NPO法人さなぎ達ブログ

横浜市寿地区や近隣地域を中心に社会的生きづらさを抱えている人々を対象としながら活動を行っているNPO法人です。

「さなぎ達」とは

日本三大寄せ場の一つである、横浜市寿地区、寿周辺地区を中心に、路上生活者及び路上生活に至るおそれのある人々が、自ら自立に向かいやすい環境を整える「自立自援」を主な目的とし、メンタルを一番大切にしながら「医・衣・職・食・住」の各方面で活動しているNPO法人です。

トキの巣立ち

2012年05月31日 | さなぎ達理事長 山中 修
トキが巣立ちしたそうです。
NHK7時ニュースの頭に流すほどのもんか?
と思ったけど、3羽めでもニュースになり、やっぱり朱鷺は偉大なり。
生まれ変わりに来世はカラス?、朱鷺?
ならば、迷わず朱鷺を選びたいな。
テレビが言うには、朱鷺の「巣立ち」の定義とは、雛朱鷺の両足が巣から離れた瞬間とされているらしい。
なるほど、わかりやすい定義だ。
右足が経済的巣立ちで左足がメンタル? ってことないだろうけど、人間で言えば、精神的・経済的自立が巣立ちなんだろうな・・・などと妙に感心してしまった。
寿に流れこんで来る人たちは、確かに両足ともフニャフニャ状態ではある。

ってことは、生活保護を通じて経済的サポートするのみで「巣立ちせい!」と声かけしても、やっぱり無理なんだなあ。

忘れていた思い出

2012年05月26日 | モトコ
昨日marugaritaさんが書いていた「あつしさんとの思い出」
で、私も当日の出来事を思い出したので、少しこちらに書きたいと思います。

あれから4年近く…

確か2008年8月、私が入社して間もない頃だったと思います。
その頃様々な事情があり、取材をあまり受けないようにしていました。

「地元にある社会問題とさなぎの食堂の今を取り上げたい」と、
時には泣きながら取り組んでくれたのがMディレクター(女性)でした。
当時何度も二人で打合せをした記憶があります。
Mさんの人柄と、その強い想いに心打たれて取材を受け、完成したのがドキュメンタリー番組「さなぎの食堂 定食日記」でした。(のちに、何かの賞を受賞したそうです)

はじめてMさんが寿地区に訪れ案内した時、真夏の食堂で熱々のカレーをハンブンコして食べたのが、今でもいい思い出です。

そして、その番組を見て手紙とCDを送っていただいたのが、ブログに書いてあるATSUSHIさんでした。

当時「これからどうしていこうか…」と悩んでいた私たちの小さな自信になりました。

あれから4年近く経ち「さなぎの食堂」を卒業して行った人、そして天国に行った従業員も2人います。
お客さんも少しずつ変わってきました。

4年ほど前のこの出来事は良い思い出であり、夢みたいな話でもあり、今でも私たちの励みです。



「さなぎの食堂」は誰もが利用できる安価で温かい食事を提供する食堂です。
10時から14時、15時半から18時まで基本毎日営業しています。



Exile のあつしさんとの思い出

2012年05月25日 | marugarita

 先日、テレビを見ていると、東日本大震災の応援歌としてEXILEのあつしさんが「ふるさと」を熱唱していました。本当に心に染み入る「ふるさと」でした。

 実は三年前にあつしさんから、「さなぎの食堂」あてにCDと下記のようなお手紙を頂きました。
当時は、すぐにも「食堂のブログ」にあつしさんの気持ちを載せたいとは思いましたが、彼の手紙を読む と、そっとしておくべきなのか…。載せても良いのか多いに迷ってやめた事情がありました。
今はみんなが聴ける「あつしさんの『♪ふるさと♪』」……彼の優しさのお裾分けです。すごく綺麗な字の直筆で便せ ん5枚に書いてありました。

さなぎの食堂様

  初めまして。僕はEXILEのAtsushiと申します。
  以前、深夜にドキュメンタリー番組を見て、ペンをとらせていただきました。

  あの番組を見させていただいて、何かいても立ってもいられない
  感情が湧いてきました。僕に何かできることはないかな、
  そう考えた時、どんな人にも平等に自分の歌を聴いてほしい。
  そんな想いが生まれ、CDを同封させていただいたので
  ぜひ食堂で流していただけたら、きっと雰囲気も明るくなるし
  少しだけでも元気になっていただけるんじゃないかと
  思いました。

 もちろん働いていらっしゃる、みな様も含めて、
 HAPPYな気持ちになっていただけたらという願いを
 込めまして、CDを送らせていただきます。

 このCDにはある仕掛けがしてありまして、
(人が落ちつくような特別な電気を通しています。)
 きっと、流しているだけでも、気持ちが安らぐと思います。

 僕は本来、人に癒されてほしくて
 歌を歌っています。料理長の方も、同じような
 経験をされているのが、すごく印象的でした。

 どうか、さなぎの食堂さんの中だけで、この曲を
 ふるさとを失った方々に聴かせてあげて
 いただけないでしょうか…。
 
 きっと喜んでいただけると思います。
 あともう一つだけ。あの足の悪いおじいちゃんに、
 ぜひ“ふるさと”のCDを聴かせてあげて
 いただけないでしょうか。

 
 また何かありましたら、送り物くらいしか
 できませんが、ずうずうしくも送らせていただきます☆

 どんな人にも元気に幸せである権利を与え続けている
 さなぎの食堂さんへ…  From EXILE Atsushi








食堂より5/25(金)営業時間変更のお知らせ

2012年05月23日 | 事務局より
昨日とは一転、気温も上がり、横浜は快晴です
異常気象が続き、気温の温度差もありますが、元気に過ごしましょう!

「さなぎの食堂」は、店内レイアウト変更のため、下記の日程におきまして営業時間の変更を行います。

5月25日(金)
10:00~13:30
16:00~18:00

午前の閉店が30分早まり、午後の開店が30分遅くなります。

ご利用の方は、お間違いないようご注意下さい。
ご迷惑おかけいたしますが、ご理解の程お願い申し上げます。

寿町ナース募集!

2012年05月22日 | さなぎ達理事長 山中 修
寿地区の医療は、医師でも看護師でもいろんな事を教えられます。
ある意味で厳しい、しかし勉強にもなるし、やりがいのある場所でもあります。
もし、さなぎのブログをごらんになって、「やってみたい」とご興味のある方は、ポーラのクリニックや町内の訪問看護ステーションに見学においでになりませんか?
町の高齢化に見合う医療スタッフを整えたく、呼びかけます。
ご興味ある方は「さなぎ達」事務局までお問い合わせ(TELまたはメール)ください。
TEL 045-228-1055
MAILsanagitachi@nifty.com

セカンド・ベスト-5

2012年05月22日 | さなぎ達理事長 山中 修
ポーラのクリニックは開院以来以来電子カルテで動いている。
待ちに待ったさきこからの回答は、診療中だったので電子カルテ上の伝言メールとして、受付から間接的に受けとった。
電子カルテには当然、長所・短所がある。
長所)
○カルテの保管スペースが増えない。カルテの出し入れ作業が不要。データ管理が容易となる。
○どんな患者が待っているか?がわかりやすい。「この患者危険!ヤバイ」とか、「すごく臭う!」とか。結核疑いで「特別待合室でお待ちです」とか。受付からの情報が診察室のドクターや処置室のナースに瞬時に飛んでくる。ポーラのクリニックには必須!
○診察室にナースが不要となるので、患者はドクターに秘密の話がしやすい。これも大切!
短所)
○キーボードが面倒=患者の顔を見ない。
○時々故障(バグ)する。

いずれにしても、伝言メールへ戻ろう。
「ご本人が在宅みとりを強く希望されているのがよくわかりました。このままいてもらってかまわない」
さすが!!さきこ。でかした!!
9割方あきらめていただけに、喜び2倍。
「こうでなくっちゃ!!」

すべての態勢は整った。
この日、訪問看護ステーションへの指示書の病名には「末期」と記載した。
この記載があれば、訪問看護費用の請求は介護保険から医療保険へと変更される。
こうすれば、みとりに際して、介護ヘルパーの訪問回数を増やすことができる。介護保険の決められた点数を看護師と介護が食い合う事が回避される。記載以降、看護師は医療保険の中で仕事をすることになる。悪性腫瘍の末期であればこのような分離が可能となる。現在、法的に分離可能な疾患は以下に限定される。
○1がん末期
○2神経難病等厚生労働大臣が定める疾病等(詳細疾患省きます)
○3および急性増悪期(14日を限度)の患者
今回のみとり患者さんは○1に該当するため、この方法が使える。
そうでない患者たとえば、心不全や腎不全、肝不全の末期のみとりにはこのワザが使えないのが法律の不思議。
私らから見れば同じ末期なのに・・・。この差別化の目的は、なくなり逝くひとへの医師の医療保険の乱用防止である。これまでの医療、出来高払い、なくなっていく人たちへ検査漬け・薬漬け医療を提供してしまった反省・反動であろう。
介護保険というものは、そもそも、「国民に廉価で消えていただく」為の国家戦略に他ならない。これも近年ニッポンが選んだセカンド・ベストの一つである。
→次回は、今回のみとりにはじめて臨んだS介護の介護ヘルパーからの報告をお知らせします。

ドヤは、どやってできたかー最終回

2012年05月18日 | ふらここ
 さて、あまり長く続くと次が書けないので、
寿の歴史はこれが最終回。
 
 もうすぐ5月29日がやってきます。
 横浜大空襲の日です。
 1945年のこの日、米軍のB29戦闘機による爆撃で
横浜の中心部は無残な焼け野原となりました。
 私達は昨年の東日本大震災の惨状を知っています。、
 67年前の横浜市街地は、まさしく同じ光景。
 どこもかしこも、死体の山だったのです。

 荒涼たる焼け跡の横浜
 

 同年の8月15日、太平洋戦争は終結を迎えました。
 敗戦国になった日本に、進駐軍がやってきました。
 最高司令官はダグラス・マッカーサー。
 専用機で厚木の飛行場に降り立ったマッカーサーは、
まっすぐ横浜に向かい、焼け残っていたホテル・ニューグランド
に入りました。

 ニューグランド本館前のマッカーサー 


 米軍は、港湾を初めとする横浜の市街地を広範囲に接収しました。
 寿町やその周辺も含まれていました。 
 戦火を逃れた大きな建物……ニューグランドや伊勢佐木町の
デパートなどは、米軍の施設として使用されました。
 
 日本人は焼け跡にバラックを建て、雨露を凌ごうとしました。
 が、米軍のブルドーザーはそれすらも容赦なく
踏みつぶしたといいます。
 きれいな空き地にしたところで、米軍は兵舎を建てました。
 兵舎はその形から、かまぼこ兵舎と呼ばれました。
 前回は明治三年の絵地図として見ていただいた「釣り鐘型」の
関外地区。
 そこに、この写真ではびっしりとかまぼこ兵舎が並んでいます。
 長者町から若葉町にかけて、小型飛行機の飛行場まで
造られていました。



 「米軍の残飯を食べたんですよ。肉をしゃぶった後の骨とか、
野菜屑とか、時には吐き捨てたガムまで混じってる残飯を、
大鍋で煮て、街頭で売ってるんです。
 そんなものまで食べないと生きられなかったんです」
 当時を知る人から、よく聞く話です。
 戦地から戻ったものの怪我や病気を抱えた復員兵、
 親を亡くした浮浪児、家族を養うため米軍兵士に身を売る女……。
 関東大震災からなんとか甦ったというのに、横浜はまたもや、
暗澹たるカオスの底にありました。
 
 その後に起きた朝鮮戦争、ベトナム戦争にも、アメリカは
深く関与していきます。
 皮肉なことに、同じアジアを舞台にしたこれらの戦争が
横浜の復興を促進しました。
 基地が置かれた横浜にはおびただしい数の米軍が出入りします。
 そのため、横浜港に大きな需要が生まれました。
 コンテナなどなかったその頃は、すべてが人力。
 人手がいくらあっても足りない状態です。
 日本中から、労働者達が集まってきました

 港の荷役(五十嵐英寿写真集 横濱みなとの唄より)


 やがて徐々にではありますが、市街地の接収が解除され、
横浜もようやく再建にとりかかることのできる状態に
なっていきました。
1965年、飛鳥田市長はこれから行う「横浜の六大事業」
を発表します。
 都心部の強化、金沢沖の埋立、港北ニュータウン、高速道路、
高速鉄道(地下鉄)、ベイブリッジ。
 都心部の強化の中に、後のみなとみらい21も含まれています。

 エネルギー革命により、本格的な高度経済成長も始まっていました。
 どこの建設現場でも、必要とされるのは現場の労働力。
 現場から現場へと流れていく日雇い労働者達です。
 そうなると横浜の便利な場所に、彼らの宿泊場所が
必要になりました。
 野毛や日ノ出町などのバラックに分散して泊まったり
野宿をしたりと、いろいろだったうようですが、
大岡川に水上ホテルがあったこともあります。
 ホテルといっても、船の雑魚寝です。
 客を詰め込みすぎたため船が転覆し、
多数の死者を出すという惨事も起きました。
 
 寿町とその周辺は、昭和29年から34年にかけて段階的に
接収解除されました。
 接収前、ここには小売り店や工場や住宅があったそうですが
米軍が去った後は、なにもない野原。
 もとの町に戻すことは難しい状況でした。
 多くの人が土地を手放し、他所へ移って行きました。
 そのあとに建ち始めたのが、長期滞在の日雇い労働者達を対象とした
簡易宿泊所です。
 
 ここは港へ行くにも便利な場所でした。
 加えて、1957年(昭和32)には、桜木町にあった職業安定所が、
この地区に移転してきました。
 たちまちにして簡易宿泊所が林立し、日本三大ドヤ街のひとつが
誕生したのです。

 港や建設現場で危険な重労働に従事する男達は、
疲労や辛さ、寂しさを、酒、博打、女、覚醒剤などでまぎらす
ことも多かったでしょう。
 喧嘩も絶えなかったはずです。
 荒々しい雰囲気が漂い、寿町は「危ない場所」として
知られるようになりました。
 警察関係者や新聞記者でさえ「あの頃の寿は怖かった」と言います

 さて、現在はどうでしょう。
 横浜の六大事業はすべて完成しました。
 高度経済成長期も終わりました。
 それどころかいまは、就活に失敗した若者達が
何人も自殺するという不景気な時代です。
 寿町へ来ても、仕事を得ることは難しくなりました。
  
 それでもいま、松影町や扇町を含む寿地区には、
簡易宿泊所が123軒あります。(昨年度11月調べ)
 宿泊者数は6500人余り。
 昔は働き盛りの男達がひしめいていた場所ですが、
 いまは高齢者と心身障害者が圧倒的に多くなりました。
 8割が生活保護の受給者です。

 高齢者の中には、マリンタワー、海浜の埋立、みなとみらいなど
などの建設現場で、汗にまみれて働いていた人も多くいます。
 建築家やデザイナーは称賛されても、現場労働者の名前など
誰一人として残りません。
 けれども簡易宿泊所の狭い部屋で最期を迎えるとき、
「あんた達が造ったんだよねえ、日本一、夜景のきれいな横浜を」
と言うと、その人は安堵のこもった微笑を返してくれるそうです。
 誰も孤独死させないKMVP(寿みまもりボランティアプログラム)
のリーダーにして「ポーラのクリニック」院長、山中修先生から
伺った話です。

 長い日雇い労働者暮らしで、家族も故郷も失った高齢者が
ここにはいます。
 心身に障害を持ち、差別から逃れてきた若い人達が
ここにはいます。
 
 この人達の孤独を、私は他人事とは思えません。
 日本の至る所に、こうした「孤独」が渦巻き、昨年から
盛んに言われている「絆」という言葉のむなしさを
かみしめているのではないでしょうか。

 自分の孤独を思う時、私は他者の孤独にも
思いを馳せずにはいられません。
 あなたは、どう感じますか?
 
 

大募集中

2012年05月18日 | 事務局より
いつもブログをご覧いただき、ありがとうございます。
天候不順が続いておりますが、お元気にお過ごしでしょうか?

暑くなってきましたねー。
日中は半袖姿の人もめずらしくなくなってきました。

毎年、初夏~夏本番になると、不足しがちの物があります。
肌着・Tシャツ・靴下
※すでに肌着・靴下は不足しています!

汗をかく季節は、清潔な身なりを保つために着替えの回数も増えてきます。

中古のものでも良いかというお問い合わせを良くいただくのですが、ありがたく頂戴します。
次の人にそのままお渡しして、気持ちよく着れる状態であれば構いません。

サイズが合わなくなったもの、たんすの肥やしになっているものなど、
捨てるのはもったいないですよー。
是非、再利用させて下さい。

ご不要の物がございましたら、ご協力お願いいたします!!

*配送先*
横浜市中区寿町3-9-8

毎日9:00~17:00まで受付けしています。
土日祝でも受取可能です。

セカンド・ベスト-4

2012年05月11日 | さなぎ達理事長 山中 修

○○館の帳場さきこ(仮称)は日々衰え、激変していく彼を毎日よく観察していた。
 彼がポーラのクリニックを初めて訪れた翌日、腰~下半身の突然の麻痺が出現、尿意も便意も感じなくなった。感じるのは痛みのみ。家族代わりとしてQQ車に付き添ったさきこに、△病院の救急医師は「がんが骨に転移して神経を圧迫してる」「現行以外の治療法はなし」と告知した。 さきこはこう思ったに違いない。「もう先は長くない。末期の末期。もう限界。」と。

初診以降、みとりチームは着々と仕事を進めていた。
N看護ステーションからは毎日訪問、排泄のお手伝い、状態観察と痛み具合をドクターへ報告。S介護ヘルパーはおむつの交換、体位交換、食べ物調達、話し相手(将棋相手)の為に毎日複数回の訪問開始。いずれも家族がいない分だけサービス残業的かかわり方をしていた。
仙骨部の褥瘡の第一発見も介護ヘルパーによる。エアマットと言われる褥瘡対応用の寝床への交換、頻回の体位交換などは介護の仕事、自力で出せない便を指で掻き出す作業や医師の指示の点滴をする医療行為は看護の仕事。部屋が乾くと皮膚の湿潤が失われ、気道に良くない皮膚にも良くない。医師は訪問診療時に患者の容態、訴えを把握、住居環境や介護、看護状況のチェック・今後の対応指示が要求される。
みとりの担当医は、飛行機でいえば機長の役割に似ている。機長とキャビン・アテンダント(CA)とのあうんの呼吸は、安定した乗客安心の航行につながる。みとりのチームではドクター、ナース、ヘルパーが同じ目的地をめざして同じスピードで航行する必要がある。ズレてはいけない。患者がこのズレのない安定したチームに身を委ねたとき、長い人生の旅路の果てまで「安心して赴く」境地へと達することができる。生と死と、目的地に大きな差はあるものの、着陸まで安心してお客様をご案内するチームであるところは、みとりと飛行機はよく似ている。

ところがどっこい、忘れていた!というか、「当然大丈夫だろう」と機長がタカをくくって、未確認うっかりミスを起こしていたのである。大事なCAのスタッフのひとり、帳場のさきこにみとりの確認をしていなかったのである。うかつだった。
あわてて、○○館へ出向き、帳場の窓越しにさきこと話を始めた。
さきこ「ここは病院ではない。たまたま入所中のひとが部屋で亡くなっているならしょうがないが、近々亡くなるとわかっている人を部屋に置いておくわけにはいかない。隣の人も前の部屋の人も不安がっている。だからここでは困る。」と。「うーん」納得させられてしまう。銀縁めがねの奥の眼は真剣だ。
ならば、こちらも真剣勝負。
「ここで逝きたいという強い意志、入院したくないと明言している。なんとかかなえてやりたい。もし○○館でダメなら他の簡易宿泊所への引っ越しを考えなければならない。今のこの体力状況では、引っ越し自体がきついきつい体力消耗につながる。決して周囲に迷惑をかけないから看取らせてほしい。」と懇願した。
じーっと考え込んでいたさきこは、「本人と話してみます」「夕方4時半にこちらからクリニックに電話します」と。

どこまでもしっかりした帳場だ・・・これ以上攻められない・・・。
スゴスゴとあきらめ顔で引き上げ、午後の外来診療に戻った。

→続く

ドヤは、どやってできたかーその2 

2012年05月09日 | ふらここ
 前のブログで寿町の歴史を書くつもりが、
「ドヤ」という言葉の由来だけで終わってしまいました。
 ゴールデンウィークもあけたことですし、
ちょっとまた歴史にお付き合い願いましょう。
 まずは、絵地図をごらんください。

(「横浜の礎 吉田新田いまむかし」より)


 描かれているのは明治3年の横浜です。
 中央の、釣り鐘型になった部分に注目。
 下部の黄色く塗られた一帯が関内です。
 波止場を境にして、向かって左側が外国人居留地、
右側が日本人町ですね。
 関内の上を川が横切っています。(現在、川はありません。
JR根岸線が走っています)
 そこを境目にして、釣り鐘型の上部を吉田新田といいます。
 
 ここは昔、入り海でした。
 江戸時代の初期に江戸から吉田勘兵衛という人が来て、
この入り海の干拓、埋立を行いました。
 それで吉田新田と呼ばれています。
 
 吉田新田と関内を囲んでいるのは、向かって右側が大岡川、
左側が中村川と堀川です。
 海だったところが徐々に陸地になり、田んぼや畑、
はたまた住宅地になっていったわけですが、江戸時代が終わり、
明治になってもまだ埋まらず、沼地状態の箇所がありました。
 それが関内のすぐ上、水色に塗られた長方形の部分です。
 区画整理の「南一つ目」にあたる場所だったので、ここは
「南一つ目沼」と呼ばれました。
 
 ちなみに、沼地の向かって右側、色の付いている場所には
遊廓があり、周辺は賑わっていました。
 現在の伊勢佐木町や羽衣町のあるあたりですね。

 この絵地図から三年後の明治六年、ようやく
南一つ目沼の埋立が完成しました。
 あれこれとたいへんなことがあったようですが、
長くなるので割愛します。
 ともあれこの時、幾つもの町が誕生したわけですが、
後々まで栄えるようにと願って、それらの町には
めでたい名前が付けられました。
 蓬来町、万代町、不老町、翁町、扇町、松影町など。
 寿町もそのひとつでした。

 遊廓は明治四年に火災で焼失し、高島町へ移りました。
 けれど明治七年には伊勢佐木町が誕生。
 芝居小屋などがたくさん建ち並び、横浜で一、二を争う
繁華街になりました。
 このあたりは「関内」に対して、いまでも「関外」と
呼ばれます。
 
 釣り鐘型の吉田新田には縦横に運河が流れ、
横浜の物流を水運で担っていました。
 まるでベネチアのように、ここを船が行き来していたのです。
 陸運の発達とともに運河はすべてなくなりましたが
いまでも横浜橋、阪東橋など、橋の名前だけは
地名として残っています。
 
 めでたい名前のついた埋め立ての町にも、市場や問屋、
工場などが続々とできていきました。
 大正八年の大火、大正十二年の関東大震災と、悲惨な
厄災もありましたが、賑わいは続きました。
 それを大きく変えたのが戦争です。
 横浜の中心部は米軍の空襲を受け、焼け野原になりました。
 終戦後は米軍によって、多くの場所が接収されました。
 寿町もその中に入っていました。

 長くなりますので、続きはまたの日に……。
 

なつかしい風景 by キム

2012年05月07日 | キムオク

新緑で美しい4月の上野公園。久しぶりの晴れ間に行き交う人の顔に木漏れ日が当たります。

友人の油絵を見に東京都美術館に急ぎます。11時過ぎに到着し、1時間ほど鑑賞してから美味しいお蕎麦屋さんがあると聞きその店を探します。

「音音」という名前だけを頼りに上野の山を歩くこととなりました。来るときには気づかなかった人々に目が行きます。

 こぎれいにしてはいますが野宿者です。ある人は背広をある人は作業服を、ジーパンを着るものでは見分けがつかないのですがそこは10年近くパトロールを続けた私です……いる、いる。あそこのベンチにもここのベンチにも……ざっーと数えたら20人。

 まるで日向ぼっこに出てきた池の中の亀さんのようです。あり余る時間の中で、大勢の人ごみの中で、目立たぬように座っている彼ら…。

 どの人も一人ひとり群れず、話もせず所在なげに行きかう人に関心を払うでもなく、公園に流れる南米の音楽を聴いているでもなく。それこそ上野公園という額縁の中の大きな絵の様に溶け込んでいます。

 60年前小学校に上がるころ、私の家族が上野に住んでいた時に毎日のように見ていた光景です。

 長い年月を経てもいる人々。戦後の混乱期に生きた彼らとは違うでしょうが景色は同じです。

 嬉しくなって、つい横浜にもこんな場所があったらいいのにと思いました。

 そのままでいいよ。見守っているよ。同じ時代を生きている仲間だよ。と声をかけたい衝動に駆られました。




セカンド・ベスト-3

2012年05月01日 | さなぎ達理事長 山中 修

彼の足が動かなくなったのはクリニックから歩いて帰ったその翌日の夕方だった。
ボルタレン座薬もよく効いて午前中は快適だったが、夕方に突然、彼の左足はしびれ、動かなくなった。同時に尿が出なくなった。びっくりした彼は簡易宿泊所の帳場さんへとつながる部屋に設置された呼び出しボタンを押した。病院でいうとナースコールのボタンと同じ意味合いのものだ。

今、寿の建設ラッシュは一息ついているが、この10年間、さなぎの成長とともに見守り型の簡易宿泊所が雨後のタケノコの様に立ち上がった。簡易宿泊所のオーナーさん達も鋭敏に街の変遷を観察していたのである。「これからは介護型のドヤになる」、こう感じた人たちは街のニーズを先取りした。もはや“ドヤ”ではない。新しい簡易宿泊所には車いすが楽々入れるエレベーター、バリヤフリーの廊下、リハビリ用の手すり、転んでもけがしない床、流し台は車いすの人でも使える高さに、そしてナースコールボタン、と、居住者のアメニティを徹底的に考慮した施設が次々に完成した。別に市議会や区議会で方針が決まったわけではない。公的ハコモノ予算ゼロで多数の福祉型簡易宿泊所施設が完成した。「このまま行けば寿全体が介護・福祉の街になる!」とみんなが感じていたから、そうなったのだ。「さなぎ」の活動はそこを実に先駆的にリードした。
新しい施設には、車いすやらオムツの世話となったかつての労働者達が、役所のケースワーカーの裁断で次々と移入した。それとともに旧式のドヤは壊され、跡地にはさらに設備の充実したナースコール付きの簡易宿泊所が創られた。それはさながら、高度経済成長期の建設ラッシュのようであった。この間、ソトブキ(寿の外)では“失われた10年”を迎えていた時期に一致する。
東京の山谷や大阪のあいりん地区と寿とが徹底的に違うのは、寿の場合、「ここからここまでが寿!」とはっきり区画(200mx300m四方)明瞭である点だろう。寿で生活していくことはつらい。この街から出たい人はいっぱいいる。が、なぜかまた、戻ってくる人も多い。なんや知らんが、この中にいれば安全!みたいな仲間意識的安心感が住民達に漂っているのも事実である。これも、セカンド・ベスト。そうぜざるを得ないあきらめ感ながらも、できうる最高のレベルを保とうと、人は毎日あがいているのかも・・・。「ソトブキも寿も同じよ!」といつも思う根拠はこのへんにある。

 彼の住む○○館も新型タイプであり、設備十分だが、帳場さんの紹介なくして寿は語れない。○○館の女性帳場がまたすばらしいプロ!!
一般的に、簡易宿泊所の帳場さんほど大変な仕事はそうあるもんじゃない、と私は思う。
酔っ払い対応、煙草の不始末、エレベーター内放尿脱糞、ハエ・南京虫・ゴキブリの退治、不良客のつまみだし、清掃、ゴミ出し、部屋代請求、弁当屋連絡、役所のケースワーカー相談、部屋内孤独死の第一発見等々。これを見事にこなす女性がいる!!彼の○○館の帳場さんがそうだ。写真を載せたいが・・(残念)。ちびまる子のお姉さんに似てるから、仮称「さきこ」にしよう。
さきこはすごい。責任感、熱意、他者へのアンテナ、対応、温かくかつ的確。化粧っ気もなくサバサバっとしているが、人として魅力十分である。母親似でぐうたらなまる子とは違い、自分のことはきちんと自分一人でするしっかりとした人物である点もよく似ている。これまでも「さきこ」は往診の時にたびたびご挨拶しているので、私の顔を知っていてくれている。「すばらしいなあ」いつも感心していた。

この「さきこ」がなんと、足の動かなくなった彼に「出てってほしい」と表明!!
『何なんだ!!!』が私の驚愕。
S介護が入った数日後の出来事だった。
さきこ説得のため、○○館へと向かった。

→続く