団地夫婦の日々

常盤平団地夫婦の54年、団地内で気付いた事を時々に、妻の料理、私の買い物等

高田馬場の思い出

2017-01-17 11:39:07 | 日記
82歳の私が子供の時、過ごした高田馬場の家、遊んだ戸山が原の思い出、年一度の高校クラス会はJR高田馬場駅の近くで毎年成人の日頃(今年は13日金曜日)に行われた。故郷が如何変わったか、クラス会で隣に座ったS君が近況報告で「皆が高田馬場が変わったと思う程、私には変わったとは思わない、毎日ここで生活してると町の変化には殆ど気付かない云々・・」成程一年に一度来ると、母校の有る早稲田周辺から高田馬場を経て高田馬場4丁目、小滝橋まで商店が並ぶ街並みは「アレ?あの店は?・・」と商店の移り変わりも激しいのが判る、採算が合わなければ次々経営者、テナントが新しくなっていく、その中で、戦前戦後生き残って生きていく老舗の店も有って、矢張り懐かしいと思い、昔の自分に帰る私で有った。
当時私達が大通りと呼んでいたが、この通りは早稲田から高田馬場経由で東中野(東中野停留所の前に日本閣が有って後に母の77歳のお祝いを此処で行ったがそれは又の機会に)まで都営バスが運行されていた(今でも有るかも?)高田馬場駅からは戦後早稲田~洲崎15番が一時早稲田~高田馬場迄延長されて都電が全盛期?だった頃も有ったようだ、更に大通りを早稲田方面に1km程歩くと明治通りに出る、この通りは更に広くて新宿と池袋駅間都電とバスの変形トロリーバスが車両の頭にパンタグラフを載せて走っていた時期も有った。その後トロリーバスも消え、都電の線路も無くなって、今は都電荒川線のみ早稲田から大塚へ巣鴨へ終点は王子駅?とチンチンと走る、話が脱線序でに親戚のお爺さん(頭がツルツルしてたから)が都電(当時は市電?)の車掌さんだったので、制帽を被って狭い車内でパチパチと手際よく切符に鋏を入れて、最後尾で得意げに(私にはそう見えた)目の前の紐を引っ張ってチンチンと鳴らして、あれは運転手に「発車オーライ」の合図だったのだ、未だ5才か6才の頃、タダで載せて戴いた?・・そうだ小学生以下は幼児で無料だったのだが、母に連れられて都電に乗ると靴を脱いで座席に座り(わりにしつけがしっかりしていたのは母のせい?)窓の外の風景が楽しみだったが、やたら長い塀と電信柱毎に電線が上がったり下がったり、座席で背伸びして民家の屋根の連続しか記憶に無い、荒川線は工場住宅地を走っていたらしく、都電が車と並走して走るなんて事は無かった、それでも楽しかったのだと思う・・ここまで大通り、明治通りの話になっては、題名も変えねばなるまい・・・
戦前から有る和菓子の青柳と鰻の伊豆栄、ニ三軒おいて蕎麦屋の塚田だっけ?皆子供が同じ戸塚第三小学校の生徒、親はPTAが一緒、
1500円握りしめて来いの看板が今の高田馬場を象徴する店の様でもある。



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1 コメント

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心潤む思い出 (さんたろう)
2017-01-21 04:55:35
子どもの頃高田の馬場でお過ごしなさったんですか。純な幼い頃の思い出は本当に尊いです。そこでの高校時代のクラスかいですか。うらやましいです。

おじさんの車掌さん・・靴をきちんと脱いでお座りして町を眺めていらっしゃるsasanoha7920さんのお姿、それにお若くて優しいおかあさまのお姿が目に浮かびます。
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