縄文人の反乱 日本を大事に

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

中国は異常な国である。異常な中国には世界共通の道徳は通用しない。

2014年08月27日 19時33分54秒 | 色んな情報

中国は異常な国である。異常な中国には世界共通の道徳は通用しない。
中国人は常に自己の利益、自国の利益を追求する。シナ人根性
を理解して対応すべきだ。
[AC通信:No.509 Andy Chang (2014/08/26)
[AC論説] No.509 中国の異常接近
中国の戦闘機が米国の対潜哨戒機に異常接近した上で、米国に対し
海上偵察の停止を要求した。6月には尖閣諸島付近で自衛隊機に異
常接近した。二つとも中国側の威嚇であり、米国の衰退を中国の覇
権進出のチャンス、威嚇を繰り返し米国や日本が何所まで譲歩する
かを見極めようとする。
米国だけでなく世界諸国は中国に対応する方法を間違えている。中
国人の野心を見極めなかったからである。この状態から脱出するに
は中国人の本質を見極めて中国政策を改善すべきである。
中国は異常な国である。異常な中国には世界共通の道徳は通用しな
い。中国人は常に自己の利益、自国の利益を追求する。シナ人根性
を理解して対応すべきだ。
●シナ人気質
米国はシナ人気質を理解していない、日本もシナ人気質を理解して
いない。中国との交渉はどのように些細なことでも常に平気で嘘を
言う、双方に通じる道徳は皆無である。だから相手が「人間」と思
わず「人間と違うケダモノ」として対処すべきだ。
トウ小平が中国の経済開放を始めたとき、「韜光養晦(野心を隠す)」
と「友好」をモットーとした。だが中国が強大になると忽ち豹変し
て「中国の夢」を唱え、武力誇示、領土拡張、資源獲得を始めた。
不利な時は平和友好を唱えて哀れみを乞うが、有利な時は傲慢をむ
き出しにして恫喝する。卑屈と傲慢、乞食と富豪、この二つとも中
国人の気質である。中国人と交渉するときは相手が隠した本心(野
心)を見極めなければ常に譲歩を繰り返す羽目になる。
中国には「鄭州人の喧嘩」と言う笑い話がある。鄭州人(河南省の
首都)の喧嘩とは罵りあい、威嚇、悪口雑言、肩を寄せ拳を振り上
げて互いに詰め寄る。しかし絶対に手を出さない。手を出したほう
が負けだが一触即発まで威嚇を繰り返す。中国人の外交とはいつで
も鄭州人の喧嘩と悟るべき、威嚇には威嚇で対応すべきだ。
戦闘機の異常接近はまさにその通りで、シナ人が拳を振り上げた威
嚇なのだ。手出しをすれば戦争になるが、相手は威嚇だけである。
相手が戦闘機を出せばこちらも戦闘機で威嚇すべき。相手が二機な
らこちらは三機、優勢な対応をすれば引っ込む。だが威嚇が収まっ
ても次の威嚇があるから常に警戒心を持つべきだ。
●交渉条件を「値切る」
APEC の首脳会談で日本側が日中首脳会談を持ちかけて、習近平は日
本側に安倍首相が靖国参拝をしないこと、尖閣問題を討論するなど
の条件を持ちかけたというが、二つとも日本の国内問題である。
日中交渉に日本側に不利な条件をつけるなどもってのほかだ。日中
首脳会談は習近平の地位の確立に有利でも安倍首相に有利ではない
し、日本側が譲歩する必要は少しもない。
中国は対外交渉でいつも自国に有利な条件を持ち出すが、このよう
な相手に譲歩するよりも逆にこちらから天安門事件、チベット問題、
環境汚染など、相手の弱点を指摘する条件を出すべきだ。中国の弱
点はいくらでもあるし、日本が下手に出る必要はない。日中交渉は
常に日本が優位に立つと知るべきである。
対中国交渉とは「値切る」ことである。向こうの言い値で交渉して
はならないし、中国側の言い値は本当の値段の数倍から数十倍であ
ると知るべきだ。
●世界経済と中国
中国にとって経済とは政治、中国覇権の手段である。中国は諸国と
公平な競争をしない。中国では政治がすべて、経済は政治の一部に
過ぎない。
諸国の企業家は巨大な中国のマーケットに目がくらんでいるが、中
国に進出する企業はみんな中国側の不合理な条件を受け入れなけれ
ばならない。各国はいろいろな制約を受けるほかに、中国がそれを
必要としなくなれば忽ちポイと追い出される。
諸国は中国のマーケットが欲しいけれど、中国は諸国の能力の模倣
がしたいのである。中国で不公平な制約を受けるよりも中国以外の
マーケットを探すべきだ。中国は世界を必要としているが、世界は
必ずしも中国を必要としていない。中国が異常な国でなければ対等
な世界経済に組み込むことが出来る。異常な国であれば世界は中国
を排除すればよい。
●共産中国は世界に有害である
トウ小平の「韜光養晦」から習近平の「中国の夢」まで、中国の首
脳が変わり、共産党政権は友好からアジア、世界制覇の野心をむき
出しにして、米国の戦闘機に異常接近、公海上の偵察飛行にさえ武
力恫喝をするようになった。明らかに中国の覇権進出が世界の不穏
の根源である。このような事態に至っても米国は中国を恐れて宥和
政策を取り続けるつもりか。
中国共産政権に対抗して習近平の傲慢を叩くべきである。習近平は
国内でも汚職追放やチベット、東トルキスタンの反抗に手を焼いて
いる。中国共産党を潰すのは簡単で、まず習近平を潰すことである。
中国共産党を潰せば世界は平和になる。
習近平は自己の権力増大を狙い、汚職摘発で徐才厚、周永康などを
逮捕したが、熾烈を極める政治闘争で習近平が勝つとは限らない。
諸国は習近平に有利になるすべてに非協力をモットーとし、彼の失
敗を見極めるべきだ。習近平に有利なAPECの首脳会議や経済交渉な
どに協力すべきではない。「鄭州人の喧嘩」を理解して、戦闘機異常
接近では武力対抗より経済制裁を加えるべきである。外交面では中
国側の要求に反対し、いかなる中国側の提案も妨害すべきである。
中国は世界不穏の根源である。中国と戦争をして中国に勝つのでは
なく、経済封鎖などで中国共産党を潰すべきだ。習近平が権力争い
に失敗したら中国共産党は大混乱となり、前世紀のような群雄割拠、
政党乱立、地方の独立が起きる。中国がいくつかの小国に分割され
弱体化すれば世界が平和になる。


イギリスで、底なしの陥没穴が出現

2014年08月27日 18時19分14秒 | 色んな情報

イギリスで、底なしの陥没穴が出現
濱田 治美
昨年から今年にかけて、イギリス各地に小さな陥没穴が出現しています。大雨が降り続き地盤が緩んだためではないかと言われていますが。。。
最近では、巨大な底なし穴が出現したそうです。イギリスのどのエリアかは伝えられていませんが。。。直径約90mまで拡大しているそうです。縁が崩れ落ちているため今後も穴は拡大し続けるのではないでしょうか。
雨で地盤が緩むと土砂崩れが起きますが、このような陥没穴が開くのはどういうことなのでしょうか?採掘場跡で陥没穴ができるのは分かるのですが。。。そうではないようなので。。。地下水路が崩れているのでしょうか?
それとも、やはり地球は空洞なのでしょうかね~。。。。
<イギリス各地に陥没穴が>
http://www.dailymail.co.uk/news/article-2560892/Terrifying-holes-opening-Britain-How-sinkholes-appearing-five-times-normal-rate-bad-weather-mean-havent-seen-them.html
<イギリスで巨大な底なし穴が出現>
http://beforeitsnews.com/earthquakes/2014/08/bottomless-pit-opens-up-in-uk-100-wide-monster-sinkhole-as-planet-earth-continue-to-crumble-2511118.html
8月25日付け:
イギリスで、巨大な陥没穴が出現しました。最初、穴の直径は約90cmでしたが、次第に穴の縁が崩れ落ち、今は直径約90mまで拡大しました。しかもこの穴は底なしです。穴の上からは底が全く見えません。最近、チリ、ペルー、カリフォルニアで地震が発生しましたが、メキシコでは巨大な地割れが確認されています。これは、地球全体に大きな変化が起きているということなのでしょうか。
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/51936887.html


昨日のフィールドワークにて、大学の教授との話。

2014年08月27日 18時09分45秒 | 色んな情報

昨日のフィールドワークにて、大学の教授との話。
手登根 安則
表現の自由について討論となりました。
教授いわく、「表現の自由という点において、フェンスにテープを貼ることは許されていいのではないだろうか、これは最高裁でも判決が出ていることであり・・・」
私は、「表現の自由というものは、法律及び社会的規範の範囲内で認められるべきであり、それを無条件で認めるのなら、反戦平和は免罪符となる、それがこの現状だ」と切り返しました。
それでも彼は、「テープを貼るというのは意思表示であり、汚しているのとは違う、また張った側が剥がすというのなら認められても・・」
私はこう答えました。
「貼った側は確かに剥がしますと新聞で意思表明をしております、しかしそれは普天間基地が撤去されたときに、という条件つきです、基地が移設されるまでの何年、十何年もの間、このテープを貼ったままにしておくのですか?表現の自由とはそんなものなのですか?」
残念ですが、彼の心の中には「貼る側」へ寄り添いたいという気持ちが見え隠れしておりました。
反対派は常に攻撃すべき対象を求め続けています。
それがなければ、自らの存在を保てないのでしょうか?
野嵩ゲートでは、フンエスクリーンプロジェクトを
大山ゲートでは、ハートクリーンプロジェクトを
辺野古では「海保」が彼等の「敵」として、マスコミ総出で攻撃を繰り返しています。
抗議活動のためなら、規制線の内側にカヌーを乗り入れていいのか?
それこそ問題にすべき点ですが、沖縄メディアは反対派にべったりと寄り添った報道を繰り返しております。
死亡広告なら数十万もとるスペースを「辺野古ドキュメント」として毎日掲載。
むろん、活動家のためですので無料掲載でしょう。
「首や顔を押さえつけられ、繰り返し海中に沈められた」
法を守らない者の戯言を、裏もとらず平気で掲載し続ける沖縄の新聞。
何度も踊る「市民」という文字。
メディアそのものが反対派の一部と化したいま、沖縄県民は真実をどう見極めるかが問われているのだと思います。


●貝原益軒

2014年08月27日 13時30分18秒 | 色んな情報

●貝原益軒
◆かいばらえきけん かひばら- 【貝原益軒】
(1630~1714) 江戸前・中期の儒学者・本草家・教育思想家。筑前生まれ。名は篤信。初め損軒と号した。福岡藩儒。朱陸兼学から朱子学に帰し,本草などにも目を向け,博物学的実証主義に立って窮理の道を重視。著「大疑録」「大和本草」,医書の「養生訓」,子女の教育を説いた「和俗童子訓」など多数。
 
◆かいばらえきけん 【貝原益軒】  世界宗教用語大事典
江戸前期の儒学者・博物学者・教育家。福岡藩右筆の子(先祖は神官)。名は篤信。前号は損軒。藩主に仕え、京都で木下順庵らと交際して帰郷。陽明学から朱子学に転じ、晩年は古学派に。長崎・京都・江戸を旅し紀行文が多い。他に『大和本草』『養生訓』『和俗童子訓』は有名。人間性の尊重と愛の大切を説いた。兄楽軒も本草学者。(一六三〇~一七一四)
 
◆貝原益軒   美術人名辞典
読み方:かいばら えきけん
江戸前・中期の儒者。福岡藩医官貝原寛斎の四男。名は篤信、字は子誠、通称を助三郎、のち久兵衛、別号に損軒・柔斎。父や兄存斎に医学・漢学を学ぶ。のち藩医となり京都に遊学。学問は初め陽明学を好み、のち朱子学を、晩年にはその朱子学も批判するに至った。その探究するところ極めて幅広く、子女の教育法を説いた『和俗童子訓』等著書も多い。正徳4年(1714)歿、85才。
 
◆貝原 益軒(かいばら えきけん、1630年12月17日(寛永7年11月14日) - 1714年10月5日(正徳4年8月27日))は、江戸時代の本草学者、儒学者。
 
◆生涯・人物
筑前国(現在の福岡県)福岡藩士、貝原寛斎の五男として生まれる。名は篤信、字は子誠、号は柔斎、損軒(晩年に益軒)、通称は久兵衛。

1648年(慶安元年)、18歳で福岡藩に仕えたが、1650年(慶安3年)、2代藩主・黒田忠之の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送ることとなる。1656年(明暦2年)27歳、3代藩主・光之に許され、藩医として帰藩[1]。翌年、藩費による京都留学で本草学や朱子学等を学ぶ。このころ木下順庵、山崎闇斎、松永尺五、向井元升、黒川道祐らと交友を深める。また、同藩の宮崎安貞が来訪した。7年間の留学の後、1664年35歳の時、帰藩し、150石の知行を得、藩内での朱子学の講義や、朝鮮通信使への対応をまかされ、また佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担った。藩命により『黒田家譜』を編纂。また、藩内をくまなく歩き回り『筑前国続風土記』を編纂する。

 
『大和本草』(国立科学博物館の展示)幼少のころから読書家で、非常に博識であった。ただし書物だけにとらわれず自分の足で歩き目で見、手で触り、あるいは口にすることで確かめるという実証主義的な面を持つ。また世に益することを旨とし、著書の多くは平易な文体でより多くの人に判るように書かれている。

70歳で役を退き著述業に専念。著書は生涯に60部270余巻に及ぶ。主な著書に『大和本草』、『菜譜』、『花譜』といった本草書。教育書の『養生訓』、『和俗童子訓』、『五常訓』。思想書の『大擬録』。紀行文には『和州巡覧記』がある。

1911年(明治44年)6月1日、贈正四位
 
◆養生訓 - Wikipedia  http://urx.nu/bmMP
江戸時代に福岡在住の儒学者の貝原益軒によって書かれた健康な生活の暮し方についての解説で、彼の著作の中でも最もよく読まれたものである。
益軒83歳の正徳2年(1712年)、実体験に基づいて書かれた書物である。長寿を全うするための身体の養生だけでなく、こころの養生も説いているところに特徴がある。

『孟子』の君子の三楽にちなみ、養生の視点からの「三楽」として次のものが挙げられている。
1.道を行い、善を積むことを楽しむ
2.病にかかることの無い健康な生活を快く楽しむ
3.長寿を楽しむ。
また、その長寿を全うするための条件として、自分の内外の条件が指摘されている。まず自らの内にある四つの欲を抑えるため、次のものを我慢する。
1.あれこれ食べてみたいという食欲
2.色欲
3.むやみに眠りたがる欲
4.徒らに喋りたがる欲
さらに季節ごとの気温や湿度などの変化に合わせた体調の管理をすることにより、初めて健康な身体での長寿が得られるものとする。これらすべてが彼の実体験で、彼の妻もそのままに実践し、晩年も夫婦で福岡から京都など物見遊山の旅に出かけるなど、仲睦まじく長生きしたという。 こうした益軒の説くことは、今日の一次予防に繋がるものである。
 
◆養生訓(貝原益軒)  http://urx.nu/bmN6
この本が上梓されたのは1713年です。今から(今年2001年)288年前のことです。当時、益軒は84歳でした。この本の中には「人生の楽しみ方」が書かれています。その「楽しみ方」には、以下の3つの面をもっています。
 ①≪道≫を行い≪善≫を楽しむこと②病なく快く楽しむこと③長寿の楽しみです。益軒はこの≪三楽≫をいかなる金銀財宝の富や名誉の貴さよりも優れたものとしています。

 また≪長寿≫もただの有機体の一物として長く生きるということではなく、「欲をすて謙虚に、畏敬の念を忘れずに生きる」人間の真の姿を描いています。さらにこの書は単なる≪養生≫の技術や知識を述べたものではなく、ここで説かれているのは、≪永遠の命≫を生きる人間の知恵であります。決して理性的な観念や原理をふりかざしたような乾燥したものではありません。それゆえ288年も経った現在でも、日本人の体質や風土に適合した深い味わいを出しているとおもわれます。
 

ここでは≪養生訓≫の代表的な部分を載せてみましたので、興味ある方はクリックしてみてください。
 
◆貝原益軒の名言 - 地球の名言  http://urx.nu/bmNk
 貝原益軒の名言一覧

朝早く起きるは、
家の栄えるしるしなり。


遅く起きるは、
家の衰える基なり。
 
◆貝原益軒アーカイブ   http://urx.nu/bmNx
江戸時代の偉大な儒者であり、自然科学の分野にも幅広く通じていた貝原益軒(寛永7(1630)年~正徳4(1714)年)の墓は夫人(貝原東軒)の墓とともに本学からほど近い福岡市中央区今川の金龍寺にあります。

益軒が85年の生涯に残した数多くの著作の中でも、本草学・医学関係の大和本草、花譜、養生訓などや、教育論としてもとらえることのできる大和俗訓、和俗童子訓などは、栄養科学部や教育学部を設置する本学にとって大変興味深いものであり、益軒を学ぶとともに関係資料を調査、収集することは意義あることと言えます。


いくさ(軍、戦、兵)

2014年08月27日 08時54分11秒 | 色んな情報
いくさ(軍、戦、兵)

1. つわもの、 兵士、 兵隊、 軍勢、 軍隊。つまり、戦争をすることが可能な集団。
2. 1に書かれている対象の関係としての、つまり、戦い、戦争、合戦。



戦・軍(いくさ)の意味・語源・由来

【意味】 いくさとは、兵と兵が戦うこと。戦い。戦争。合戦。武士。戦士。軍隊。兵隊。
いくさを漢字で「戦」「軍」と書くのは当て字。
いくさの「いく」は、矢を「射る」「射交わす」意味の「いくふ(いくう)」か、「まと(的)」を意味する「いくは」の語根。
いくさの「さ」は、「矢」を意味する「さ(箭・矢)」、もしくは接尾語の「さ」。
つまり、いくさの語源は「矢を射る」「矢を射交わす」ことである。
古く、「いくさ」の語は「矢射るわざ(こと)」の意味で用いられることが多く、「戦争」や「戦闘」の意味が主になったのは中世以降である。

【関連語】
アーミー (army)陸軍  軍(陸軍編成の単位)。
軋轢(あつれき)《車輪がきしる意から》仲が悪くなること。「―を生じる」
抗う(あらがう)1 従わないであらそう。抵抗する。逆らう。「運命に―・う」「権勢に―・う」
諍う(あらがう)1 従わないであらそう。抵抗する。逆らう。「運命に―・う」「権勢に―・う」

争う(あらそう)1 従わないであらそう。抵抗する。逆らう。「運命に―・う」「権勢に―・う」
諍い(いさかい)言い争い。言い合い。また、けんか。「―が起こる」「友人と―する」

いざこざ   もめごと。争いごと。ごたごた。「職場に―が絶えない」「―の種をまく」

蝸牛(かぎゅう)角上(かくじょう)の争い
《「荘子」則陽の、かたつむりの左の角(つの)にある国と右の角にある国とが争ったという寓話から》小さな者同士の争い。つまらないことにこだわった争い。蝸角(かかく)の争い。
●蝸牛角上の争い(かぎゅうかくじょうのあらそい) [ 日本大百科全書(小学館) ] .とるに足らぬ狭いところで、つまらぬことのために争い合うことをいう。蝸牛はカタツムリのこと。カタツムリの右の角(つの)の上にある蛮(ばん)氏の国と、左の角の上の触(しょく)氏の国とが、互いに相手の地を求めて争って戦い、数万の死者を出したとある、『荘子』「則陽篇(へん)」の寓話(ぐうわ)による。『白氏文集』にも、「蝸牛の角の上に何事をか争う、石火の光の中に此身(このみ)を寄せたり」などとあり、人間の身を石火のようにはかないものに例えている。
[ 執筆者:田所義行 ]



敵・仇(かたき)
《「かた」は対比するものの片方の意で、本来は相手を広くいう》

1 勝負や争いの相手。競争相手。「商売上の―」「碁―」

2 恨みのある相手。あだ。仇敵(きゅうてき)。「―を取る」「父の―を討つ」

3 戦での相手。てき。

「―も御方(みかた)もこれを聞いて、一度にどっとぞ笑ひける」〈平家・九〉

4 結婚の相手。配偶者。

「御―をば知り奉らじ」〈宇津保・俊蔭〉

→敵(てき)[用法]


ゲリラ【(スペイン)guerrilla】
小部隊による奇襲などで敵を混乱させる戦法。また、その部隊や戦闘員。「―戦」


犬猿の仲(けんえんのなか)何かにつけていがみ合うような仲の悪さ。


喧嘩/諠譁(けんか)言い合ったり殴り合ったりしてあらそうこと。いさかい。「―をふっかける」「―するなら外でしろ」「口―」  騒がしいこと。また、そのさま。

喧嘩腰(けんかごし)すぐにもけんかを仕掛けそうに、くってかかる態度。「―で掛け合う」

骨肉相食む(こつにくあいはむ)肉親どうしが争い合う。骨肉相争う。「遺産をめぐっての―・む争い」◆ 他人同士が争う場合には、この句は使わない。


鞘当て(さやあて)
さや‐あて【×鞘当て】
1 武士が道で行き違うときに、互いに刀の鞘に触れたのをとがめ、争うこと。さやとがめ。転じて、ささいなことからおこるけんか・争い。

2 一人の女性をめぐり二人の男性が争うこと。「恋の―」

3 歌舞伎の趣向の一つで、二人の武士が鞘を当てたことから争いになるというもの。元禄10年(1697)江戸中村座上演の「参会名護屋(さんかいなごや)」が最初で、現在の形は文政6年(1823)江戸市村座上演の「浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなずま)」の吉原仲の町の場による。


鎬を削る(しのぎをけずる)激しく刀で切り合う。転じて、激しく争う。「二党が―・る激戦区」◆「凌ぎを削る」と書くのは誤り。

シャモ・軍鶏(しゃも)《アイヌ語》アイヌが日本人をさしていった語。和人。

修羅場(しゅらば)阿修羅(あしゅら)と帝釈天(たいしゃくてん)とが戦う場所。


スカッド【Scud】
1960年代に開発された旧ソ連製の中距離地対地ミサイル。核弾頭を装着できる。また、これを土台にして、イラク・北朝鮮などの各国が独自に開発したものを指すこともある。1991年の湾岸戦争では、イラク側の報復兵器として使用された。


鬩ぐ(せめぐ)《古くは「せめく」とも》

1 互いに憎み争う。
「我が先へ汝(そなた)は後にと兄弟争い―・いだ末」〈露伴・五重塔〉

2 責め苦しめる。
「老いぬとてなどかわが身を―・ぎけむ老いずは今日にあはましものか」〈古今・雑上〉

タイマン  1対1のケンカのこと。
『タイマン』の解説
タイマンとは1対1のケンカのことで、1980年代に当時『ツッパリ』と呼ばれる不良少年が好んで使った言葉である。
当時は学校同士やグループ同士のケンカの際、最後は相手の権力者(大将・番長)とタイマンでケリをつけることが美徳とされた。
また、タイマンは本宮ひろ志の漫画など当時の不良やツッパリ漫画でよく使われた。
http://zokugo-dict.com/16ta/taiman.htm  日本語俗語辞書



戦い・闘い(たたかい)
1 戦争。戦闘。「ゲリラとの―」

2 競争。試合。勝負。「ライバルとの―」

3 抗争。闘争。「貧困との―」「労使の―」

角突き合い(つのつきあい)《「つのづきあい」とも》仲が悪くてよくけんかをすること。いがみ合い。「部内で―が絶えない」


鍔迫り合い(つばぜりあい)
1 打ち合わせた刀を鍔もとで受け止めたまま互いに押し合うこと。

2 勢力に差がなく、緊迫した状況で勝負を争うこと。また、その争い。「―の接戦を演じる」「両党入り乱れて―する」


兵(つわもの)
1 武器をとって戦う人。兵士。軍人。また特に、非常に強い武人。「歴戦の―」「古(ふる)―」

「夏草や―どもが夢の跡」〈奥の細道〉

2 勇気のある強い人。また、その方面で腕を振るう人。猛者(もさ)。「若いのになかなかの―だ」「その道の―」

3 戦いに用いる道具。武器。武具。

「―を業として、悪を旨として」〈宇津保・祭の使〉


敵(てき)
1 一緒に物事をする人。相手。相棒。

2 (「敵娼」とも書く)遊里で、客から見て相手の遊女。


テロ  「テロル」「テロリズム」の略。
テロル【(ドイツ)Terror】
《恐怖の意》暴力行為あるいはその脅威によって、敵対者を威嚇(いかく)すること。恐怖政治。テロ。
テロリズム【terrorism】
政治的目的を達成するために、暗殺・暴行・粛清・破壊活動など直接的な暴力やその脅威に訴える主義。テロ。



とっちめる《「と(取)ってし(締)める」の音変化》きびしく責めたり、しかったりする。ひどくやりこめる。「いたずら者を―・める」


武士(ぶし)
昔、武芸をおさめ、軍事にたずさわった身分の者。中世・近世には支配階級となった。さむらい。もののふ。

矛・鉾(ほこ)
む【矛】
[音]ム(呉) ボウ(漢) [訓]ほこ

〈ム〉武器の一種。ほこ。「矛盾」

〈ボウ〉ほこ。「矛戟(ぼうげき)」

〈ほこ(ぼこ)〉「矛先/玉矛(たまぼこ)」

[名のり]たけ

ほこ【矛/×鉾/×戈/×鋒/×戟】
1 両刃の剣に柄をつけた、刺突のための武器。青銅器時代・鉄器時代の代表的な武器で、日本では弥生時代に銅矛・鉄矛がある。のちには実用性を失い、呪力(じゅりょく)をもつものとして宗教儀礼の用具とされた。広く、攻撃用の武器のたとえとしても用いる。「―を向ける」

2 弓の幹(から)。弓幹(ゆがら)。

3 1を立てた山車(だし)。特に京都祇園会(ぎおんえ)の山鉾(やまぼこ)。ほこだし。《季 夏》「―処々にゆふ風そよぐ囃子(はやし)かな/太祇」


的(まと)
1 弓や銃砲などの発射の練習の目標にする道具。円形・方形など各種あるが、普通は中央に黒点を描いてある。標的。「―をねらう」



物事をするときの目標・対象。めあて。「非難の―になる」「受験校の―を絞る」

物事の核心。「―をそれた質問」

3 紋所の名。1を図案化したもの。


味方(みかた)
み‐かた【味方/▽御方/身方】
[名](スル)《「かた」の敬称「御方」の意。「味方」「身方」は当て字》

1 対立するものの中で、自分が属しているほう。また、自分を支持・応援してくれる人。「心強い―」⇔敵。

2 対立するものの一方を支持したり、応援したりすること。「いつも女性に―する」

3 天皇の軍勢。官軍。

「―の軍おぢおそれ三たび退き返る」〈今昔・一一・一〉

[ 大辞泉 提供: JapanKnowledge ]


水掛け論(みずかけろん)
両者が互いに自説にこだわって、いつまでも争うこと。また、その議論。互いに自分の田に水を引こうと争うことからとも、水の掛け合いのように勝敗の決め手のない論争の意からともいう。

ミリタリー【military】
1 軍。軍隊。

2 複合語の形で用い、軍の、軍事上の、の意を表す。「―バランス」



揉める(もめる)
1 争いが起きてごたごたする。「会議が―・める」

2 いらいらする。「気が―・める」

3 費用がかかる。

「はじめより―・める事なれば」〈浮・一代男・八〉

遣っ付ける(やっつける)《「やりつける」の音変化》

1 「する」「やる」の意を強めていう語。また、いいかげんにやってしまう。「仕事を一気に―・ける」

2 ひどい目にあわせる。打ち負かす。「手ひどく―・けられる」


竜虎相搏つ(りゅうこあいうつ)
力の伯仲した二人の強豪が勝負する。「―・つ見ごたえのある試合」

[ 大辞泉 提供: JapanKnowledge ]


●おせわ

2014年08月27日 08時06分44秒 | 色んな情報

●おせわ
◆せ わ 【世話】
( 名 ) スル
① (人や生き物に対して)気を配って面倒をみること。手数をかけて援助すること。 「植木の-」 「孫の-をする」 → 御世話
② 中に入って取り持つこと。仲介。斡旋(あつせん)。 「就職の-」 「嫁を-する」
③ 手数がかかって苦労すること。 「 -がかかる」 → 御世話さま
④ 日常的なこと。卑近なこと。 「 -物」 「 -場」
⑤ 世間でよく口にする話や言葉。世間の言いぐさ。下世話。 「誠に-にも,建長寺の庭を鳥帚で掃いた様なと申すが/狂言・鐘の音 虎寛本」
⑥ 世俗で使う言葉。俗語。話し言葉。 「 -ニヤワラゲタル平家ノ物語/天草本平家 扉」
[句]世話がない ・ 世話が焼ける ・ 世話に砕ける ・ 世話になる ・ 世話を掛ける ・ 世話を焼く ・ 世話を病む
 
◆世話(せわ)
1.相手の身の回りのことをあれこれと面倒をみること。援助すること。
2.その人の希望に添うよう紹介、斡旋すること。
3.面倒で手がかかること。
4.世間一般の人の言ったり、行ったりする事柄または様子。
5.噂。
 
◆お世話   丁寧表現の辞書
読み方:おせわ
名詞「世話」に、接頭辞「お」がついたもの。
 
◆お せわ  【御世話】
( 名 ・形動 )
① 世話を丁寧にいう語。 「病人の-をする」 〔「お世話になっています」 「お世話になりました」などの形で,挨拶(あいさつ)の言葉として持続的な恩恵に対する感謝の意を表すのにも用いる。「日頃何かと-になっております」〕
② 御面倒。 「 -でもよろしくお願いします」 〔「大きなお世話だ」 「余計なお世話だ」 「いらぬお世話だ」の形で,自分にとって必要ない,お節介な助けに対して,わずらわしく思う気持ちをも表す〕
 

 
◆余計なお世話
自分にとっては必要のない相手の手助けや差し出口をいう語。
» 余計
 
◆げ せわ  【下世話】
( 名 ・形動 )
世間でよくいう言葉や話。また,俗な・こと(さま)。 「…と-にも言う」 「 -な話」
 
◆下世話   隠語大辞典
読み方:げせわ
平民的という意、「下卑様の話」という意味から出た語。
 

 
◆世話がな・い
① 手数がかからない。 「あの子は本当に-・い」
② あきれはててどうしようもない。 「皮肉を言われて喜んでいるとは-・い」
» 世話
 
◆世話に砕(くだ)・ける
① 歌舞伎で,時代物の調子で進行していた舞台が,台詞(せりふ)・態度とも急に砕けた世話物の調子になる。
② 言葉や態度がうちとけて格式張っていない。
» 世話
 
◆世話が焼・ける
ある人について手数がかかる。面倒だ。 「ずいぶん-・ける子供だ」 「世話の焼ける赤ん坊」
» 世話
 
◆世話を病(や)・む
心から世話をする。 「 - ・んで病み死にの母様の恩をはや忘れ/浄瑠璃・生玉心中 上」
» 世話


大切について

2014年08月26日 21時44分16秒 | 色んな情報

大切について
大切(たいせつ)の意味・語源・由来を解説
【意味】 大切とは、重要なこと。大事。
【大切の語源・由来】
「大いに迫る(切る)」「切迫する」の意味を漢字表記し、音読みさせた和製漢語。
「緊急を要するさま」の意味から、平安末期には「肝要なさま」の意味で用いられた。
中世には「かけがえのないもの」の意味から、「心から愛する」意味としても使われるようになり、1603年『日葡辞書』では「大切」が「愛」と訳されている。

【関連語】
愛(あい)
急ぐ(いそぐ)
一大事(いちだいじ)
慈しむ(いつくしむ)
一張羅(いっちょうら)
愛しい(いとしい)
掛け替えのない
要(かなめ)
肝心(かんじん)
切る・斬る・伐る(きる)
心(こころ)
正念場(しょうねんば)
真髄・神髄(しんずい)
正鵠を射る(せいこくをいる)
手塩に掛ける(てしおにかける)
虎の子(とらのこ)
箱入り娘(はこいりむすめ)
本命(ほんめい)
勿体無い(もったいない)

 

Yahoo!知恵袋で
大切、貴重の意味はどう違うのですか。
との質問に

大切:主観的、個人的
貴重:客観的、公的

というイメージがありますな。

例えば、「私の大切な人」はいても、「私の貴重な人」というのはあまり居ませんな。
これが会社だと、「会社にとって大切な人材」も「会社にとって貴重な人材」も居ますな。
国家レベルになると、「国家にとって大切な人物」はちょっと安っぽく聞こえて「国家にとって貴重な人物」が適切ですな。

物の場合も、「僕の大切な宝物」はたいがい他の人にとっては価値が無いと相場が決まっておるが、「貴重品」は誰が見ても貴重と分かる価値のある品でしょう。ですから、「僕の大切な宝物」が盗まれることはあまりないが、「貴重品」は泥棒さんの標的にされますな。

こんな答えが在った。


日本人は大切な存在で貴重な存在でも在る人種である。

大和民族とアイヌ民族と琉球民族 のコメントで
サー・ジョンさんが
日本人の遺伝子は色々な種類があり、そのことが渡来してくる人々が平和共存していた証拠であるらしいですね。相手を滅ぼしていれば、特定の遺伝子が優勢になったはずですが、そうではなかったようです。
中国の歴史書には日本を「倭」と表記していました。これは日本語で言う「和」ですから、民族の称号としても「和」だったのでしょうね。

すごく良いコメントだと思う。
大切にしていきたいものです。


●よろしく について

2014年08月26日 18時40分48秒 | 色んな情報

●よろしく について
◆ヨロシク(よろしく)の意味・語源・由来を解説
【意味】 よろしくとは、相手に便宜をはからってもらう時などに用いる言葉。また、そういう気持ちをこめて言う挨拶語。「よろしくやってる」など、「適当に」「うまい具合に」などの意味としても用いる。
【よろしくの語源・由来】
よろしくは、形容詞「宜し(よろし)」の連用形である。
「よろし」は「良し(よし)」よりもやや低い評価を表し、「まあいい方だ」「悪くはない」という意味で使われていた。
そこから、承諾の意味として「宜しい」、承諾してもらう時には「宜しく」と使われるようになった。
また、「ご都合の宜しい時に○○」などで使われる「ほどほどに良い」という意味が転じ、よろしくは「適当に」や「うまい具合に」などの意味にも使われるようになった。

【関連語】
挨拶(あいさつ)
あばよ
有難う(ありがとう)
一期一会(いちごいちえ)
いらっしゃい
会釈(えしゃく)
お陰様(おかげさま)
お辞儀(おじぎ)

オッス・押忍(おっす)
おはよう
鎌をかける(かまをかける)
具合(ぐあい)
こんにちは
こんばんは
すみません
是非とも(ぜひとも)
世話(せわ)
ただいま
都合(つごう)
ヤンキー

日本語は楽しいね。


●挨拶(あいさつ) - 語源由来辞典

2014年08月26日 18時35分32秒 | 色んな情報

●挨拶(あいさつ) - 語源由来辞典
挨拶(あいさつ)と言う事に興味を持ち調べてみると出てくるは出てくるは。
「こんにちわ」は誤りで。「こんにちは」が正しいとか
挨拶(あいさつ)は禅宗用語だとかが改めてわかった。
沢山の挨拶用語という区分けすが在るのかは専門家に任せて
改めてこんなにある言葉に感動した。
少し挨拶の意味かみ締めてこれから人と交わっていかなければと
感じたしだい。
結構 失礼をしているのだろうね。


挨拶(あいさつ) - 語源由来辞典
【意味】 挨拶とは、人に会ったり別れたりするとき、儀礼的に取り交わす言葉や動作。儀式や会合などで述べること。また、その言葉。
【挨拶の語源・由来】
挨拶は、禅宗で問答を交わして相手の悟りの深浅を試みることを「一挨一拶(いちあいいつさつ)」と言った。
ここから一般に問答や返答のことば、手紙の往復などを挨拶と言うようになった。
「挨」も「拶」も本来は「押す」という意味で、「複数で押し合う」意味を表す語であった。

 

【関連語】
挨拶(あいさつ)
いただきます
一期一会(いちごいちえ)
行って来ます(いってきます)
いってらっしゃい
いらっしゃい
会釈(えしゃく)
辞儀(おじぎ)
お邪魔します(おじゃまします)
オッス・押忍(おっす)
おはよう
お休みなさい(おやすみなさい)
機嫌(きげん)
今日(きょう)
グッドバイ
御機嫌よう(ごきげんよう)
ご無沙汰(ごぶさた)
コミュニケーション
御免(ごめん)
こんばんは
さようなら
さらば
親しい(したしい)
ただいま
バイバイ
久しぶり(ひさしぶり)
昼(ひる)
マナー
ようこそ
よろしく

 


こんにちは - 語源由来辞典
【意味】 こんにちはとは、日中、人に会ったり、人を訪問した時の挨拶の言葉。「こんにちわ」と書くのは間違い。
【こんにちはの語源・由来】
こんにちはの語源は、「今日は御機嫌いかがですか?」などの「今日は」。
「今日は」以下を略すようになり、「こんにちは」となった。
「こんにちは」を「こんにちわ」と誤表記される理由は多々あるが、「は」と書くよりも「わ」の方が「和」に通じて親しみやすい印象を受けることから、誤表記と知りつつ、あえて「こんにちは」を「こんにちわ」と表記されることもある。

 


いただきます - 語源由来辞典
【意味】 いただきますとは、食事を始める時の挨拶の言葉。物を貰う時の言葉。
【いただきますの語源・由来】
「いただき」は、動詞「頂く・戴く(いただく)」の連用形。
山や頭の一番高いところを「頂(いただき)」と言うように、本来は「いただく」は頭上に載せる意味を表した語である。
中世以降、上位の者から物を貰う際に頭上に載せるような動作をしたことから、「いただく」に「もらう」という意味の謙譲用法が生じた。
やがて、上位の者からもらった物や神仏に供えた物を飲食する際にも、頭上に載せるような動作をし食事をしたことから、飲食をする意味の謙譲用法が生まれ、食事を始める際の挨拶として「いただきます」と言うようになった。


お辞儀(おじぎ) - 語源由来辞典
【意味】 お辞儀とは、頭を下げて礼をすること。頭を下げて挨拶すること。「お」は接頭語。御辞儀。お辞宜。御辞宜。
【お辞儀の語源・由来】
お辞儀の語源は、物事を行うのにちょうど良い時期を意味する「時宜(じぎ)」で、「辞儀」の表記は江戸時代からである。
平安時代には本来の意味で使われていたが、鎌倉・室町時代には様々な意味で使われるようになった。
「ちょうど良い時間・頃合」の意味から、「時間」の意味が希薄になり、お辞儀は「物事が成立するのにちょうど良い状況・事態」の意味となった。
さらに、「状況に対する考えや気持ち」「状況を見極めて対処すること」を意味するようになり、考えや気持ちなどを表す用法から、積極的に物事に関わる意向の意味が派生し、この意向が他人への配慮や心配になり、中世末期には挨拶の意味になった。
挨拶に伴い頭を下げる動作の意味に限定されるのは、江戸時代後期からである。


会釈(えしゃく) - 語源由来辞典
【意味】 会釈とは、人に対する親しみ・好意・謝意などを表すために、軽く頭を下げたりすること。
【会釈の語源・由来】
会釈は、仏教用語「和会通釈(わえつうしゃく)」の略である。
和会通釈とは、一見矛盾する教義どうしを照合し、根本にある共通する真実の意味を明らかにすることである。
この意味が、中世には「さまざまな状況を考えて考慮する」という意味に転じ、さらに「儀礼にかなった態度をとる」「愛想よく応対する」という意味に転じた。
会釈が、現在使われているような「お辞儀(おじぎ)」の意味になったのは、江戸時代になってからのことである。


有難う(ありがとう) - 語源由来辞典
【意味】 ありがとうとは、感謝の気持ちを表す言葉。感動詞的にも用いる。
【ありがとうの語源・由来】
ありがとうの語源は、形容詞「有り難し(ありがたし)」の連用形「有り難く(ありがたく)」がウ音便化し、ありがとうとなった。
「有り難し(ありがたし)」は、「有る(ある)こと」が「難い(かたい)」という意味で、本来は「滅多にない」や「珍しくて貴重だ」という意味を表した。
『枕草子』の「ありがたきもの」では、「この世にあるのが難しい」という意味、つまり、「過ごしにくい」といった意味でも用いられている。
中世になり、仏の慈悲など貴重で得難いものを自分は得ているというところから、宗教的な感謝の気持ちをいうようになり、近世以降、感謝の意味として一般にも広がった。
ポルトガル語の「オブリガード(obrigado)」から、「ありがとう」と言うようになったという俗説があるが、ポルトガル人が訪れる以前から使われていた言葉がポルトガル語に由来するはずはなく、「オブリガード」と「ありがとう」の音が近いというだけの話で、程度の低い俗説である。


御免(ごめん) - 語源由来辞典
【意味】 ごめんとは、自分の失礼に対して許しを請うたり、謝罪の意思を表すときに言う言葉。他家を訪問した際の挨拶の言葉。拒絶の意を表す言葉。ご免。ゴメン。
【ごめんの語源・由来】
許す意味の「免」に尊敬の接頭語「御」がついた言葉で、鎌倉時代から見られる。
本来は、許す人を敬う言い方として用いられたが、室町前期には許しを求める言い方で、相手の寛容を望んだり自分の無礼を詫びる表現になっていった。
「ごめんあれ」「ごめん候へ」などの形で初めは使われていたが、「ごめんくだされ」や、その省略の「ごめん」が多く用いられるようになった。
ごめんなさいの「なさい」は、動詞「なさる」の命令形で、「御免なすって」の「なすって」と同じ用法である。
挨拶で用いる「ごめんください」は、許しを請う「御免させてください」の意味が挨拶として使われるようになったもの。<br>
「それは御免だ」などの拒絶・断わりは、比較的新しい用法で江戸時代から見られる。


おはよう - 語源由来辞典
【意味】 おはようとは、朝、人に会ったときの挨拶の言葉。
【おはようの語源・由来】
おはようの語源は、「お早く○○ですね」などの「お早く(おはやく)」である。
この「お早く」が転じて、「おはよう」となった。
また、「おはよう」はその日初めて会った人に言うことから、一部の業界では夜でも人に会った時の挨拶として「おはよう」を用いる。


さようなら - 語源由来辞典
【意味】 さようならとは、別れるときの挨拶の言葉。さよなら。
【さようならの語源・由来】
さようならは、「左様ならば(さやうならば)」の「ば」が略され、挨拶になった語。
現在で別れ際に言う「じゃあ、そういうことで」のようなもので、「さやうならば(さようならば)」は、「そういうことならば」を意味する。


いらっしゃい - 語源由来辞典
【意味】 いらっしゃいとは、「来る」「行く」「居る」の尊敬語の命令形。おいでなさい。歓迎の気持ちを込めた挨拶の言葉。商店などの呼び込みの掛け声。
【いらっしゃいの語源・由来】
「入る」の尊敬表現「入らせらる(いらせらる)」という言葉があり、「入る」だけでなく「来る」「行く」「居る」の尊敬表現としても用いられた。
「入らせらる」が一語化して「来る」「行く」「居る」専用の尊敬語となったのが「いらっしゃる」で、その連用形に丁寧の助動詞「ます」の命令形「ませ(まし)」が付き、「いらっしゃりませ(まし)」となった。
のちにイ音便化して「いらっしゃいませ(まし)」となり、「ませ(まし)」が省略されて「いらっしゃい」となった。
命令表現であるが尊敬語でもあるため、歓迎を表す挨拶の言葉としても用いられる。

 

こんばんは - 語源由来辞典
【意味】 こんばんはとは、日が暮れてから、人に会ったり、人を訪ねたりした時の挨拶の言葉。「こんばんわ」と書くのは間違い。
【こんばんはの語源・由来】
こんばんはの語源は、「今晩は○○ですね」の「今晩は」。
「今晩は」以下を略すようになり、「こんばんは」となった。
「こんばんは」を「こんばんわ」と誤表記される理由は多々あるが、「は」と書くよりも「わ」の方が「和」に通じて親しみやすい印象を受けることから、誤表記と知りつつ、あえて「こんばんは」を「こんばんわ」と表記されることもある。


ただいま - 語源由来辞典
【意味】 ただいまとは、帰宅のときの挨拶の言葉。
【ただいまの語源・由来】
ただいまは、「只今帰りました」を略した語。
「只今(ただいま)」は「今」を強めた語で、「今現在」という意味のほか、「ついさっき」「今しがた」といったごく近い過去や、「ただいま準備いたします」と言うように「今すぐ」といったごく近い未来の意味でも用いられる。
「只今帰りました」は、「つい先ほど帰りました」という、ごく近い過去の意味の「只今(ただいま)」である。
ただいまの語源には、「たった今帰りました」と言っていた「たった今」以降が略され、さらに「たった」が短縮されて「ただいま」になったとする説もある。<br>
しかし、「たった」は「ただ」が転じた語なので、言葉が成立した前後関係から考えて明らかにおかしな説である。


オッス・押忍(おっす) - 語源由来辞典
【意味】 オッスとは、若い男性同士が道などで出会った時の挨拶語。親しい間柄で用いる。武道家や応援団の掛け声風な挨拶語。おす。
【オッスの語源・由来】
オッスは、戦前、京都にあった武道専門学校の生徒の間から生まれた言葉で、「おはようございます」の略。
「おはようございます」が「おはよーっす」となり、「おわーす」「おす」と変化していった。
その「おす」に、武道の精神である「自我を抑え我慢する」という意味の「押して忍ぶ」が当てられ、漢字では「押忍」と表記されるようになった。
挨拶として用いられる「オッス」は「おはようございます」が略されたものだが、応援団などが掛け声風に用いる「オッス」は、当字「押忍」の意味からと考えられている。
なお、いかりや長介が『8時だョ!全員集合』で客席に向かって言う「オイッスー」は、「オッス」が更に変化した言葉である。


グッドバイ - 語源由来辞典
【意味】 グッドバイとは、さようなら。グッバイ。
【グッドバイの語源・由来】
英語「good-bye(good-by)」からの外来語。
「good-bye」を古くは「Godbwye」といい、「God be with ye」の短縮形。
「God be with ye」は、「ye」が古い二人称代名詞「you」で、「神が汝と共にありますように」「神のご加護がありますように」という意味である。
「God」を直接口にするのを遠慮する風潮があったことと、「good morning」や「good night」など他の挨拶の言葉に引かれたことで、17世紀から「God」が「good」に変わり、18世紀に入り現在の形になった。
日本では明治中期から用いられるようになった。


あばよ - 語源由来辞典
【意味】 あばよとは、別れの挨拶の言葉で、「さようなら」よりくだけた言い方。
【あばよの語源・由来】
あばよの語源には、「あばあば」という説もあるが、「あばあば」はあばよの幼児語として使われていただけである。
語源としては、「さらばよ」の略、「また逢はばや(またあはばや)」の転、「ああ、あれは」という感動を示す語「あは」に助詞の「よ」がついたものなど、諸説ある。
最も注目されている語源は、「按配よう(あんばいよう)」の略語という説である。
「按配(あんばい)」は「体調」の意味で近世から使われており、あばよも近世から使われている言葉であるため、意味と語形の両面からみて、この説が妥当とされている。


すみません - 語源由来辞典
【意味】 すみませんとは、相手へ謝罪・感謝・依頼の気持ちを込めて言う言葉。すいません。
【すみませんの語源・由来】
すみませんは、動詞「済む」に打ち消しの助動詞「ぬ」がついた「すまぬ」の丁寧語「すみませぬ」が元の形で、打ち消し「ぬ」を「ない」に替えた形が「すまない」である。
「済む」は「澄む」と同源で、澄むの「濁りや混じりけがなくなる」といった意味から、済むは「仕事が済む」など「終了する」の意味で用いられ、「気持ちがおさまる」「気持ちがはれる」といった意味も表す。
「それでは私の気が済みません(すみません)」といった用法は、「気持ちがおさまる」の打ち消しで、「気持ちがおさまりません」「気持ちがはれません」となる。
相手への謝罪に用いる「すみません」も、相手に失礼なことをしてまい、このままでは自分の心が澄みきらないことを表す。
感謝の意を表す「すみません」は、「何のお返しも出来ずすみません」の意味からか、「心が澄みきらない」の意味から離れ、謝罪を表すようになってからの表現である。
「すみませんが○○してください」「ちょっとすみません」など、依頼や呼びかけの際に用いる「すみません」は、軽い謝罪の意味からと考えられる。
「すいません」は「すみません」が変化した形で、関西の「すんません」「すんまへん」なども同じである。


ご馳走・ごちそうさま - 語源由来辞典
【意味】 ご馳走とは、贅沢な食事。食事をもてなすこと。
ごちそうさまとは、食後の挨拶。御馳走になったことに対する感謝の言葉。
【ご馳走・ごちそうさまの語源・由来】
ご馳走の「馳走」は、本来、「走り回ること」「奔走すること」を意味する。
昔は客の食事を用意するために馬を走らせ、食材を集めたことから「馳走」が用いられ、さらに走り回って用意するところから、もてなしの意味が含まれるようになった。
感謝の意味で「御(ご)」と「様(さま)」が付いた「御馳走様(ごちそうさま)」は、江戸時代後半から、食後の挨拶語として使われるようになった。

 

いってらっしゃいの語源
「行っていらっしゃいませ」の省略で、「行っていらっしゃる」の命令のかたちですね。
「行ってこい」の尊敬語ということになると思います。

たとえば
「気をつけて行っていらっしゃい(ませ)」
これをふつうのかたちに戻すと
「気をつけて行ってこい

「行ってらっしゃいませ(まし)」あるいは、「行っていらっしゃいませ(まし)」が丁寧語になりますが、「行ってらっしゃい」でも尊敬語になっています。
もとの形は「行っていらっしゃい」で、命令表現でもありながら、同時に尊敬後でもあります。

「いらっしゃい」の語源は、「入らせらる」という言葉で、これは「入る・行く・来る・居る」の尊敬語でした。
それが一語に変化し、「行く・来る・居る」専用の尊敬語となったのが「いらっしゃる」で、これに丁寧語の助動詞「ます」の命令形「ませ」がついて活用した形が、「いらっしゃりませ」でした。
その後イ音便化して「いらっしゃいませ」となり、「ませ」を省略したものが「いらっしゃい」になります。
したがって、「いらっしゃい」に既に尊敬の意味を持つため、「行ってらっしゃい」も同時に尊敬語となります。必要に応じてさらに丁寧にするには、「ませ(まし)」を再度加えます。

蛇足ですが、「行ってらっしゃい」は「お気をつけて行っていらっしゃってください」という意味で、道中の安全を祈願する意味も込められています。
◆Bee-chan
2011年01月11日
日本語の会話の中には、本来佛教語であったものが沢山あります。

でも、得てして本来の意味を曲解しているものもあれば、ま反対の意味で使っているものもあります。

言葉の文化ということで、有耶無耶にしてはいけないのかもしれません。(有耶無耶も佛語です。)


記事のタイトルを入力してください(必須)

2014年08月26日 18時26分04秒 | 色んな情報

●えっ!「子供」って差別表現だったの!?

http://kan-chan.stbbs.net/word/pc/kodomo.html より転載
えっ!「子供」って差別表現だったの!?
 新聞で「誘拐」を「誘かい」、「拉致」を「ら致」と書くのは、常用漢字表にない漢字だからだそうだ。日本人はそれくらいの日常的な漢字も読めないだろうと思われて、新聞社に馬鹿にされている。「炭疽菌」を「炭そ菌」と書かれては、「炭素菌」と勘違いしてしまいそうだ。二酸化炭素は炭そ菌の仲間なのだろうか。

 しかし、これくらいなら、まだ可愛いほうだ。「子供」の「供」は小学校で習う漢字のくせに、わざわざ「子ども」と書く新聞社や出版社が多いのだ。表外漢字どころか、小学校で習う漢字すら読めないと思われて、我々は馬鹿にされているのだろうか。

 実は、驚くかもしれないが、「子供」という言葉が、今、「差別用語」として、出版界や教育現場などあちこちから追放処分を受けているのだ。その代わりに、「子ども」と、「供」をひらがなに直した表記ばかりを目にするようになった。

 私の母校である地元の中学校で、創立二十周年記念の文集を出すことになった。母はPTAでその文集の編集に加わっているらしいのだが、「父兄」に朱が入って上に「父母」と書かれていた(「父母」の方が実態に合った表現とは言え、大袈裟に騒ぐほどのことでもないと思うが)のに加え、「子供」という表現はあちこちのページで朱が入っていた。噂には聞いていたが、この書き換えがこれほどまでに広まっていたとは。

 母に尋ねてみると、やはり学校で、「子供」は差別表現だと説明を受けたらしい。私は、それは一部の人の意見に過ぎないし、全くおかしな書き換えだなあと言ったのだが。


--------------------------------------------------------------------------------

こどもの「ども」は複数形の「共」に由来
 いつ頃からこの言い換えが始まったのだろう。一説には、昭和二、三十年代頃と言われているが、羽仁説子という人が、『供』という字は『お供』の『供』、付属物の扱いみたいだから良くないと言ったのが始まりとされている。

 果たしてそうなのだろうか。明治二十二年に初版が発行された「言海」という国語辞典(私が所持しているのは昭和四年の縮刷十五版)で「ども」(こども)を引くと、このように書いてある。

-ども (名) |子供| (一)多クノ子。衆兒 (二)ワラベ。兒童
 なるほど、確かに、「子供」とは「多くの子」が元々の意味らしい。つまり「男共(おとこども)」が「男」に「共」を付けて複数の男を表すのと同じで、「コ」に「ドモ」を付けて複数の子を表す「コドモ」になったのだ。

 しかし、現代語で「子供」は「こ」+「ども」ではなく、「こども」という一つの語になってしまっている。それを示す二つの証拠がある。まず、「子供」と似た例に「友達」があるが、これも今では「とも」+「たち」ではない。一人の「子供」も一人の「友達」もいるし、複数形は「子供等(こどもら)」「子供達(こどもたち)」や「友達等(ともだちら)」である(逆に「男共等」とか「男共達」とは言わない)。

 次に、「オトコドモ」は「男共」と書くのに、「コドモ」は「子共」とは書かず「子供」と違う漢字で書く。このように、現代語では元の意味(子の複数形)がすっかり薄れてしまっているのである。

 つまり、「コドモ」の「ドモ」とは、元々は複数形を表す「ドモ」であり、後に「供」の字が宛てられたというのが、この言葉の語源である。なぜこの字が宛てられたのかは、はっきりわかっていない。しかし「親のお供という意味で供の字を宛てられた」という証拠は、今のところ出てきていない。証拠もないのにイメージが悪いからと縁起担ぎだけで日本語の日常重要単語を一つ抹殺されてしまっては、全く迷惑な話である。

 この点を指摘すると、さすがに「子ども表記原理主義者」も痛いところを突かれたのか、苦しい言い訳をするのが常である。“「子供」は連想による誤解であったとしても、誤解が成立する言葉をわざわざ用いることはないと思う。”などと言う。馬鹿げた言い訳である。“意味を誤解されやすい言葉だからいけない”のではなくて、正しい意味を知らずに勝手に誤解した方が悪い。そもそも、大抵の人は、「子ども表記原理主義者」に彼らの馬鹿らしい教えを吹き込まれない限り、そんな誤解などしていない。「子ども表記原理主義者」が勝手に妄想をふくらませているだけの話だ。


--------------------------------------------------------------------------------

子供が“子ども”になる時、日本は終わる
 さて、仮に百歩譲って「供」の字は親の「お供」を連想させるという説を認めるととしても、まだ疑問は残る。子供は本当に「供」でないのだろうか。「お供(お伴とも書く)」とは、ある人に付き従って行く人の意味である。子供はいつから親に付き従わなくてよくなったのだろう。子供が「子供」でなくなった時、それは「子ども」が親の指導に付き従わず、「人権」の名の下に勝手気ままな行動をして人に迷惑をかけたり犯罪を引き起こしたりする時代であり、それはまさにこの現代社会なのだ。

 話は少し脱線するが、この頃の「子ども」の漫画によると、親とは「子ども」を決してぶたないものらしい。「殴ったね!? 親父にもぶたれたことないのに!」という有名な漫画の台詞が、前にCMで流れていたが、子供を決してぶたない親父なんて、いるのだろうか。子供が悪いことしたら、ぶつくらい、当たり前だと思っていたが、違うのだろうか。(児童虐待被害者からクレームの付く前に補足しておくが、子供が悪いことしてないのに、言いがかりを付けてぶつとか、単なる憂さ晴らしでぶつとかは問題外だけど。)「古い思想だ」と笑うがいい。でも、子供を決してぶたない親父なんて、やっぱり、私には想像できない。


--------------------------------------------------------------------------------

 誤解して欲しくないのだが、誰かが「子ども」と書いているからと言って、即、言葉狩り賛成論者と決めつけるべきではない。差別うんぬんという理由ではなく、(かつて当用漢字音訓表外の読みという理由で「友達」を「友だち」と書いていたのと同じく)「子供は宛字なので平仮名で書く」という方針だったり、「子ども、と書いた方が柔らかみが出る」という理由から、どちらかというと「子ども」という表記の方に親しみを持っている人も少なくない。私自身は「子供」表記を主に使っているものの、「子ども」と書くのは絶対駄目だとまでは言わない。私がむしろ問題に思うのは、他人に「子ども」表記を無理矢理押しつけることである。

 さて、この「子ども」表記問題に関しては、「はれときどきぶた」で有名な絵本・童話作家の矢玉四郎氏が「矢玉四郎はれぶたのぶたごや」サイト内で、より詳しく解説なさっています。参考にどうぞ。

 また、「子供」は差別語?(漢字家族サイト内)にも、この問題に関する考察が載せられています。

注:上記サイトは、あくまでも他の方の作成した参考資料であり、私の製作したものではありません。また、私がこのサイトの考えをすべて支持しているとか、支援関係にあるという意味でもありません。


◆AYU
2011年01月11日
「女、子供=論理の通じない相手」という場合は
「女」だって差別用語だから、以後「おんな」にするつもりかな(笑)
釈迦やキリストが教典や聖書を書かずに生き方を弟子たちに示したり、
ライブの説法で生き方を伝えたのは、
固定化された言葉は後の人間の解釈で
歪曲されてしまうという側面があること知っていたからと思われますね。
それが証拠に、仏教教典は何種類も存在する。

「メディアはメッセージである」

発言する人間(メディア)=発言する真意によって、
同じ言葉も伝わる意味(メッセージ)は変わってくる。

ソムリエが「このワインは美味い」と言った場合と
味音痴が「このワインは美味い」と言った場合の
「ワインの味の真実」は異なる。
「「このワインは美味い」」というメッセージではなく、
メディア(発言者)そのものがメッセージなのだ。

言葉にひかかると過ちをおかすことになる。
羽仁説子都市伝説も、別の真意があっての発言だった可能性もあるから、
本人に確認しなければ、本当のところはわからない。

ひらがなで伝わる言葉はひらがなで表記するというのが、
今後の潮流であることは変わらないと思いますけどね。
 
◆PTA
問題情報収集してます。昨年PTA問題が話題になりました。参考にしたサイトです
http://pta.my-sv.net/
そちらの学区でも「PTAが学校とは外部の任意団体であること」が周知されていますか?来年度、入会意思確認が徹底された上でのPTA活動が盛んになることを願っています
 
◆Bee-chan2011年01月11日
子供は、一組の夫婦を夫婦から親にしてくれた「お供え物」といただきます。

言葉に忙殺されると、真実が見えなくなる。 真意を伝えるには、「言葉」という道具は不完全なのでしょう。

それでも人は、言葉の解釈にこだわり過ぎて、真意を見落とす。

得てして、そういう輩が「物知り面」をしているんです。


「ちびくろさんぼ」の復刊について

2014年08月26日 18時10分37秒 | 色んな情報
「ちびくろさんぼ」の復刊について
http://www.asahi-net.or.jp/~wz9k-ybn/ganbare.html
「差別表現」という言葉を見つけて検索してみたら
目に余る差別的表現
http://www.asahi-net.or.jp/~wz9k-ybn/trademark/trademarks2.htm
に行き当たりリンクを辿り
黒人差別をなくすページ
http://www.asahi-net.or.jp/~wz9k-ybn/
に行き当たり
WHAT'S NEW
http://www.asahi-net.or.jp/~wz9k-ybn/weblink.html#nakusukai
黒人差別を無くそうと日本人が立ち上がり運動している。

「サンボ」は明らかに、スペイン語のzamboから来ており、ラテンアメリカでのいわゆる先住民と黒人との混血で生まれた人々を指す。この言葉自体、新大陸の歴史において白人優位主義から見た「カースト」的社会関係のなかで、差別的に位置づけられているのだが、加えて、zamboという言葉(英語ではsambo)がおそらくは、ギリシア語のskambosを語源にしているらしいということも付け加えておかなければならない。このskambosとは、要するに差別的に「片輪」とか「不具」とかを意味しており、それゆえにzamboは非ヨーロッパ人を欠如態として表現する(としてしか表現できない)ヨーロッパ中心主義の伝統のなかにしっかりと捕らえられているのである。


『ちびくろサンボ』(英: The Story of Little Black Sambo)は、世界的に広く読まれている童話、絵本。もとは軍医であった夫とインドに滞在していたスコットランド人、ヘレン・バンナーマン(ヘレン・バナマン)が、自分の子供たちのために書いた手作りの絵本であった。のちに公刊され、多くの海賊版(後述)によって広く流布した。

手作りの本として誕生した『ちびくろサンボ』は、知人を通してイギリスの出版社に紹介され、1899年に英国のグラント・リチャーズ社より初版が刊行された。子供の手に収まる小さな絵本で、文も絵もヘレン・バンナーマン自身によるものである。

著作権の混乱から、アメリカではいわゆる海賊版が横行した。改変された箇所も多く、特に絵は原作と違うものが使われることが多かった。その多くは主人公をインドの少年から、アメリカに住むアフリカ系黒人の少年に置き換えたものであった。このことが、後に人種差別問題と深く関わってくることになる。

またアメリカ版では、かなりの部分で設定の置き換えが行われた。一例をあげれば、主人公の少年が迷い込むジャングルは竹やぶから森に替えられ、またある挿絵では、少年の母親はアフリカ系婦人のふくよかな特徴を与えられた。しかしトラが登場する箇所に関しては、当時のアメリカの海賊版編集者の多くが実物を見たことがなく、イメージできなかったためか、改変を免れている。こうして一部の海賊版では、アフリカを想起させる背景描写と、インドを想起させるトラの混在が行われるようになった。

日本で広く知られるようになった岩波版『ちびくろ・さんぼ』(1953(昭和28年)刊、120万部以上が売れたとされる)も、こうしたアメリカ版の1つであるマクミラン社版(1927刊)に使われていたフランク・ドビアスの絵を用いている(ただし、岩波版では絵のレイアウトなどが、翻訳者である光吉夏弥によって改変されている)。日本でもアメリカ同様にこの絵本には著作権がないとみなされていたため、海賊版が横行し、国内の主要な出版社ほとんどすべてから70種類を越えるいろいろな『ちびくろサンボ』が出版された。日本で出版されたものの多くは、主人公の名前を「サンボ」とカタカナ書きし、「ちびくろ」を形容詞的に用いていたため、『ちびくろサンボ』という表記が最も一般的なものとなり、これらのいろいろな異本を総称する場合も『ちびくろサンボ』とするのが普通である(そこで、この項目でもこの表記を見出しとして用いている)。このように多くの異本が出回った中で、岩波版は最初に広く普及したものであったことから、オリジナルと違う絵が使われていたにもかかわらず、日本ではいわゆる定本と見なされてきた。

日本では1988年(昭和63年)に後述する一斉絶版問題が起こり、岩波版を含め、事実上すべての出版社のものが自主的に絶版となり、書店から回収された。一部では、「発売禁止」措置が取られたかのように誤解されているが、出版社による自主的な市場からの撤退であり、発売禁止になったわけではない。日本では言論出版の自由が憲法に明記されており、裁判所の事前抑制として出版差し止めを行うことが理論的には可能なこと(それとて、差し止めが認容されることはまずないが)を除いて、民間、政府が「発売禁止」を行うことはできない。

一斉絶版問題以前には、ヘレン・バンナーマンによる原作そのままを日本語訳したものは出版されないままであった。原作そのものの日本語版が出版されたのは、1999年の『ちびくろさんぼのおはなし』(灘本昌久訳・径書房刊)が初めてである。同じ径書房から英語の完全復刻版も出版されている。

ウィキペディアより
--------------------------------------------------------------------------------

黒人差別をなくす会(こくじんさべつをなくすかい)とは、1988年昭和63年)に発足した、日本の私設団体である。

大阪府堺市を拠点に活動しており、子供向け絵本ちびくろサンボ』を絶版に追い込んだことなどで知られる

http://urx.nu/blr4

 


 

大阪府堺市在住の有田利二の息子、有田太(当時小学校4年生)の発案により、日本における差別撤廃の一環として、有田利二の妻・有田喜美子を会長に1988年昭和63年)8月11日に発足した。当初の構成員はこの親子3人のみであったが、その後会員数を増やし、1992年平成4年)2月時点の会員数は135人、1995年(平成7年)12月時点の会員数は225人であった。 現在、目立った活動は行っていない模様。

 

確かに今の時代はそう言うこともあるけれども取り上げていくとキリが無い様にも思える。

「ちびくろさんぼ」や「ピノキオ」
は解除された筈だけど。



「ピノキオ」
回収騒動
1976年11月、名古屋在住の人物が「オールカラー版 世界の童話」(小学館)を自分の子供に読み聞かせていたところ、作中の「びっこのキツネ」「めくらのネコ」という箇所を指摘し「五体満足で利口な主人公を『期待される子供像』として描いている反面、他の障害を持つキャラクターを社会の落伍者として描いており、差別を拡大助長させる童話であり看過できない」と出版社に抗議した。小学館側はこの抗議を検討し、自社から出版していた5種のピノキオ本のうち4種を「差別的表現があった」と認め回収した。「最新版の『国際版少年少女世界文学全集』については、めくら、びっこ、などの表現は無いので回収しない」旨を告発者に謹告した。しかし告発者は「障害者差別を許さない―まず『ピノキオ』を洗う会」を結成し、小学館に対し

【一】国際版の回収
【二】回収方法に対する具体策の提示
【三】自己批判の文章の提出
【四】自社全出版物の点検と報告
を要求した。しかし小学館側は国際版の回収には応じられないとして、告発者と対立した。次に告発者はマスメディアに向けてアピールを行い、社会問題へと発展する。さらに図書館を相手取り「差別図書を読ませるな」と啓蒙行動を起こし、当時、日本で出版されていた11社38種のピノキオ本の回収を要求した。12月、図書館問題研究会が検討を行い「図書館の自由」を基に

●回収措置は言論に対する封殺行為であり許せない。
●本作は、弱点を克服し成長する子供の可能性を描いた作品であり、「めくら」「びっこ」という言葉で障害者差別に結びつけるのは拡大解釈で作品の意味を汲んでない。
●回収を行えば障害者差別が無くなる道理も無く、「言葉だけで何かを変えよう」という幻想に繋がりかねない。
●個々の企業に対する脅しが差別の撤廃にはならないし、体制も変わらない。
とする「反論声明」を提出した。強引な告発に対して批判があったが、小学館側の回収についても「安易」だとの批判があった。この騒動に対し「ピノキオ退治は世界の笑いもの」と揶揄する声もあった。

これは完全なる言葉狩りである。
どこまでもこういうエコとは続くのかな。


●落語

2014年08月26日 18時06分52秒 | 色んな情報

●落語
http://www.youtube.com/watch?v=OcNM44DMq1Y&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=_SQR09d362k&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=b58OvNXLIuM&feature=related

落語は元々仏教の発展とともに形付けられて現代にいたっている。
お寺へ檀徒を集めるためにお説教をした。
これが形付けられていき落語に繋がる。
お百姓や町屋の人たちでもそんなに学のある人は少ない。
そこで面白可笑しく仏教を分かり易く説明しないと飽いてしまう。
昔はいろんな事を考える人がいた。
今でも面白可笑しくお説教する人は沢山の人を集めている。


落語(らくご)は、近世期の日本において成立し、現在まで伝承されている伝統的な話芸の一種である。「落し話(おとしばなし)」、略して「はなし」とも言う。都市に人口が集積することによって芸能として成立した。成立当時はさまざまな人が演じたが、現在は通常、それを職業とする人が演じる。衣装や道具、音曲に頼ることは比較的少なく、身振りと語りのみで物語を進めてゆく独特の演芸であり、高度な技芸を要する伝統芸能でもある。

本来「落語」とは落語家が行う演目(ネタ)のなかでも滑稽を中心とし、落ち(サゲ)を持つ「落とし噺」(おとしばなし)のことを指したが、現在では人情噺・芝居噺をも含めた総称として用いられる。

落語は寄席(よせ)と呼ばれる常設館や一般のホールで演じられることが多いが、近年は若手による小さなライブもある。落語家の舞台のことを「高座(こうざ)」と呼ぶ。

江戸落語と上方落語には小道具や慣習に違いがある。
ウィキペディアより

 

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CD%EE%B8%EC
概要
日本に伝わる話芸の一つ。何人かの登場人物や状況描写などすべてを一人の話者が行う。二人(若しくはそれ以上)の掛け合いで物語が進行することが多い。話者は高座と呼ばれる少し高い位置に座す。そして、聴衆もしくは観客に向かい語り、しぐさや声音を上手に使いながら話を聞かせ、笑いや涙を誘う演芸(パフォーミングアート)である。 (頑張って自分のことばで書きました。by nobody)
歴史

笑い話を初めて職能としたのは室町末期の戦国大名が抱えた御伽衆といわれる。それが江戸時代になり、安楽庵策伝(1642年没)らの御伽衆が活躍するようになり、所司代の板倉重宗の招きで口演した小咄をまとめて『醒睡笑』という書物として出版し、ヒットした。その後、落語は上方発展して行くが、時代はとんで寛政十(1789)年、江戸に三笑亭可楽、三遊亭円生、上方に桂文治が登場し、定席が設けられるようになって落語は一気に広まった。

明治に入ると、東京では三遊亭円朝を中心とする三遊派と柳亭燕枝を中心とする柳派が競い、百花繚乱の様相を呈する。さらに明治の終わりから大正にかけては三代目柳家小さんが出て、東京の落語を支えた。他方の上方でも明治二、三十年代に全盛期を迎えるが、その全盛期を支えた二代目桂文枝らがなくなると、漫才や音曲、奇術を中心とした色物本位の興行が人気を博すようになり、そして大正十五年には花月亭の吉本泰三が独占体制を築いて、上方落語は漫才の添え物の地位に堕ちて行った。

昭和になると、東京では小会派が乱立するが、いろいろあって、昭和8年に古典派の「落語協会」と新作派の「落語芸術協会」に統合され、現在の体制が形作られる。戦中には自ら禁演落語などを選定して、力を弱めるが、戦後に復活、古今亭志ん生、三遊亭円生、三遊亭金馬、林家正蔵、柳家小さんなどの古典派が活躍して昭和三、四十年代にブームを築いた。上方では、まず二代目桂春団治、続いて五代目笑福亭松鶴が昭和の落語界を一手に支え、何とか火を絶やさずに戦後へとつなぎ、昭和三十二年には「上方落語協会」が結成され、上方落語四天王と呼ばれる、笑福亭松鶴、桂米朝、桂春団治、桂文枝の活躍で上方落語は息を吹き返した。

 


世界最強の天皇陛下

2014年08月26日 18時03分07秒 | 色んな情報

世界最強の天皇陛下
http://www.youtube.com/watch?v=lsOFxj9To-o&feature=player_embedded

陛下は下にも記した様に超激務である。
並の人間には勤まらない程のスケジュールをこなされる。
前にも書いたように正月などは
正月祭祀【四方拝】を行い
参賀や外国の公人や国会議員や皇室の関係者などに
五回会われる。
むろん禊をしての祭祀である。
すべてお一人でされる。
禊とは水垢離のことである。
ミズをかぶりカラダを清める。
昔の武士などは何か事に挑むときは
気を引き締める意味でもしていた。
女でもした人はいる。
日本とはこういう国である。
1933年〈昭和8年〉12月23日生まれで78歳になられる。
この年で毎年こういう事をされる。
年間何回もことある毎に祭祀を行う。
一般人でこんなに体力のある人はいない。
自分の身を義生にしてまでも
国民や世界人類の為に色々されている。
だから何処の源守よりも偉い。
偉いという表現は少しおかしいけれども。

韓国ではむろん朝鮮学校でも
陛下の抹消を教育し企んでいる。
マスゴミは以前より報道する回数は激減している。
何処の国にこのような人物がいるだろうか。
学校では全然教えないこと。
寂しい限りだ。


【天皇陛下】 昭和天皇大喪 ダイジェスト版
http://www.youtube.com/watch?v=s-lrBS9mLIs


天皇陛下、中国国家主席に対して堂々たる御振舞い
https://www.youtube.com/watch?v=x5SKXod-_h0


胡錦濤に環境破壊をおたしなめになった陛下
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h20/wing1445.html


天皇陛下は超激務29 名前: 錐(埼玉県)[] 投稿日:2009/12/11(金) 22:53:44.73 ID:Mv9b1BAj
【天皇陛下は超激務】
閣議決定された書類への署名や押印 2万2377件
外国の国王や大統領との面会 351回
外国の首相などとの面会 1068回
着任した外国大使から書状を受け取る儀式 597回
首相や最高裁長官の親任式 24回
大臣や大使など認証官の任命式 355回
大綬章など勲章の親授式 40回
文化勲章の親授式 20回
様々な功績者との面会 1494回
赴任する大使との面会 476回
帰国した大使から話を聞くお茶会 153回

以上、皇居にて 4578回(署名や押印を除く)

記念式典などの出席 356回
地方への訪問 246回
福祉施設などの訪問 172回
被災地へのお見舞いなど 15回
外国訪問 14回

以上、皇居外にて

これ以外に、神道の祭祀を日々こなしている。


118 名前: レーザーポインター(大分県)[sage] 投稿日:2009/12/11(金) 23:00:44.80 ID:mCW3Ra7A
>>29
これどれくらいの期間での事?


141 名前: 錐(埼玉県)[] 投稿日:2009/12/11(金) 23:02:31.25 ID:Mv9b1BAj
>>118
陛下就任以来なので、19年と数ヶ月。
神道の祭祀関連が最も過酷だとされるが、見えない部分なので省略した。
http://2chcopipe.com/archives/51348389.html

 

 

天皇(てんのう)とは、世襲により継承される、日本国の象徴及び日本国民統合の象徴であり(日本国憲法第1条、第2条)、歴史的には、古代から世襲により受け継がれた日本の君主である。今上天皇(現在の天皇)は第125代[1]天皇である明仁(在位:昭和64年(1989年)1月7日 - )。

本項目では、初代神武天皇以降の歴代天皇の地位および個人に関する事柄も扱う。

「天皇」の由来 [編集]
「天皇」という称号の由来には、複数の説がある。

古代中国で北極星を意味し道教にも取り入れられた「天皇大帝」(てんおうだいてい)あるいは「扶桑大帝東皇父」(ふそうたいていとうこうふ)から採ったという説。
唐の高宗は皇帝ではなく道教由来の「天皇」と称したことがあり、これが日本に移入されたという説。
5世紀頃には対外的に「可畏天王」、「貴國天王」あるいは単に「天王」等と称していたものが推古朝または天武朝に「天皇」とされた等の説。
はじめて採用したのは推古天皇という説(戦前の津田左右吉の説)も根強い。しかし、7世紀後半の天武天皇の時代、すなわち前述の唐の高宗皇帝の用例の直後とするのが、平成10年(1998年)の飛鳥池遺跡での天皇の文字を記した木簡発見以後の有力説である。

 称号の歴史 [編集]
近年の研究では、「天皇」号が成立したのは天武天皇の時代(7世紀後半)以降との説が有力である。伝統的に「てんおう」と訓じられていた。明治期、連声により「てんのう」に変化したとされる。字音仮名遣では「てんわう」と表記する。

日本国内での天皇の称号の変遷について、以下に説明する。

 古代 [編集]
天皇という称号が生じる以前、倭国(「日本」に定まる以前の国名)では天皇に当たる地位を、国内では大王(治天下大王)あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称された[2]。古くはすべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称した[3]。なお、「すめらみこと」の名称は古代シュメールからのものだという説もある[4]。

 律令制での称号 [編集]
天皇という呼称は律令(「儀制令」)に規定があり、養老令天子条において、祭祀においては「天子」、詔書においては「天皇」、華夷においては(対外的には)「皇帝」、上表(臣下が天皇に文書を奉ること)においては「陛下」、譲位した後は「太上天皇(だいじょうてんのう)」、外出時には「乗輿」、行幸時には「車駕」という7つの呼び方が定められているが、これらはあくまで書記(表記)に用いられるもので、どう書いてあっても読みは風俗(当時の習慣)に従って「すめみまのみこと」や「すめらみこと」等と称するとある(特に祭祀における「天子」は「すめみまのみこと」と読んだ)。

死没は崩御といい、在位中の天皇は今上天皇(きんじょうてんのう)と呼ばれ、崩御の後、追号が定められるまでの間は大行天皇(たいこうてんのう)と呼ばれる。配偶者は「皇后」。一人称は「朕」。臣下からは「至尊」とも称された。

なお、奈良時代、天平宝字6年(762年) - 8年(764年)に神武天皇から持統天皇までの41代、及び元明天皇・元正天皇の漢風諡号である天皇号が淡海三船によって一括撰進された事が『続日本紀』に記述されているが、これは諡号(一人一人の名前)であって「天皇」という称号とは直接関係ない。

 中世 [編集]
平安時代以降、江戸時代までは、みかど(御門、帝)、きんり(禁裏)、だいり(内裏)、きんちゅう(禁中)などさまざまに呼ばれた。「みかど」とは本来御所の御門のことであり、禁裏・禁中・内裏は御所そのものを指す言葉である。これらは天皇を直接名指すのをはばかった婉曲表現である。陛下(階段の下にいる取り次ぎの方まで申し上げます)も同様である。

また、 主上(おかみ、しゅじょう)という言い方も使われた。天朝(てんちょう)は天皇王朝を指す言葉だが、転じて朝廷、または日本国そのもの、もしくはまれに天皇をいう場合にも使う。すめらみこと、すめろぎ、すべらきなどとも訓まれ、これらは雅語として残っていた。また「皇后」は「中宮」ともいうようになった。

今上天皇は当今の帝(とうぎんのみかど)などとも呼ばれ、譲位した太上天皇は上皇と略称され、仙洞や院などともいった。出家すると太上法皇(略称:法皇)とも呼ばれた。光格天皇が仁孝天皇に譲位して以後は事実上、明治以降は制度上存在していない。これは現旧の皇室典範が退位に関する規定を設けず、天皇の崩御(死去)によって皇嗣が即位すると定めたためである。

 明治以降 [編集]
 
大日本帝国憲法3頁目。明治天皇の諱、睦仁の署名(御名)と共に、「天皇御璽」という御璽が捺印されている(御名御璽)。大日本帝国憲法(明治憲法)において、初めて天皇の呼称は「天皇」に統一された。ただし、外交文書などではその後も「日本国皇帝」が多く用いられ、日本国内向けの公文書類でも同様の表記が何点か確認されている(用例については別項「日本国皇帝」を参照)。

そのため、完全に「天皇」で統一されていたのではないようである(庶民からはまだ天子様と呼ばれる事もあった)。陸軍海軍(諸外国においても当時独立した空軍があったのはドイツなど極一部に限られる)の統帥権を有することから「大元帥陛下」とも言われた。口語ではお上、主上(おかみ、しゅじょう)、聖上(おかみ、せいじょう)、当今(とうぎん)、畏き辺り(かしこきあたり)、上御一人(かみごいちにん)、などの婉曲表現も用いられた。

 現在 [編集]
なお、一般的に各種報道等において、天皇の敬称は皇室典範に規定されている「陛下」が用いられ、「天皇陛下」と呼ばれる。宮内庁などの公文書では「天皇陛下」のほかに、他の天皇との混乱を防ぐため「今上陛下」と言う呼称も用いる。会話における二人称では、前後関係から天皇であるか皇后であるかが明らかな場合に単に陛下と呼ぶことが多い。三人称として、敬称をつけずに「今の天皇」「現在の天皇」「今上天皇」と呼ばれることもあるが、近年では「聖上」などの表現は廃れ、「お上」はどちらかというと政府を指す場合が多くなったため、婉曲表現で呼ぶことは稀になっているが、それでもそのような表現が使用されることもある。

一部の出版物においては、平成22年(2010年)現在の天皇に対して、「平成天皇」という称号を用いる事例が散見される。しかし、明治天皇・大正天皇・昭和天皇の3代の「○○(元号)天皇」という呼称は、その天皇の崩御後に贈られる諡号であり、現在の天皇に対する呼称としては誤りである。また諡号が元号と同一であるのは先の3代の天皇のみの事情であり、今上天皇(明仁)の崩御後に平成天皇という諡号が贈られると確定している訳ではない。

憲法上の正式称号は単に「天皇」であるが、詔書や勲記、褒状などの文書においては「日本国天皇」の称号が用いられることもある[5]。

 諸言語における呼称 [編集]
 英語における呼称 [編集]
天皇は、英語においては、通常、"(the) Emperor" と呼ばれる。今日、国際的に承認されている国家の元首(ないしそれに類似する地位)にある者でEmperor号を対外的に使用するのは、天皇のみである。第三者としての天皇に言及する際に用いられる「陛下」に相当する尊称は "His Majesty" または "His Imperial Majesty" であり、また略して "H.M." または "H.I.M." と記す場合もある。天皇は男性であるため、"Her Majesty" は原則として「皇后」を意味するが、略号は天皇と同じく "H.M." である。

天皇皇后両陛下という場合は、"Their [Imperial] Majesties Emperor and Empress" となる。天皇に対する呼びかけは一般的に "Your [Imperial] Majesty" である。なお、天皇・皇后以外の皇族への尊称である殿下は、"His/Her Imperial Highness" であるが、この場合は "Imperial" は省略できない。

歴史学などの分野では日本固有の存在としての天皇を強調する意味でTennoやMikadoと呼ぶこともままある。前近代においては、政軍両面の最高指導者であった征夷大将軍の方が西洋のEmperorの概念に近いのではないかという議論もある。この議論の枠組みでは、天皇は欧州におけるローマ教皇に相当する宗教的権威者と考えられる。なお、江戸時代の日本においても、天皇は神道の最高祭司者兼京都の地方領主に過ぎず、征夷大将軍こそが日本の皇帝であるとする解釈が一部の儒学者によって唱えられていた。

天皇の諡号については、「○○天皇」を "Emperor ○○" のように訳すが、明治天皇以降については "○○ Emperor" と訳すべきとの議論もある。また、昭和天皇以降については、追号ではなく諱を用いた呼び方(“Emperor Hirohito”(裕仁帝)や“Emperor Akihito”(明仁帝))が用いられることが多い。

 朝鮮半島における天皇の呼称 [編集]
「日朝関係史」、「皇帝」、および「日本国王」も参照

朝鮮半島の歴代王朝は長らく中国歴代王朝の冊封国として存在しており、華夷思想では「天子」・「皇帝」とは世界を治める唯一の者の称号であった。そのため日本の天皇が「皇」や「帝」、「天子」などを称することを認めず、「倭国王」「日本国王」等の称号で呼んでいた。

近世に入って日清戦争に勝利した大日本帝国の清への要求により、朝鮮は清の冊封体制から離脱し大韓帝国となると華夷秩序の関係が崩れ、朝鮮国王は自らを「大韓帝国皇帝」と称することで、初めて日本の天皇を皇帝と称した。その後の大日本帝国統治下では天皇の称号が用いられた。

朝鮮半島独立後は、英語で天皇を意味する "Emperor" の訳語を踏襲せず、「日本国王」(「日王」)という称号を用いてこれに倣い「皇室」を「王室」、「皇太子」を「王世子」と呼んだ。その後「天皇」と言う称号も一般的に使用されるようになり、「皇室/王室」、「皇太子/王世子」に関しては同等に用いていた。

大統領在任当時、金大中は諸国の慣例に従って「天皇」という称号を用いる様にマスコミ等に働きかけたが、マスコミはそれに従う者と従わない者に二分した。韓国政府としては1998年から「天皇」の称号を使用するようになったが[6]、次の大統領盧武鉉は天皇という称号が世界的かどうか確認していないため「天皇」と「日王」どちらを用いるべきか準備ができていないと従来の方針を転換する姿勢を示した。大統領李明博は「天皇」の称号を用いている[6]。しかし、マスメディアを始めとする民間では「日王」を使用している[6][7]。民間における「日王」の呼称の使用については21世紀初頭頃に「天皇」や「日皇」に改めるべきであるとの議論もなされたが、「日王」に統一することとなり現在に至っている[6]。

現在の大統領、李明博は2009年9月15日にインタビューを受けた際、「日本天皇」という表現を繰り返し用いており、このことが韓国内でニュースとなった[8]。ニュースでは、漢字使用国家である中国と台湾も「天皇」を使っていることを伝えた。

 中国における天皇の呼称 [編集]
古代から近代にかけて、中国は中華思想によって、自国の皇帝と同格の存在を認めようとしなかった。そのため、長らく天皇ではなく、日本国王の呼称を用いた。

現代の中国人の間では、天皇、日本国王、日王、日皇などの呼称が混在している。中国政府などの公的機関では、天皇陛下、日本天皇陛下などの呼称が基本となっている[9]。中国語版ウィキペディアでの天皇の記事名は、「日本天皇」となっている。

 天皇の配偶者の称号と通称 [編集]
日本では、一般に近現代までは貴人が正室以外の側室をもつことの方が当然と考えられていた。したがって天皇には正室以外にも複数の側室がいたほか、正室すら二名をもつことができた(皇后と中宮)。天皇の配偶者は、当初は出自に応じてそれぞれの称号が決まっていたが、後代になると寵愛の度合いによってこれが曖昧になり、さらに正規の称号を名乗る配偶者の地位自体が自然消滅すると、通称がこれにとって替わるようになることが増えた。

最初に側室をもつことを意図的に否定したのは大正天皇で、これ以降皇室でも一夫一妻制が定着した。

大宝律令制定の前
大后(おおきさき)
后 (きさき)
大宝律令の制定から平安時代のはじめごろまで
皇后(おおきさき/おほきさい/こうごう)
妃 (ひ)
夫人(ふじん)
嬪 (ひん)
平安時代の初めから南北朝時代ごろまで
皇后
中宮(ちゅうぐう)
女御(にょうご)
更衣(こうい)
南北朝時代から江戸時代はじめごろまで
女御
上臈(じょうろう)
典侍(てんじ)
江戸時代はじめから明治維新まで
中宮
女御
典侍
明治天皇の時代
皇后
典侍
大正天皇以降
皇后
なお、史上10代8名いた女帝には、いずれも皇位にある間は正式な配偶者がいなかったこともあり、日本では独自に皇配の称号を定めたり通称が生じたりすることはなかった。

 皇室の姓氏 [編集]
天皇や皇族は氏姓および名字を持たないとされる。宮家の当主が有する「○○宮」の称号は、宮家の当主個人の称号(宮号)とされており、苗字には当たらない。古代日本において、氏姓、すなわちウジ名とカバネは天皇が臣下へ賜与するものと位置づけられていた(→氏姓制度)。天皇は、氏姓を与える超越的な地位にあり、天皇に氏姓を与える上位の存在がなかったため、天皇は氏姓を持たなかったのである。このことは、東アジア世界において他に類を見ない非常に独特なものである。このことは、古代より現在に至るまで、王朝が変わったことはないとの建前が採られていたことによる。

しかし、ウジ・カバネが制度化される以前の大王(天皇の前身)は、姓を有していたとする説もある。5世紀の倭の五王が、倭讃、倭済などと称したことが『宋書』倭国伝ないし文帝紀などに見え、当時の倭国王が「倭」姓を称していたことがわかる。このことから、宋との冊封関係を結ぶ上で、ヤマト王権の王が姓を称する必要があったのだと考えられている[10][11]。

また、『隋書』倭国伝に倭国王の姓を「阿毎」(あま、あめ)とする記述があり、7世紀初頭まで大王家が姓を有していたとする説もあるが、中国風の一字姓でないことから「阿毎」は姓でないとする説もある[10]。大王家の「倭」姓は、中国の冊封体制から離脱した5世紀末ないし、氏姓制度の形成が進んだ5世紀末から6世紀前半までの間に放棄されたとする説も提出されている[10]。

吉田孝は、倭国が5世紀末に中国の冊封体制から離脱し、7世紀初頭の推古朝でも倭国王に冊封されなかったことが、大王=天皇が姓を持たず「姓」制度を超越し続けたことにつながったとしている[10]。

 


このホームページは,天皇皇后両陛下・皇族方の宮殿・御所などでのご公務や国内各地へのお出まし,外国とのご交際など皇室のさまざまなご活動を中心に紹介しています。
http://www.kunaicho.go.jp/


天皇の価値
http://www.infosnow.ne.jp/~sevas/adult/japan/japan2.html
2011年
01月14日
11:48
1: aki
普通の人ならとっくにリタイヤし温泉旅行したり孫と遊んだりと
悠々自適の生活を送っているお年なのに。。。
病気もなされているお体でいまだ国民の為に。。。
本当に頭が下がります。。。

天皇陛下と黄色いバラ
http://www.youtube.com/watch?v=ONJp1eR-ZUI&feature=player_embedded


2011年
01月14日
11:59
2: ひつじ
本当に有り難いことです。
今上陛下のおかげで、私たちは日々を暮らしていかれます。
国民の為にと、毎日殺人的なスケジュールをこなされて、本当に感謝の言葉しか見つかりません。
陛下には、どうかお体をお大切に、と申し上げたいです。
ご高齢でもありますし、もう少し東宮様がお手伝いくだされば…と思います。
小中学校で、天皇陛下についての正しい教育を行う事が、非常に重要だと思います。
今の日教組がはびこっている学校制度では、絶対に無理というのが、情けないです。
朝鮮学校が堂々と金日成親子を崇めているのが、少しうらやましいです。
小~大学まで、日教組バリバリの反日教育を受けた私ですが、震災の時、避難所に来てくださった両陛下のお姿をモニター越しに拝見して、有り難さに涙が止まらなかったことを思い出します。
いくら間違った事を吹き込まれようとも、ウソを一万回重ねようとも、たったひとつのまことにはかなわないのです。
それを痛いほど理解した瞬間でした。


.2011年
01月14日
12:05
3: らんこ△ツイコミュ少尉△
「天皇が高齢だから」という理由で祭事を減らそうとしている動きも見逃せません。
減らすのであればご公務が先。
敵は外部のものだけではありません。


.2011年
01月14日
12:28
4: kensogol
こんにちは

拝見させて頂きました。
ありがとうございます。

天皇の価値は分かり易いですね。
天皇陛下(emperor)≧ローマ法王(Pope)>英国女王(Queen)> アメリカ大統領etc(president)>日本国首相etc(premier)

なるほどです。

この価値の裏付けとして・・・
神武天皇から今上天皇に至る125代の万世一系男系男子による皇位継承を守ってきた皇室の歴史の長さと重みに尽きると考えます。
世界に類を見ないこの歴史・伝統・文化に集約されるもの。
その凄さ(権威)に世界はひれ伏す。

そう思えてなりません。

支那、朝鮮が本気で日本に手を出せないのはある意味この権威(天皇の存在)があるからこそとも言えるのではないか・・・。ふと思ったりします。

しかし、安易にも女系天皇容認とする輩が多いこと。
実に嘆かわしい。
我々日本国民が絶対に譲れない問題、避けては通れない問題であることは明明白白。

万世一系男系男子による皇位継承を守る!
これは理屈ではない。
日本人の遺伝子に刻み込まれた防衛本能がそう導くのである。
先人の方々が叡智を結集し守ってきたように・・・。


.2011年
01月14日
12:45
5: 海行かば
志葉楽さんのこの日記 ご苦労様です。
ありがとう御座います。

この馬鹿政党・売国政党・売国政治家・反日日本人どもが

天皇陛下様に対し
失礼な事ばかり している 当たり前の如く。

天皇陛下様 ほど 
この国を愛し 日本国民を 愛し 伝統文化を愛し
道徳を愛し 礼儀作法を 愛し ・ 
世界平和を愛し願い なされておられる

日々、全身全霊にて ご公務 なされておられる。
不平不満 も 申されずし。

ただ、ただ 
日本国の為・日本人たちの為・世界の平和の為に



馬鹿政党・売国政党・売国政治家・反日日本人どもの日頃の行い
天と地の差
足元にも およばず。

敵は外部のものだけではありません。

そのとおり 内部にも 多く居ると言う 工作員
天皇制廃止論者どもが 。

激務を与え天皇制を廃止させる
工作活動などがあると言う。


2011年
01月14日
13:39
6: よっし
志葉楽さん素晴らしい動画を紹介していただきありがとうございます
日本に生まれた事日本人である事そして天皇陛下がいらっしゃる事
大変誇りに思える動画です

もうこれ以上日本は左翼、シナ、チョンどもの好き勝手にはさせない


.2011年
01月14日
13:53
7: panda
はじめまして、
内部にも敵がいるというのが恐ろしいですね....。
テレビに惑わされていた今までの年月を無駄にしたと
実感しました。大切な事は中々目に見えませんね。
貴重な情報ありがとうございます!


       マッカーサー回想記

2014年08月26日 17時51分43秒 | 色んな情報

       マッカーサー回想記
昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言
http://www.youtube.com/watch?v=inE1DSH0jrk&feature=player_embedded

 
http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/jhistd/jhist4_5_6.htm
※1964年に出版されたDouglus MacArthur著Reminiscencesの中で
昭和天皇との最初の会見の様子を記したP288を和訳。
訳文は昭和39年1月25日付の朝日新聞より引用。

天皇は落ち着きがなく、
それまでの幾月かの緊張を、はっきり顔に表していた。

天皇の通訳官以外は、全部退席させた後、
私達は、長い迎賓室の端にある暖炉の前に座った。

私が、米国製のタバコを差し出すと、天皇は礼を言って受け取られた。
そのタバコの火をつけて差し上げたとき、
私は、天皇の手が震えているのに気がついた。

私は、できるだけ天皇のご気分を楽にすることにつとめたが、
天皇の感じている屈辱の苦しみが、
いかに深いものであるかが、私には、よくわかっていた。

私は、天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、
自分の立場を訴え始めるのではないか、という不安を感じた。

連合国の一部、ことにソ連と英国からは、
天皇を戦争犯罪者に含めろと言う声がかなり強くあがっていた。
現に、これらの国が提出した最初の戦犯リストには、
天皇が筆頭に記されていたのだ。

私は、そのような不公正な行動が、
いかに悲劇的な結果を招くことになるかが、よく分っていたので、
そう言った動きには強力に抵抗した。

ワシントンが英国の見解に傾きそうになった時には、
私は、もしそんな事をすれば、
少なくとも百万の将兵が必要になると警告した。

天皇が戦争犯罪者として起訴され、
おそらく絞首刑に処せられる事にでもなれば、
日本に軍政をしかねばならなくなり、
ゲリラ戦が始まる事は、まず間違いないと私は見ていた。

結局天皇の名は、リストからはずされたのだが、
こういったいきさつを、天皇は少しも知っていなかったのである。

(昭和天皇のお言葉)

「私は、国民が戦争遂行にあたって、
政治、軍事両面で行った全ての決定と行動に対する全責任を負うものとして、
私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにおたずねした。」

私は、大きい感動にゆすぶられた。
死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、
明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする。

この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした。
私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても、
日本の最上の紳士である事を感じ取ったのである。
(付記)
マッカーサー元帥は、側近のフェラーズ代将に、
「私は天皇にキスしてやりたいほどだった。
あんな誠実な人間をかつて見たことがない」と語ったと言う。
(当時外務大臣であった重光葵氏が、1956年9月2日、
ニューヨークでマッカーサー元帥を尋ねたときの談話による。

他にも、「一言も助けてくれと言わない天皇に、マッカーサーも驚いた。
彼の人間常識では計算されない奥深いものを感じたのだ」
〈中山正男氏、日本秘録98項〉
「この第一回会見が済んでから、元帥に会ったところ、
陛下ほど自然そのままの純真な、善良な方を見た事がない。
実に立派なお人柄である」と言って陛下との会見を非常に喜んでいた」
〈吉田茂、回想十年〉などの記録がある。
 
マッカーサー元帥は、陛下がお出での時も、お帰りのときも、
玄関までは出ない予定であった。
しかし、会見後、陛下がお帰りの際には、
思わず玄関までお見送りしてしまい、
慌てて奥に引っ込んだ事が、目撃されている。
〈吉田茂、回想十年104項以降〉。

http://www.youtube.com/watch?v=3iYTW3iTces&feature=player_embedded

日本人が知らない天皇の価値と役割
http://specific-asian-flash.web.infoseek.co.jp/tennouheik...

昭和天皇の広島巡幸_1947.S22.12.7_背景に原爆ドーム

.2011年
01月13日
16:443: gajyubee
>1: ほろ酔い神楽 「自虐史観」反論委員会

いい動画ありがとうございました。

陛下の日本の長としての、言動、感動しました。


よくもわるくも?、日本が一丸となって、行動していた時代を、頭から否定する方々は、

最後の動画を見て、何というのでしょうか。

たまに、北朝鮮の現状と、当時の日本をなぞらえて、似ていると見る方々がいらっしゃいますが、

それは、全くの妄言であると、思いいたりました。


.2011年
01月13日
19:104: cage
敵将に 民の命を こわれたる 責の全ては 我が身で負うと

御身より 民の身憂い 盾となる 御心知りて 涙こぼるる


.2011年
01月13日
22:045: 黒ゆり
歴代の天皇陛下が基本的にこのようなお考えの元にあられてきたと聞いております。

親ですね。

日本人全ての親。

国民を我が子と思いて慈しむ君の大いなる愛


.2011年
01月13日
23:096: はやぶさ
侍従長の回想より 藤田尚徳著

175ページより抜粋
陛下がマッカーサーに伝えられたといわれているお言葉

「敗戦にいたった戦争のいろいろな責任が追及されているが、責任はすべて私にある。
文武百官は、私の任命するところだから、彼らには責任が無い。
私の一身はどうなろうとかまわない。私はあなたにお委ね(ゆだね)する。
この上はどうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」

___________________

このことで、マッカーサー、そしてアメリカ国民にも「天皇に線祖責任はなし、」という議論に
傾いていったようであります。

「米国司令部としては、天皇の協力を獲得したことによって、日本本土進駐に二十四か師団の掩蔽を受けたより有効であった」※←当時のアメリカの新聞社談。

天皇陛下を戦争責任者として死刑とすべき、という意見はアメリカ、オーストラリアなどでも
多かったようですが、マッカーサーはそれを選びませんでした。
もしも、そうしたならば、アメリカによる占領統治は成功しなかったかもしれません


.2011年
01月13日
23:107: dekame
ただ馬齢を重ねてきた自分ですが、今初めて魂より天皇万歳と言えます。元々天皇制は必要と言う考えでしたが、御崩御された時に父(シナから帰国していた)は自分達に何かねぎらいの発表あるのではと期待していましたが、それは無く、随分がっかりしていた姿を自分は、はっきり記憶してますので魂より天皇万歳と言えませんでした。
.2011年


01月13日
23:138: kannta
天皇陛下、万歳・万歳・万歳!!

すばらし動画等を紹介していただき、本当に有難うございました。
多くの皆様に、ぜひ知ってほしい真相ですね。


.2011年
01月13日
23:549: クアーズ
天皇陛下が身代わりを申し出たってお話、中学の時先生が
授業中に言ってたんだよな・・・
私はこの話を聞いたときから陛下を尊敬していました


.2011年
01月14日
00:1210: 和
陛下もさぞ辛かっただろうと思いました。
貴重な動画、有難うございます。

現代に生きる日本人は
あまりにも大東亜戦争のことを知ら過ぎだと思います。
まるで他人事のような感じ。

そして、今目前に迫る危機に気付いていない。
まだ他人事です。

こんな日本にどうしてなってしまったのだろうと悲しくなります。。。


.2011年
01月14日
02:4911: yamato0036
陛下のこの御話は、私幼少の頃に今は亡き母親から聞いて育ちました。
 自分自身が「生かされて戴いている」事に感謝しています。
 本当に現世日本人は、戦争突入するまでの経緯を知らない方が多すぎます。
 
 「知らない・知らされない・知ろうとしない」の風潮は、戦後の世の最大のガンだと思います。


.2011年
01月14日
09:2912: トノゴジラ
 この先帝陛下のお言葉等は、以前から承知していましたが、こういう動画などで公になるとインパクトがありますね。
 特に、ある意味先帝陛下を誤解されていた方々には、貴重なものだと思います。
 ありがとうございました。


.2011年
01月14日
10:0613: 雷蔵
相手がこんなに感動したということは、アメリカ側で知っている範囲の国家元首や王族は、みんな自己弁明に必死なレベルだったということでしょうか?

それにしても天皇陛下に代表される日本人の民度の高さに改めて感動しました。こういった史実を広めて(9クアーズさんの先生GJ)日本人の誇りを後世に伝えていかないといけませんね。こういう話を知ったら「日本はもうダメ」だの「大したことない」なんて思う日本人はいなくなるでしょう。

2011年
01月15日
10:31
14: 志葉楽
天皇陛下と接見 まさにそうだと思う。
私は福井県への巡行の街路での事だった。
近づくまでは何とも思わずに煙草吸いながら早く行かないかとブラブラしていた。
近づいてくるとなぜか惹き付けられるように回れ右をして手を大きく振りながら目の前は膜が張ったように見えにくくなった。
まさに神だと思い知らされた瞬間だった。
当時は今の様に車は普及していないので私は運転手で工場の従業員の送り迎えしている頃のことだ。
生意気盛りで私などはまだおとなしい方だった。
その頃だから屁とも思わなかった人間が一目で変化してしまう出来事だった。
天皇陛下は正に神だ。
神そのものではないかな。


.2011年
01月15日
11:28
15: ひろまる
天皇陛下は神です。
そして、隠さねばならぬ存在です。
皇統を護るのは、我々国民の「素直な信仰心」だと固く信じます。

陛下が行われている事は、人として如何に生きるかを、身を以て示されているのだと思います。

祭り事を大切にし、額に汗してはたらき、いつも穏やかで慈愛に満ちて。そして、「言霊」を本当に慎重に大切にお扱いなさる。

私たちも、神と同化する努力を毎日怠ってはなりません。
私たちの魂の根幹は「直日霊(なおひたま)」と言って、宇宙創造のかみ大元霊の「分け御霊(わけみたま)」で出来ております。
その、神性の種を人生を通して育み磨く事が神々から与えられた「使命」です。

働くとは「はたを楽にする」が語源と神職の方にうかがいました。

陛下は、はたをらくにする、「国民を楽にする」為に日々、神事に公務に、そして農作業もされます。

その事を考えると、いつも涙が出てしまいます。

私たちは、陛下が身を以て示される「神の道へ通じる、人の道」に精進し、理屈をこねずに素直に「信じる事、信仰心」を実践せねばならないと固く信じて疑いません。

そして、天照大神の化身としてあらせられる陛下を、隠して護らねばなりません。

陛下お一人を神にしてもいけないと思うのです。

世界が恐れた日本人の真の底力とは、揺るぎないまっすぐで素直な「信仰心」であると、断言します。

ですよね(*'-')b  志葉楽さま(*´∀`*)


.2011年
01月15日
11:50
16: aki
そうですね。
あーだこーだ理屈を並べ立てたところで意味がありませんね。
理屈を超えた存在なのですから。


●坂本龍馬の人となり

2014年08月26日 17時43分47秒 | 色んな情報

●坂本龍馬の人となり
◆写真で見る龍馬伝
http://www.youtube.com/watch?v=qwrfoEJaaGg&NR=1&feature=fvwp
 
◆坂本龍馬とお龍
http://www.youtube.com/watch?v=wqCnMW3AX4Y
 
◆坂本竜馬(龍馬)の名言集・格言集動画
http://www.youtube.com/watch?v=D4in6ViT34A&feature=related
 
◆坂本竜馬の言葉
http://www.youtube.com/watch?v=Qgjr5JPpVEE&feature=related
 
◆坂本竜馬の言葉 ~ 地球を愛の星へ ~ スピリチュアルメッセージ 霊言
http://www.youtube.com/watch?v=2xSprx7L7Aw&feature=related
 
◆彼は死んだから有名になったと言っても過言ではないと思う。
だからどういう人だったのかは彼の出した手紙からしか回想できない。

京都国立博物館 前考古学室長 宮川禎一氏が龍馬の手紙などを一括資料として親戚筋の人から同館に寄贈されたことから関わりが始まったそうだ。

調べていると一見下らない文なども多くたいした事はないと思われるが 人の心をよく見て深い心情が伺えるモノが多いとのことです。
相手が読んでどう思うか よく考えられて書かれているモノが多いそうです。
通説を見直さなければならないことが多いとのことです。

例え話も多かったようです。
結構 教養も高くて小野小町や新田義貞を引き合いに出して遠回しに意見を言ったりしたとのこと。

彼は究極の「弟」だということです。
西郷や桂などの兄と言うべき人たちのアイダをちょこまかと動き回り「土佐のいごっそ」などと言われる様に多弁で例え話しが上手で人間関係を築くのが上手な人だったので「薩長同盟」を作れたのだと言うことです。
小説やドラマなど多くの龍馬像が過剰に膨らんでいるのではとのことです。
龍馬という人は死ぬ前にもう開明期の人物になっていたとも。

龍馬は作り出されたという本が昨年出たけれども支援して引き上げた人が廻りに沢山いた。
松平春岳の様に京都での生活費を全額出してくれたり勝海舟なとは色んな助言やヒントなどを出してくれる人たちがいた。


これを読んでいる人たちも人間関係を上手くやり媚びへつらうのではなくて誠心誠意真心で人と接していけば「坂本龍馬」になれるかもしれない。

何するにも下地はダイジ。
教養を身につけることは人に好かれる第一歩ではないかな。

大いに明日に向かって羽ばたいて下さい。