズム丸出しの、大谷選手への賛美と「通訳」男性の排除は問題がある報道だと思う。現在解っている時点での、法律上の大谷選手の責任は問うものではないとしても、そのような巨額の賭博の機会を与えた構造上の問題はある。それを大谷選手をよくも邪魔してくれたな、というような報復的報道で「通訳」の男性を切り捨てるのはおかしいだろう。報道をするならば、選手をマネジメントする際の構造上の問題を批判的に扱うべきだ。
これは友人とも話したのだが、大谷選手の日本での報道を見ていると「反動」的なものしか感じない。何もかもを予定調和的に賛美し、新しい知性の形だ、AI世代の野球選手だ、などなど。僕のナショナリズムを丸出しにして言わせてもらうならば、大谷選手の報道にかじりついている人を見ると、「敗戦後」に古橋廣之進に対して「フジヤマのトビウオ」とかいってトラウマを癒していた人々とどこが違うのだろうという気になった。僕の家族も大谷選手の報道をyoutubeでよく見ており、なんとも言えない苛立ちを感じるたのも、その衰退する日本の素朴なナショナリズムを、洗練された選手のマネジメント能力への応援という形で糊塗していることへの苛立ちともいえる。「ギブ・ミー・チョコレート」と何が違うのだろうか、と。しかし今回、その賞賛していたはずの大谷選手のマネジメントの問題が露呈したのではないか。それは構造的に検討する問題である。選手や「通訳」の個人を詮索したり批判すること以上に、きちんと「日帝本国」の資本主義的搾取の構造上の問題を、大谷選手とその「通訳」の男性の問題から考えないといけないと思う。
さて、『ディルタイ全集』第三巻と『文学的絶対』が途中までだったので、読書を再開している。『失われた時を求めて』の第五巻も読み始めた。加えて、トム・ストッパード『コースト・オブ・ユートピア ユートピアの岸へ』(広田敦郎訳、ハヤカワ演劇文庫)を読みだしだ。バクーニン一家から話が始まるので読んでみたいと思っていた。こういう並行読みをしていると、全体的にペースが遅くなる。この前書いていた「東アジア反日武装戦線」の『反日革命宣言』と『狼煙を見よ』は読み終わり、ネットにある『腹腹時計』一巻は読めるとして、国会図書館に行って、所蔵されている残りの巻を通読してきた。「日帝本国」などの用語もそうだが、支配や植民地、差別を構造的に把握し、そのような把握をすると、少なくとも国民国家としての日本(国民)は、それからの責任から逃れられない。それはその通りだと思う。資本主義的搾取構造で国民が食っており、「先進国」と呼ばれる地域で生きる人々の多くは、この責任から逃れることはできないだろう。このストイックさは、ポストコロニアリズムやカルチュラルスタディーズ、フェミニズムといった学問が、ものすごく単純なたとえ話でいうと、「太平洋戦争」と呼んでいたものを「アジア・太平洋戦争」と読み換えたり、男女の二項対立に拠らない人称を使ったりするストイックさに、確かに通じるなと思った。絓秀実が『革命的な、あまりに革命的な』(ちくま学芸文庫)でいった、「華青闘告発」が、マイノリティ運動の端緒になったというのは、納得がいく。ならば、そのストイックさをある意味で引き継いでいるこれ等の学問分野は、『腹腹時計』的な「テロ」をどう考えるのか、という疑問があるし、難しい問題であるが、考えるべき問題だと思う。単純に「テロ」はいけない、で済むのか。
もちろん程度の問題はある。しかし、差別や支配というものが構造的なものであり、その構造を名指すには無限の詳細な差異化が必要であり、その差異化を阻んでいるのが、現状の資本主義的帝国主義なのだから、それらは壊れなければならない、という結論を、先に挙げた学問は、単純に「テロ」はいけない、平和な手段で、といういい方で拒否することができるのだろうか。これは「テロ」をするほうがよいと言っているのでは全くない。そうではなく、支配と被支配、差別の問題を真剣に考えると行き着く、構造的な剰余の問題、絓の分析でいえば「享楽」の次元を無視することはできるのか、という問題である。twitterでの単純な反差別や批評的言説を眺めていると(もちろん単純じゃない方もいます)、人を元気にしたり、勇気づけたり、啓蒙したり、楽しかったり……という、それが必ずしも悪いとはいわないが、そういう見方の発端には、「爆弾」作らないとつじつまが合わないよな、と考えた人がいるわけで、しかもそのつじつまを合わせようとしたこと自体が、いま「人道的」といわれる学問の「厳密」な概念やそれを規定する概念用語の成立のストイックさと関わっていると思うと、やはりこの「反日」の問題は無視できないと思う。これ抜きで、学問的ストイックさを信じているのだとしたら、それは勘違いだろう。
話は全く変わるが、大リーグの大谷選手のニュースがうるさいほど続いている。僕は大谷選手個人への特別な感情はないし、成績はすごいのだから、野球選手しての評価はあるのだろう、それにも特に言いたいこともない。僕は学生時代まではプロ野球が好きでよくテレビでも見ていたが、近年は全く見なくなった(いわゆる外でやってる草野球を見るのは好き)。小学生の高学年まで、野球部であった父に、たぶん野球の選手にしたかったであろう願望の下、結構練習をさせられて、基本的動作はそこそこできるのではあるが、センスがないというか、要は野球音痴で、野球選手どころか、草野球のレギュラーもすれすれという実力でプレーするのは遊びの範囲になっている。その大谷選手の「通訳」の仕事をしている男性が賭博で巨額の負債を抱えて、当初の報道では、それを大谷選手が肩代わりをした、という報道がなされたが、後ほど大谷選手の関与はなかった、知らなかったという訂正の報道があった。事実はどうあれ、法律上、大谷選手が関わっていることになると大ごとになるので、説明に梃入れがあったのだろうと思う。
それらのニュースを見ていて、「通訳」の男性と大谷選手の関係の報道の仕方が釈然としなかった。まるで、「通訳」の男性が、大谷選手が知らないところに、とんでもない害悪をもたらして、日本の大谷選手を汚した、というような論調なのだ。もちろん博打で借金をして他人に迷惑をかけるやつはろくでもないやつだ、と思う。それは僕が身近で経験をしたことがある故に、そういいたい。僕はそいつのことを一方的に非難はするし、できれば近くにいてほしくないと思いながらも、しかし、ストイックに考えると、それ自体構造的な問題で、そいつがどれだけ能天気に何も考えずに借金をしたのだとしても、それを招く構造(資本主義的)に僕も加担しているとはいえるよなあ、と考えはした。まあ助けてやれるならできる範囲でやるしかないな、と。諦念である。まあ僕の個人的な話は置いておく。
現在の報道から言うと、確かに大谷選手は博打をやっておらず、とばっちりということになろう。それ自体はいいとして構造的な問題から言うと、多額のお金を扱い、そして報道でも大谷選手の「通訳」の仕事を超えて、心のパートナーであるかのようにこれまでは報道していたわけであり、その地位にいなければ、たとえギャンブル依存症であったとしても、数億円も借金をすることはなかった、といえるのではないか。ストイックに構造上、二人の関係を問題とすれば大谷選手が今回の件に「全く何にも」関わっていないとはいえない。もちろんこれは現在の所の大谷選手の「法律上」の問題を言っているのではない。構造上、関係上という立場のことだ。そう考えるならば、日本のナショナリズム丸出しの、大谷選手への賛美と「通訳」男性の排除は問題がある報道だと思う。現在解っている時点での、法律上の大谷選手の責任は問うものではないとしても、そのような巨額の賭博の機会を与えた構造上の問題はある。それを大谷選手をよくも邪魔してくれたな、というような報復的報道で「通訳」の男性を切り捨てるのはおかしいだろう。報道をするならば、選手をマネジメントする際の構造上の問題を批判的に扱うべきだ。
これは友人とも話したのだが、大谷選手の日本での報道を見ていると「反動」的なものしか感じない。何もかもを予定調和的に賛美し、新しい知性の形だ、AI世代の野球選手だ、などなど。僕のナショナリズムを丸出しにして言わせてもらうならば、大谷選手の報道にかじりついている人を見ると、「敗戦後」に古橋廣之進に対して「フジヤマのトビウオ」とかいってトラウマを癒していた人々とどこが違うのだろうという気になった。僕の家族も大谷選手の報道をyoutubeでよく見ており、なんとも言えない苛立ちを感じるたのも、その衰退する日本の素朴なナショナリズムを、洗練された選手のマネジメント能力への応援という形で糊塗していることへの苛立ちともいえる。「ギブ・ミー・チョコレート」と何が違うのだろうか、と。しかし今回、その賞賛していたはずの大谷選手のマネジメントの問題が露呈したのではないか。それは構造的に検討する問題である。選手や「通訳」の個人を詮索したり批判すること以上に、きちんと「日帝本国」の資本主義的搾取の構造上の問題を、大谷選手とその「通訳」の男性の問題から考えないといけないと思う。
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