NPO法人さなぎ達ブログ

横浜市寿地区や近隣地域を中心に社会的生きづらさを抱えている人々を対象としながら活動を行っているNPO法人です。

「さなぎ達」とは

日本三大寄せ場の一つである、横浜市寿地区、寿周辺地区を中心に、路上生活者及び路上生活に至るおそれのある人々が、自ら自立に向かいやすい環境を整える「自立自援」を主な目的とし、メンタルを一番大切にしながら「医・衣・職・食・住」の各方面で活動しているNPO法人です。

セカンド・ベスト-2

2012年04月28日 | さなぎ達理事長 山中 修
2時間ほど眠ったあとの、第一声はすっきり。
「こんなに眠れたのは久しぶりです。」

たかが、ボルタレン座薬50mg一個。
薬って、ホントにその人がそれを必要とするときに、タイミングが合えば、バッチリと効くんだ・・。
それとも、安心が効いたのかな?

痛みが緩和された彼に病状の説明を始めた。
ポーラのクリニックでは説明第一。
説明(せ)→理解(り)→納得(な)がなければ、「満足(ま)」にはつながらない。
「せりなま」は医療のイロハ。
ところが、寿ではこのイロハの通じないひとがけっこういる。
多くはケースワーカーから初診で往診を依頼される場合で、このタイプは暴言歴で近隣病院の受診禁止になっているヤカラが多い。
先週もそうだ。
訪問看護師から、「先生ちょっと褥瘡みて!」と依頼されて簡易宿泊所往診。
たいした床ずれではなく、その対策方法を本人にクダクダ説明しようとしたが、「もういいよ!!、もう帰れ!!二度とくるな。めんどくさい。」
と、こうなる。
医者に任せればすべて治してくれるもんだ、と、こう思い込んでる。
直ちに治らないと「ヤブ」呼ばわり。
ヤブは認めるが、おまえに言われる筋合いはない。
こういう患者は深追いしない。
今日はダメでもまた必要とされる日がくるわさ。
だって、寿で往診するのオレしかいないんだもん。
ということで、たとえ罵声を浴びても、
「オメエには選択の余地ないの!」
と、思うと腹も立たない。これもセカンド・ベスト。

幸いにも今回の彼はジェントルマン。
病状を説明してる時もおだやか、静かなまなざし。
おそらく、入院先で何度も同じことをきいたんだろうな・・・わりいな・・
と思いつつ、ホスピスの選択肢も含めて、今後の予想されることを伝えた。
その後の彼の答えはこうだ。

「住み慣れた部屋で逝きたい。」
「おかげで今日は歩いて帰れる。」
「ヘルパーさんが入ってくれるなら、一日一回お願いしたい。」
「それがかなわないなら、みとりの施設へ入る。」

よほど強い意志で寿で20年生き抜いてきた人なんだろう。
静かだが、強い眼力(めぢから)ではっきりとそう伝えられた。
「なんと、応援しがいのある患者だ・・」

Nケースワーカーへの電話のなかで、最近おつきあいを始めたN訪問看護、おもいやり熱血男性ヘルパー軍団のS介護を指定した。
さらに、万が一を考えて鶴見区H病院・ホスピス病棟へのケースワーカーと本人の見学を薦めた。
しかし、最近のホスピスは待たされるのが常。半年以上なんてザラ。
シュールな話だが、亡くなり逝くのに順番待ちで結局間に合わないことになる。

最近の急性期病院は治療方針が決まれば即退院。
老人保健施設では、責任取るのが厭でみとりをしない。
ホスピスは半年待ちで余命より長く待たねばならない。
在宅医療では家族の受け入れができない。
我々の死に場所はどこ?
その確保さえできてないこの国。
看取られ難民が流浪している。


「可能なうちは歩いて通院を、無理なら訪問診療へ切り替え」
「痛みのコントロールが山中では無理な場合は入院を」
これらを条件に、この患者さんをできる限り今の簡易宿泊所(○○館)内で看取ることに決心した。

しかしながら、新たな問題はすぐに訪れることになる。

→続く。

神様と文通(byふらここ)

2012年04月27日 | ふらここ
 「さなぎの家」でお茶を飲んでたら、
五十がらみの眼光鋭いおじさんが前に座った。

 「ねえさん、このへんに住んでるのか?」

 私はねえさんどころか、ばあさんと呼ばれても
仕方のない歳なのだが、ここの男達は女性に対する
礼儀を心得ているらしい。

 「うん、ここから歩いて20分くらいのとこ」
 「そうか。なんか仕事してんの?」
 「まあ、少々」
 「どんな仕事?」
 「机に座って、ちょっと文章を書いたりとか……」
 「簿記か?」
 「……そんなものかな」
 「そうか……。なあ、ねえさん、俺と文通しないか}
 「文通って……どんな手紙書いてくれるの?」
 「おれはずっとカジノで働いてきたんだ。
 トランプの“手”が透けて見えるんだよ。
 じつは神様なんだ」
 「神様……」
 「それをちゃんと書き残しておきたいと思ってさ」
 「おにいさんの仕事は、ギャンブル? パチンコとか
競馬とか競輪もやるの?」
 「いや、カジノのカードだよ、俺は。
 競馬とか競輪は、ノミ屋の胴元もやったけど、
おれはやっぱり神様だからな、カードだよ。
 新宿の歌舞伎町で生まれて、それからずっと。
 フィリピンなんかも行ったけどな。
 敗けたことないから」

 神様は勝っても貯金なんかしなかったらしい。

 「ねえさん、読んでくれるか、俺の手紙」
 「はい、読ませてもらいましょう」
 「感想、くれよ」
 「はい、必ず」

 というわけで、「さなぎの家」経由で文通することになり、
 彼と私はお互いの名前を書いた紙を交換した。
 彼の名前の上には、しっかり「神様」と肩書きがついていた。
 私はこの文通によって、カード賭博の神髄を知ることになるらしい。

 
 ああ、海が見たいなあ……。

 

何故「寿町」なの?(by キム)

2012年04月25日 | キムオク
 
 なぜ「寿」か?って……ほっとする場所なのです。

 私は何故か日本人の街で育ちましたが、親族は中華街の裏にある通称「朝鮮人」に住んでいました。

 その町は中国人や朝鮮人が混ざって住んでいたので、とてもにぎやかでした。にぎやかな所が好きだったのと、子供のころから自分の自出を隠す生活から解放される唯一の場所でした。

 その時の思いが寿町につながります。

 「ありのままの自分でいい」。そんな場所はそうはありません。

 寿大好き!

 良い面も、悪い面も全部含めて大好き!

 日本中が寿町の様だったら私は子供たちを海外に送り出さなかったでしょう。

 これから少しずつこの街を紹介しますね。

ドヤは、どやってできたか。

2012年04月23日 | ふらここ
 お気づきかと思いますが、このブログは
寿町に関わる複数の人間が適時、自分の伝えたいと
思うことを自由に書いております。
ですから背筋を正した一文のあとに、
いきなり脱力系がきちゃったりすることも
あろうかと思います。

 ブログとしてはじつに一貫性のないキャラクターですが、
まあ、コトブキもいろいろあるんだな、いろんな人間がいて、
いろんな感じ方があるんだなと、できればその
バラエティーを楽しんでいただけたら嬉しいです。
 で、私「ふらここ」は、今日、ふと、ここがなぜ
こういう町になったのかという歴史などを、
ご案内してみようかと考えました。

 ドヤという言葉は、差別用語の中に入るようです。
 新聞やテレビでは使われていませんし、うちの理事長
である山中先生も「その言葉はいやだ」とおっしゃってます。

 でも、こっそり言うと、私は嫌いじゃないんです。
 ここは簡易宿泊所街。宿の集まりです。
 「宿」をひっくり返して「ドヤ」。それが語源です。
 
 東京の山谷、大阪のあいりん地区、横浜の寿をさして
日本三大ドヤ街と言います。
 要するに太平洋戦争で敗戦してどん底になった日本が、
必死に復興を目指していた頃、さらに高度経済成長の
波に乗って高速道路やら港湾やら高層ビルやらを
どんどん造っていた頃、その現場に従事する日雇い労働者達が
寝泊まりするために形成された場所のことです。

 1945年に太平洋戦争終が終わった後、アジアでは
あらたな戦争が勃発しました。
 1950年から1953年にかけての朝鮮戦争、
1960年から1975年にかけてのベトナム戦争がそれです。
 そのどちらにもアメリカが大きく関与していました。
 そして横浜には米軍基地がありました。もうそれだけで、
横浜港には大きな労働力の需要が生まれました。
 
 複雑な気持ちではありますが、アジアの血で横浜は、
いえ、横浜だけではなく、日本は潤い、敗戦のどん底から
経済大国へと駆け上ったのです。
 
 ドヤという言葉も、そういう時代に生まれました。
 逆さ言葉というのは、マスコミ関係者がよく使いますよね。
 じつは横浜の本牧が漁師の町だった頃、やはり逆さ言葉が
あったそうです。
 言葉を後から読むのとはちょっと違いますが「大きい」を「小さい」
「強い」を「弱い」というふうに、わざと逆の意味を言うわけです。
 でかい魚を釣り上げた時、「今日、ちいせえ魚がかかってよう」
という感じで、荒っぽさがうりの本牧漁師達が使っていたとか。
 
 つまり、「ドヤ」というのも、活気のある場所で、
そこの男達自身が使い始めた言葉じゃないかな、
と私は想像するわけです。

 そうするとこの言葉は、山谷にしろ、あいりん地区にしろ
寿にしろ、簡易宿泊所街が元気いっぱいだった頃の名残。
 そもそも簡易宿泊所街と言っても「?」という顔をされ、
「だからいわゆるドヤ街で」と説明すると、
ようやく頷いてもらえたりします。
 私としては、簡易宿泊所街と言い換えても、いまのところ、
とくにいいことはないような気もするのです。
 もちろんこれは「さなぎ達」ではなく、
「ふらここ」個人の感想だということをお断りしておきます。
 あれ、長くなってしまいましたね。歴史は次回、必ず……。
(続く)

 ポピーの季節になりましたね。
 はかなそうに見えて、ほっとくとどんどん増えるこの花、
大好きです。

  

セカンド・ベスト

2012年04月21日 | さなぎ達理事長 山中 修
その男はもの静か。
もう、何もかもあきらめていた。
ぜんぶ、受け止めていた。
ただひとつを除いて。
残された一つの希望とは、
「20年間住んだ寿で死にたい。」

3月12日、アポなし初診。
【主訴】看取られたい。
63歳。診断:直腸癌の肺転移多発。
雪つぶての画像はこの先の予後の短さを伝えている。
「一ヶ月くらいかな?」
カルテに絵をかきながら何となく感じるが、
いつも、それは患者には言わない。
外れると申し訳ないから。

通常、みとりの場合は病院やケースワーカーから、前情報があるはずなのだが・・・。
患者本人が独りでやってきた。
歩けば5分のところ、痛かったのだろう、タクシーで初診。

「H病院にて、末期予後3ヶ月と言われた」
「3ヶ月入院して病院で死ぬ気にはなれなかった」
「一ヶ月前から痛くて行動できない。腰の痛みで眠れなくなってきた。」
「痛みさえ取ってくれれば、まだ動ける。寿で20年生きてきたんだから。これまで20年自分でやって来られたんだから。」
「ここだったら、先生が何とかしてくれる、と街で聞いて来た」

胸と腰のレントゲンを撮った。
胸は添付画像のごとき悲惨な状態。
幸いにも腰骨はつぶれていない。
整形外科医でなくてもそれぐらいは読める。
あるけるうちに、残された時間を好きに移動させてあげたい。

「急遂、みとりチームを結成する必要がある!!」
「こまったな・・・ さなぎKMVPは今、断崖絶壁状態だし・・・。金銭的人的に疲れ果てた川崎使えないしな・・・。」
とりあえず生保担当のNケースワーカーに電話をした。
「急拠、みとりチームを結成したいから、N訪問看護ステーション、S介護に連絡します」
Nケースワーカーから二つ返事でOKが出た。
7年間のクリニックの暖簾には信頼性があるようだ・・・。
反応の良さにわずかに自信をもった。
「希望通り見取れるかもしれない」
やれるだけ、やれるとこまでやってみよう。
循環器医時代、いつもこのスタンスで急性期心疾患を診てきた。
今やれることを、自分がやれるだけ、やってみる。
いつも、チ-ムのメンバ-に言い続けてきた。
“セカンド・ベスト”でいい。
家族のいるみとりは言うまでもなくベスト。
我々は家族のいない患者を看取る、それはセカンド・ベストの世界。
セカンド・ベストを尽くし遂げたとき、それはチーム一人一人の中では
ALMOST BESTになっている。
看取られる患者にこのチームのセカンドベストを伝えて行く。
プロの作業が始まった。

とりあえず、座薬で痛みがとれた患者は隣の部屋で眠り始めた。

→続く




水の守護神

2012年04月19日 | さなぎ達理事長 山中 修



【上】山下公園「水の守護神」の背中。右側にはご存じ氷川丸のマスト

【下】女神の正面像 左側には 山崎洋子近著「横浜の時を旅する (ホテルニューグランドの魔法) 」に紹介された、みなさんご存じのニューグランドホテルの新館。

毎朝出勤前、山下公園の散歩をしている。
一周すると2000歩になる。
もう5年になる。 
季節の変わり、訪問者の変わりに気づく。
近年増えたのは、ポーラのクリニックの患者の散歩おじさんと中国人観光客。
前者は寡黙、後者はにぎやか。

今朝の公園は学生服・セーラー服多数!
あ~、修学旅行が戻ってきた・・・・。
昨年の春だけ、ぽっかりと抜けてしまっていた修学旅行が戻ってきた。
なんだかホッとした。
ピーチクパーチク言いながら、「赤い靴の女の子」や「水の守護神」の写真撮影。

実は、私も中学の修学旅行で横浜に立ち寄った。
生まれて初めて買ってもらったカメラ(白黒)で「水の守護神」を撮影したときのことを、鮮明に覚えている。
「背中からとらないと、逆光になる。残念だな・・。」「もう二度と見ることないから、背中からでもいいから撮っておこう。」と思いつつシャッターを押した。上の写真と全く同じ構図。
あれから45年、毎日この像を見ることになった。

まさか、あの頃、寿っていう街があることさえ知らなかった。
そこで、みとりの医療をやるなんて、想像外のそのまた外のソト。

どうしても、「45年前もオジサンはキミタチと同じようにここで写真を撮ったんだよ」と伝えたくて ウズウズ。
我慢できなくで、引率の先生に声かけた。
子供達は、大船渡市立赤崎中学3年。校舎全壊だそうだ。
震災と津波を生き抜いた子供たちは、キャアキャア言いながら「水の守護神」の写真を撮っていた。
大反省したのか、震災後しばらく噴水停止していた水の女神さん、今度はがんばってよ!
もう津波はいらないからね。

寿の街は山下公園から中華街を突き抜け、元町と反対側の石川町の駅出口を越えて歩いて3分のところにある。
さなぎの家や食堂にぜひ見学に来てください。

ガムと50円玉

2012年04月18日 | ふらここ
 中区の法外援助にパン券というものがある。
 ホームレスを対象に発行されており、寿町にある特定の
スーパーなどで食品、日用品など714円分を購入することができる。
 また、さなぎ食堂へ行けばこの券一枚で三食、
温かい定食を食べることができる。

 何年か前、中区役所にあるパン券発券場へ一人で行った。
 私はホームレスではないのでその券をもらうことはできないが、
当時はまだ寿町に出入りし始めたばかり。
 どんなところなのか見ておこうと思ったのだ。

 服装も顔色もくすんだ男達が、フロアにひしめいていた。
 名前を呼ばれると窓口へ行って券を貰う。
 並んだベンチの空いている場所を捜して、私は腰掛けた。
 無表情な人の群れを、ただ眺めていた。

 私の隣が空いた。そこへ六十がらみのおじさんが、
よろよろと倒れ込むように座った。
 他の男たち同様、着た切り雀の汚れたジャンパー。
 どこかで転んだのか、顔が擦り傷だらけだった。

 おじさんはひとつ大きな息をつき、ふとこちらへ顔を向けた。
とたんにのけぞり、まじまじと私を見て言った。
 「どうしたんだよ、あんた!」

 男ばかりの中に、ぽつんと女がいたので驚いたらしい。
 なにか言わなきゃと、私は口を開きかけた。すると、
おじさんはそれを封じるように急いで手を振った。
「いいよ、いいんだよ」
 そしてジャンパーのポケットから封を切ったガムを取り出し、
一枚抜いて私の手に押しつけた。
 「人生、いろんなことがあるよな。だけど頑張れよ」
 おじさんはそれだけ言って立ち上がり、また男達の群れの中に
よろよろと入っていった。

 ガムは生あたたかく、形は歪んでいた。
 ポケットの中で彼が握りしめていたのだろう。
 私は銀紙を剥がして口に入れ、ゆっくりと噛みしめた。
 甘い香りが広がったとたん、ある記憶がよみがえった。

 あれは10歳の時。私は祖父と、祖父の再婚相手と
一緒に暮らしていた。
 両親は離婚して、二人ともどこかへ行ってしまった。
 私は父方の祖父母に引き取られたのだが、私が9歳の時、
祖母が自殺して祖父だけになった。
 祖父はどこからか相手を見つけてきて、ほどなく再婚した。
 新しい祖母は某宗教に夢中で、朝から晩までお題目を唱えていた。
 私のことは、野良猫を見るような目でしか見なかった。

 ある日、その新しい祖母からお使いを命じられた。
 何を買ってこいと言われたのか忘れたが、50円玉を
一個持たされて家を出た。
 ところがそのコインがどこかで手から滑り落ちたらしい。
 気がついたら無くなっていた。

 落としたと言っても絶対に信じてくれないだろう。
 買い食いでもしたに違いないと決めつけられ、こっぴどく怒られる。
 私は道を行ったり来たりして必死に捜していた。
 すると一人のおばさんに「どうしたの?」と声を掛けられた。
 
 顔だけは知っているが、口をきいたことはない人だ。
 お使いのお金を落とした、と言うと、おばさんの目から
たちまち涙が溢れた。
「わたしはね、あんたを見るたび、かわいそうでしかたがなくて……」
 狭い町の中だ。うちの家庭事情はみんなが知っている。
「さあ、これをあげるから。頑張るのよ」
 おばさんは財布から五十円玉を取り出し、私の手に握らせた。

 彼女は貧しい未亡人だった。鯛焼きの屋台を引いて二人の子供を育てていた。
 当時、鯛焼きは一個五円くらいだったから彼女にとってその50円は貴重なものだ。
 なのに、私にくれた。

 パン券発券場で私がもらったガムも、ホームレスのおじさんにとっては
貴重なものだったはずだ。
 それを見ず知らずの私に、「頑張れよ」と言って分けてくれた。
 
 二人とも私のことなどとっくに忘れているだろう。
 でも私は決して忘れない。
「頑張れ」という言葉、あまり好きではないけど、
二人から言われた「頑張れ」だけは、いまだに心を熱くしてくれる。

夏物衣類の募集開始します

2012年04月13日 | 事務局より
いつもご支援ありがとうございます。
ここ数日は横浜市内も暖かくて、薄着の人を多く見かけるようになりました。
そこで、今年は先行して、早くも夏物衣類の募集を開始させて頂きます。
春物と並行して募集しますので、ご不要なものがございましたら、一緒にご寄付頂ければ幸いです。

現在募集中の物資
男性の春物・夏物衣類(半そで、薄手の長そでのシャツ、トレーナー、スウェット、ズボンなど)
薄手の下着や肌着、靴下もお願いします!
生活用品・・・歯ブラシ、石鹸、粉洗剤など
現在カミソリが不足しています!
お菓子などの嗜好食品
利用者さんに提供して、憩いの場の効果UP!
お米、野菜、調味料などの食材
食堂の経営を助けて下さい!

皆様のご支援・ご協力、宜しくお願いいたします。

明日は気温が下がるようなので、体調を崩さないようにご自愛下さいね。

イオン幸せの黄色いレシートキャンペーン

2012年04月11日 | 事務局より
今日は花散らしの雨ですね…
満開だった桜の花びらが散ってしまっています…
桜吹雪も、道路に散った花びらのじゅうたんもきれいですが、やっぱりちょっと残念です

さて、以前ブログでもご紹介しましたが、毎月11日はイオンデーです。
「幸せの黄色いレシートキャンペーン」が開催されています。

幸せの黄色いレシートキャンペーンとは
毎月11日のイオン・デーには、イオン各店に、地域のボランティア団体などの名前と活動内容を書いた投函BOXが置いてあります。この日は、レジ精算時に受け取られた黄色いレシートを応援したい団体の投函BOXへ入れると、お買い上げ金額合計の1%が地域ボランティア団体などに希望する品物で寄贈される社会貢献のキャンペーンです。
詳しくはこちらをご覧ください。

「さなぎ達」は、昨年からイオン本牧店に登録させて頂いています。
本日は、2011年下期の贈呈式が行われました。
2011年下期(2011年9月~2012年2月)の期間中、イオン本牧店でご投函頂いた黄色いレシートの合総額は38,295,726円でした。
この金額は、エリア内では2番目の成績とのこと。
イオン本牧店のお客様の社会貢献度の高さがわかります!

さなぎ達へご投函頂いたレシートの投函金額は2,090,738円でした。(1年分を合算して頂いたので前期の投函分も含む)
おかげさまで、その金額額の1%のにあたるギフトカードを頂戴しました。
「さなぎの食堂」で提供するお米の購入費用に活用させて頂く予定です。
ご支援・ご協力頂いた皆さまに、お礼申し上げます。
ありがとうございました。

買い物されたレシートを投函するだけで、どなたでも簡単に参加できる社会貢献です。
全国のイオンで開催されていますので、是非11日は、お近くのイオンでお買い物を!
皆さまのご協力、宜しくお願い致します。

オババ

2012年04月09日 | さなぎ達理事長 山中 修

はこのエレベータのビルに住んでいる。
このエレベーターは、1と4と9しか数字がない。他の階には止まらない。
なんという数字!!
「ナニコレ??」に出品したいような、皮肉なエレベータ-。ラッキ-7とか、末広がりの8とか、選ぶ発想はなかったんだろうか?

前回川崎が紹介したオババは、体の小さな身軽な茶色のバアちゃん。
医師法に抵触するんで病名は言えない。
オババは寿に50年以上住んでる。
コノハヅクみたいな顔したバア。寿では知らないひとはモグリである。
オババとはもうかれこれ12年の付き合いになる。
天気が良いとだいたい センターの端っこの道ばたにネコと座ってる。
オババ「ジャマナカ-!」「元気だよ~!」「あたしゃタバコやめないよ~!」
山中 「いつでも看取ってやっからな~」
顔あわすたびこんな会話。

一回も患者として診たことはなかった。
1月に初めて受診。「咳がよ-。止まらないんだよ~」。診察したら×××。
すぐ大病院に紹介したが、2回受診しただけで戻ってきた。

オババはデイ・サービス大好き。
寿には近年デイ・サービスが雨後の竹の子の様に、にょきにょき、いっぱい。
「ばあちゃんくるから」とみんなが待っててくれるし。「なんつうったってフロがいいね」と。

二人きり(山中と本人)で今後の方針のカンファレンスをした。

寿の人々はきらいだけど 死ぬなら今のところでいい。 
いまのところで みんなで馬鹿言いながら死にたい。
あたしゃにぎやかなのが好きなんだよ。
教会はまたいきたいけど、死んだら
とくおん寺のむえんぼとけでいい。

このエレベータのあるところに、ネコ2ヒキと住んでる。
最近 すっかり突っ張りがなくなってしおらしい。
「あたしゃジャマナカ!しか呼ばないよ!」「先生なんて呼ばないよ。」、と12年間言い続けたのに・・・。
往診終わって帰る時、いつも床から大声で「やまなかせんせい、ありがとう。」と。
みとり用携帯番号教えたら3日に一度はかかって来る。
「オババ」で登録してあるから、携帯の着信歴見ると、オババ オババ オババ。

みとりチームのメンバーが入れ替わり立ち替わり、動けなくなったオババを見舞ってる。人が好き、にぎやか好き。今 ひょっとしたら人生で一番幸せなのかも。みんなが見ているから。もう突っ張らなくてもいいんだよ。

オババと祖母フサコ(KMVPの巻)

2012年04月06日 | モトコ
2、3週間前からKMVP(寿みまもりボランティアプログラム)の看取り訪問で、
通称 オババ(77歳)のところに訪問している。

今日も薬を届けがてら、一時間半程オババと馬鹿話をしていた。

はじめてオババに会った時「フサコ(祖母:83歳)にソックリだ!これは大変だ!!」
と思わず心の中で叫んでしまった。

ちなみに、子供の頃私はフサコのことがコワくて、コワくて仕方なかった。そして思春期の頃は「このクソババァー」とよく大喧嘩をしたものだ。(うちの家系はとにかく我が強い。)

なんでも思ったことを言ってしまうところ、
とにかく口が悪いところ、
声がデカイところ、
自分のことを「俺」って言うところ、
テキパキ一人でこなしちゃうところ、
家事に厳しいところ、
義理堅いところ、
そしてどこか憎めないところ…とにかくフサコにソックリだ。

今日、オババに「わたしのおばあちゃんにソックリだ」と伝えたら、
「今度おばあちゃんに、横浜にソックリなやつがいたと伝えておけ」と大笑いしていた。


オババは、「さなぎの家」の立ち上げ当初の常連さん。
昨日は「さなぎの家」の櫻井と訪問したら、
「お互い年取っちゃったね…来てくれて、嬉しいよ。さびしいからまた遊びに来てくれよ」涙目になりながら喜んでいた。


オババ「5月になったらよ、三吉橋で柏餅を買ってきてくれよ。毎年あそこで買って世話になっている人に食わしてやっているんだ」
私「わかったよ。」

5月か…オババ生きているかな。


オババと馬鹿話をしていると、
今抱えている悩みや課題を忘れさせてくれる。
そして東京にいる祖母フサコのことを思い出させてくれる…


仲良くなればなるほど、別れが辛くなるのがこの活動の定め。
オババとの別れは相当悲しくなるなぁ。
オババとの残された時間、後悔なく楽しく過ごそう。

そして、正月に「おまえ酒飲み過ぎだ!」と怒られて以来会っていないフサコにもそろそろ会いにいこうと思う。




4月に入り、持ち回りでこのブログを更新することになりました。
良くも悪くも様々なことが起こる「さなぎ達」…
ブログを通して、さなぎ達の日常を感じていただけたら幸いです。


カワサキモトコ


野球観戦チケットのご寄付

2012年04月05日 | 事務局より
プロ野球開幕しましたね
今シーズン一番の注目は、やっぱり「横浜DeNAベイスターズ」ではないでしょうか?

「さなぎ達」は、毎年、横浜市社会福祉協議会善意銀行さんより、観戦チケットのご寄附を頂いています。
「さなぎの家」(横浜市中区寿町)は、横浜スタジアムまで歩いて行ける距離にあります。
今年もオープン戦の頃になると「またチケットもらえるかな~」「野球の応援に行きたいな~」と、さなぎの家では話題になっていました。
そんな利用者さんの期待にお応え頂き、今シーズンもチケットを頂けることになりました!
みんな大喜びです。ありがとうございます。
昨日は負けてしまいましたが、今日の中日戦も、今から楽しみにしている様子です。

野球が盛り上がって、横浜の活性化、更には寿町の活性化にも繋がれば何よりです。
もちろん、野球観戦前の腹ごしらえは「さなぎの食堂」でどうぞ

【お知らせ】
木曜パトロールは、今月より第2、第4木曜日に実施いたします。本日の活動はございませんので、参加予定の方はご注意下さい。
*参加者随時募集中!詳しくはこちらから。

おかげさま

2012年04月03日 | さなぎ達理事長 山中 修
で さなぎ達は認定NPOとなりました。
認定NPOとは、国税庁の厳しい審査を受けて「怪しいNPOではないから、みんな応援してあげてね」という、いわゆる国家認定のお墨付きNPOであります。
今回発行の「さなぎ通信」のご挨拶にも触れましたが、改めてブログの場をお借りして、これまでのご支援に感謝申し上げます。
実は12年前、サナギがNPOに認められたのは神奈川県だか横浜市だかのトップだったと記憶しています(違ってたらすみません)。しかしながら、この12年間、なりたいなりたいとあこがれ続けた認定NPOにはなかなか申請には至らず、結局、県では60数番目(違ってたらすみません)。となりました。遅れた原因には複合的なものがありますが、「さなぎ食堂」が営利事業であると見なされたこと、また「10年先を見据えて」あまりにも先を走りすぎて活動内容の斬新性と先駆性が評価されて助成金や協同事業として社会的に認知支援されてしまったことも、未「認定」で存続できた要因でした。
しかしながら、震災を契機にご寄付も含めて世の中の目は被災地へ。
それは、サナギの危機につながりました。
今回、法律の改定もあり、ようやく認定NPOへの昇格ができました。
これをきっかけに、さなぎの脱皮を目指したいと思います。経済的対策と広報活動に力を注ぐ方向です。
ホームページではブログのコーナーに、 寿の街やさなぎの多面的なご紹介や自己紹介を 、現場のスタッフや理事達がお伝えしようと思います。お読みいただいて寿に興味を抱いてサナギを訪れていただけたら望外にうれしいです。
駄文やらお笑いやら写真だけになってしまう日もあろうかと思いますけど、大目玉でなく大目に見てくださいませ。
 引き続きよろしくご支援をお願いいたします。

認定NPO法人 「さなぎ達」 理事長  山中 修