お父さん
コルトがやって来たのは私が二歳の頃、昭和48年の事ですね
今見るとあの小さなクルマに家族五人が乗れた事に驚きます
コルトは学校が休みになるとよくいろいろな所に連れて行ってくれた
私は周囲にそう言っていました
でも実際に連れて行ってくれたのはお父さんです
日曜日になるとNHKに勤めていたお父さんは泊まり勤務があるので
その出勤前に戸塚のダイエーに母と私達兄弟を乗せて買い物に連れて行ってくれました
私も泊まり勤務をするようになってその大変さを痛感しました
でも日曜日のダイエーまでのドライブは楽しかった
学校が休みになると箱根や熱海、または東北の方にも連れて行ってくれました
4号線を北上し栃木の親戚の家に行く旅も覚えています
帰りの渋滞でガソリンが無くなりかけて私は子供心に不安だった事も忘れません
コルトが第一線で働いていた後期はトランクにガソリン携行缶を装備していたのは
私が不安になるから、と笑っていましたね
お父さんの職場でのレクリエーションで魚釣りに泊りがけで帰ってくると
普段は使われない後部座席の灰皿に吸殻が満載されているのを見るたびに
自慢のコルトがお父さんの手伝いを無事に務めて帰ってきた事が誇らしく思っていました
当時でも旧いコルトを父が何でも直してしまうのだからみんなを乗せられるのだ
そんな事をあの時思っていました
どこが壊れていたのか、どんな修理をしていたのかあの時も今でも分からないけど
平日の休みによくボンネットを開けて修理していましたね
何が出来るわけでもないのに幼かった私はその周辺で遊んだり
母がいれたお茶を持っていくのが好きでした
私は幼稚園の頃からコルトが好きだったと思います
大人になったらこのコルトを私が運転しよう、と意識しだしたのはそれから数年後
小学2,3年の頃でした
家族の一員だと思っていたコルト
冬の早朝は霜が降りてエンジンの掛かりが悪いから
前夜ボンネットを開け古い「掛け布団」をエンジンルームに入れる光景を見るのが楽しみでした
人間のように扱ってくれているように思えたのです
あのコルトは今まで三回ほど廃車の危機がありました
一度は後ろからぶつけられて壊れたとき
あとの二回は後継車の話しが出てきたとき
特に一度目の廃車話しは今でも忘れません
浅草に家族五人で墓参りに行く時の横羽線上でした
母と姉、兄がクーラーの付いた新しい車にしたいと話しが盛り上がった時でした
後部座席の真ん中でたいした反対も出来ない私は下を向き泣いていました
そんな時でした
「もう1人いるよな。このコルトを好きな人が。俺もこのクルマがいい」
ただの足代わりとしていてそれほどこのクルマに対して思い入れが無いお父さんは
私を助ける為にそんな事を言ってくれた
二回目の「家族会議」の際も同様に助けてくれましたね
後継車のジェミニが来ても車検、税金、保険を払いながら残してくれた事
感謝しています
念願の免許を取ってもすぐにはコルトを運転できませんでした
ギアが入らなく動かせなかったので仕方なくATのジェミニで走り方を覚えてから
コルトをお父さんに修理をしてもらいました
コラムシフトの扱い方を教わる為、二人で作業着を着たままお父さんに助手席に座ってもらい
近所を二人で走りました
「この位の坂なら三速」と教習車のように走っていた時のお父さんは
楽しそうでした
私も近所の人たちが注視する中に走る事が楽しかったです
その後はいろいろなトラブルに遭う度に相談をして嫌な顔もせず修理してくれましたね
覚えていますか?
いつも直してくれるお礼に母に内緒ですし屋に行きご馳走した時
カウンターに座り寿司を食べて最後に
「うん、うまかった♪」と言い満足そうな顔をしたあの時
子供のようなその姿を今でも私は忘れません
コルトは関係ないけどこんな事もありました
ホテルに就職し人生初のボーナスが出た時
横浜のすき焼き屋さんに招待しました
高校の時に観た『異人たちとの夏』の影響で
働いたらお父さんお母さんをすき焼き屋に招待しよう、と決めていたのです
「今日は二人に好きなだけ食べて欲しいんだよ」
私はお父さんが大喜びするのかと期待していましたが
反応は思ったより普通でした
「子供に初めてごちそうになる、感極まるに違いない」
と企んでいたのです
本当に普通でしたね
でもそれから数年後にお母さんが話してくれました
『実はあの夜、家に帰ってから布団の中でお父さん泣いていたんだよ』
横浜といえば古い車の集まり「ニューイヤーミーティング」がみなとみらいで開かれていた頃に
初めてお父さんを連れて参加した時の事
街では見かけない懐かしい旧型のクルマを観て帰った後に
「あんなに興奮したのは久しぶりだ」と楽しそうでした
私も久しぶりにお父さんの楽しそうな姿を見られて嬉しかった
書きたい事はまだまだありますがこの辺で止めておきますね
コルトのお陰でお父さんと話す事、出掛ける事は本当に多かったです
でもコルト1100というクルマを通して父と接していたのではなく
お父さんと接したくてコルト1100に乗っていたのかもしれない、というのは
言い過ぎかもしれません
それでもさっきお父さんの寝顔を見てそう思いました
もうどこが壊れてもエンジンが掛からなくなっても助けてもらう事は出来ませんね
だけど出来る所までお父さんと家族、私の思い出が詰まった「あのコルト」に乗っていきます
お父さん 今まで本当に本当にありがとうございました
楽しい思い出ばかりを残してくれて本当にありがとうございました
お父さんがお父さんで本当によかったです
(コルトが写る現存最古の写真。私はセンターピラーの後ろにいます)
3月4日、父が亡くなりました 83歳の生涯でした