場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

2021-10-30 19:40:30 | 場所の記憶
油商・佐野屋の主人、政右衛門は女房おたかとこの頃、諍いが多くなったな、と感じる。いわるゆる倦怠期を迎えている夫婦だった。そんななか、政右衛門はふと初恋の女のことを思い出していた。その女に会えば、今とは違う人生が切り開かれるのではないか、と夢想した。初恋のその人の知り合いでもある、行きつけの居酒屋の女将を介して、ある日、二十年ぶりに再会することができた。ところが、会って昔話に浸ろうと思っていたことが、大変な間違いであることを知る。相手の女は自分には少しも興味をもたない、ただの中年の女になっていた。
「結局は、おたかと喧嘩しながら、このまま行くしかないということだ、と少し酔った足を踏みしめながら政右衛門は思った。ほかならない、それがおれの人生なのだ。そう思うとやりきれない気もしたが、どこかに気ごころの知れたほっとした思いがあるのも歪めなかった」「本所しぐれ町物語」より

小説の舞台:深川  地図:国会図書館デジタルコレクション「江戸切絵図深川」 タイトル写真:竪川河川敷公園

・駕籠を呼んでもらっておふさを見送ると、政右衛門は料理茶屋「末広」を出て、竪川の河岸の道にまわった。空に月があって、時おり雲の間から水のような光を地上に投げかけるので歩くのは不自由しなかったが、道はやはり暗かった。暗い町を虫の声がつつんでいた。