NPO法人さなぎ達ブログ

横浜市寿地区や近隣地域を中心に社会的生きづらさを抱えている人々を対象としながら活動を行っているNPO法人です。

「さなぎ達」とは

日本三大寄せ場の一つである、横浜市寿地区、寿周辺地区を中心に、路上生活者及び路上生活に至るおそれのある人々が、自ら自立に向かいやすい環境を整える「自立自援」を主な目的とし、メンタルを一番大切にしながら「医・衣・職・食・住」の各方面で活動しているNPO法人です。

起承転結-奇妙な出会い 2

2012年10月30日 | さなぎ達理事長 山中 修
Aは現在38歳、男性。 

2005年2月、31歳時にポーラのクリニックを生活保護受給者として初診。
7年後の今は、簡易宿泊所にて孤独患者のみとりを行うすばらしい介護会社の有力ヘルパ-である。もちろん生保を離れて納税者となって久しく、山中のみとりチームに欠かせない重要な男だ。
そのAが10/18に劇的に奇妙な出会いを経験した。
そのストーリーをシリーズもので紹介したい。今回は2回目。
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初診時
「飲酒はもう絶対にしない」「発疹がでるので抗酒剤は飲んだふりして捨てている」
「もう3ヶ月酒は飲んでいない。これからも飲まない」「アルコール依存で生保につながっているので、抗酒薬はのまないと生保を切られてしまう」「ポーラのクリニックでアルコール依存もみてほしい」「もう一度やり直したい」

こんな発言から通院が始まった。ろれつは悪いが気持ちは良く伝わってくる。

Aと話して決めた治療方針は3つ
〇抗酒薬は発疹が出るからポーラのクリニックでは半量にして様子をみよう。
〇皮膚病変をみるために、毎週通院して話しをしよう。
〇「もう一度やり直したい」なら、何を目標に再出発するか、一緒に考えよう。

皮膚科を進入門戸とした元路上生活のどん底のアルコール依存者が、とてもひとりでは見いだせない暗いトンネルのわずかな針穴のような出口をみつけた瞬間である。

「海の魚は海にすむべき。川の魚は川にすむべき」
これまで何人かの人たちにかけた言葉。
海の魚が川にすむと苦しくって苦しくって・・・。

これまで居場所を見いだせなかった若者が、すむべき居場所を見つけたとき、一目散に出口ゴールに向かって走り始めることがある。
さなぎの家、食堂、ポーラのクリニックから新しい社会へと巣立った人たちは決して少なくないが、中でもAの泳ぎは速かった。すむべき水を得た魚だった。

提示したゴールは介護ヘルパー。
理由は、苦労した人ほど弱者に寄り添えるから、加えてAの実直さがヘルパー向きだったから。

当時のカルテを振り返ると、

17/2/1初診
3/22 抗酒薬半量にて発疹軽快。
3/28 ヘルパー講習開始
4/16 アルコール依存者収容施設の施設長へ、「抗酒薬中止」を指示。
5/13 さなぎの理事が勤務するK介護会社へ。ここには元路上の先輩ヘルパーも多 い。みんな、さなぎを入り口にした人たちだ。同じ苦汁を味わった仲間である先輩達の実習指導は温かい。
10/31 区役所に提出する生活保護医療要否意見書の病名を書き換えた。皮膚科-治癒。アルコール依存症-治癒。新しい病名「自律神経失調症」「うつ病疑       い」。新病名は定期的にポーラへ通院するためだけのもの。月二回、カウン      セリングとして顔を見てただ話しを聴いた。元々精神科や心療内科やカウン      セリングなんてやったことも無い循環器内科医。ただ話を聴いた。投薬など      なかった。

11月
仕事のない昼間はさなぎの家へ通い、ヘルパーとしてKMVP前身のみとり活     動にも参加した。
みとりは彼を深く落ち込ませた。が、みとりのたびに顔つきが目つきが変わっ     ていった。

以下続く。

起承転結-奇妙な出会い 1

2012年10月20日 | さなぎ達理事長 山中 修
Aは現在38歳、男性。 

2005年2月、31歳時にポーラのクリニックを生活保護受給者として初診。
7年後の今は、簡易宿泊所にて孤独患者のみとりを行うすばらしい介護会社の有力ヘルパ-である。もちろん生保を離れて納税者となって久しく、山中のみとりチームに欠かせない重要な男だ。
そのAが一昨日(10/18)に劇的に奇妙な出会いを経験した。
そのストーリーをシリーズもので紹介したい。

Aは2005年二月、鶴亀(仮称)診療所より皮膚病の治療目的でポーラへ紹介されてきた。
当時は、路上生活からはまかぜ(寿にある公的ホームレス収容施設)を経て、アルコール依存症の人たちが集団で入る近くの施設に入所中だった。

初診時には人生背景をできるだけ聞くようにしている。
普通の皮膚科医とは違うところがポーラの特徴だ。
以下カルテより転載。

19歳、新聞配達、オートバイ事故自損。一年入院。脳挫傷瀕死、気管切開、回復。退院後新聞、等々いろんな仕事。言語顔面麻痺の障害のため身障5級。障害が理由で仕事を転々。施設の当直、社内便仕分け、警備員、背広の販売。社会になじめず酒量増加。幻覚出現。家族と衝突。母親在横浜を頼って来横。しかし家出して一年あってない。路上生活となり寿へ。

2年間アルコール依存にて生保受給。鶴亀診療所に通院。 
今は酒全く飲んでない。
アルコール依存専門施設に入所中なので、義務でノックビンもらってるが、飲んだふりして薬は捨てている。もう飲む気はない。やり直したい。

〇×病院脳外科で脳MRI大丈夫。脳波OKでてんかんけいれん歴なし。
昨年暮れ、風邪気味で微熱。ジスロマック+シアナマイドで全身真っ赤な発疹。
本日の背部湿疹とは異なる形。かゆみはなし。

当院で皮膚科通院希望

血圧120/70
左顔面神経麻痺 運動も感覚も70%程度。
左目完全失明
バレー陰性、歩行OK DTR左右差なし 小脳症状はなし
左半身感覚障害なし。
脳神経症状は 左眼球失明による障害と顔面神経のみ(末梢)
言語機能: ろれつ滑舌悪いがコミュニケーションにに支障なし
胸部レントゲンNP
心電図NP


尿検査 ウロビリ- 潜血-  白血球- 蛋白-  糖- 
    ph5 比重1020

ノックビンどうするか?
要検討
皮膚科でつながりながら、
ジョブトレーニング・・・さなぎで?

<E>
禁煙ビデオ。禁煙を長期的に指導。
ヘルパー向きかな??

その後のAの紹介は次へと続く。

さなぎ達通信

2012年10月18日 | 事務局より
「さなぎ達通信」の最新号が出来上がりましたこちらからご覧ください。)

新規事業の担当をする杉本理事、10年目を迎えた「さなぎの食堂」の岡野店長、夏休みに実習したインターン生の記事など、読み応えのある内容となっています。
会員の皆さま、ご支援頂いている皆さまには送付させて頂きましたので、届きましたらお読みいただければ幸いです。
送付ご希望の方は、事務局までご連絡ください。
バックナンバーはこちらからどうぞ。

※ご確認下さい※
2012年4月1日以降に、当法人へご寄付頂いた神奈川県内及び横浜市内にご在住の方には、個人住民税の寄付控除のご案内と受領証明書を同封させて頂きました。
届いていない方、ご不明な点は、事務局までご連絡頂きますようお願い致します。






毛布の受付始まってます

2012年10月12日 | 事務局より
いつまで残暑が続くのかと思ったら、朝晩は涼しく感じるほど、一気に秋になりました

今朝、電車に乗ったら、びっくりすることに暖房がついていました。
乗った場所も悪く、熱風直撃です。
ラッシュなので、逆に暑くなり汗がだらだら……。
服装選びに一番悩む季節です

皆さま、衣替えはお済ですか??
現在、さなぎ達では、毛布・秋冬物衣類を大募集中です。
衣替えの際に、ご不要な物が見つかりましたら、ご寄付頂けると助かります。

ご確認いただきたいこと
① 寝具は、毛布に限らせて頂いています。布団類は受付しておりません。
② 衣類は、古着も受け付けています。但し、次の方に渡して、そのまま気持ちよく着られる状態の物でお願いします。
  (クリーニング済みでなくても構いません)

ご寄付頂いたものは、「さなぎの家」や「木曜パトロール」で、必要な方へ配布させて頂きます。
これからの時季に不足しがちなのが、毛布です。
毛布は毎年100枚以上の需要があります。

ご協力お願い致します。

さらばじゃ! おばば

2012年10月06日 | さなぎ達理事長 山中 修
その時がきた。

その日の朝は、土曜日。台風が近づいていたので、仕事開始前に点滴に行った。
前日に行わなかった点滴の代わりだった。
おばばは、「あした・・・」と絞るような声で、前日に初めて点滴の延期希望をした。
点滴されながら「たん・・」とひと言。
痰がからむのだ。
「エヘン!!」としてごらん。
力なく「エヘン・・」。
かろうじて痰がきれた。
痰がきれるウチは2-3日大丈夫だろう、そう思ってオババ宅を後にした。
その日の早朝には同じ市営アパートで、膵がんの患者をみとった。
「台風が近づいている。季節の変わり目・・・」
連れて行かれる人が多い季節になった。


夏祭り以降、あれほど饒舌だったおばばがピタッと無口になった。
あれほど好きだったタバコもとうとうやめた。
「やったね。とうとう禁煙出来たね。」
話しかけても、
「あー」「う~」のみ。
希望事項である
「アイス」
としか言葉を発しない日々が続いた。
その分おばばの会話のエネルギーは川崎に向けられた。
毎日川崎へ電話。
もうひとりの毎日電話の宛先はIさん(女性。オババより年下だけど「ママ」と慕っていた人)
掛け値も駆け引きもなく、毎日通い続けた川崎とママに一番心をひらいていた。
時間経過とともに、穏やかに死を受けとめていったおばばの心のよりどころは、主治医ではなく、頼れる家族代りである川崎やママさんだった。

病気に倒れてからの10ヶ月、身の回りのことは一回りも年下であろうKさん(同居者男性)がかいがいしく面倒をみていた。知的障害のあるK、知的障害のあるおばばの娘Y子(神奈川県のとある施設在住)と行方不明である知的障害の長男を小さなからだで背負って歩いて来たおばば。
とうとう最期の心のよりどころは、家族代わりに支えてくれた川崎とIさんだった。
みとりの最期に医療者は脇役でしかない。こんのくんのみたものはまさに真実だ。
点滴を? 酸素を? 薬を? なくなる瞬間を心電図で確認を? この喀痰を吸引すれば数分間呼吸が長引く?
こんなのどうでもいい。

最期に向かって、その一秒前、一分前、1時間前、一日前、一週間前、1ヶ月前、一年前に誰と会い、誰と食事を、誰と笑い、誰とケンカするのか。誰にストーリーを遺して逝くのか。
それが問題なのだ。

9月29日土曜日19時10分
ベッドの上で呼吸停止しているのをKさんが発見。山中へ電話。
Kさんデカした!
よく救急車を呼ばなかった。 
よく山中へ最初に連絡くれた。
川崎へ連絡しオババ宅へ急行した。
川崎ほうが先に着いていた。
ネコは全員そろっている。
ボスはベッドの真下にいる。

「よし!」
おばばの顔をみて、そう思った。
なくなった瞬間の顔はその人の人生を物語る。
数多くの死に顔をみた。
数多くの「起承転結」の「結」の瞬間をみた。
勝手な判断である。
「よし!」と思うのは、主治医としての自己満足の投影に過ぎない。
でも、「これでよし」と思った。
真上、天井を見据えた目。
しわ深いがきりっとした顔。
穏やかなやり遂げた感がある。
毅然としていて全く苦痛が残っていない。

オババはこの10ヶ月をかけて、苦痛のない死を希望し、それを見事に実践した。
人と遊び、人と笑い、ネコに囲まれた「起承転結」の結。
東京の下町に生まれ、学校に通うこともなく、波瀾万丈な人生を生き抜いたおばば。
我々にストーリーと強いメッセージを遺して逝った。
オババの人生を否定できる人がどこにいるだろうか?

少なくとも私は敬意をもって彼女の生き様を賞賛したい。
みごとだ!! おばば。
さらばじゃ!! おばば。

すぐにみんな会いに行く。
私のあとにはこんのくんも来る。
川崎も来る。
また、ハイタッチとローキックしよう。
今度は病人じゃないからローキックは返すぜ!

たばこ吸うなよ!
また肺がんになったら困る。

じゃあな。
待ってろ。

合掌

(写真は1.4.9のエレベータのあるオババの住宅の入り口のお地蔵さん。
ここにて手を合わせる人は多い。おばばも生前ここの掃除をしていた。)


こんのくんとおばば-10最終回

2012年10月06日 | つくんこ
2012年、初夏。
 もう、おばばのKMVP助手はいつの間にか行かなくなっていた。
毎週金曜日の訪問診療だけでいい感じ。
これがおばばとの適度な距離なんだろうなって思っている。

 おばばのおさらい。
右肺末期がん。昨年暮れくらいから年こして位にかけて来院したと思う。
初期の余命の予想は3月いっぱい くらい。
近所の大病院での治療(抗がん剤)は拒否してそのまま在宅みとりとなった。
だが、、、
余命を過ぎてもピンピンしており、月日は流れ8月に突入。

 自分が病院でがん患者をみていたときはこんなに長生きしている症例は経験なし。
一昔前、まだ緩和ケアなんて言葉がない時代の末期がん患者は苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで死んでいくって印象しか持ってなかった。
以来10年以上「がんは苦しんで死んでいくもんなんだ」って刷り込みの下に仕事をしてきた。
あまりやりがいや楽しさも感じないので消化器内科とか外科はどっちかというならキライ。

 まあ、もともと心疾患のみにしか興味が無かったから「がん」にたいしてのかかわりを避けてきたのもある。
適材適所。興味のある分野で積極的に学習したほうが楽しいし、辛いこともやっていけるし、何よりやりたかったことを出来るってことが嬉しかったからねえ。
末期の看取りは「がん看護」もしくは「緩和ケア」に興味のあるひとがやったほうがいいし、やるべきだと思ってた。
今の職場に来てから結構末期の症例に関わることが多くなってきて、がんで死ぬのは静かなもので、痛みさえなければ、最期それなりに受容して死んでいくってことがわかってきた。
後は(★その状態を見ての考察、おそらく ともいう)意識というか認識能力が保たれている場合、自分の体が自分の思ったように動かないもどかしさがあり、かといってそれを表現することがなかなか出来ない。不安は当然感じるだろう。
んで、せん妄ってよばれるものになるんだろうなあ。(前職場で「せん妄」についてのケースをまとめたから今になってそれが役立ってきた感じ)
そしたら、Sedationをかけてあげたらいいと思う。辛いと思うし。俺ならそうしてもらう。

 今の職場にきて初回の在宅看取りをしたときに感じたことは、狭い部屋にベッドと少しの生活物品。モニターも輸液類も何もない。ただ患者がそこにいるだけ。ピンコラピンコラ アラームも鳴ってないし、隣りのヒトの息遣いが聞こえてくるよう。
正直  「もう終わり~?? これでいいの??」て思った。
ホスピスは知らないけれど、一般病院での最期しか経験してなかったから なんか あっけない それでいて あわただしくなくて 静かな最期だった。

 さて、話はそれたが おばば 不死身な感じ。訪問診療毎に感じること。
「いつ逝くんだろう?」
訪問毎に 粋 な感じ。訪問するとたいていくわえタバコに「あいよ!!」って発語。
ベッドの上からマッチ棒みたいな足で 先生や俺に向かってハイキック。
きたねえ猫が数匹うろちょろしてる(*´∀`*)(注:自分は無類の猫好きです)
時々患部が疼くみたいだけれど、痰を切る薬と鎮咳薬飲めばそれもなくなり、うなぎは食うは、水分摂取も沢山してるわ。
うなぎなんて 俺は今年 口にもしていない。
恐るべしおばば!。
生きた伝説と言われも過言ではない。
と思った矢先に 今朝 オババから緊急コール。ってクリニックに電話がかかってきただけだけど。
おばば(だみ声で)「お~う。 昨日からよ~。昨日の夜6時くらいからよ~。食べたり飲んだりしたもの、みーんな吐いちゃうんだよ。(今はどう?)だ~め。まだ吐いちゃう。(薬も飲めてない?)いんや、薬は飲めてる。(午後往診時間だから行くよ。点滴しても大丈夫??)あ~い~よ。」
午後往診、相変わらず、くわえタバコ。パッと見た感じDry(ビールじゃないよ)。ツルゴールも低下。舌乾燥。頻脈微弱。血圧は触診で100/位。経口摂取困難、昨日から。部屋換気できているけれど暑い。
典型的な脱水の所見。とりあえず点滴した。
明日から訪問看護師さんに点滴依頼して、、、
さて、どっちに転ぶやら。
「まだ、死ねねえ」と言ってたけどね。

 最近会うたびに おばばの顔から険が抜けて仏のように見えるのは気のせいだろうか?
大体みんな いや~な患者でも  最期が近づいてくるにつれて、仏のようにいいやつになって 本物のホトケになっていくんだよね。
静かに、でも確実に 終わりを迎えようとしているのは分かる。
本人が一番分かっているんだろうな。
自分が死を迎える時どんな感じになるのかが分かるのかなあ??
どんな感じなんだろう。
深いなあ。

こんのくんとおばば8.9

2012年10月02日 | つくんこ
2012/4/25 (水)
川崎さんとKMVP助手今野。

ノック。
教会の友達が来てくれたようで喜んでいた。

「あ~い!!」っと今日も元気だ。
でも、咳の回数が増えて、なんというか全体的に小さくなってきている印象だ。

「おじゃまします。久しぶり」と声をかけると。
おばば「ほら、これ食え!!」
と部屋に入ったとたんに、川崎さんと俺に向けて菓子パンを投げる。

いつもの場所に座る。
面会者が来ているのだろう。花がテーブルの上に飾ってあった。
ちょっとしおれているし。

看護師になって、今の職場に移ってから、在宅患者を多く看る事が多い。
そんななかで「環境要因」ってかなり重要。

病院では、病院で決められた環境の中で患者は生活するんだけれど、在宅だとまずその患者がどんな生活をしているのかってことが大事。

当たり前なんだけどね。部屋の気温や汚れ具合。


2012年5月18日 (金曜日)

KMVP川崎さんと待ち合わせ、いつものように訪問診療に向かう。
玄関のドアを開けるとタバコ臭い!!(-.-;)

まだ吸ってたんだ。元気ながん末期患者だ。

思えばおばばの看取りに入って早2ヶ月。当初の見込はというと桜の時期を迎えられないだろうと言われていた。
長生きしてる。もう5月も終わるぜ。猫もかなり懐いてきている。可愛くてしょうがない(*´∀`*)
先生が診察したり話しているときに、猫の頭なでたり、抱っこしたり、おばばより猫に会いに来てる感じ(職務放棄??)

抗がん剤治療を拒否したのはおばばにとって良かったのだと思う。
抗がん剤治療は両刃の剣だから。痩せこけた老婆には負担が大きかっただろう。闘病意欲もなくなり早くに逝ってたんだろうなと思う。

いつも誰かが面会に来てくれて、それなりに笑ったりばか話したりして過ごしている。慣れ親しんだ自宅で、好きな猫に囲まれて。

笑いは免疫を活性化させるんだなあ。詳しい話は知らないけれど、笑いでがん細胞がなくなるって聞いたことあるし。
俺だって、いまこれを書いている瞬間に体のどこかでがん細胞が出来ていて、免疫がそれを壊してるんだからなあ。
生産と消費の秩序が壊れてがん細胞が優位に立って無限大に増殖していくのががん細胞だから。
笑って免疫活性するんだったらそれにこしたことないね。

「もう末期」と言われて「とことん戦ってやる!!」と思う人もいれば「もういい、残りはゆっくり過ごしたい」と思う人もいる。

こうしていくことが正しいって線引きは出来ないし、本人の意思決定を尊重することができればいんだろうなあ。
たくさんの人の死にあたっているけれど、病院勤務のときに思ってたことと違うことは
いろんな亡くなり方をする人たちを見て、自分が死ぬときはこうしたいって「自分にとって理想的な死」を考えるようになったこと。
病院で誰が見ても何をやっても100%蘇生不可能な場合だと思っても、病院の立場としては「死なせてはいけない場所」だし、急変時どうするかの家族の意思確認が取れてなければ当然CPR(心肺蘇生行為)に繋がる。
CPRを否定してはいないけどね。助けられる命は全力をもって臨むべきだし、ダメな場合はダメな場合でそれはその人の運命・寿命だからしょうがないんじゃないのかなとも思う?

もう、静かに逝かせてあげたらいいのに。ってずっと思ってた。

今の職場にきて、看取りをして思ったことは、医療者が出来ることはあまりない。
患者が苦痛に感じていなければ、点滴も酸素投与も必須ではないし、
「あえてなにもやらない」という選択肢もあるんだと理解したのは、看取りを何例か経験してから。

医療者の思いでよかれとおもってやったことが結果として患者本人に苦痛を与えることになるんだ(だいたい、末期の患者に点滴しても体が受け受けないみたいでむくみになるだけ、皮膚トラブルの原因にもなるし)。
心電図モニターもないし(つける必要ないし)、点滴も、酸素もないし 静かなもんだ。これが自然な死に方なんだろうな。って思う。

緩和ケアの領域もまだ歴史が浅いしこれからいろいろ変わって行くんだろうな。

まあ、もうそれはいいや。

病院でやってた退院調整は在宅との乖離が思った以上にあることが多いってのも分かったし。
病診連携の大事さもよく分かったし。
それなりにやりたいことやったし、9月から病院に戻ろう。

さて、おばばの話に戻そう。
おばば は なぜかクリスチャン。
最近外国人が毎日見舞に来ているらしい。IKEAの服とかを見舞いにもらっていた。

「ほら、みてみなこれ。おれはこんなの着ないんだ。持ってけ」って黒いひらひらの洋服を先生に渡した。
それを見た先生が一言。

「お、これいいじゃん。喪服に(^o^)」

まったく、言うね先生。俺もまったく同じことを感じていた。
おばばは聞こえないふりをしてさらにもらった服を出して来る。

両腕が忙しそうに動く、末期のばばあの動きじゃない(-.-;)

先週来たときにはたんからみが多くて、予防的に抗生物質を出したんだけど、よく効いているようだ。
復活している。
帰るときにハイタッチもするし、足で蹴飛ばして来るし、おばばなりのもてなしのつもりなんだろうけど、これって、結構なエネルギー消費だぜ。

確実に落ちて来ているけれど、一体おばばの最期はどんな感じになるんだろう??


予想できません。一つ分かっているのは彼女は人生を全うしようとしている。と思う。それはそれでいいんじゃないかな。

こんのくんとおばば7

2012年10月01日 | つくんこ
2012/4/20(金)

訪問診療。
相変わらず元気。
いつも左向きでいるため、左の腸骨に褥創(床ずれ)あり。
創面は未だ浅いのでデュオアクティブを貼付している。
この日Dr山中が診察。創部周辺をさわると、「いて~な。コノヤロ!!」と眉間に皺を寄せてオババ逆襲が始まる。
バシバシ叩いて、オババキックも出た。
お約束な感じだ。
後で聞いた話だと、川崎さんに「今日はやってやる」位の意気込みを語ったそうな。


その後少し話しオババの家を後にした。
今野はいつも診察終了後「またね!!」とおばばとハイタッチする。

この日はいつもと違った。
ハイタッチは2回空振り。
しまいにゃ毛布の下から、枯れ木の様な足が出てきて俺の足を蹴ろうとしている。

そんな足をキャッチして、足の裏をくすぐる。
どうだ。俺を甘く見るなよ^^

すると おばば、すかさず反対側の足で俺のケツにハイキック。
おうおう。やるじゃないの。

食欲低下、活力も低下、でも訪問診療に来ている我々に対してもてなす気持ちはあるようだ。

末期癌の患者でこんなに元気な人は初めてだ。