自分は経済学の専門家ではないが、今の経済学に疑問を感じている。特に「自由経済」に関する所だ。そしてTPPの考え方に違和感を感じている。
因みに、矛盾している様に聞こえるかもしれないが、TPP参加には反対していない。TPP自体は不十分で悪い仕組みだが、此処まできてしまったら参加せざるをえないと考えるからだ。
俗に云う、「自由経済」に疑問を感じる理由は、大きく分けて二つある。一つは経済(流通)の基本は地産地消と云う事。そして二つ目は、共通のルールの必要性である。
企業が活動を行う場合の重要な項目の一つに、地域社会への貢献がある。「地域社会への貢献」の定義は色々がるだろうが、その中の一つは地域での雇用であろう。この論点で、日本の自動車産業は80年代に米国に工場を立ち上げた。
自動車産業において日本からの輸出が増え、米国の雇用が縮小した。これは米国にとって許し難い事だ。米国市場で自動車を何百台も販売しながら、米国で自動車を1台も生産していたなったのだから。この例が、地産地消の原則の一つだといえる。
特定の市場に対して、大きな販売をしたいのであれば、その市場の社会に対して”雇用”と云う責任を全うすべきだと考える。製造業であれば、生産設備を作って雇用を作りだす必要がある。
第二の理由は、経済活動を行い際の「ルール」の必要性だ。基本的には経済を行う場合には、何でもかんでも自由ではなく、ある程度の「ルール」が必要である。この「ルール」が不十分なので、TPPなどの自由経済に疑問を感じている。
分かり易い例として、サッカーと野球は一緒に競技しない。そしてメジャーリーグのマイナーリーグは一緒に競技しないし、J1とJ2は一緒に競技しない(一部の例外を除いて)。
単純にこのスポーツの理屈を経済にも当てはめる必要がある。それが「ルール」だと思う。
幾つかの「ルール」の例を上げてみよう。
ルールの例として、「環境」に対する企業が背負うべき責任(負担)を考えてみよう。
A国では環境に対する制度が厳しく、工場からの排水や排気などに機微しい制限がある。その為、環境に環境に関する設備に多大が投資が必要であり、製造コストが自ずと高くなってしまう。
一方、後進国では、環境に対する法的配慮が足りていない傾向にあり、後進国であるB国では環境に対する法律が未だ未熟で、排水は排気に注意を払う必要があまりなく、よってそれらの対策の為の設備投資もすくない。よって、この点に関する製造コストは低く抑える事ができる。
上記の例の場合、A国とB国とで自由に競争してもいいのだろうか?B国にも地球に住む一員として、責任を全うして頂きたい。もし全うできないのであれば、その「ペナルティー」を払う必要がある。その「ペナルティー」とは、自由な競争には参加できない「ペナルティー」であったり、または関税を課せられるといった「ペナルティー」で対応すべきではないだろうか?
現状、日本の隣国の公害が日本にも及んできている。悪い空気は汚染された酸性雨が日本に降っている現状に対して、どう取り組むべきだろうか?この場合においても、やはりなんらかの「ペナルティー」を課すべきではないだろうか。
「ルール」として定めるべきその他の社会的責任として、以下はどうだろうか?
・従業員に対する社会保障のありかた
・給与
特に、給与が10分の1の国と、競争するのはナンゼンスだ。全く同じにする必要はないが、自由競争を行う国の間の賃金格差は、数10%以内にすべきではないだろうか?賃金差が大きい国間では、関税を課する事で、賃金差をある程度補正する必要があるのではないだろうか。
他にも沢山、企業活動を行う際の法制度や規制、ルール化が必要だろう。これに関しては、TPPでもそれなにり議論されている様なので、上記以以外の「ルール」については取りあえず此処での議論は止めておこう。
最後に、農作物に関して触れたい。農作物を自由競争下に置くのは問題がる。食料は国の政策の中で一案重要が問題で、外圧で「自由競争」にすべきモノではない。あくまで、各国が自主的に判断すべき事項だ。
自然豊かな広大な国と、自然が豊かでない国や土地が狭い国とで自由な競争は行う事は、全く不公平である。国家が食料を輸入したければ、その国家の判断で輸入すべきである、経済の自由化の名の下で、強制的に非関税化して、自由にすべきモノではない。
また、「食の安全」に関するルール作りに関して、日本の考え方と、海外(特に米国)との考え方の溝は埋りそうにない。この点においても、食料の自由経済化には反対したい。
日本においては、食料も自由経済化に置く事で、食料の値段が下がる事を期待する人も多く居る。勿論、その理論はある程度正しいのだろうが、そうしなくても値段を下げる事、または競争力を高める事は十分可能だ。
一つの単純な例として、国内産のおコメの流通制度を自由化する事で、かなり値段がさがるだろう。そして農業の法人化やその他の法制度の見直し/改善で、かなりの事ができると云える。
因みに、矛盾している様に聞こえるかもしれないが、TPP参加には反対していない。TPP自体は不十分で悪い仕組みだが、此処まできてしまったら参加せざるをえないと考えるからだ。
俗に云う、「自由経済」に疑問を感じる理由は、大きく分けて二つある。一つは経済(流通)の基本は地産地消と云う事。そして二つ目は、共通のルールの必要性である。
企業が活動を行う場合の重要な項目の一つに、地域社会への貢献がある。「地域社会への貢献」の定義は色々がるだろうが、その中の一つは地域での雇用であろう。この論点で、日本の自動車産業は80年代に米国に工場を立ち上げた。
自動車産業において日本からの輸出が増え、米国の雇用が縮小した。これは米国にとって許し難い事だ。米国市場で自動車を何百台も販売しながら、米国で自動車を1台も生産していたなったのだから。この例が、地産地消の原則の一つだといえる。
特定の市場に対して、大きな販売をしたいのであれば、その市場の社会に対して”雇用”と云う責任を全うすべきだと考える。製造業であれば、生産設備を作って雇用を作りだす必要がある。
第二の理由は、経済活動を行い際の「ルール」の必要性だ。基本的には経済を行う場合には、何でもかんでも自由ではなく、ある程度の「ルール」が必要である。この「ルール」が不十分なので、TPPなどの自由経済に疑問を感じている。
分かり易い例として、サッカーと野球は一緒に競技しない。そしてメジャーリーグのマイナーリーグは一緒に競技しないし、J1とJ2は一緒に競技しない(一部の例外を除いて)。
単純にこのスポーツの理屈を経済にも当てはめる必要がある。それが「ルール」だと思う。
幾つかの「ルール」の例を上げてみよう。
ルールの例として、「環境」に対する企業が背負うべき責任(負担)を考えてみよう。
A国では環境に対する制度が厳しく、工場からの排水や排気などに機微しい制限がある。その為、環境に環境に関する設備に多大が投資が必要であり、製造コストが自ずと高くなってしまう。
一方、後進国では、環境に対する法的配慮が足りていない傾向にあり、後進国であるB国では環境に対する法律が未だ未熟で、排水は排気に注意を払う必要があまりなく、よってそれらの対策の為の設備投資もすくない。よって、この点に関する製造コストは低く抑える事ができる。
上記の例の場合、A国とB国とで自由に競争してもいいのだろうか?B国にも地球に住む一員として、責任を全うして頂きたい。もし全うできないのであれば、その「ペナルティー」を払う必要がある。その「ペナルティー」とは、自由な競争には参加できない「ペナルティー」であったり、または関税を課せられるといった「ペナルティー」で対応すべきではないだろうか?
現状、日本の隣国の公害が日本にも及んできている。悪い空気は汚染された酸性雨が日本に降っている現状に対して、どう取り組むべきだろうか?この場合においても、やはりなんらかの「ペナルティー」を課すべきではないだろうか。
「ルール」として定めるべきその他の社会的責任として、以下はどうだろうか?
・従業員に対する社会保障のありかた
・給与
特に、給与が10分の1の国と、競争するのはナンゼンスだ。全く同じにする必要はないが、自由競争を行う国の間の賃金格差は、数10%以内にすべきではないだろうか?賃金差が大きい国間では、関税を課する事で、賃金差をある程度補正する必要があるのではないだろうか。
他にも沢山、企業活動を行う際の法制度や規制、ルール化が必要だろう。これに関しては、TPPでもそれなにり議論されている様なので、上記以以外の「ルール」については取りあえず此処での議論は止めておこう。
最後に、農作物に関して触れたい。農作物を自由競争下に置くのは問題がる。食料は国の政策の中で一案重要が問題で、外圧で「自由競争」にすべきモノではない。あくまで、各国が自主的に判断すべき事項だ。
自然豊かな広大な国と、自然が豊かでない国や土地が狭い国とで自由な競争は行う事は、全く不公平である。国家が食料を輸入したければ、その国家の判断で輸入すべきである、経済の自由化の名の下で、強制的に非関税化して、自由にすべきモノではない。
また、「食の安全」に関するルール作りに関して、日本の考え方と、海外(特に米国)との考え方の溝は埋りそうにない。この点においても、食料の自由経済化には反対したい。
日本においては、食料も自由経済化に置く事で、食料の値段が下がる事を期待する人も多く居る。勿論、その理論はある程度正しいのだろうが、そうしなくても値段を下げる事、または競争力を高める事は十分可能だ。
一つの単純な例として、国内産のおコメの流通制度を自由化する事で、かなり値段がさがるだろう。そして農業の法人化やその他の法制度の見直し/改善で、かなりの事ができると云える。