場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

善光寺・・・不思議を秘める万民の寺 

2023-11-26 11:28:16 | 場所の記憶
               
 何かのたとえに、「牛にひかれて善光寺参り」と言われることがあるが、これは「他人に誘われて、知らないうちによい方向に導かれる」というほどの意味である。
 ところで、この箴言のいわれには、次のような言い伝えが残っている。
 善光寺近くに、ひとりの強欲で不信心な老婆が住んでいたという。ある日、その老婆が家の軒先に長い布を晒しておくと、隣家の牛がそれを角にひっかけて持ち去った。それを見た、件の老婆は、その布を取り戻そうと、牛を追って善光寺に駆け込んだ。すると、そこで仏の光明を得るという幸運に恵まれたというのである。じつは牛は善光寺の本尊である如来の化身だったという。
 この言い伝えは、善光寺が万民にとっていかに霊験あらたかな寺院であるか、ということを伝える内容である。
 その霊験の一端に触れてみようと、晩秋のある日、「牛にひかれて善光寺参り」のひそみに倣い、善光寺さんを訪れてみた。
 長野駅を出て、駅前の広場を直進すると間もなく、「善光寺参道」の標識が目に入る。善光寺まで一・八キロの表示が見える。そこを右折すると、まっすぐに北に通じる商店街が開けている。
 中央通りと呼ばれるその商店街は、朝の光を浴びて、開店前のひとときをゆったりと憩っている様子であった。そこが門前町とは容易には想像できない。地方都市にある、ごくありふれた商店街の風情であるからだ。
 しばらく行くと右手に刈萱山西光寺という寺を見る。表通りから少し奥まって建つその寺は、いかにも格式のありそうな本堂を構えている。ここは刈萱道心石童丸物語の縁起のある寺で、門前に掲げられてある蛇の供養塔の説明がおもしろい。それは実話のようなつくり話のような内容で、供養塔に大蛇と小蛇の戒名が刻まれているところなどリアリティがある。
 寺をあとにして、さらに進む。歩道にはときおり、善光寺から何丁目かを記した道標が立っている。そして、そこには、「そば時や月のしなのの善光寺」のような一茶の句がそえられている。
 通りの左右を眺めやると、仏具店や骨董品、民芸品を商う店、ミニ博物館などが散見される。後町、大門町などゆかしい町名があらわれ、古町の雰囲気がしだいにあふれてくる。
 やや通りに勾配がつきはじめる。足裏に伝わる快い感触を味わいながら、ゆったりと、足を踏みしめながら歩く。通りに沿って建てられている昔ながらの土蔵づくりや大壁づくりの家々の屋根が、階段状に連続してリズム感をつくりだしていて何とも目に快い。「ああ昔の町だな」という感慨がわいてくる。
 ところで、この門前通りの町並み景観は、いま現在も日々つくられつつあるという。
 たとえば、アーケードを取り払って建物の正面を露出させる。通りと建物との間の流れを復活させる。さらに、土蔵づくりの家を店舗に改造して、町並みに賑わいをかもし出すといったようにである。
 通りの左手に北野文芸座なる建物を目にする。歌舞伎座風のその建物が、周囲の景観を引き立てる。アールデコ調の洋風建築の旅館、和風造りの郵便局もある。やはりそば処である。九一そばとか、戸隠そばなどの暖簾を下げたそば屋が目につく。
 さらに通りは勾配を強くする。今たどってきた道をふりかえると、そのことがよく分かる。坂が下方にまっすぐに心地よく連なっているのが分かる。歩いている時はあまり感じなかったことである。
 やがて、「善光寺参道」の標識を目にする。そこは大門と呼ばれるところで、善光寺の境内はそこから先である。
 大門からつぎの仁王門までの参道の右手に小庵風の建物が建ち並んでいる。それは宿坊で、何々講御一行様と書かれた旗や看板が入口に掲げられている。
 なかでも智栄講という名が目立つ。聞けばこの講は、善光寺講のなかでも最大の規模を誇る講であるらしく、おもに東京の下町の中年女性が講員であるという。
 今しも旗をかざした斡旋人が、参拝を終えた講員の女性たちに声をかけながら宿坊に呼び込んでいるところである。 
 左手に大きな伽藍を構えるのは大本願と呼ばれる本坊のひとつだ。大本願の境内はそれほど広くなく、真新しい本堂が、菊の御紋を染め抜いた垂れ幕で飾られている。
 その本堂から、「身はここに、心は信濃の善光寺、救はせたまへ弥陀の浄土へ」の「善光寺和讚」を唱和する女性の声がもれ聞こえてきた。
 石畳の敷かれた参道を進むと、目の前に唐破風を張り出した仁王門が現れる。銅板葺きの屋根をいただく門は、左右に迫力ある立体像の阿吽の仁王像を従えている。躍動感あふれる像である。
 御開帳は令和4年の秋におこなわれているので、つぎのご開帳は七年後である。
 仁王門をくぐると、参道は突然賑やかな仲見世に変身する。このあたり元善町といい、道の左右、軒並みに、民芸品を売る店、りんごやあんず、野沢菜などの地元の産物を売る店、湯気をあげながら名物のそばまんじゅうを商う店、門前町らしく仏具を売る店など、まさに店が櫛比する状態である。
 団体客がガイド嬢の旗のもと、ぞろぞろとつき従って通り過ぎる。声高な関西弁が飛び交う。みやげ物の大きな袋を手にする人もいる。これから本堂をめざす参拝客、すでに参拝を終えた人たちが、せまい仲見世を思い思いの態で行き来している。まさに目の前にくりひろげられる光景は、「伊勢参り大神宮へもちょっとより」の物見遊山の人々の雑踏である。
 かつて、この仲見世の商店街には、呉服屋とか床屋とか袋物屋などの生活に密着した店が集まっていたという。それがいつの間にか、参拝客や観光客向けの店に変わってきている。それだけ遠来の客が多く訪れるようになったということだろう。
 おもしろいことに、関東の客と関西の客とでは、みやげの好みがちがうらしい。趣向のちがいといえばそれまでだが、何やら生活文化のちがいがそこに現れているようでもある。 
 また、春から夏場にかけてと冬場とでは客層が異なるために店頭の品種を替えるという。スキー客の多い冬場は、若者向けに包装紙も改めるらしい。たいへんな気の使いようである。
 全般的に団体客の多い場所柄、商売は、はじめの五分間が勝負らしい。道理で客の呼びこみをする店が多いはずだ。積極的にうってでなければ客を引き留められないということか。「昔はもっとのんびりしていたもんだよ」と地元の古老は懐かしむ。
 仲見世が途切れるあたり、目の前にひときわ、きわだつ山門が立ちはだかる。堂々とした重量感のある入母屋づくりのその山門は、二層のつくりで、高さ二十メートルほどあるという。その前に立って、しばらく山門の雄姿を仰ぎ見る。
 山門の手前、左手奥、池に架かる橋の向こうに門構えの立派な堂宇がひかえる。それは大本願と並び称される本坊のひとつ大勧進である。
 石段を上り、山門をくぐり、いよいよ本堂の建つ広い境内に足を踏み入れる。本堂に向かってまっすぐに、四角に切った石畳が連なっている。
 正面に建つ入母屋づくりの本堂は、立棟の拝殿と横棟の内陣がちょうど丁字形をなして結合した格好になっている。これは善光寺独特の様式で、見る者に豪壮な印象を与えるとされる。
 広い境内を思い思いに参拝客がうごめいている。記念写真をとる人、ガイドの説明に耳を傾ける団体客。そのなかを、鳩のひと群れが、明るい空にむかって羽音をたてて舞いあがってゆく。
 かつて霊場はおおむね女人禁制であった。そうしたなかで、女性も含めた衆生にあまねく光明を与えると言われる善光寺が、じつは無住の寺であるということを知る人は案外少ない。そして、男女の区別なく誰でも受け入れるがゆえに無宗派の寺であることも。
 確かに善光寺という寺(本堂)はある。が、じっさいにこの寺を管理しているのは、大勧進と大本願と呼ばれる二寺である。天台宗を宗旨とする大勧進と浄土宗を宗旨とする尼寺の大本願。この両者の間には、江戸時代からいろいろと確執があったと聞くが、現在は、そういうこともなく、日々交替で善光寺の務めを果たしている。
 それは毎朝おこなわれるお朝事ではじまる。本堂で経をあげるこの勤行は、善光寺名物のひとつになっている。それを目当てにやって来る参拝客をあてにして仲見世商店街は、朝の六時頃にはいっせいに店を開ける。 
 この毎朝の勤行とは別に、七年に一度執りおこなわれる御開帳と呼ばれる秘仏公開も、今や善光寺にとっては欠かせない一大行事になっている。
 この御開帳の期間、ふだんは秘仏として公開されることのない本尊を模した一光三尊阿弥陀如来が開扉される。別名、前立本尊と呼ばれるこの仏像の御開帳は、初日の開闢大法要を皮切りに幕を開けるが、なかでも盛大なのは中日におこなわれる庭儀大法要である。
 これは前立本尊を讃える回向として知られるもので、この日、本堂正面に建てられた回向柱を前にして、参道には朱色の傘が整然と立ち並び、香煙が立ちのぼる。これを見ようと三十万人を越す観光客が集まるといい、行事はこの日ピークに達する。
 この御開帳が盛大におこなわれるようになるのは江戸時代になってからのことである。記録によると享保15年から幕末までの百三十六年間に十五回おこなわれたとある。弘化4年(1847)の御開帳の時には、善光寺平を震源とする大地震に見舞われるというハプニングもあった。
 その後、明治、大正、昭和、平成の時代へと引き継がれ、今日にいたるのであるが、御開帳も時代の変化の波にさらされているのが実情である。
 ところで、御開帳の期間に限って衆生の前に姿をあらわすという善光寺の本尊・一光三尊阿弥陀如来とは、前述したように本尊のいわばダミーである。それでは、本尊そのものは、いったいどんな仏さまなのだろうかという興味がわく。
 ひとつの光背のなかに、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至観音の三体の仏像が配されているところからつけられたという一光三尊阿弥陀如来。一説にはインドから渡来し、我が国最古と言われる仏像である。その本尊は、白鳳時代に開扉されて以来、開かずのまま今日にいたっているという。
 その本尊の姿を模したというご本尊御影を掛軸にして、善光寺では参拝客に頒布している。それを見ると、前立本尊よりもふくよかな仏像として描かれているのが分かる。
 ところで、この仏さまには秘められた受難物語がある。それはありがたい仏さまであるがゆえの災いといえた。 
 時は戦国時代のことだ。武田信玄と上杉謙信の勢力争いは、この地にもおよび、善光寺は両者の争奪の場になった。
 その頃、善光寺は武田方に属していた。そのため信玄は善光寺を戦火から守るという名目で、甲斐の甲府にこれを移している。現在、甲府にある善光寺はその時のものである。その後、武田氏が滅び、織田信長の時代になると、善光寺は岐阜に移される。岐阜の善光寺がその跡である。
 さらに織田氏が滅亡し、豊臣秀吉の代になると、こんどは京都の方広寺の大仏殿に移される。この間、いちじ甲府に戻されることもあったが、流転の旅は終わらなかったのである。
 ところが、秀吉が善光寺の本尊を京都に持ちこんでから間もなく、秀吉の身体がおかしくなった。かえりみれば、武田氏も織田氏も、ともに本尊を移したことで滅びたではないか。秀吉の近辺の者に、そうした思いがよぎったとて不思議でない。
 彼らは皆一様に祟りを恐れ、本尊を善光寺に返すべきことを秀吉に進言。そして、ついに、慶長3年(1598)8月17日、秀吉は本尊を善光寺に返すことを決意する。 
 それは、奇しくも秀吉がこの世を去る前日のことであった。善光寺本尊は、こうして四十四年ぶりに、晴れて故郷に戻されたのである。
 うす暗がりの本堂のなかに足を踏み入れてみる。ゆったりとした本堂内部は、天井が高く、優に十メートルはありそうである。堂内は外陣、中陣、内陣、内々陣と幾つかの空間に仕切られていて、いかにも奥深い印象を与える。正面奥には祭壇。奥所を感じさせる内陣から先は一段高くなっていて、そこに巻き上げられた朱の簾がかけられている。
 しっきりなしに参拝客がお賽銭箱の前に立ち、手をあわせ、なにごとかを祈願しては立ち去ってゆく。
 この本堂参拝にはじつは極めつけのコースがつくられている。それは内々陣の地下につくられた戒壇めぐりというものである。この戒壇めぐりは、いわば冥土への旅が擬似体験できる場所であるとされている。
 明治26年に発行された『長野土産』という案内書には、戒壇めぐりについて「内陣板敷の下にあり、東に入り口ありて段を下り、三度廻りて元の口に出るなり。其中は暗くして闇夜の如し。俗間に放辟邪見なるものは壇中必ず怪異に逢ふと言ひ伝へり」と記してある。
 これによると、参拝客は、そこで俗世間での日頃の行いを問いただされたことになる。怪異に逢うとは、まさに地獄体験の一端に触れるということを意味しないか。怪異に触れた参拝者は、そこで改めておのれの生き方を反省させられたにちがいない。
 ところで、今はご本尊の真下にある「お錠前」(鍵)に触れることが戒壇めぐりの目的になっている。それに触れると、如来さまと結縁され、極楽往生が約束されるという。どうやら闇の意味が薄れてしまっているようである。
 本堂を出て、明るい境内をひと回りしてみる。大峰山を背後にした善光寺の敷地は、善光寺平のやや西寄りにひらけ、なかなかの立地であることが分かる。そこは四季おりおりの、自然の移りが見事に映し出される場所なのである。
 門前町の風情を味わってみようと、参道裏の小路に分け入ってみた。せまい通りに沿って古風な民家や土蔵づくりの家、白壁をめぐらした造り酒屋、和菓子屋などが軒を並べている。善光寺七小路と呼ばれるほどに小路が多い。
 どの小路を歩いてもゆったりとした時が流れていた。土地の香りに満ちていた。しっとりとした生活のぬくもりが漂っていた。
 それは長い歴史が醸し出す町の味わいというものなのである。

 画像提供:善光寺



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