縄文人の反乱 日本を大事に

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今日 パソコンの入れ替えする

2014年08月28日 13時28分34秒 | 色んな情報

今日 パソコンの入れ替えする
XPが使えにくく成ったのでウインドウズ8.1に変える。
システムが完全に違うようだから当分慣れそうもない。
日記の更新が出来るように成れば良いけれど。
気長にやります。
なるべく早く更新出来るようにします。
それまでこきげんよう


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2014年08月28日 13時06分39秒 | 色んな情報

      夫婦別姓 裁判

楽仙堂さんの日記

2011年01月06日17:11

夫婦別姓で精神的に苦痛を受けたのは、
憲法違反であるという裁判が起されたそうです。

《いわゆる夫婦別姓が認められず、姓を同じにしなければ婚姻届が受理されないのは、婚姻の自由などを保障した憲法に違反するとして、富山県などに住む5人の女性が訴えを起こすことが分かりました。夫婦別姓を認めるよう求めて訴えが起こされるのは初めてです。

訴えを起こすのは、富山県の塚本協子さん(75)のほか、東京や大阪、それに京都に住む30代から70代のあわせて5人の女性です。民法では、婚姻届を出す際に夫か妻、どちらかの姓を選ぶよう定められています。塚本さんたちは夫の姓で婚姻届を出しましたが、自分のもともとの姓を名乗れないことで精神的な苦痛を受けたなどとして、「同じ姓にしなければ婚姻届が受理されないのは、婚姻の自由などを保障した憲法に違反する」と主張し、国や自治体にあわせて500万円余りの賠償や、夫婦別姓での婚姻届の受理を求めて、近く、東京地方裁判所に訴えを起こすことにしています。塚本さんは「名前を変えることは私が私でなくなることです。

別姓の夫婦でも結婚できるように認めてほしい」と話しています。弁護団によりますと、夫婦別姓を認めるよう求めて裁判が起こされるのは初めてです。夫婦別姓については、「家族の一体感が薄れ絆がなくなる」とか「子どもに悪い影響を与える」といった反対意見も多く、世論調査でも賛否はきっ抗しています。政府は、同じ姓を名乗るか別の姓を名乗るか選択できる「選択的夫婦別姓制度」の導入を検討していますが、政府の中でも意見は分かれ、結論は出ていません。議論が平行線をたどるなか、初めて司法の判断が求められることになります。》

国会で夫婦別姓法案を突破させるために、からめ手で攻めてきているとしか
思えないません。
なんなんでしょうね、このタイミングは・・・・。

 


2011年
01月06日
しまっぽい黒犬
姓が変わったことでの精神的苦痛???
愛する人と同じ姓になって何で精神的苦痛がおきるの?自分の姓をかえたくなかったのなら相手に自分の姓になってもらう事だってできたはずです、その話あいも出来ないような夫婦関係だったのが精神的苦痛の原因じゃないんですかね(呆)

まさしく夫婦別姓法案をだすためのからめ手ですね!本当に腹立しいです(`・д・)


●香水(こうすい)とは

2014年08月28日 09時36分00秒 | 色んな情報

●香水(こうすい)とは
  香水(こうすい)は、体や衣服に付け、香りを楽しむための化粧品の一種。
ウィキペディアより
概説
もともと宗教的な用途や薬用として使われていたが、近代以降、楽しみやたしなみとしての香水が生まれた。香料をアルコールなどの溶剤に溶かして作られるものが多いが、他にもワックスに練り込まれた固形状の物などもある。現在では数多くのブランドが生まれている。

装飾品同様、定番のブランドがある一方で、新商品、季節限定商品が市場で注目されることも多い。女優などが自分の名前を冠した商品やブランドを立ち上げることもある。

香水は付けた人間の体臭と混ざり合って香りを演出するので、液体の香りそのものからは身に付けた際の香りを知ることはできない。肌の酸性度(pH - ペーハー)、水分量、皮脂量が各人異なるうえ、皮膚を構成するタンパク質の末端のアミノ酸の違いで飛ばされる香料と残される香料に個人差がある。また、香りは時間がたつにつれて変化する。香水をつけて10分くらいの香りをトップ・ノート、少し時間が経って20分から30分ぐらいの香りをミドル・ノート、大分時間が経って消えてしまうまでの香りをラスト・ノートという。変化のしかたや早さは、濃度や商品によってさまざまである。

揮発性を利用することから、一般的には体温の高い脈打つ場所につけるとされる。特にひじの内側につけると皮膚温が高く、動作のある為、効率よく揮発する。同じ静脈でも手首は衣服や物に触れる事が多く、案外消えが早くなる。また香りの変化や持ち・目的に合わせてつける場所も変える。しかし香水の成分には光毒性(光感作)のあるものも多く、シミの原因にもなるので直射日光の当たる場所につけるのは勧められない。特に鼻と両肩を結ぶトライアングルを形作る部分はタブー。香りは体の位置の低い部分から高い部分へ立ちのぼるのでつける部位と分量は十分な配慮が必要である。自分でも香りが分かるようではつけ過ぎのことが多い。またハンカチやスカートのすそなど、衣服につける場合もある。この場合は香水によるシミができることがあるので、使用後の衣服の取扱いに注意が必要となる。皮膚の敏感な人は直接膚につけずコットンなどにしみ込ませて下着の間、ポケットなどに忍ばせると良い。

香水の調合を職業とする者を調香師(パフューマー、parfumer)と言う。フランスでは、極めて評価の高い調香師をさす「ネ」(仏:nez; 「鼻」の意)という称号がある。石鹸、シャンプー、洗剤等の日用品や、清涼飲料水等の食品に添加する香料を調合する人はパフューマーではなくフレーヴァリスト(flavorist)と言う。

日本でも香水は化粧品の一種として広まってはいるが、欧米ほど使用が一般的になってはいない。これは、食生活や入浴頻度などの文化的経緯から臭い、味覚に敏感であり、無臭が好まれているためである。また、そもそも欧米人と比較して、日本人の多くを占めるモンゴロイド(特に弥生人にあたる新モンゴロイド)には腋臭が少ない人が多いためとも考えられる。その結果、香水そのものの認知やにおいに対するマナーの違いなどにも影響を与え、香水の普及に歯止めをかけていると言える。日本の化粧品会社の製品もあるが、人気商品の多くは代理店などによって海外から輸入されたものである。

歴史
紀元前1850年頃に香水を製造していたとされる最古の工場跡地はギリシアで発掘された。[1]

アルコールに溶かす香水が作られるようになったのは、イスラム社会でアルコールの製造法がヨーロッパに伝えられてからである。それまでは油脂に香りを吸着させた香油やポマードが使用されていた。14世紀にハンガリー王室で使用された、ローズマリーを原料としたもの(ハンガリアンウォーター)がそれである。その後、ルネサンス期のイタリアで発展し、ヨーロッパ各地に広まっていった。

16世紀から19世紀までのヨーロッパ(特にフランス)では、風呂に入ると梅毒などの病気になりやすいと信じられたため、入浴という行為が一般的でなく(国王ですら一生で3回しか入浴しなかったという記録がある)、そのための体臭消しとして発達していった。また、なめし革の臭いを取るためにも使われた。

分類
香料による分類
ひとつの香水には平均して50~200種類もの香料が含まれている。更に、それらの香料はまた何百という香りを構成する成分からなっている。莫大な種類の成分が複雑に組み合わされることで香りが出来上がるため、その成り立ちの面から見ると、似た香りはないといえる。

基本的に、天然の香料はその希少性から高価であるため、化学的な調香もよく行われる。

天然香料
植物性香料:花、葉、果実、樹皮、根などを原料にする。
動物性香料:動物の生殖腺分泌物等から。ムスク(麝香、ジャコウジカ)、シベット(霊猫香、ジャコウネコ)、アンバーグリス(龍涎香、マッコウクジラの腸内結石)、カストリウム(海狸香、ビーバー)、ジャコウネズミの5種が知られており、シベットのみエチオピア産の天然香料が使われることがある。それ以外は、現在ではほぼ合成へ移行している。
合成香料
合成香料:自然界の香りの成分を分析し、同じ構造の化合物を原料から化学的に合成する。あるいは天然には無いものを合成する(例: 白檀の天然香料はサンタロールという物質であるが、非常に稀少であり合成も難しい。そのため、イソカンフィルシクロヘキサノール、フランスのジヴォダン(Givaudan)社が開発したサンダロア、スイスのフィルメニッヒ(Firmenich)社が開発したポリサントールなどの物質が用いられている)。
単離香料:天然の香料から成分を部分的に分離させる(例:ハッカからメントールを造るのがこの方法)。

香調による分類
香水はその香りのタイプ(香調)によっていくつかに分類される。複数の香調を組み合わせて作られた香水も多い。

シトラス:主にレモンやライムの香りでオー・デ・コロンに多い。
フローラル:バラ、ジャスミン、スズランなどの花の香り。
アルデヒド:合成香料類の総称。フローラル系の濃厚な香りを指す。
シプレ:ベルガモット、オークモスを基調とした香り。コティ(Coty)社の香水「シープル」に由来する。
フゼア:ラベンダー、ゼラニウムを基調とした香り。ウビガン(Houbigant)社の香水「フゼア・ロワイヤル」に由来。多く男性用。
オリエンタル:バニラ、没薬(ミルラ)や乳香(オリバナム、フランキンセンス)等の天然樹脂系を基調とした香り。
アニマリック:ムスク、霊猫香等を基調にした香り。
ウッディ:白檀、パチュリなど香木を基調とした香り。男性向けに多い。
オゾン:マリンノート・アクアノートとも言われる。1990年代に登場したキャローンと呼ばれる完全な合成香料により実現した、自然界には実在しない全く新しいノート。海やスイカ、干している洗濯物などをイメージさせる透明感のある瑞々しい香り。主に男性向けだが、最近はユニセックスの香水にも多く使われる。
濃度による分類
パルファン (parfum(s)) またはエクストレ (extrait(s))
狭義の「香水」。parfumは英語のパフューム (perfume) と同語源だが、英語ではperfume extractまたはextraitという。
濃度15 - 20%、アルコール75 - 80%、蒸留水0 - 5%、持続時間およそ5 - 7時間
オードパルファン (eaux de parfum, EdP)
ブランドによりパルファンドトワレとも言う
濃度10 - 15%、アルコール80%、蒸留水5 - 10%、持続時間およそ5時間
オードトワレ (eaux de toilette, EdT)
濃度5 - 10%、アルコール80%、蒸留水14 - 15%、持続時間およそ3 - 4時間
オーデコロン (eaux de Cologne, EdC)
濃度2 - 5%、アルコール90%以上、蒸留水5% - 10%、持続時間およそ1 - 2時間
練り香水
濃度による分類とは言いがたいが、パルファンやコロンと同様に香料の種類を示す。液体ではなく、蜜蝋などに香を混ぜた固形物であるのが大きな特徴。
商品により「オードトワレ・レジェール」「オードレジェール」と呼ばれる分類のものもあるが、濃度上では上記のオーデコロンに相当する。 (レジェールはフランス語で「軽い」「優しい」「穏やかな」等の意)

使用者の性別による分類
大きく男性用と女性用に別れるが、共用(ユニセックス)の商品も多い。異性向けの香水を身につけることも、現代では決してタブーとはされない。ただ、この感覚は国によって異なる傾向がある。例えば、現代の日本では比較的タブー意識が薄いが、アメリカ合衆国では特に男性が女性用香水をつけるとゲイと受け取られるケースがある。その一方で、イギリスでは老舗であるヤードリーやクリード、フローリス、ペンハリゴンズなどが男性が付けるためのフローラルノートを発表している。

日本ではユニセックスのものが比較的良く売れる傾向があるが、フランスでは男性用か女性用にきっちり分けられ、共用を謳ったものはほとんど発表されていない。

また、フランスやイタリアではトップノート~ミドルノート~ラストノートと変化が明確なものが好まれるが、アメリカ合衆国では逆にほとんど変化のしないものが好まれる傾向にある。

フレグランスホイール
1983年にマイケルエドワーズによって考案された香りの分類方法である。[2]

香水入れなど
香水は通常、瓶に入っているが、携帯するためや香水を出しやすくするために別の容器を使用することがある。主にアトマイザーが多い。

ボトルタイプ
小瓶の香水入れ。
ロールタイプ
香水を直接塗る。量を調節しやすいが香水の匂いが変わりやすい。
スプレータイプ
口の部分がスプレーになっている。8分目くらいが目安。
香水の登場する映画など
嫉妬の香り
パフューム ある人殺しの物語
小説であり映画にもなって一世を風靡した『風とともに去りぬ』では主人公スカーレット・オハラが自分の酒臭さを消すために香水でうがいをするという、彼女の破天荒だが目的に対する強い意思力を表現するために印象的に香水を使った場面がある。
映画『ワーキング・ガール』で、主人公のキャリアウーマンが元恋人をベッドに誘うためにシャリマー/SHALIMAR(ゲラン)をつけるシーンがでてくる。
映画『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』の中では、クラブ歌手の女性が匂いに耐えかねインドゾウに香水をかけるシーンがある。
マリリン・モンローが「寝るときは何を着ているのですか?」という質問に対し「シャネルの5番(香水の商品名)をつけている」(英語で衣服を身に着けることも香水を付けることも「wear」という動詞を使う。一種の言葉遊び)と答えたという有名なエピソードがある。
「オイディプスの刃」
ウィキペディアより

 

トイレの話は以前書いたけれども日本は凄く発達していてフランス人が江戸へ来てビックリしていた。
昔はフランスにトイレが無くてドコでも構わずしていた。
宮殿の中にトイレは無い。

アパートなどにもトイレは無くてバケツにして二階以上は道路に捨てていた。
本当は道路まで持って降りて開けるのだけど誰も守らず窓から捨てる。
それをパリ市がかき集めてセーヌ川に流していた。
衛生観念は殆ど無かった。
スペイン風邪などはそれで大流行した。
セーヌ川は今でこそ綺麗だけど当時どぶ川だった。

余りにもクサイので匂いごまかしに香水が発達した。
今でこそ西洋人は格好いい事言ってるけれども汚くて野蛮人が多かった。
白人の殺した人数十億人できかないという。

日本は昔から綺麗な国だった。

これは余り文献に載っていないと思う。

 

 

 

 

 


こうずい
香水 (仏教) - 仏教において供養に用いられる水。

香水 (仏教)
香水(こうずい)は、寺院や仏壇において、仏に捧げられるものの一つであり、多くは金銅製の瓶に入れて、もっとも仏の近くにまつられる。

しばしば閼伽と混同されるが、単なる水ではなく、樒という照葉樹の一枝を刺すことによって水が香水となることを、鑑真によって伝えられた。

 

シキミ(樒、櫁、梻 Illicium anisatum)はシキミ科の常緑高木である。かつてはモクレン科に分類されていた。有毒。仏事に用いるため寺院に植栽される。

地方によりシキビ、ハナノキ(カエデ科にも別にハナノキがある)、ハナシバなどともいう。 学名にはリンネが命名したIllicium anisatum L.と、シーボルトが命名したI. religiosum Sieb. et Zucc.("religiosum"は「宗教的な」という意味)が存在するが、リンネのものが有効となっている。

 


閼伽(あか)は、仏教において仏前などに供養される水のことで六種供養のひとつ。サンスクリット語のargha(アルガ)の音写で、功徳水(くどくすい)と訳される。閼伽井から汲まれた水に香を入れることがあり、閼伽香水とも呼ばれることもある。

インドでは古く、来客に対し足をそそぐための水と食事の後口をすすぐための水が用意されたといい、それが仏教に取り入れられ、仏前や僧侶に供養されるようになったものである。

閼伽を汲むための井戸を「閼伽井」、その上屋を「閼伽井屋」、「閼伽井堂」と称される。また、閼伽を入れる瓶(びん)を水瓶(すいびょう=軍持)と称し、閼伽を入れる器を「閼伽器」、閼伽を供える棚を「閼伽棚」と称される。

サンスクリットの原語は東へ伝わって閼伽となる一方、西にも伝播してラテン語の"aqua"(水)となったという説が広く知られているが、それは語源俗解に過ぎないとする説もある。

ウィキペディアより


●灰買い屋を皆さん知ってマスか

2014年08月28日 08時35分04秒 | 色んな情報

●灰買い屋を皆さん知ってマスか

我が家は昔 ウドン屋をしていた。
小学校何年生かまで「灰買い屋」が竈の灰を買いに来ていた。
中学生になった頃にヤットガスに変った。
始め火を付けるのにいちいちマッチを擦ってガス栓ひねり出してから火を付ける。
これがなれない内タイミングがナカナカ合わなくて付かなかったら付いてもボットとか時には爆発したのかと思う様な大きな音がしたモノ。
当時爆発した人もいたようだ。
何とかなれるようにはなったけど今でもあの頃怖い思いをした事を思い出す。
さて本題に戻り灰買い屋の話。
何ヶ月かに一度 買いに来た人が竈の奥まで顔突っ込んで小さなホウキで隅まで綺麗に履いて灰を持って帰った。
いくらで取引されていたのかは知らない。
大きな竈で2㍍に3㍍四方くらいだったかな。
お湯湧かす一番大きな鍋で1㍍以上の直径で朝から晩まで炊いていた。
よく火の番もさせられた。
直径六十くらいの窯が真ん中の奥にありダシを保温していた。

春日八郎の「お富さん」
玄冶店(げんやだな)  
  春日八郎の「お富さん」が大ヒットしたのが、昭和29年のことだそうですから、もうこの歌謡曲を知っている人は少ないのかもしれません。でも歌詞の中の一部分「----死んだ筈だよお富さん、生きていたとはお釈迦様でも知らぬ仏のお富さん、ええさほう、玄冶店」という有名な文句だけは聞いたことがある、という人は結構いらっしゃるのではないかと思います。

歌詞の一節「死んだ筈だよお富さん」は流行語にまでなった。


実はこの「お富さん」の歌詞は、歌舞伎ファンなら誰でも知っているというほど有名なせりふの一部なのです。「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」源氏店(げんやだな)の場で、切られ与三郎と異名をとる"与三郎(よさぶろう)"がチンピラ仲間の"蝙蝠安(こうもりやす)"に連れられて小銭を強請(ゆすり)に入った妾宅に、かって自分の女だった"お富"が誰かの囲われ者として暮らしているのを見た"与三郎"が"お富"に向かって言うせりふです。

 
  妾宅の造りも歌にある通りの「粋な黒塀、見越しの松」のある「玄冶店」です。"お富"はといえば風呂上がりの、まさに「婀娜(あだ)な姿の洗い髪」です。

鏡に向かって化粧をするお富からは、中年増の色気がたっぷりと発散される場面です。与三郎の体には全部で34ケ所の切り傷があるのですが、この傷ももとはと言えば、3年前、当時やくざの親分の妾だったお富と、人目を盗んで契りを結んだことがバレて切り刻まれたことによるものなのです。

 
  (与三郎)もし、御新造さんえ、おかみさんえ、----お富さんえ、イヤサお富、久しぶりだなあ。
(お富)そういうお前は。
(与三郎)与三郎だ。
(お富)えっ。
(与三郎)おぬしァ俺を見忘れたか。
(お富)え、------。
(与三郎)しがねえ恋の情けが仇、命の綱の切れたのを、どう取りとめてか木更津から、めぐる月日も三年(みとせ)越し、江戸の親にゃァ勘当受け、よんどころなく鎌倉の、谷七郷(やつしちごう)は食い詰めても、面(つら)に受けたる看板の、疵(きず)がもっけの幸いに、切られ与三(よそう)と異名(いみょう)を取り、押し借り強請(ゆすり)も習おうより、慣れた時代の源氏店(げんやだな)、その白化(しらばけ)か黒塀の、格子作りの囲いもの、死んだと思ったお富たァ、お釈迦様でも気が付くめえ。よくまァおぬしは達者でいたなァ----。

自分の意志とは関係なく、巧まずして男を迷わせ、男を虜にし、男の運命を翻弄する女。いい女。それが、お富なのです。

なお、歌舞伎では「玄冶店」が「源氏店」となっていますが、この「玄冶店」というのは江戸の地名だそうです。場所は、現在の日本橋堀留町の辺りだそうですが、幕府お抱え医師"岡本玄冶法印(おかもとげんやほういん)"の屋敷跡で、ここに芝居関係の人が多く住んでいたということです。

 
『与話情浮名横櫛』(よわなさけ うきなの よこぐし、旧字体:與話情浮名櫛)は、歌舞伎の演目。世話物の名作のひとつに数えられる。通称に『切られ与三』(きられよさ)、『お富与三郎』(おとみ よさぶろう)、『源氏店』(げんじ だな)など。

三代目瀬川如皐作、全九幕三十場。今日では前半の「木更津海岸見染の場」と「源氏店の場」のみが演じられることがほとんどとなっている。

 
この中で竈の中の灰のは今でお前にやらないという台詞がある。
芝居の中にまで取り入れられていた。

 

 

 

江戸のリサイクル業
http://www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/02/kaisetsu3.html

江戸の水道技術
http://www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/01/index.html

江戸の再生紙とリサイクル
http://www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/02/index.html

「灰買い」という商売が成り立ったわけは?
http://wishpafupafu.blog110.fc2.com/blog-entry-168.html

江戸の町にはさまざまな回収専門業者
http://wishpafupafu.blog110.fc2.com/blog-entry-168.html

 「江戸の職人に学ぶ修理再生の心」
http://senjoushi.yoka-yoka.jp/e431320.html

バキュームカーが無い時代はどうやってたんですか?
http://okwave.jp/qa/q6389704_1.html
http://okwave.jp/qa/q6389704_2.html
http://okwave.jp/qa/q6389704_3.html

「江戸版 三丁目の夕日」を観たい
http://blog.kajika.net/?eid=996860

江戸時代のリサイクル
http://www.simofuri.com/recycle/recycle.htm

江戸時代のリサイクル業者
http://www.new-agriculture.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=130009

 

高校生地球環境論文賞
受賞論文【佳作】「江戸時代から学ぶこと」| 高校生地球環境論文賞の結果について TOP |
北海道 立命館慶祥高等学校
3年 岩井美緒
はじめに
「無から有は生じない」これは、自然界の大原則である。これをよく表しているのが、"ミクロコスモス"という実験である。水・空気・砂・小石などを入れたガラスの容器に小魚と水草とバクテリアを入れる。外から入るのはガラス越しから入る光と熱エネルギーのみという状態にする。そうすると、光と熱エネルギーにより水草は酸素を出し始め、魚はその水草を食べ、排泄をする。また、その排泄物をバクテリアが食べる。魚が増えすぎたり、水草が足りなかったり、少しでもバランスが崩れればこのサイクルは成立しない。非常に危なっかしい世界であるものの、全てが循環するシステムが成立している。私たちの住んでいるこの地球もこのミクロコスモスと根本的には全く一緒で、ボウルのサイズが大きくなり、中に住む生物の種類が増えただけである。しかし私たちはこの世界の不安定なバランスを理解せず、せっせと水草を抜いたり、水を濁したりしている様なものである。便利な生活を得るために膨大なエネルギーを消費し、無から有は生じない、というごく簡単な自然原則さえをも無視した生活を送っている。
 日本の中だけで全てを生産、そして消費をして生活していた鎖国の頃、この頃の日本人は自然を食い潰すことなく200年にわたって安定した社会を維持し続けた。単なる偶然ではなく、ミクロコスモスの原理を彼らはかなりはっきりと理解していたことが伺える。わずかなエネルギーを効率よく使い、その中で繊細で優美な現在にも受け継がれる文化をも発展させた。今回は、ミクロコスモスのように、全てを循環させていた江戸時代の生活システムを見直し、私たちのこれからの生活スタイルを考えていきたいと思う。

1.江戸時代の人々にとっての米
欧米の影響を受け私たちの食生活は多様化し、今では日本にいながら世界各国の料理が食べられるまでになった。しかし、日本人にとっての米の大切さに変化はない。米は、私たち日本人の生活を2000年に渡って支え続けてきた。江戸の人々にとっての米は、小麦粉やじゃがいもが普及していない分、重要な炭水化物として現在よりもさらに重宝されていたことだろう。支出に占める割合も米が一番高く、江戸時代の大工の収入から考えると、収入の約4分の1に相当した。また米は、日本人の主食であっただけではなく、庶民の娯楽=酒の材料でもあった。米を収穫し終えた後の稲わらは、肥料になったり、畑を覆うための"畑カバー"になったりと、農耕材料としても利用され、米自身を保存したり運んだりするための俵にもなった。ものをしばるために使われた縄はもちろん、草履にも稲わらが使われた。驚くことに、馬にも蹄鉄を履かせる代わりにわら草履を履かせていたそうだ。家を建てる時には稲わらを細かく刻んで土に混ぜ、壁を塗るために使っていた。このように収穫後の米ですら衣食住全ての場面で使われ、文字通り"米なしでは生きていけない"生活を送っていたことが分かる。今の私たちが江戸時代を見習い、わらでできた靴を履いたり、家を建てる時わらを使ったりすることはもちろんできない。しかし現在の日本は深刻な米離れが進み、米の一人当たりの生産量は、1962年ピーク時の半分にまで減少している。食糧自給率も41%と、私たちが普段口にしている物の半分以上を輸入に頼っている状態である。少なくとも私たちは日本人にとっての米の大切さを考え直し、米という一つの作物から衣食住すべてを賄って生活していた江戸時代の人々の知恵を見直すべきである。"無駄のないように使えるものは徹底的に使う"これこそが今の私たちが江戸時代の人々から学ぶべきことではないだろうか。

2.あかりの大切さ
昼間から煌々とついている電気、もはや付いていることが当たり前となっている。スイッチを軽くひと押しするだけで、私たちは夜も昼も快適な生活を送ることができる。江戸時代の人々にとって、夜に明かりを保つことは何よりも大変であった。この時代の庶民にも普及していた一般的な照明器具は、行灯である。小さな皿に油を入れ、芯を浸して点火をする。使う油は菜種油や魚油であった。菜種油は本来食用油で、燃やすにはもったいないほどの高級品であり米よりもはるかに値段が高かった。魚油は菜種油と比べれば値段は安いものの、燃える時にくさい匂いを出したそうだ。それでも低所得者の人々にとっては、明かりを得るためには苦ではなかったらしい。得られる電力はと言うと、行灯を50~100個並べてやっと60ワット電球一個分ほどであったらしいので、行灯1個から得られる光というのは本当に微々たるものであったと思う。行灯よりも明るい光が必要な時は蝋燭が使われた。しかしこの時代の蝋燭は作るだけでも1カ月以上かかり、かなりの高級品であった。もちろん、魚油を使っていたような家庭には縁もない品である。蝋燭の貴重さを表しているのは、当時の江戸に"蝋燭の流れ買い"という職業があったことからも明らかである。彼らは蝋燭の台や提灯の中に流れ出て固まった蝋燭のしずくや燃え残りを一軒一軒回り、買い集めていた。蝋燭のカスをまとめて再生するだけで一つの商売が成立していた。使える資源を徹底して利用する彼らの素晴らしさが、ここからも垣間見ることができる。
資源を効率よく使うということだけでなくここでもうひとつ重要なことは、植物油も魚油も蝋燭の材料も全てが国産で、しかも使用量に応じた分しか生産していなかった、ということである。つまり、植物や魚が毎年新しく作り出せる量の範囲内で生産を行っていたと言える。当時の人々がミクロコスモスの生態系に影響を与える心配はほとんどなかったことが分かる。一方私たちは、使えるものでも気に入らなくなったり、型が古くなったりしたらどんどん捨て、それらの処理に膨大なエネルギーを費やしている。また石油などのエネルギー資源はほぼ100パーセント、外国に頼っている状況である。私たちは使用する電力を江戸の人々を見習い、行灯や蝋燭に変える必要はないが電気を大切に最大限有効利用する努力や、明かりを得られることへの有難みを思いだす必要があると思う。

3.江戸時代、ゴミ処理方法の究極性
江戸時代の人々が行っていた資源の徹底利用の中でも生活からでたゴミ処理の方法は、なんといっても究極である。
資源を徹底的に利用しているためゴミがほとんどでない。紙屑でさえゴミになることはまずなかった。当時作られていた紙は、繊維がとても丈夫だったため漉き返せば何度でも紙として再生することができた。そのため"蝋燭の流れ買い"と同じように、紙屑やほご紙を買い集める"屑屋"が徹底的に買い集めた。また"屑屋"として買い集めるほどの資金もなくて、道に落ちている紙屑を拾い集める仕事をする専門の職業もあったそうだ。こう考えると道端に落ちている紙きれも立派な商品であり、決してゴミではなかった。一度使ったトイレのちり紙でさえ、ゴミではなかったというから驚きである。専用の屑かごにちり紙を捨てさせ回収し、最下級のトイレットペーパーとして再生していた。紙でさえこんなにも徹底した再利用がなされていたため、紙よりも高価な金属類はどんなものでも買いあさっていたらしい。川底やゴミ捨て場に落ちている金属を専門に集める"よなげ屋"という商売があったり、使えなくなった鍋や古くなった包丁を買う"古鉄買"という専門職があったりもした。さらに、古くなった下駄は鼻緒が取り換えられて再び売られ、古くなった傘も張り替えて売り、着古した衣類も布切れとして売っていた。この他にも、かまどでできた灰を専門に買う"灰買い"や、燃えるごみを拾って歩く"湯屋の木拾い"と呼ばれる職業、提灯の紙の張り替えを専門とする業者など、挙げればきりがない。このように現在から見るとゴミでしかないものも全て再利用され、ゴミとして扱われることはまずなかった。
江戸時代のゴミ処理方法は、"ゴミ処理"と言いながらも処理するものがほとんどない、"捨てない"という方法だと言うことが分かる。本当に捨てるものがある時でも、ゴミを運ぶ人、ゴミを埋め立てる人が職業としてあり、ゴミ処理システムが確立されていた。

おわりに
江戸時代の生活システムを振り返ってみると、現代の私たちの生活はいかに無駄に溢れゴミを出さずに資源を有効利用しようという意識がどれだけ欠けているかに気づかされた。"江戸時代と現代は生活システムが違う"と一言で言ってしまえばそれまでであるが、私たちの先祖が何百年もの間慎ましい生活を送り維持してきた日本を、私たちが壊滅的とも言える状況にしてしまっても良いのだろうか。決して、社会の仕組みや技術の発展のせいだけとは言えないと思う。例えどんなに技術が発展し、豊かな生活を手に入れようとも、私たちの地球や環境に対する意識だけは変化してはいけなかった。私たちが今から江戸時代の生活に戻ることはできない。しかし、だからといって現在の状況を"しょうがない"の一言で済ますのではなく、意識だけでも江戸の人々の感覚に戻すべきである。無駄のないように使えるものは徹底的に使う。資源を最大限に有効利用しとうとする努力、豊かな生活を得られることの有難み、私たちが忘れ去ったことを今、江戸を振り返ることで学びとるべきではないだろうか。

 

他のさいコメントとの

2011年 01月07日
1: Tack!@長野県第4区
こうしてみると、「昔はあったのに今ではなくなってしまった職業」というのが随分あるんですね。

自分は壊れた電気製品を直したり、調子の悪いパソコンをメンテナンスするのが好きです。そして友人から、「凄いね!仕事にしちゃえばいいのに!」と言われることがあります。
そう言われると、「この程度のことが仕事になったら苦労しないよ!」といって笑いますが、「壊れたら買い替えた方が安い」ということや「ちょっとした補修をすることが商売にならない」ということが当たり前の現在が、なんだか少し寂しく感じることもありますね・・・。


2011年 01月07日
2: Hisashi
昔に戻ることはできない, 知恵を以て前に進むしかない.
でも, 西洋の度肝を抜いた"最先端の大都市"江戸をはじめ, 昔の日本人に学び, 現代の知恵を融合してそれを最大限に生かすことが必要な時なのかもしれない, そう思います.
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志葉楽(シバラク)
2011年01月08日 
お尻を拭くのはちり紙か落とし紙。
それが無い時は現在何千万円で取引されている
北斎や歌麿の版画だった。
昔は今の金銭に直すと何百円で有った。
外国からコウ言う思想が入るまでは
美術品でも庶民感覚だった。
ミケランジェロなんていくらで絵一枚書いたのかな。
西洋の画家は総て人殺しと取ってきた金で支払っている。
教会建設もソウだった。
他人のモノは私のモノ。
これが白人 キリスト教者の思想。
白人地上主義はここから来ている。
有色人種を見下し足蹴にして。

現在の大半のスポーツのルールは白人有利に作成されている。
オリンピックなどでも白人以外 日本人が優勝したりすると
スグに次の大会までにこちらの不利なルールにしてくる。

モノの考え方が全然違う人種。

ダカラ肥だめの肥は腐敗し易くて肥料に出来た。

当時フランスではクソ道に捨てるモノ。
集めてセーヌ川に流していた。

宮殿や城ではあのスカートの中で垂れ流していた。
衛生観念なんて無かった。
風呂へも余り要らない。

ダカラ臭くてしょうがないから誤魔化しに香水が発展した。


●お江戸の古着屋

2014年08月28日 08時17分43秒 | 色んな情報

●お江戸の古着屋
  「ロハス」という言葉、健康な暮らしと持続可能な社会を心がける暮らし方の総称だそうだ。かつての日本にもそういう時代があった。
 そんな発想から文化の日の十一月三日、東京で「江戸文化歴史検定」が実施される。地域の歴史や文化、自然などについての知識を問う、はやりのご当地検定の一種である。
 ただし、特定の地域ではなく、元禄期を中心に、二百六十五年の長きにわたって続いた太平の世として知られ、庶民の文化が大きく花を咲かせた江戸という時代に絞り、当時の暮らしぶりに焦点を当てるのが特色だ。
 その「江戸検定」の模擬問題から、

 「江戸の町はリサイクル都市だったといわれています。では、享保年間(一七一六-三六年)の江戸の町で、幕府公認の商人が一番多かったのは、何でしょう?」とあって、質屋、古着屋、古道具屋、古鉄屋から答えを選ぶ。

 正解は古着屋。

 


着物は竹馬に載ってやって来る
 物を無駄にしない江戸では、着物も古着が当たり前です。現在も繊維業関連の問屋が並ぶ日本橋富沢町は、古着屋の軒が連なり大きな市も立つ町でした。日常着や各地の名産織物、大名クラスの豪華な着物もここに集まり、また全国へと買われていったのです。なお富沢という名は、鳶沢陣内(とびさわじんない)に由来します。彼は名うての大泥棒でしたが、ついに御用となった時にお上はこれを許します。改心した彼は手下を集め、元吉原のそばで古着買いの商売を始めたのです。そうやって商売をしながら、彼は隠密の務めを果たしていたのだとも言われています。真相はともかく「鳶沢町」は着物の集まる町として発展し、そしてやがて「富沢町」と呼ばれるようになりました。

 江戸を歩きながら、古着を売って回る商人たちもいました。竹で作った馬のような形の物に古着や古布をかけて歩く「竹馬古着売り」が長屋にやって来ると、おかみさんたちがいそいそと出て来て竹馬を取り巻きます。かつては腕に古着をかけて歩いていた商人が、腕が疲れるので竹の馬を使うようになりました。江戸から生まれたこのスタイルは、やがて京都や大坂にも伝わっていきました。

 


江戸庶民は モノを使い切るリサイクルの達人だった
 江戸時代の人はすごいな、と感心してしまうことの一つにリサイクルがある。毎日の生活に欠かせない着物の再利用を例に、驚くべきリサイクルを紹介しよう。

 まず江戸の人は、着物をどこで買っていたのだろうか。新しくあつらえる場合は、「呉服店」や「太物(ふともの)店」で反物を購入する。呉服は絹もの、太物は木綿ものの意味である。既製のものはなく、この反物を自分で仕立てるか、仕立てに出して着ることになる。ちょっとやっかいである。この絵は、太物店(木綿店)の店先の様子、店構えもなかなか立派だ。

 もうお分かりのように、ここまでのお話は、一部のお金持ちの場合である。新調された着物もやがて古くなると、古着の仲買人がやって来て、今度は「古着屋」の店頭に並ぶことになる。この段階からが庶民の登場である。庶民は通常、着物を古着屋で買った。当時、古着は恥ずかしいものでもなく、苦にすることもなかったようだ。

 古着屋は、神田川沿いの柳原土手あたりに軒を連ねてあった。柳原土手は有名な古着屋街で、江戸周辺の人々も買いにやって来たという。その他にも、古着屋街は江戸にはたくさんあった。

 着物の本格的な再利用の旅は、ここから始まる。大人用の着物を古着屋で買ったとすると⇒古くなれば使える部分で子ども用に作り直す⇒次の子どもが生まれたらオシメに⇒オシメがとれたら雑巾に⇒たき付けに⇒灰になったら洗濯に、肥料に……という具合である。もっとも、作り直す際に出る端切れは「端切れ屋」が買ってくれたし、灰も買っていく業者がいた。燃やして灰になってからもまだ使うというのは、究極の再利用である。

 このようなリサイクルが可能だったのは、一個人や家庭の心がけのレベルでなく、江戸の社会の仕組みがそうなっていたからである。

 新しい物がどんどん売れないということは、経済が停滞すると思いがちだが、そうではない。雇用も生まれてくる。壊れた物を修理する職人、不要になった物を買う業者、それを運ぶ人、加工する人、販売する人。そしてまた、それを買う庶民がいた。これが繰り返される。いろいろな仕事や職人を大都市江戸は必要としたのである。江戸に職人が多くいたのもうなずける。

 現代人が、リサイクルとか再利用について考えるとき、江戸時代は数多くのヒントを与えてくれる時代だろう。生活様式がまったく違うから、一概に江戸時代の手法をそのまままもってくることはできないが、学ぶべきところはいっぱいありそうである。


古い布きれも立派な商品である
 洗濯物を干しているわけではない。これは、れっきとした店舗である。いろいろな布を取り揃えてディスプレイし、客を待っているところである。
 この布を「古裂れ(こぎれ)」と呼ぶ。古裂れとは、着物を再利用して仕立て直しをしたときに出る「端切れの布」である。傷んだ着物の使える部分を切り取ったものもあり、主に継ぎあて用に使われた。江戸の再生・再利用の経済は、「古裂れ屋」「端切れ屋」と呼ばれる商売を誕生させた。彼らは「古裂れ掛け」を担いで町を売り歩いた。布がとても貴重であったことが分かる。
 写真に向かって右側に吊してある古裂れに注目してみよう。欄外にも示したように、これは有名な江戸の文様だ。小さなことにこだわらない心意気「構わぬ」を「鎌わぬ」と洒落てデザインしている。継ぎ接ぎ(つぎはぎ)の古着を想像すると、貧乏くさい気もするが、こんなところにも江戸っ子らしさが出ていて面白い。

 


http://blog.goo.ne.jp/hardworkisfun/e/8f15becc5e92a7c3b7e7ebc15b1891aa
江戸の古着屋


古着屋総兵衛影始末(ふるぎやそうべえ かげしまつ)は、徳間文庫から書き下ろしで刊行されている佐伯泰英の時代小説シリーズ。

第11巻の最後で「第一部 了」とされており、現在は新刊は発行されていない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E7%9D%80%E5%B1%8B%E7%B7%8F%E5%85%B5%E8%A1%9B%E5%BD%B1%E5%A7%8B%E6%9C%AB

 概要
この小説は、徳川家康から影旗本として密かに徳川家を護持する事を命じられた鳶沢一族と時の権力者・柳沢吉保との暗闘が物語の主軸となっている。

富沢町の古着屋を、「武」と「商」に生きる鳶沢一族として描くこの物語の着想は、三田村鳶魚の『江戸語彙』にある「鳶沢某なる夜盗が家康に許されて鳶沢町を造ることを許され、古着商いの権利を得た」という、短い記述から得られた物だということである(1巻『死闘!』・11巻『帰還!』あとがき)。リサイクル都市であった江戸の古着の流通に携わった者たちは、かつては『水滸伝』に登場するような英雄豪傑であり、そんな武士(もののふ)が商人(あきんど)に変わった言い伝えを物語に発展できないかというのが、この作品を書く発端であったとしている(1巻『死闘!』あとがき)。

この『古着屋総兵衛影始末』が第11巻『帰還!』で第一部終了となったのは、シリーズを通しての宿敵である柳沢吉保の失脚が最大の原因であると書かれている。『帰還!』のあとがきは、構想を練って再び読者にお目にかかれる日が訪れることを切望している旨が語られて終わっている。

あらすじ
慶長8年(1603年)、徳川家康が造営に着手した江戸の町は、戦国の気風を残し、町に入り込んだ浪人や無頼の徒により無法の地となっていた。毒をもって毒を制すべく、家康と側近の本多正純は、江戸を荒らす盗賊の中で西国浪人鳶沢成元(とびさわなるもと)を捕えて、命を助ける代わりに無法者達を一掃させた。そして江戸の町に古着屋を開き、それを隠れ蓑に徳川家の密偵として情報収集をするよう命じた。

元和2年(1616年)、死の床にあった家康は、鳶沢成元を呼び出し、自分が葬られる久能山に所領を与え、その隠れ里の分家と共に、徳川家危急の折に働く隠れ旗本となる事を命じた。

家康の死から85年後の元禄14年(1701年)、江戸城中松之廊下で刃傷事件が発生した年からこの物語の本編は始まる。鳶沢成元が富沢町に開いた古着屋・大黒屋は、6代目の鳶沢勝頼が主人となっていた。大黒屋が影旗本として暗躍している事を知り、また古着屋としての大黒屋に集まる金と情報に目をつけた柳沢吉保が、その力を己の物とすべく、鳶沢一族に攻撃を仕掛けてきた。家康との密約を守るため、影旗本としての矜持を賭けた大黒屋総兵衛勝頼の戦いが繰り広げられる。


たまには時代小説も読むのも一考でないかな。

 


●御朱印船(ごしゅいんせん)

2014年08月28日 08時12分00秒 | 色んな情報

>●御朱印船(ごしゅいんせん)
徳川将軍家が発行した朱印状(海外渡航許可証)を携帯し,貿易に従事した商船。朱印状は室町時代の琉球貿易船にも下付(かふ) されたが,この制度を完備したのは徳川家康。
朱印状を携帯する日本船は当時日本と外交関係があったポルトガル、オランダ船や東南アジア諸国の支配者の保護を受けることができた。

南北朝時代や戦国時代には九州・瀬戸内海方面の武士や海賊が中国、朝鮮沿岸を荒らしまわり、倭寇と恐れられた。16世紀後半になるとポルトガル船が日本に来航するようになって海外への関心が高まり、東南アジア方面にまで進出する日本人も現れた。天下統一を達成した豊臣秀吉は日本人の海外交易を統制し、倭寇を禁圧する必要から、1592年に初めて朱印状を発行してマニラ、アユタヤ、パタニになどに派遣したとされるが、この時のことはあまり資料がない。

朱印船制度の創設 [編集]

朱印船(寛永年間)関ヶ原の戦いに勝利して覇権を確立した徳川家康は海外交易に熱心な人物で、1600年豊後の海岸に漂着したオランダ船の航海士ウィリアム・アダムスらを外交顧問として採用したほどである。1601年以降、安南、スペイン領マニラ、カンボジア、シャム、パタニなどの東南アジア諸国に使者を派遣して外交関係を樹立し、 1604年に朱印船制度を実施した。これ以後、1635年まで350隻以上の日本船が朱印状を得て海外に渡航した。朱印船は必ず長崎から出航し、帰港するのも長崎であった。なお、明帝国は日本船の来航を禁止していたので、中国は(ポルトガル居留地マカオを除けば)朱印船渡航先とはならず、朝鮮との交易も対馬藩に一任されていたので、朱印状は発行されなかった。

朱印船渡航先 [編集]

復元朱印船模型 1/10スケール安南 当時北ベトナムを領有していた黎氏を擁立するハノイの鄭氏政権である。東京(トンキン)ともいう。
交趾 当時実質的に中部ベトナムを領有していたフエの阮氏政権である。広南国ともいう。その交易港はホイアン(会安)及びダナンであった。
占城 ベトナムによって南ベトナムの一隅に押し込められていたチャンパ王国である。
暹羅 タイのアユタヤ王朝である。アユタヤには大きな日本人町が形成され、山田長政が活躍する。アユタヤからも交易船が長崎に来た。
柬埔寨 メコン河流域のプノンペンを首府とするカンボジア王国である。
太泥 マレー半島中部東海岸のマレー系パタニ王国である。当時は女王が支配し、南シナ海交易の要港であった。
呂宋 スペインの植民地ルソン島である。首府マニラが新大陸とのガレオン貿易の要港で、中国船の来航も多かった。
高砂 当時ゼーランディア城を拠点にオランダ人が支配していた台湾である。台湾も中国商船との出会いの場であった。
いずれも赤道以北に限られていた。渡航先集計によると交趾(73回)で最も多く、暹羅(55回)、呂宋(54回)、安南(47回)と続く。

朱印船貿易家 [編集]
商人:最も数が多く、記録に残る限り65名、さらに婦人2名、琉球出身者1名を数える。代表的な人物は京都の豪商である角倉了以、茶屋四郎次郎、大坂の末吉孫左衛門、長崎の末次平蔵らである。
大名:九州(亀井のみ山陰)の大名ら10名を数える。島津忠恒、松浦鎮信、有馬晴信、細川忠興、鍋島勝茂、加藤清正、亀井茲矩、五島玄雅、竹中重利、松倉重政らである。
武士:長崎の村山等安や堺の今井宗薫、大坂と平戸の武士4名にも朱印状が与えられている。
明人:日本在留の明国商人11名にも朱印状が発行された。明は中国人の日本渡航を禁止しており、これら中国人は密貿易で渡来し、在住する者であった。著名な者としては福建の海賊・李旦がいる。
欧州人:ウィリアム・アダムス、ヤン・ヨーステンら日本在住のオランダ人、イングランド人、ポルトガル人12名にも発行された。
朱印船乗組員 [編集]
朱印船に乗り組むのは船長以下、按針航海士、客商、一般乗組員らであるが、とりわけ航海士には中国人、ポルトガル人、スペイン人、オランダ人、イギリス人が任命されることが多く、一般乗組員にも外国人が入った。もちろん日本人もいた。

交易品目 [編集]
東南アジア諸港へ赴く朱印船の多くは意外なことに中国産の生糸や絹の輸入が目的であった。日本でも絹は古代から産出したが、中国産に比べると品質が悪く、太平の世の到来で高級衣料である中国絹に対する需要が増大したためである。他方、かって倭寇に苦しんだ明は日本船の中国入港を禁止しており、朝鮮の役で敵対国となってからはなおさらであった。明は中国商船の日本渡航も禁止していたが、これは徹底せず、密かに来航する中国船もあったが、十分な量ではなかった。このため明国官憲の監視が及ばず、中国商船は合法的に来航できる東南アジア諸港で日本船との出会い貿易が行われたのである。中国製品以外にも武具に使用される鮫皮や鹿皮、砂糖など東南アジア産品の輸入も行われた。

見返りとして、日本からは銀、銅、銅銭、硫黄、刀などの工芸品が輸出された。当時中国では銀が不足していたため、朱印船の主要な交易相手である中国商人は銀を欲した。しかも当時、日本では石見銀山などで銀が盛産されており、決済手段として最も適していた。ベトナムなどには日本の銅銭も輸出された。

朱印船に使われた船 [編集]
朱印船として用いられた船は、初期には中国式のジャンクが多数であった。後には末次平蔵の末次船や荒木宗太郎の荒木船に代表されるジャンクにガレオンの技術やデザインを融合させた独自の帆船が登場し、各地で製造され運用されることとなる。

それらの船のサイズは大抵500~750tであり、乗組員はおおよそ200人であった(人数が判明している15隻の平均人数は236人である)。また、東南アジア貿易が盛んであった時には、木材の品質もよく造船技術も優れていたシャムのアユタヤで大量の船が注文・購入された。

朱印船貿易の終末 [編集]
江戸幕府の鎖国政策の進展により、幕府公認の朱印船の海外渡航すら難しくなり、1633年老中奉書船以外の海外渡航や帰国を禁止する第1次鎖国令が発令され、1635年にはすべての日本人の海外渡航と帰国を禁止する第3次鎖国令が発令されて朱印船貿易は終末を迎えた。この措置によって東南アジアで朱印船と競合することが多かったオランダ東インド会社が莫大な利益を得、結局は欧州諸国としては唯一、出島貿易を独占することになる。

 

か‐ふ 【下付】

[名](スル)金品・書類などを役所から下げ渡すこと。「証明書を―する」「―金」

ズイブン昔から有ったようで昔はルールを簡潔に用意していたモノ。


研究社 新和英中辞典
ごしゅいんせん 御朱印船
【日本史】 a trading ship [vessel] authorized by the shogunate.

JMdict
御朱印船
読み方:ごしゅいんせん
ご朱印船 とも書く
(名詞) shogun-authorized trading vessel (authorised)


ガレオン船(Galleon)とは、16世紀半ば~18世紀ごろの帆船の一種である。単にガレオン・ガリオン・ガリアンなどとも表記される。戦列艦の原型にもなった。

カラックから発展した船形で、カラックに比べて幅と全長の比が1:4と長く、吃水が浅いためより速度が出るが同時に転覆もしやすくなった。カラックより小さめの船首楼と大きい1~2層の船尾楼を持ち、4~5本の帆柱を備え、1列か2列の砲列があった。

速度も出て積載量も多く、また砲撃戦にも適したガレオン船は西欧各国でこぞって軍艦・大型商船として運用され、スペインはこれを大型化して新大陸の植民地の富を本国に護送するために使った。フランシス・ドレイクが世界一周に使用したゴールデン・ハインド号などは有名なガレオン船である。

1613年に仙台石巻で建造され、ローマ教皇のもとに遣わされたルイス・ソテロおよび支倉常長以下の使節団を太平洋を横断してメキシコ, アカプルコへ送りとどけ、同使節団の帰途にもメキシコから日本へ連れ帰ったサン・フアン・バウティスタ号は日本で最初に建造された西洋式の大型帆船でありガレオン船であるとされているが、マニラからアカプルコへ向けての航行中に台風に遭い、房総の御宿海岸で遭難し地元民に救出されたフィリピン総督ドン・ロドリゴが、その後帰還する際使用したサン・ブエナ・ベントゥーラ号もウィリアム・アダムスによって作られている。

 

 

英語にするとドウイウ言葉を並べてあるのかは判らないけれども凄くややこしそうだ。
一年の一学期もマトモニ卒業出来ていないモノにはサッパリ。
デモこれだけの余分なモノ付けないと伝わらないのでは外人さんとなすのは大変だ。
色んなモノの繋がりの先にこの船が出来てきている。
歴史は紐解いて見ないと何がどうなっているのか判らない楽しみがある。
今 権力握ってタイル人達がこの先 地球が日本が存続していたらどのような感じで見られ扱われるのか。
縄文の流れの中の一コマには過ぎないけれど。
人生 楽しんで生きないと罰が当たる。
又 年寄りのグチがこぼれる


●ありがとう  ●ございます   ドウイウ意味かな

2014年08月28日 07時57分30秒 | 色んな情報

●ありがとう  ●ございます   ドウイウ意味かな
●ありがとう
ありがとうとは、日本語で感謝を表す時に用いられる挨拶である。

ありがとうの語源は、形容詞「有り難し(ありがたし)」の連用形「有り難く」がウ音便化したものである。「有り難し」とは、本来「有ること」が「難い(かたい)」、すなわち「滅多にない」や「珍しくて貴重だ」という意味であった。『枕草子』の「ありがたきもの」では、「この世にあるのが難しい」という意味、つまり「過ごしにくい」といった意味でも用いられている。

●中世になり、仏の慈悲など貴重で得難いものを自分は得ているというところから、宗教的な感謝の気持ちをいうようになり、近世以降、感謝の意味として一般にも広がった。感謝の意を直接に述べず、仏教用語である婉曲的な表現が日本語の感謝の意味を表す語になっているのは、他の言語と比較しても非常に面白い。
●しかし感謝の意を表す言葉は方言などを含め多岐に及んでおり、「ありがとう」が日本全国で感謝の意味を持つ筆頭単語として使われだしたのは最近のことである。

●ポルトガル語の「オブリガード(obrigado)」が語源であるという俗説があるが、ポルトガル人が訪れる以前から使われていた言葉がポルトガル語に由来するはずはなく、「オブリガード」と「ありがとう」の音が近いというだけのジョークである。

 

●ございます 

 基本語は「ござる」という尊敬語です。それに「ます」を加えた「ござります」が生まれ、とても敬意の高い尊敬語として相手の動作に使われていました。

 殿がござりました (来るの尊敬語)
 座敷へござりませ (行くの尊敬語)

 「ございます」は「ござります」が変化して生まれた語です。江戸時代の終わり頃から使われ始めているようです。よくよく調べてみると、「ござる」→「ござります」→「ございます」というように、だんだん変化したという単純な流れではないようです。「ござる」は尊敬、「ござります」はとても強い丁寧な尊敬で、「ございます」はくだけた表現というように、使い分けられているのが用例からうかがえます。整理すると、それぞれの表現は似ていますが、別の言葉としてきちんと使い分けられていたことがわかります。

●ござる 「御座ある」が変化したもの。「ある」「いる」「行く」「来る」の尊敬語。ほかにも、空腹になる、夢中になる、恋をする、腐る、変化する、だめになる・・など多数の意味に用いられていたり、「身どもは京の者でござるか」などのように丁寧語としても用いられた。
●ござります 「ござる」+「ます」で、とても高い敬意を表す。「それは誠でござりますか」などの表現は、「ござる」を使う人よりも身分や地位の高い人にしか使わなかった。
●ござり申す 「ござる」+「申す」で、特に敬意を高めるのではなく、丁寧さを前面に出した表現。自分側に使うことも多かった。
●ございます 「ござります」から生まれたが、敬意はずっと低く、ちょっとした丁寧語としてだけ使われていた。さらに省略して単に「ござい。」と使うことも多かった。

 さらに時代が進んで「です」が使われるようになると、「ございます」は古風に感じられるようになり、口語ではあまりつかわれない表現になりました。しかし、「です」が広く普及するにしたがって「です」はだんだんあたりまえになって敬意が感じられなくなってきた。そこで、「”です”をさらに丁寧にした表現」ということで「~でございます」が新しい丁寧表現の代表として再び広まりました。「特別丁寧体」や「御丁寧体」として特別扱いする学者も多くいます。このように、ちょっと込み入った経緯がある言葉ですので、尊敬か、謙譲か、丁寧か、正しいのか間違っているのかわかりにくいのです。単純にまとめてしまうと次のようになります。

   「ござる」「ござります」「ござり申す」「ございます」はそれぞれ発生の時期が違うが、別々の役割のある言葉として使われていた。昭和になって男性的、古めかしい表現だとしてだんだん使われなくなったが、「です」の敬意がなくなるにつれ、さらに丁寧な表現として「~でございます」が普及しはじめた。
 一方で、やはり古風に感じられる表現であるということと、相手の動作に使うにははっきりとした尊敬の意を表した方がいいという流れの中で、丁寧と尊敬が混在している「ございます」より、明確な尊敬語である「~でいらっしゃる」という表現が少しずつ普及し、置きかえられつつある。


困ったときには「ございます」の部分を、基本形に置き直してみるとわかりやすいと思います。

  1.なんでもございません。 (なんでもありません)
  2.私は中澤でございます。 (中澤です)
  3.あちらのテーブルにございます。 (テーブルにあります)
  4.村上様はあちらのテーブルでございます。 (テーブルです)
  5.2階でございます。 (2階です)
  6.書いてございます。 (書いてあります)
  7.その商品はございます。 (商品はあります)

どんな言葉に続いているかという別の視点から表現をみると

  A.~でもございません。 (ありません)
  B.~にございます。 (あります)
  C.~はございます。 (あります)
  D.~でございます。 (です)

となり、A.B.C.は尊敬語としての用法で、Dの「~でございます」だけは、前に続く語には関係なく丁寧語としての表現なのだとわかります。


語源というのは、はっきりしないことが多くてどこか怪しげ・・・だからこそ、おもしろい
語源説が「正しいか間違っているか」にはあまりこだわらずに
「言葉の成り立ちに関心をもって楽しむ」ことを目的にして
語源を探ってみることは楽しいよ
http://www3.kcn.ne.jp/~jarry/


●遊び(あそび)とは

2014年08月28日 07時51分14秒 | 色んな情報

●遊び(あそび)とは
遊び(あそび)とは、楽しむ、娯楽、休養、リラックス、ストレス解消などの目的で生物がする行動の総称。普通は生命活動を維持するのに直接必要な食事・睡眠や、自ら望んで行われない労働などは含まれない。なお、遊興(ゆうきょう)とも称される。

ほとんどの高度な知性を持った動物には、主に成熟前に遊びが見られる。これは生物が生きていく上で必要な体力、知識、経験などを自然に得るために備わった性質だと考えられる。動物は遊びの中で狩りやコミュニケーションの方法を学んでゆく。ヒトは成熟後も遊びを行なうのが一般的である一方、ヒト以外の動物は成熟するとあまり遊ばなくなるが、ペット化(家畜化)された犬や猫などの動物は成熟後も遊びたがる傾向があるようであり、野生動物でもカラスには、成熟した個体に遊びと思われる行動が見られる。

本項では主に人間(社会にあるヒト)の遊びに対して説明するが、遊びは様々な局面において人間性と関連付けて扱われる傾向も見られる。

人間の遊び
他の高度な知性を持った動物に比べ、人間(ヒト)は特に遊びが多様化、複雑化しており、成熟後も遊びを多く行ない、生きていく上ではまったく不要と思われるような行動も多く見受けられる。これを他の生物との区別と捉える考えがある。遊びは大きな文化として確立しており、また商品の売り手にとっても市場を左右する要因としても重要である。個人の日常化した遊びを特に趣味と呼ぶ。遊びは個人の性質に大きく左右されるので、全ての人間に共通して楽しまれる遊びはない。

人間は他人から強制されて勉強や訓練されるのは苦痛だが、遊びの中で習得していくことは楽しい。そのため、遊びながら学習する方法がとられることがある。

オランダの歴史家ホイジンガ(ハイツィンハ)は著書『ホモ・ルーデンス』で、子どもの遊びだけでなく、企業活動、議論、戦争、人の活動のあらゆる局面に遊びのようなルールと開始と終わりのあるゲーム的性格が見られると指摘しており、「人は遊ぶ存在である」という所説が評判を呼んだ。フリードリッヒ・シラーも、「人は遊びの中で完全に人である」という有名な言葉を著書『人間の美的教育について』において残している。

 


遊びの種類
遊びは非常に多岐にわたっており、適当に分類することは難しい。遊びには自然発生的に形成され、世代や地域ごとに伝えられていくものと、パッケージ化・商品化して提供されるものがある。パッケージ化されたものは人間の創造力の成長を阻害するとして、批判の対象にされることもある一方で、広大で多様な市場を形成しており、いわゆる玩具など遊びに用いる器具は、素朴なものから複雑で最新の技術を導入したものまで、様々な物品が流通している。また、この玩具と遊びを通して教育や能力開発を行おうという考え方もあり、知育玩具のように遊びを通して成長を促そうという分野も存在する。

フランスの思想家、ロジェ・カイヨワはホイジンガの著書「ホモ・ルーデンス」に影響を受け、「遊びと人間」を執筆した。その中でカイヨワは遊びを次の4つ要素に分類している。

アゴン(競争):運動や格闘技、子供のかけっこ
アレア(偶然):くじ(宝くじなど)、じゃんけん、ギャンブル(競馬など)
ミミクリ(模倣):演劇、物真似、ごっこ遊び(ままごとなど)
イリンクス(めまい):メリーゴーランド、ブランコ


昔の遊び
http://www2.ocn.ne.jp/~happyman/

遊び
http://www1.cts.ne.jp/~amaenbou/asobi.htm

遊びのデータバンク
http://www.kodomo-next.jp/plays/category

仲間あそび大図鑑
http://www.children.ne.jp/%E4%BB%B2%E9%96%93%E3%81%82%E3%81%9D%E3%81%B3%E5%A4%A7%E5%9B%B3%E9%91%91/

遊びを通して人は成長する。
機械のゲームでは何が欠落するのかな。


●私は昔 映画少年であった

2014年08月28日 07時38分12秒 | 色んな情報

●私は昔 映画少年であった
実家が食堂していて交差点の角家で玄関は大通りに面していて
細い道に面した壁に映画の宣伝ポスターが大きく貼られていた。
一週間に一度 町に三つ有った映画館の看板を張り替えに来ていた。
その時に映画のタダ券を何枚か置いていく。
客にやったりしたけど祖母が大好きで私を連れて行くために何枚か残しておいた様だ。
結構高い料金なので貧乏だったので普通はいけないけど私は行くことが出来た。

赤胴鈴の助 笛吹童子 月光仮面 鞍馬天狗
洋画も見ていたように思う。
今のように娯楽で選択肢はほとんど無い時代で後は新聞くらいかな。

夏はよく夜暑いので夕涼みがてら隣町まで歩いて散歩。
家の前に床机(しょうぎ)長いすのことで縁台とも言った。
この上に将棋盤が置かれていてよく将棋の相手をして貰ったモノ。
へボ将棋と言って上手くもないのに大好きだった。
いつも負けてばかりで最後には泣いて帰ることもシバシバだった。、

『赤胴鈴之助』(あかどうすずのすけ)は、福井英一と武内つなよしによる漫画で、ラジオドラマ化や映画化、アニメ化もされた。

『笛吹童子』(ふえふきどうじ)は、北村寿夫原作の新諸国物語の1作として書かれた小説。

1953年にNHKラジオでラジオドラマが放送され、以降、何度か映画化やテレビドラマ化された。

『月光仮面』(げっこうかめん)は、KRテレビ(現TBSテレビ)と宣弘社が制作し、『タケダアワー』第一作として1958年(昭和33年)2月24日から1959年(昭和34年)7月5日まで放映された、同名のスーパーヒーローを主人公とするテレビ冒険活劇番組。日本初のフィルム製作による国産連続テレビ映画である。川内康範原作。

『鞍馬天狗 』(くらまてんぐ)(小説) - 大佛次郎原作の時代小説の題名。またその主人公の通称。上記2者のイメージによってつけられた。映画化、テレビドラマ化もされている。


私にとっては今で言うヒーローであった。
月光仮面では風呂敷を家から持ち出して頭巾のように被りバイクに乗っているマネをしてその辺を駆け回って追いかけっこをしていた。
http://www.youtube.com/results?search_query=%E6%9C%88%E5%85%89%E4%BB%AE%E9%9D%A2&aq=f

 

鞍馬天狗もホッカムリして腰に母のオビの腰紐巻くかバンドをして棒を突き刺して馬にまたがり駆け回る感じでやはり追いかけっこをしたモノ。
http://www.youtube.com/results?search_query=%E9%9E%8D%E9%A6%AC%E5%A4%A9%E7%8B%97&aq=f


赤胴鈴之助は簾藤の胴衣を主人公は来ているのだけど何かで作りそのような感じで身につけてチャンバラをしたモノ。
http://www.youtube.com/results?search_query=%E8%B5%A4%E8%83%B4%E9%88%B4%E4%B9%8B%E5%8A%A9+&aq=f


笛吹童子はどうしていたのかハッキリしない。
横笛の名人のような子供が主人公だったかな。
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/fuefukidouji.html
ここに主題歌がある。
http://video.search.yahoo.co.jp/search?st=&s=dateold&p=%E7%AC%9B%E5%90%B9%E7%AB%A5%E5%AD%90&dr=&pd=&vt=&vaop=&ei=UTF-8  動画はここ。
久しぶりに聞いて懐かしくなった。
ヒャラリヒャラリコ ヒャリコヒャラレロ
誰が吹くのか ふしぎな笛だ
ヒャラリヒャラリコ ヒャリコヒャラレロ
音も静かに 魔法の笛だ
ヒャラリヒャラリコ ヒャリコヒャラレロ
タンタンタンタン タンタンタンタン
野こえ 山こえ


時代劇モノが多かった時代。
怪傑ハリマオ エイトマン 狼少年ケン などに繋がり 鉄人28号 鉄腕アトムなどに繋がっていく。
この先にウルトラマンやマジンガーなどの現代のモノに繋がっているのかな。
宇宙戦艦ヤマトのようなモノもこの道の先にあるのかな。
専門家ではないのでその中の事は誰かに解説して貰わないとだめ。


今の子供たちは余りゆめが持てて居ないように思える。
漫画でもアニメでも映画でも私たちの時はそこから色んな妄想が生まれてきたけれども今は作者のイメージそのまましか受け取れて居ないように思える。
想像力が発達し難い世の中なのかな。