場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

“恐山--霊気たちこめる岩原の地獄極楽ーその1

2022-12-02 21:46:08 | 場所の記憶

 野辺地からたった一輌の気動車にゆられ、いよいよ恐山に向かうことになった。以前から一度は訪ねたいと思っていた恐山である。
 下北半島は、よくマサカリの形をしていると形容される。そのマサカリの本体部分に向かって気動車は進む。
 この大湊線は、ほぼ海岸部にそって走る鉄道のように地図を眺めると思えるが、車窓から海を見わたせる箇所はじっさいはそれほど多くはない。
 そんななかでも、はるか海のかなたの水平線上に、たなびく雲かと見まがう陸地が連なるのを見ることがある。
 それにしても素朴な海岸風景である。人影のない砂浜にうち寄せる波。船小屋だろうか。苫屋がひっそりと建っている。そのそばに小さな船がつながれている。海辺といえば、このような風景が昔はよく見られたものであった。
 小一時間ほど走ったあと列車は下北駅に着いた。すでに、あたりに夕闇がただよう時刻になっていた。ホームのわきに、「JR東北の最北駅下北」の表示があった。はるばるやって来たな、という感慨がしきりにわきおこる。
       
 朝早く宿を発ってバスで恐山にむかった。十月の下旬ともなれば、朝の冷えこみはひとしおである。
 市街地をぬけると、すぐに山勝ちの道になった。しだいに勾配をあげてゆくのがわかる。
 車窓の左右に杉の叢林があらわれる。いかにも樹齢をへたと思われる老杉がなかにまじる。やがて、杉林は雑木林になり、そのうちヒバの林に変わる。ヒバの林はいずれも原生林である。
ヒバはヒノキの仲間であるが、北国の厳しい寒さのなかで育つためかヒノキよりも粗削りで、自然の植生のためか大柄に見える。
 長坂と呼ばれるだらだら坂をゆく頃には、これからいよいよ霊地に赴くのだという実感が強くわきあがる。
 赤い衣を着せられた地蔵や町塚と呼ばれる石の里程標を路傍に見かけたりするためだろうか。
 往時、この道を大勢の信者がかよったという。かれらは麓の宿を夜明け前に発つと、その足で、まだ暗い道を鈴を鳴らし、ご詠歌を唄いながら歩んだのである。
 車窓左手を望むと、すでにうっすらと冠雪した山が見える。釜臥山だろうか。
 風情のある赤松の林に入ったかと思うと、冷水(ひやみず)という地にたどり着いた。
 バスはここにやってくるとかならず停車し、そこにわき出る冷水を飲むらしい。
 ぞろぞろとみな車を降り、手勺をとって、筧から流れ出る水を神妙に口にそそぐ。その水を飲めば長命は間違いなし、とのご託宣を聞けば、誰もが一杯飲んでみたい衝動にかられるというものだ。それが人情というものだろう。
 ふたたび車中の人となる。やや下り勾配の七ツ七坂をゆき、湯坂というところを過ぎると、突然目の前に広い湖があらわれた。それが宇曽利湖であった。
 寒々しい宇曽利湖のほとりに出たバスは、ほどなく三途の川に架かる朱色の太鼓橋を左に見てから恐山の総門前に到着した。  
 
 バスを降りると硫黄の臭いが鼻をついた。それだけで異風の地にやって来たな、という実感を強くする。
 霧で白くかすんだ視界の先に恐山の総門が見え隠れしている。あたかもたちはだかる総門。その総門の前に立つと、いま自分は冥界を前にしている、これよりいまだ見ぬ世界に足を踏み入れるのだ、という思いがひしひしとわきあがる。
 砂利を敷いた参道が目の前にまっすぐに直進している。その途中に山門があり、その奥に地蔵堂が見える。
 参道をゆっくり歩んでゆく。参道の両側にうがたれた溝から湯気が立っている。湿り気をふくんだ硫黄の臭いがいちだんと強くなる。
 ふいに空がかき曇ったかと思うと、霙とも飃ともつかないものが落ちてきた。それとともに一陣の風が巻きおこった。恐山に似つかわしい臨場感が満ちる。
 私は、ここを訪れる前から恐山の風景をいろいろ思い描いていた。私にとって、恐山というところは、幽明の境にあるような輪郭のおぼろな場所でなければならなかった。いま目の前にする恐山それにふさわしかった。

 参道の両側に永代常夜燈がずらりと立ち並んでいる。さきほど前方にあった二層の山門が目の前に近づいてくる。それをくぐり、さらに奥へとつきすすむ。
 大きな黒い翼をひろげながらカラスが飛びかっている。ずっと以前からここの住民ででもあるかのようだ。
 巨大な卒塔婆がひとかたまりになって立っているのが見える。それが亡者の黙祷する姿のように思えて、そら恐ろしい気分になる。ここがただならぬ場所であることをあらためて知らされる。
 参道のはてに地蔵堂があった。恐山を訪れる参拝客がまず参拝する場所である。
 いましも、三々五々訪れた参拝客が思い思いにお賽銭をなげ、なにごとか願をかけ、無心に手をあわせている。
 この地蔵堂に安置されている本尊は延命地蔵尊である。地蔵尊とは母なる大地そのものの心をもち、衆生の痛みをわが痛みとして受けとめてくれる菩薩であるとされる。
 なかでも延命地蔵は、人々の命が永からんことを願い、短命や不幸の魔の手から防いでくれる菩薩であるという。
 ついでながら、本尊の唐胴の延命地蔵尊は竹内徳兵衛という船頭が江戸期に寄進したものと伝えられている。この徳兵衛という人物は、のちに嵐で船が難破しカムチャッカに漂着。その後ロシアで生きながらえたが、ふたたび日本に帰ることがなかったという。遭難したのは延享元年(1744)のことであった。
 裏山の地蔵山や剣の山が紅葉して鮮やかに陽に映えている。

 いよいよ地獄めぐりのはじまりである。ごつごつとした岩原の間をぬうように歩むと、ここかしこに石の地蔵があらわれる。恐山に集まった亡者が無事三途の川をわたり、極楽に行き着くように見守ってくれているというお地蔵さんたちである。
 死んだ者の霊魂がかならずこの恐山にやって来ると信じられている山。恐山は死の山なのである。あの世へ逝った者の霊を呼びもどすというイタコの口寄せもここならではのものなのである。
 恐山という名のそもそもの由来はアイヌ語のウソリからきているという。ウソリとは、窪地を意味し、宇曽利から恐山と転じたものらしい。
 以前に、恐山を上空から撮した写真を見たことがある。そこには緑につつまれた宇曽利湖があった。ところが、その湖のほとりの一角に、そこだけ緑を欠いた、灰白色の岩原がひろがる場所があった。それは見るからに特異な景観に思われた。
続く

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