鹿児島市喜入町にある喜入駅の入口。
(2009年3月2日撮影)
「喜び入る」がアピールされている。
縁を求めてこの駅の切符を買いに来る人が多く,そのためのお守りの切符が販売されていたと思う。利用客も多い有人駅となっている。このような切符を販売している駅だけでなく,町の色んなところに「喜び入る町」の表記がされている。(駅の入口の写真を撮っているところや駅前の観光看板を見ているところを駅舎内の女生徒に笑われていたようにも感じた。このようなものを撮る人が可笑しく感じられるほど,駅入口の写真を撮る人はほとんどいないのだろう。もっとも数人集まればどんなもの見ても「マジ受ける~」とか言うような世代でもあるが・・・)
場所は離れて,喜入港近くの広場にあるモニュメント。
(2009年3月2日撮影)
2004年3月1日に建てられた「喜入輝く未来へ」というモニュメントのようだ。日高喜入町長の名前が彫られている。
モニュメントには喜入の名前の由来が書かれていた。1414年に島津久豊が給黎城を攻め,伊集院頼久を追放したときの戦勝を祝して,給黎を「喜入」と名づけたのが始まりだそうだ。現在「喜び入る」町としてうたわれているのも,地名の由来とも合致しそうだ。
喜入の由来に続けて,1889年に喜入村,1956年に喜入町となり,6つの地区が地域色を融合しながら喜入の繁栄を築いてきた旨書かれている。しかし,少子高齢化,地方分権など町をとりまく環境が変化した中で,2004年11月1日に(新)鹿児島市となり,自治体としての喜入町がなくなることが決まった。瀬々串,中名,喜入,一倉,前之浜,生見の6つの地区は,新たに喜入瀬々串町,喜入中名町,喜入町,喜入一倉町,喜入前之浜町,喜入生見町となって,「喜入」の名を未来永劫に伝え,この地域のさらなる発展を祈念するものであると記される。以前,市町村合併の記事で書いた「場所の分かりやすさ」が長い町名になった理由ではないことが分かった。しかし,喜入町喜入という地名があった以上,郡山の名が「鹿児島市郡山町」と現在も残っているのと同様に「鹿児島市喜入町」という名前は残り,喜入の名は残ったはずだ。吉田町吉田,松元町松元という地名はないために現在は,市役所の支所の名前,学校名,店舗名などでしか「吉田」「松元」の旧町名は見られない。桜島町桜島という地名がなかった桜島町が「桜島横山町」のように町名の前に桜島を入れたのとは異なりそうだ。しかし,県内の他の市町村の町名では旧市町村名を入れているものが多く,吉田,松元のように旧町名が地名からは消えてしまった方が珍しい。
話が大きく脱線したが,このモニュメントの中央の卵が「喜び入る」象徴,6つの地区の希望を秘めた卵で,12の瞳が見守っているのを表現しているそうだ。
喜入町は鹿児島市に編入した5町の中では,合併に反対の意向の強い町であった。喜入町出身の学生と話すと「高校の学区」に悪影響がでたと聞いた。合併後5年,一見問題はなさそうに見えるが,地元住民はどう考えているのか関心がある。