「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

『詩的モダニティの舞台』の再読と山本陽子の詩について

2023年11月04日 | 本と雑誌
 『絓秀実コレクション』(blue print)(以下、『スガコレ』)で絓秀実の批評をたどり直していると、『スガコレ2』に山本陽子論があるのだが、そこには『詩的モダニティの舞台』(論創社)にも山本陽子論があることが示唆されており、読んだはずなのだが内容を全く忘れており再読した。すると、たしか『重力』(「重力」編集会議)2号でも絓秀実、松本圭二、稲川方人、鎌田哲哉の「共同討議」で山本の詩をめぐって議論があったな、とさらに数珠つなぎで思い出して『重力』02の該当箇所を読んでみた。僕自身は元来詩がよくわからない。詩がわからないということ自体がナンセンスな言い方なのはわかるのだが、詩を読むということがよくわからないのである。小学生の時から教科書に載っている詩の意味が分からず、これはセンスがあって頭のいい人しかわからない言葉なのだ、という先入観が植え付けられ、詩に触れること自体をずっと避けてきたところがある。トラウマといえるかもしれない。そのような僕でも、山本の詩はゾクゾクというか、気味悪さというか、その気味悪さは、不可能なことだが山本陽子って人に会ってみたい、という思いと綯い交ぜになったような気持ちであり、恐らく山本陽子が現代にいても絶対会ってはくれないだろうな、という非対称ともいえる切なさを感じさせられる詩だったので、この非対称性にフェティシズムを覚え、山本の詩は手に入る範囲でちょこちょこ古本屋で買って集めていた。集めるというほどの量があるわけではないが、「視られたもの、うた」が掲載されている『あぽりあ』(あぽりあ同人会)の3号や、同誌8号に掲載された「遥かする、するするながらⅢ」が転載された、『現代詩手帖』(思潮社)の1970年10月号は、古本屋で比較的すぐ見つかり買って読んだが、よく言われるような「難解」な詩とは思わず、むしろ面白いと思った。先ほど言ったような非対称的な切なさを感じさせる詩だった。『青春―くらがり』(吟遊社)も別冊が欠けているばらけたものは手に入ったのは幸運だったのだろう。『山本陽子全集』(漉林書房)全四巻があるが、古本屋でも見たことがないし、高額というのもあり、図書館で借りて読んだ。

 さて、『重力』02では絓が、山本の詩のポエジーを肯定的に捉え、その山本の詩が持っているジャンクさとしてのポエジーが、人々を「革命」へと駆り立てた意義について話していた。これは僕自身山本の詩を読んで、山本に会ってみたいが、もし今いたとしても実際は絶対に会ってはくれないだろうという非対称に引き裂かれる経験と重なるような気がしたので、絓の意見は納得いくものであった。その「共同討議」では松本圭二が、山本の詩は死に接近しすぎだ、というようないい方で、その死に憑依されているニヒリズムというかシニシズムを絓の革命観にもつなげながら批判していたが、僕は山本の詩が死に近づくようなものとは全く思わなかった。山本の詩はむしろあっけらかんというか、シニシズムやニヒリズムのような抒情とは全く関係がない、文字通り何の存在にも関わりがないような、むしろ言葉自体にも関わらないような、ざっくばらんというか、誤解を恐れず言えば、何も考えていない人からするすると出てきた言葉(エクリチュール)のようで、ちょっとこの作者に会ってみたいなというような、〈興味本位〉で〈軽率〉な思いや行為を引き起こさせてしまうような、妙に意欲が湧いてくるものとして読んだ。たしかに、そこにアイロニーがないかといわれれば、ないとはいわないが。しかしそれは僕の問題だろう。

 山本の詩を読んでいて「僕」という一人称単数が出て来て、あれ?一人称単数って珍しいなと思って気になっていたのだが、今回の『詩的モダニティの舞台』を再読すると、絓はこの「僕」に触れていて、さすがだなと感銘を受けた。絓は「俺」にも触れていて、ああ、「俺」という言葉も使っていたかと再確認した。この「僕」や「俺」とは誰だろう、と考えると、『スガコレ2』の山本論でも、「女優」の山本陽子と〈この〉詩人の山本陽子を重ねて論じていて、山本陽子はジェンダー・セクシュアリティ的にも、現存在的にも二重の存在なのだということがよくわかった。山本陽子は「僕」でもあり「俺」でもあり「女優」…………でもあるのだろう。

 こういう山本のポエジーを絓の批評を媒介としながら読んでいると、最近の目的論的というか、自分の政治的倫理的目的に、正確かつ現前的に直結しながらネットで発言している人を見るたびに、この人たちでは人を〈興味本位〉で〈軽率〉に行動させ、扇動させることはできないだろうな、と考えるようになった。そういう〈興味本位〉や〈軽率〉さを、おそらく彼等/彼女等は駄目なものとして糾弾しさえするだろう。マイノリティをエンパワーメントし、民主主義を守り、正義を守る、そのような目的のために正確に目的に着くように書かれ続ける、正確で啓蒙的な言葉。しかし、そのようなポエジーがない(というポエジー?)エクリチュールには「(暴)力」があるのか?パワーがあるのか?正しさとは、あるところで〈軽率〉なものではないのだろうか。

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