時戻素

昔の跡,やがてなくなる予定のもの,変化していくもの,自身の旅の跡など・・・

(174) 公園の中の薩英戦争跡

2009年08月28日 23時50分59秒 | 現在の中の過去
 幕末に生麦事件がきっかけとなって錦江湾でおこった薩摩藩とイギリスの戦争である薩英戦争。この戦争に関係する史跡がいくつかの公園などの中に見られる。北から南の方へその史跡を見ていきたい。

 石橋記念公園内の高麗橋の上から多賀山と逆側を見てみる。

(2008年5月31日撮影)

 中央の通りに案内板が設置されている。
 その奥にあるのがこの碑。

(2008年5月31日撮影)

 祇園之洲砲台の跡地だったようだ。

 同じ公園内の玉江橋付近から多賀山公園へ行く通路の下にもこんな碑がある。

(2008年11月7日撮影)

 撮影戦争の記念碑だ。

 桜島フェリー乗り場の辺りから水族館の方を見てみる。

(2008年8月23日撮影)

 特に案内はされていないが,ここも新波止砲台の跡地だ。
 水族館の入口の方へ近寄ってみる。

(2008年10月28日撮影)

 地面に石が見える。
 その石の中には…

(2008年10月28日撮影)

 名前が彫られているものもある。記憶は確かではないが,製作者の名前だったと思う。
 当時のものがそのまま残っているにもかかわらず,テレビで紹介されることはあったが,ここが撮影戦争の砲台だったと示す碑も案内板もない。唯一あるのは明治天皇の行幸に関するものだけだ。

 公園ではないが,国道225の大門口にも砲台跡の碑がある。

(2008年7月2日撮影)

 碑の脇に案内板が立てられているが…

(2008年6月9日撮影)

 なぜか両方とも歩道ではなく,車道側に文字のある面が向けられている。
 おまけにこの道路通行量が多く,信号で車が停まらない限り,この碑の案内を読むのは怖い。何で歩道向きにしなかったのか疑問だ。

 最後に天保山公園に内にも砲台跡が残っている。
 享月亭近くの野球グラウンドの傍らに…

(2008年6月1日撮影)

 砲台跡の碑が残っている。
 別の角度で見ると…

(2008年6月1日撮影)

 石垣の跡が所々見える。
 この砲台から錦江湾の神瀬を標的に訓練をしていたと聞いたことがある。

(2008年7月12日撮影)


 一見無謀な戦争に思えても,結末は両者の痛み分けの状態で薩摩は善戦したといえる。他にも砲台はあったようだが,自分が明確な場所を押さえているのはこれらだけだった。

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