場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

黒い縄

2021-10-19 15:07:31 | 場所の記憶

おしのはさる商家に嫁いだが姑との折り合いが悪く出戻りした女である。ある日、幼馴染の宗次郎に出会う。が、彼は人殺しの犯人として追われる身であった。お互い好き同士であった二人は、再会することで熱い関係になる。二人の逢瀬が繰り返されるなか、宗次郎を追う元岡っ引きの地兵衛という男の影がつきまとう。そして、ついに宗次郎と地兵衛の対決の日が来る。
「おしのはゆっくりと橋まで歩いた。四囲は少しずつ明るみを加え続けていたが、霧はむしろ白さを増し、地上を厚く塗り潰している。橋の中ほどに地兵衛の骸が横わっていたが、おしのはそれを見なかった。眼を瞠って霧の奥を見つめた。だが、新たな涙が滴る視野には、拡がる白い闇のような霧が、限りなく溢れるばかりだった」
地兵衛を倒した宗次郎はひとり去って行く。
「霧の橋の上を影のように男の姿が動き、やがて、それは白い霧に溶け込んだようみ見えなくなった」 
「暗殺の年輪」より


小説の舞台:深川  地図:国会図書館デジタルコレクション「江戸切絵図」ー深川


・日射しは、道に沿って走る十間川の水の上にも向う岸の吉永町の材木置場、その上に黒く頭を突き出している人家の屋根にも、降りそそぐように光っている。
・島崎長の角を曲り、亥の堀の川沿いの道をいそぐと、小名木川に架かる新高橋に出る。橋を下りたところが行徳街道だった。街道を左に、阿部内藤正下屋敷のくねった堀を曲ると、地兵衛の店がある深川元町まで、真直ぐの道だった。
・風もないのに、竪川の岸には絶え間なく囁くような水の音がした。眼がおぼろな闇に慣れ、暗い水路に、星の光が砕けるのが見えた。糸のやうな月は、ここからは見えない。右岸に、遠く赤い灯のいろがちらつくのは、菊川町の屋並みの間から、辻番所の高張提灯が覗くのだろう。
・深川元町裏の五間堀の岸に潜んでいた宗十郎に、戻ってきたおしまが無造作に言ったのだった。
・霧は道の上を這い、十間川の水面を埋め、三間ほど先はものの影が瞭らかでなかった。富島橋は途中で霧に呑まれ、弥そうの小屋はみえなかった。
・島崎町続きの角を曲り、玄の堀川に沿って、二人は道を急いだ。いつの間にか、宗次郎がおしのの手をひいている。川の向う岸の末広町、石島町のあたりは、ぼんやりと薄墨色に黔ずんでいるばかりだったが、岸に近い水面が鋼のように蒼黒い光を沈めているのがみえた。
・宗次郎は深川元町裏の五間堀の岸に潜んでいた。