スラヴォイ・ジジェク『戦時から目覚めよ 未来なき今、何をなすべきか』(NHK出版新書 )を読書会で読んだ。ジジェクの「リベラル批判」が「逆張り」」的にとられて批判はされるものの、本書では重要な生政治と「ネオリベラル」への批判がなされている。そういう意味で、「woke」が批判されるのも、それなりの根拠がある。もちろん「目覚め」なければならない目覚めていない人はいて、それは常識の範囲で目覚めるべきであり、その常識とはきちんと基本的人権の尊重を守り抜くという意味で、さしあたりはいうしかないと思う。その人権の尊重を徹底するという意味でのラディカルさによって、目覚めていない人を目覚めさせる必要はある。
しかしながら、最も目覚めている資本という「woke」と重なっていることに無自覚な「リベラル」は「ネオリベラル」になりうるわけであり、このような「リベラル」は以前から言われているが、批判されるべきだろう。「目覚めた」ことにより良心の疚しさを抱き、誰も達成できないような「マイノリティ」の「代表=表象」のルールを敷いて、結局はそのルールについてこられない目覚めていない人々を断罪する。本来、「マイノリティ」は「代表=表象」のルールには包摂できない「矛盾」として存在しているはずなのに、SNSでは多くの人が、生きづらさや、自らの存在の違和感を表明し、それを「代表=表象」しようとして競い合い、それについてこられない人々を、目覚めていない人として断罪していく。しかしそれは、コンプライアンスによる企業統治の厳しさと、何が違うというのだろうか。グローバル企業は、十分すぎるほど「woke」して、その「資本=woke」のルールの中で、公正に消費者を統治し、スポンサーとして人々の倫理的存在様態にまで管理コントロールの生政治的な力を及ぼしているというのに。
このジジェクの「woke」批判は、絓秀実による華青闘告発の議論と通じるものがある。絓もまた、華青闘告発が「マイノリティ」という矛盾そのものが「代表=表象」には包摂できない「享楽」の次元を開くと同時に、それが「マイノリティ」を「代表=表象」しようという欲望にも開かれることとなるといっているからだ。その意味で、華青闘告発は「マイノリティ」の「享楽」を問題化すると同時に、「woke」の源流ともなる。そういう意味で、絓の華青闘告発の議論は、ジジェクの「woke」批判と重なる。ジジェクも絓も「享楽」を捨象して、結局は「マイノリティ」を「代表=表象」の枠組みに閉じ込めようとする、その倫理主義を批判するのである。「代表=表象」批判というのはあれほど、「ポストモダン」で言われたはずなのに、「ポストモダン」批判と共に、素朴な「代表=表象」の欲望がまたぞろぞろと出てきているようだ。しかも、誰かの生きづらさや、存在論的違和感を、何かの「お気持ち」として、掬い取ることのできるものとして、ケアできるものとして、「代表」しようと競い合う。そしてその「代表」を貫徹するには、ものすごく難易度の高い倫理的ハードルを越えなくてはならなくなる。おそらくこの「woke」できる倫理観のモデルというか、貫徹できるのは「皇室」かグローバル企業としての「資本」になるのだろう。
さて、今年も地元の村の盆踊り大会に行ってきた。去年、僕の同級生を中心にした有志達が、盆踊りを30年ぶりに「復活」させ、実はその年限りでやめるはずだったようだが、同級生たちが、今年も骨を折って開催をしたようだ。完全なボランティアで、やはり昨今の事情もあり、地元の地区の協力は得られず、皆仕事で忙しい中、地区の行事をわざわざ「復活」するというのは、反対が多いようである。それでも、かき氷、ポップコーン、金魚すくいや風船釣り、などの露店も用意され、去年よりも規模は大きくなっている。「復活」の立役者である同級生の「会長」と、僕の家族が「副会長」となっており、いろいろ「復活」の事情を聴くと、やはり開催はものすごく物理的な意味でも労力が必要で、またスポンサーを集めるのも一苦労のようである。ここまでやっているのだから、ぜひ地区や地元の行政も有志たちの行動を粋に感じて支援ほしい、と話していた。
30年前に様々な「リスク」と労力の関係で盆踊りが無くなり、子供たちが集まる場所が無くなっていった。さらに、世代の違う大人たちも交流が無くなっていき、そのような共同体としての危機を有志達は感じている。その不安を汲み取る受け皿がない。むしろ行政や人々はそんな「リスク」は増やさないでほしいという。また、この村の共同体は、もちろん家父長制的な側面がある。これは去年も書いたことだが、体育会的、先輩後輩的、権威主義的、地縁・血縁的側面の「酔狂」が発動しなければ、損得勘定抜きで人を集める場を作る人は集まってこない。村の中で「酔狂」だと思われている人が、祭りで人を集め場を作るということは、よくおこることだ。損得や「リスク」ではなく、その「酔狂」の次元で共同体を維持する欲望が発動する。「woke」から見れば目覚めておらず、解体すべき封建制の「酔狂」。「リスク」としてしか現れない存在が、共同体の危機をどうにかしたいと考える。太鼓をたたいていた町議会議員は「保守系」なのではあるまいか。
共同体を解体し、「リスク」の管理をして、封建的力関係を脱構築した後に何が残ったのか。その盆踊りに参加しながら、僕の「地元ナショナリズム」がふつふつと高まってきていた。「リスク」や損得勘定を超えた「酔狂」の次元を捨象して、「リスク」と損得勘定を「代表=表象」している「リベラル」を、この村の人々は信用するはずがないのではないか。その「酔狂」の受け皿に、結局太鼓をたたきながら、なっているかのようにふるまっている「保守」の議員に、それで勝てるのか。最強の「酔狂」である「天皇」と「資本」に対抗できるのか。できるわけがないだろう。それがジジェクの「woke」への批判なのではなかったか。
目覚めながら「酔狂」でいることはできるはずだ。しかしそれは矛盾を抱え込むという困難がある。だが「代表=表象」への批判というのは、その矛盾を生きるという問題であり、実践理性批判の問題であったはずなのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます