場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

おとくの神

2021-10-06 10:35:35 | 場所の記憶
 裏店に住む仙吉、おとく、という夫婦がいる。仙吉はひと
つの仕事に長く居つかず、しばしば職を変える性格の男だ
った。代わりに、女房が汗水たらして働く毎日である。夫
は暮らしの頼りにならない、いわゆる紐のような存在だっ 
た。仙吉はがて、男勝りの女房にも飽きが来て浮気をする。
ある日、啖呵を切って家を出て行こうとする。すると、女
房のおとくが言う。「あんたが出て行くことはないよ。こ
こはあんたの家なんだから、あたしが出て行くよ」女房の
出て行ったあとの心の空虚に耐えきれず、仙吉はおとくの
後を追う。「大またに歩いて行くおとくのあとから、仙吉
は呼びかけながら、よたとたと走ってついて行った」
「霜の朝」より

物語の舞台:裏店(場所不特定)、上野山内、根津  写真:不忍池

・仙吉は根津にいた。お七という女髪結いの家である。仙吉が以前働いていた経師屋で女中をしていた女で仙吉が仲間に誘われて来た根津の切見世の中で、ばったり顔を合わせたのである。
・おとくが働いているのは、上野山内の普請場である。去年の秋に、はげしい雨風が一昼夜も江戸の町を包んで荒れ狂ったとき、上野の山の崖が、石垣もろとも一町もの幅で崩れ落ち、その上にある御堂がかたむいてしまった。
・仙吉は尻をからげて走った。おとくのうしろ姿を見つけたのは蔵前通りに出てからだった。おとくはすたすたと鳥越橋の方に歩いて行く。