お気づきかと思いますが、このブログは
寿町に関わる複数の人間が適時、自分の伝えたいと
思うことを自由に書いております。
ですから背筋を正した一文のあとに、
いきなり脱力系がきちゃったりすることも
あろうかと思います。
ブログとしてはじつに一貫性のないキャラクターですが、
まあ、コトブキもいろいろあるんだな、いろんな人間がいて、
いろんな感じ方があるんだなと、できればその
バラエティーを楽しんでいただけたら嬉しいです。
で、私「ふらここ」は、今日、ふと、ここがなぜ
こういう町になったのかという歴史などを、
ご案内してみようかと考えました。
ドヤという言葉は、差別用語の中に入るようです。
新聞やテレビでは使われていませんし、うちの理事長
である山中先生も「その言葉はいやだ」とおっしゃってます。
でも、こっそり言うと、私は嫌いじゃないんです。
ここは簡易宿泊所街。宿の集まりです。
「宿」をひっくり返して「ドヤ」。それが語源です。
東京の山谷、大阪のあいりん地区、横浜の寿をさして
日本三大ドヤ街と言います。
要するに太平洋戦争で敗戦してどん底になった日本が、
必死に復興を目指していた頃、さらに高度経済成長の
波に乗って高速道路やら港湾やら高層ビルやらを
どんどん造っていた頃、その現場に従事する日雇い労働者達が
寝泊まりするために形成された場所のことです。
1945年に太平洋戦争終が終わった後、アジアでは
あらたな戦争が勃発しました。
1950年から1953年にかけての朝鮮戦争、
1960年から1975年にかけてのベトナム戦争がそれです。
そのどちらにもアメリカが大きく関与していました。
そして横浜には米軍基地がありました。もうそれだけで、
横浜港には大きな労働力の需要が生まれました。
複雑な気持ちではありますが、アジアの血で横浜は、
いえ、横浜だけではなく、日本は潤い、敗戦のどん底から
経済大国へと駆け上ったのです。
ドヤという言葉も、そういう時代に生まれました。
逆さ言葉というのは、マスコミ関係者がよく使いますよね。
じつは横浜の本牧が漁師の町だった頃、やはり逆さ言葉が
あったそうです。
言葉を後から読むのとはちょっと違いますが「大きい」を「小さい」
「強い」を「弱い」というふうに、わざと逆の意味を言うわけです。
でかい魚を釣り上げた時、「今日、ちいせえ魚がかかってよう」
という感じで、荒っぽさがうりの本牧漁師達が使っていたとか。
つまり、「ドヤ」というのも、活気のある場所で、
そこの男達自身が使い始めた言葉じゃないかな、
と私は想像するわけです。
そうするとこの言葉は、山谷にしろ、あいりん地区にしろ
寿にしろ、簡易宿泊所街が元気いっぱいだった頃の名残。
そもそも簡易宿泊所街と言っても「?」という顔をされ、
「だからいわゆるドヤ街で」と説明すると、
ようやく頷いてもらえたりします。
私としては、簡易宿泊所街と言い換えても、いまのところ、
とくにいいことはないような気もするのです。
もちろんこれは「さなぎ達」ではなく、
「ふらここ」個人の感想だということをお断りしておきます。
あれ、長くなってしまいましたね。歴史は次回、必ず……。
(続く)
ポピーの季節になりましたね。
はかなそうに見えて、ほっとくとどんどん増えるこの花、
大好きです。