縄文人の反乱 日本を大事に

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・文化や歴史の継承

2014年08月24日 18時59分19秒 | 色んな情報

・文化や歴史の継承
【源氏物語について】で
紫さんのコメントで
この時代の定家をはじめ家隆や西行、その他の人達が和歌や古典文学を残してくれていなければ後の江戸時代の国学研究にももしかしたら繋がらなかったかも知れない、現代にも残っていなかったかもしれないと思うと感慨深いです。
と書かれているように色んな時代で我々の先祖が苦労して縦糸を繕い横糸を通してくれた
人たちのおかげで今の文化や歴史がある。

和歌から始まったモノが短歌や俳句として形を変えながら又現代につなげている。
自由律というモノがある。


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俳句
明治後期、河東碧梧桐が新傾向俳句を創作したことに始まる。明治44年(1911年)に荻原井泉水が俳誌『層雲』を主宰し確立された。当初、碧梧桐も層雲に加わっていたがのち離脱した。

大正時代になると自由律俳句を代表する俳人として『層雲』より尾崎放哉、種田山頭火が登場する。一方、層雲を離脱した碧梧桐は大正4年(1915年)、俳誌『海紅』を主宰。中塚一碧楼がこれを継ぎ自由律俳句のもう一つの柱となった。尚、この一碧楼が自由律俳句の創始者とする見方もある。しかしながら、自由律俳句は放哉、山頭火の活躍した1920年代以降衰退している。

昭和初年から興ったプロレタリア俳句運動では、栗林一石路などが、自由律俳句の可能性も追求した。その流れは、戦後発足した新俳句人連盟に参加する俳人のなかにも受け継がれ至る。

1970年代あたりから、山頭火がクローズアップされ自由律俳句の再評価がなされている。1980年代に、放哉に影響を受けた夭折の俳人住宅顕信が登場した。

 


短歌
大正13年(1924年)に、石原純の発表した歌が、歌壇において注目を集めた自由律の最初であろう。石原純は、その後、自由律短歌論を展開。やがて、この名称を定着させた。石原の自由律短歌は旧来の文語体ではなく口語体を採用していたため、自由律短歌はそのまま口語短歌運動と結び付き、口語自由律短歌として発展してゆく。

昭和時代になると、金子薫園、土岐善麿、前田夕暮も参加し、口語自由律短歌は興隆期を迎える。特に、前田夕暮は、主宰する結社全誌をあげて自由律を提唱し、自由律短歌集を次々と刊行して、口語自由律短歌の代表作を残した。

しかし、昭和10年代半ばには、全員、定型歌に復帰している。

昭和末期、ライトヴァース短歌と呼ばれた、加藤治郎、荻原裕幸、穂村弘らが発表した、記号短歌や、散文に近い、字余り・字足らずの多い短歌群は、昭和初期の口語自由律に通じるものとも言えよう。
ウィキペディアより
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明治後期より始まったこの流れの中で尾崎放哉や種田山頭火などが出てきて自由律俳句を生み出した。

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自由律俳句(じゆうりつはいく)とは、五七五の定型俳句や五七五七七の定型短歌に対し、音数にとらわれない主張、またはその作品をいう。

俳句では季語にも縛られず、心の動きをそのまま自由に、かつ自然に表現するとする主張もあるが、通常は一句一律、内容に即した律を持つという主張である。これを内在律ともいう。 文語や「~たり」「~けり」「~かな」などの古典的な言葉遣いを避け、現代口語で表現するということも特徴の一つである。
ウィキペディアより
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現代では当たり前に使われる技法である。


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尾崎放哉代表句

放哉句碑(鳥取市興禅寺)有名な句を以下に挙げる。

咳をしても一人
墓のうらに廻る
足のうら洗えば白くなる
肉がやせてくる太い骨である
いれものがない両手でうける
考えごとをしている田螺が歩いている
こんなよい月を一人で見て寝る
一人の道が暮れて来た
春の山のうしろから烟が出だした(辞世)
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山頭火 代表句
酔うてこほろぎと寝ていたよ
鴉啼いてわたしも一人
鈴をふりふりお四国の土になるべく
霧島は霧にかくれて赤とんぼ
まつすぐな道でさみしい
また見ることもない山が遠ざかる
分け入つても分け入つても青い山
鉄鉢の中へも霰
生死の中の雪ふりしきる
おちついて死ねそうな草萌ゆる
(出典「草木塔」「俳句検索」)
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私の大好きな句で【分け入つても分け入つても青い山】
この句は見る度に読む度に悠久の世界に引き込まれていく。
最所に知ったときはすごい衝撃であった。
俳句もまともに詠めない男なのにこの句にだけは感じるモノが胸に迫る思いがした。

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山頭火
http://www.youtube.com/watch?v=RX00Xp4ZZNQ&feature=player_embedded

饂飩供えて
http://www.youtube.com/watch?v=jmiZRy6K7j0&feature=related

種田 山頭火(たねだ さんとうか、1882年(明治15年)12月3日 - 1940年(昭和15年)10月11日)は、戦前日本の俳人。よく山頭火と呼ばれる。自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人。1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝(こうほ)と改名。本名・種田正一。

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フォト俳句「尾崎放哉」 工房ムーンライト
http://www.youtube.com/watch?v=tf4PmCEyYqg
水城ゆう「He Never Sleeps」〜尾崎放哉自由句/朗読:野々宮卯妙
http://www.youtube.com/watch?v=P2-C_OzGfls

尾崎 放哉(おざき ほうさい、本名: 尾崎 秀雄(おざき ひでお)、1885年(明治18年)1月20日 - 1926年(大正15年)4月7日)は、日本の俳人。種田山頭火らとならぶ自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人。

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その時代時代に併せて変えてきたのが日本の文化であり歴史であった。


日本人が外国に何をして来たか

2014年08月24日 18時40分15秒 | 色んな情報

日本人が外国に何をして来たか
反日教育で日本人は戦後 自虐的になった。
明治維新前にも数多くあったが明治維新後も日本の近海で遭難した外国人を救っている。
それにより相手国との友情も生まれている。
国旗の重みシリーズでは ODAなどにより他国にした恩返しなどの話しもある。
大東亜戦争の後は東南アジアの国々からは感謝されている。
別にしたことで恩を着せろと教える必要はないけれどもこれから日本を出て行く人も沢山いる。
当事国へも沢山出て行くモノと思う。
そのときに相手から貴方の国には助けて貰いありがとうと言われても知らないでは話にもならない。
出来るだけそう言うことは調べて覚えておくと自分も得だし相手にも失礼にならないのでは無いかな。
それに知らないとなれば相手の信用もなくなる。
知っておいて損するモノでもないので ここに書いた以上の事も自分なりに調べて見るのも良いのではないかな。
これから生きていくためのカテにもなるモノだと思う。
日本人が外国に何をして来たかを。

 

 

決して恩を忘れないトルコ【テヘランの日本人を救ったトルコ】
http://www.youtube.com/watch?v=Su4vFIkana4&feature=player_embedded
1/3 【アタチュルク像】 忘れてはならない日本・トルコの絆 [桜 H21/2/25]
http://www.youtube.com/watch?v=85DmfC8m0aw&feature=related
2/3 【アタチュルク像】 忘れてはならない日本・トルコの絆 [桜 H21/2/25]
http://www.youtube.com/watch?v=VW47s8Xa3QQ&feature=relmfu
3/3 【アタチュルク像】 忘れてはならない日本・トルコの絆 [桜 H21/2/25]
http://www.youtube.com/watch?v=6r5SMdFdAoU&feature=fvwrel
国旗の重みシリーズ
http://www.youtube.com/results?search_query=%E5%9B%BD%E6%97%97%E3%81%AE%E9%87%8D%E3%81%BF%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA&aq=1
ユダヤ人と日本人
http://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%BA%BA%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA&aq=f


●江戸時代の生活彷彿 自然と生命の根源に目を

2014年08月24日 18時27分35秒 | 色んな情報

●江戸時代の生活彷彿 自然と生命の根源に目を
  http://urx.nu/bi1f
  一ノ瀬 綾
女流作家 第12回農民文学賞、第16回田村俊子賞を受賞、著書「春の終り」「黄の花」「遠い朝」「独り暮らし」「それぞれの

一ノ瀬 綾のブログより転載

◆ 最近は江戸ブームだという。そのせいではあるまいが、私の住む江東区にも「深川江戸資料館」が誕生した。オープンしたのは去年(1986年)の十一月だが、予想以上の人気らしい。テレビで紹介されたそうだが私は見なかった。江戸ブームというのが、懐古趣味めいていて抵抗があり、ブームに乗せられたくない思いから無関心でいた。

◆ ところが先日、あるきっかけから入館する機会があり、一度で資料館の虜になってしまった。自宅から歩いても行ける近さから、数日後にはまた出かけてゆっくり見直してきた。江戸ブームはともかく、「深川江戸資料館」になぜ人が惹かれるのか、それを考えるだけでも面白い。

◆ この資料館のユニークさは、「情景再現・生活再現展示」という新しい展示技術を駆使した点にあるようだ。入館者は一歩踏み込んだ途端、百五十年前の江戸の下町に放り出された気分になる。地下一階から地上二階、三層にわたる高い吹き抜けの大空間に再現された町は、深川佐賀町下之橋の橋際を、沽券図によって構成復元したものという。

◆ 時代は天保の終わりごろで、建物は、建てられてから三十五年ぐらいの古びたもの。大川の水を引いた掘割には猪牙船が浮かび、堀端には船宿、脇の広場には火の見櫓がそびえ、足下の広場には水茶屋がある。

◆ 大通りには白壁の土蔵やお店、米屋や八百屋が軒を接し、小路を入ればドブ板をはさんで割り長屋が並んでいる。どの家にも当時の家具調度が配されていて、見学者は手に取るように眺められるのが人気の所以とか。

◆ 「ああ、この桶、流し、へっつい・・・懐かしいねえ・・・付け木や火吹き竹もあるよ」

◆ 溜息をつくのは五十代以上の年配者たちである。子供や若者にとっては、映画やテレビの世界だろうが、みんな熱心に覗きこんでいる。タイプ別の長屋には、それぞれ職人や船頭、三味線の師匠などが住んでいて、部屋に佇んでいると、彼らの話し声が聞こえるようだ。すすけた壁や釘に吊した半てん、竹行李や枕びょうぶ。土間の水ガメ、七輪に火消しツボ・・・。大方の家具や勝手道具には、見なれた懐かしさがわく。

◆ じっと見ていると、百五十年前ではなく、私の育った戦前の農家の生活が彷彿としてきて、胸が熱くなる。昭和十年代の山村は、まだ江戸時代の続きだったのかと改めて考えさせられた。思えば私たち日本人は、戦後の四十余年間、そこからの脱出を目指して、必死で働いてきたわけである。そして現在の物があふれ返る飽食の時代を招き寄せた。

◆ 悔いのないはずなのに、現代の日常は先が見えなくて、不安で虚しい。人間の心は荒れ、拝金主義が社会を蝕んでいく。この資料館に佇んでいると、不思議な人肌の温もりと安らぎが戻って来るのはなぜだろう。

◆ 二度目に行って気がついた。ここにはプラスチックに代表される合成物質が無いのだった。当然のことに人間が管理するコンピューターも無い。建物や道具はみんな自然の産物である。鉄材や木、竹や動植物の皮や繊維は、寿命がくれば壊れて朽ちる。燃えても毒ガスの出る心配はない。生きものの営みと同じに、消滅と再生をくり返すところに、人間は救いと安らぎを覚えるのではないだろうか。ある生物学者の説によれば、現在のバイオテクノロジーの粋を集めても、大腸菌一匹作れないのだと言う。生命の生かされる自然の仕組みは不思議に満ちている。

◆ 大地にものを育てる農業は、自然の意志に根差しているから尊いのである。科学技術を過信して、ビルの中で米や野菜を作るようにでもなったら、自然体系は狂い出すだろう。

◆ 日常生活の息苦しさに追い立てられた人々が、資料館の江戸時代に安らぎを覚えるとしたら皮肉である。都市生活者も農村の人も、今こそ胆に据えて自然と生命の根源に目を向ける時ではないだろうか。 
 
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近くの人は一度見てくると良いですね。
私は福井なので中々いけない。
近くなら直ぐにでも飛んでいきたいと思った。

作家の先生だからそのままの文で転載しました。

雰囲気が伝わってくるようで。

ヤハリ日本は良いモノです。

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深川江戸資料館
http://www.kcf.or.jp/fukagawa/

陶酔人の窯
http://tousuibito.hamazo.tv/d2010-04.html
家庭を聖域にしてはいけない
http://www.katei-x.net/blog/2007/09/000332.html
江戸の町にタイムスリップ!
http://blog.goo.ne.jp/bb25500/c/76cf969d219a207b018cf89c766c11a7
ITの利活用および江戸時代の生活様式の復活による
http://www.editnet.ad.jp/news/070401/
なつかしい未来への道
http://ecoism.exblog.jp/1967363/

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調べているといくら時間があっても足りない
皆さんも江戸にタイムスリップして
ゆるりとした時間を楽しんで下さい。


さわらび日記 ~今日のひとり言日記~ より転載   「誇り」とは何か ~自分自身の根っこづくり~

2014年08月24日 18時19分00秒 | 色んな情報

さわらび日記 ~今日のひとり言日記~ より転載   「誇り」とは何か ~自分自身の根っこづくり~
Sep 24, 2005
http://plaza.rakuten.co.jp/siawasesuper/diary/200509240000/

あなたは自分自身に「誇れるもの」がありますか?
あなたが「誇らしい」と思うときはどのような時ですか?

例えば、企業に勤務する人間であるならば、自分の会社をほめられたりそこで働いている事を誉められたりした時に「誇らしく」感じることがあるだろう。

「誇らしい」と思う心をじっと自分自身で見つめてみると、そこに「今を生きる力」を見つける事ができる。自分自身の生き方の力と根っこがそこから生まれる。

若い人達の自殺が多いと聞くが、この「誇らしいもの」が自分自身の中に見つける事ができないというが理由にあると思う。

今の日本人に足りないものは、この「誇り」だと僕は思う。
自分の中に「誇り」をつくる為には努力が要る。
ボーッと生きていても、何も見る事はできない。

自分自身を大切にできない人間は、他人を大切になどできない。
今現在の中に喜びと感謝を見出す事ができない人間は、いつまでたっても幸せにめぐり合う事などできない。幸せというものは人に与えてもらうものではないからである。


ここに一枚の写真がある。

 


この写真はいつの写真で、どこで撮られたものか。
これは、終戦直後の長崎。
そう、原爆が投下された直後の長崎での写真である。

写真を撮影したのは、「ジョー・オダネル」というアメリカの従軍カメラマンである。ジョーオダネルは19歳の時にアメリカ海軍に従軍し、太平洋戦争(大東亜戦争)に参戦する。当時パールハーバー攻撃を知り、敵国日本に敵愾心を燃やしていた青年ジョーオダネルは、日本の敗戦アメリカの勝利を太平洋の洋上で聞く。

 

「ざまあみろ!ジャップめ!」
「ようやくこれでアメリカに帰ることができる」

そう思っていた矢先、彼は、敗戦直後の日本の調査を行う事を命ぜられる。
その後、彼ら一行は、敗戦後の日本へ上陸してくるのであるが、そこで彼らが見たものは、自分たちが想像していたような日本人たちではなかった。自分たちアメリカの攻撃によって徹底的に痛めつけられ、家族・親類縁者・友人・知人を失ってもなお、彼ら「日本人」は、アメリカ人の自分達に対して温かく、親切に接してくれるのであった。

その体験が、彼(ジョーオダネル)を変えていく。
そして、そのような時に出会ったのが、写真の少年である。

 

この少年の背中に背負われた小さな弟。
彼はすでに死んでいる。
少年の足元に「線」のようなものが見えるが、その「線」の前に何があるのか?そこでは今まさに、原爆や爆弾によって殺された人々の死体が焼かれていた。つまり「死体」を焼く『焼き場』の前にこの少年は立っているのである。

この写真は、戦争ですべてを失い、両親も失い、そして最後の最後に自分自身がたった一人で守ってきた弟も死んだ、その弟をたった一人で焼き場に「埋葬」に来た少年の写真なのである。

この少年に出会った時の事を、ジョーオダネルは次のように書いている。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

焼き場に十歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には二歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。その子はまるで眠っているようで見たところ体のどこにも火傷の跡は見当たらない。

 少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる火の上に乗せた。まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。気落ちしたかのように背が丸くなった少年はまたすぐに背筋を伸ばす。私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じつと前を見続けた。一度も焼かれる弟に目を落とすことはない。軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で彼は弟を見送ったのだ。

 私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。急に彼は回れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った。一度もうしろを振り向かないまま。係員によると、少年の弟は夜の間に死んでしまったのだという。その日の夕方、家にもどってズボンをぬぐと、まるで妖気が立ち登るように、死臭があたりにただよった。今日一日見た人々のことを思うと胸が痛んだ。あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか。

この少年が死んでしまった弟をつれて焼き場にやってきたとき、私は初めて軍隊の影響がこんな幼い子供にまで及んでいることを知った。アメリカの少年はとてもこんなことはできないだろう。直立不動の姿勢で、何の感情も見せず、涙も流さなかった。そばに行ってなぐさめてやりたいと思ったが、それもできなかった。もし私がそうすれば、彼の苦痛と悲しみを必死でこらえている力をくずしてしまうだろう。私はなす術もなく、立ちつくしていた。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

僕が感じた事、言いたい事は何か。
この写真は、ある「平和を訴える施設」に掲示されているという。

「戦争というもので犠牲となるのは、常に弱者である。この少年も犠牲者の一人である」

僕は戦争を賛美するつもりは全くない。しかし、この少年の写真から学ぶべき事は何か。たった一人となっても、自分の弟を丁重に埋葬しに、敵の中にやって来た「勇気」「強さ」、そしてたった一人となっても、生きていこうとする事のできる「生きる力強さ」その事ではないかと思うのである。

今の日本人には「日本」という国に対しての誇りが全くないという。しかし、考えてみればそれは当たり前のことで、「教えてもらっていないこと」には「思いを感じる事」もできないし、誇りを持つ事もできない。その心をはぐくんで来たことのない人間は、その心が育っていない。ただそれだけの事である。要は、「学んでいない事がある」「教えてもらえなかった事がある」ということである。


人間は「誇り」なくして生きる事はできない。誇れるものが心の中にあるからこそ、人は力強く生きていけるのである。自分の父親がこんな生き方をしたのだ、自分の母親はこんな母親であったのだ、自分の会社にはこんなに素晴らしい先輩がいたのだという事を知ったとき、人が誇りを持つ事ができるのと同じように、日本の先人達の中にも、世界に誇れる素晴らしい「日本人」がたくさんいたのである。

この写真の少年も、生きていれば70歳以上である。まだ御存命かどうかはわからないが、この方は、写真に撮られたということさえ知らないであろう。しかし、その一枚の写真に残った「生き様」が、人の人生を変えるほどの力があるという事を教えてもらったような気がしたのである。

 


我が子に伝える誇りある近代史

2014年08月24日 18時14分16秒 | 色んな情報

我が子に伝える誇りある近代史
http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/kindaishi.htm#1_1_2
まだ全部読んで居ないけれども


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http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/jhistd/jhist1_1_3_1.htm
から転載

3)教科書の現状について

(1)「乳房切り残虐壁画」



 左の挿し絵は、後ろ手に縛った女性の乳房を兵士が短刀でえぐり血が流れている図である。兵士の足下には赤ん坊が転がっている。とても陰惨な写真である。しかしこれは、『1996年春から使用された大阪書籍の小学校社会科教科書と、1997年春から使用開始された日本文教出版の中学歴史教科書には、それぞれ、「日本軍の残虐さを批判する壁画」、「日本軍の残虐行為を伝える中国の壁画」と言うキャプション付きで、華北地方の民家の壁を塗りつぶして大きく描かれた・・壁画の写真が掲載されました。』(新しい歴史教科書をつくる会の会報『史(ふみ)』平成11年5月号「教科書二社”乳房切り残虐壁画”を削除」藤岡信勝副会長当時)。なんとこれが小学校の教科書に載っていたのである。文部省が認め、採択されていたのだ。

 『教科書の本文には、「1937年、ペキン(北京)の近くで日本軍と中国軍のしょうとつがおこり、これがきっかけとなって、日中の全面戦争となりました。日本軍は、中国各地に侵略し、多くの生命を奪うなど、中国の人に大きな被害をあたえました。」(大阪書籍・小学校)などと書かれていました。教科書は、日本軍がこの壁画のような残虐な行為を働いたと子供に信じ込ませていたのです。・・・この壁画は、敵を悪魔のように描き出して敵意を煽る、「戦時プロパガンダ」の一種なのです。・・・日の丸の腕章をつけて戦場で戦った日本兵はいない・・この絵を書いた学生は、日本兵を見たことがないに違いない。・・・人を柱に縛り付けて乳房をえぐり取るという行為は、中国の元朝以来、歴代の王朝が受け継いできた正規の刑罰のひとつなのです。』(同上)。つくる会として機会あるごとに取り上げてこられた結果、平成11年1月異例なことだが、二社は文部省に別の写真に差し替える申請をした。

 このような根拠のない写真を、あたかも史実であるかのように教科書に載せてきたことは、重大な問題ではないか。外部から何も言わなければ、今も掲載されていただろう。

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ひどいモノですね。
こんな事が他にも沢山あるようで他国の刑罰のひとつをさも日本兵がしたなどと文部省騰認めていたなどとは考えたくないが現に行われていた。
今の日本のゲームにもこういうモノが沢山取り入れられて子供たちや大人までが真剣になしている。
戦争とは醜いモノだけど総てを日本のセイにされているのはいつまでも我慢できない。

歴史というモノは時の権力者が前政権を批評して編み出すモノ。
これは古今東西どの国でも行われてきた。

シナでは日本など問題にならないレベルでのねつ造公作をしてきた。
周辺諸国は被害甚大。
韓国も江戸期後半から日本にしてきているとも言われている。

世界四大文明もシナ人が作り出した政治用語で歴史用語ではない。
今 日本にとっての真の歴史を見つめ直さなければならない。


●道祖神

2014年08月24日 17時13分30秒 | 色んな情報

●道祖神
◆『●道祖神 どうそしん』 http://urx.nu/bhRF
 
◆『●道祖神(どうそじん、どうそしん) 日本宗教のルーツ』 http://urx.nu/bhRI
 
◆●神道の事   ●法事の事   ●神事の事
http://d.hatena.ne.jp/shibaracu/20131009
 
◆道祖神(どうそじん、どうそしん)http://urx.nu/bhTx
路傍の神である。
集落の境や村の中心、 村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、松尾芭蕉の「奥の細道」では旅に誘う神様として冒頭に登場する。
村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されている。
古い時代のものは男女一対を象徴するものになっている。
餅つき(男女の性交を象徴する)などにもその痕跡が残る。
 
◆道祖神  http://urx.nu/bhTF
道祖神は、日本の民間信仰の一つで集落のはずれや道の辻に立つ石神で、祠形や丸石、男性器(陽石)、女性器(陰石)、男女和合などの形態がある。一般に、さいの神・せいの神等と呼ばれ、塞の神・幸神・妻神・斉神・才神・性神などの字が当てられている。
・道祖神(どうそじん、どうそしん)
路傍の神である。集落の境や村の中心、 村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、松尾芭蕉の「奥の細道」では旅に誘う神様として冒頭に登場する。村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されている。 古い時代のものは男女一対を象徴するものになっている。餅つき(男女の性交を象徴する)などにもその痕跡が残る。
 
◆道祖神(だうそじん)  隠語大辞典
読み方:どうそじん
生殖器神の一なり、さいのかみともいふ。また道陸神(だうろくじん)ともいふ。道祖神は伊奘諾尊(いざなぎのみこと)が泉津平坂(よもつひらさか)で伊奘冊尊に会して絶妻の誓を立て此地より来るなかれとて投げられたる杖より成れる岐(しなど)の神又は同尊が根の国、底の国に到りて、穢れたるを清めんとて、日向の国の橘の小門の阿波岐(あはぎ)ケ原(はら)で禊したまへる時に投げられし時より成るといふ衝立船戸神(ついたてふなどのかみ)を祀つて災禍を除くものとせられ、又、塞(ふさぎ)の神ともいはれ、猿田彦命(さるたひこのみこと)をもこの神とし、旅行、縁結びの神とされ、日本各地の結婚、恋愛の風俗に多大の関係を有する原始的生殖器崇拝の意味をもつた神。


●世

2014年08月24日 13時34分36秒 | 色んな情報

●世
◆せい 【世】
( 接尾 )
助数詞。受け継いだ世代・地位・称号などの代数や順序を表す。 「日系三-」 「チャールズ二-」
   ・・・・・・・・・・
・よ【世・代】
〔「よ(節)」と同源。区切られた期間の意〕
① 人間が集まり生活の場としている所。世間。また,そこに生活している人々。 《世》 「 -の荒波にもまれる」 「 -に出る」 「 -をはかなむ」
② 俗世間。凡俗の住む,わずらわしい現実社会。 《世》 「 -をいとう」
③ ある支配者が治めている期間。また,同一系統の者が政体を維持している期間。時代。 「公家の-」 「徳川の-」
④ 人が生まれてから死ぬまでの期間。一生。 「わが-の春」
⑤ 仏教で説く,過去(前世)・現在(現世)・未来(来世)など,ある人の生きている世界。 《世》 「あの-に行く」
⑥ 寿命。生きていられる年齢。 「君が-も我が-も知るや岩代の岡の草根をいざ結びてな/万葉集 10」
⑦ 時節。時期。折。 「をとこ,思ひかけたる女の,え得まじうなりての-に/伊勢 55」
⑧ 男女の仲。 「わがごとく我を思はむ人もがなさてもや憂きと-を試みむ/古今 恋五」
⑨ ある人が家長として統率している期間。 「竹筍斎も隠居して,-を岩次郎にゆづりけり/黄表紙・敵討義女英」 〔「 -に」などの場合,アクセントは [1]〕 → 世に
[句]世上がる ・ 世が世なら ・ 世下る ・ 世と共 ・ 世に合う ・ 世に在り ・ 世に入れられる ・ 世に行われる ・ 世に聞こえる ・ 世に越ゆ ・ 世に従う ・ 世に知らず ・ 世に知られる ・ 世に仕う ・ 世に連れる ・ 世に出る ・ 世に問う ・ 世に無し ・ 世に似ず ・ 世に経 ・ 世に旧る ・ 世の ・ 世は張り物 ・ 世は回り持ち ・ 世も末 ・ 世揺する ・ 世を挙げて ・ 世を送る ・ 世を行う ・ 世を稼ぐ ・ 世を去る ・ 世を忍ぶ ・ 世を知る ・ 世を捨てる ・ 世を背く ・ 世を尽くす ・ 世を逃れる ・ 世を離る ・ 世を憚る ・ 世を響かす ・ 世を経る ・ 世を渡す ・ 世を渡る
 
◆世(せい、epoch)http://urx.nu/bhF1
地質時代の単位である。紀をいくつかに分けたもので、いくつかの期に分かれる。
 
◆よ 【世/代】
《「節(よ)」と同語源。時間や空間の、限られた区間の意》
1 人の一生。生涯。また、寿命。年齢。「わが―の終わり」
2 一人の支配者、または一つの系統・政体に属する支配者が政権を維持している期間。時代。「明治の―」「武家の―」
3 家督をついでその家を治める期間。また、その治める権利や立場。「息子の―になる」「―を譲る」
4 仏教で、過去・現在・未来のそれぞれの期間。前世・現世・来世のそれぞれ。「あの―」「この―」
5 出家した人の住む世界に対して、凡俗の住む世界。俗世間。「―に背く」
6 人が互いにかかわりあって生きていく場。世の中。社会。世間。「浮き沈みは―の習い」「新しい思想を―に広める」
7 社会での境遇。特に、時運に乗って栄えること。「―を時めくタレント」
8 その時の社会の流れ。時勢。「―はまさにコンピューター時代だ」
9 生活していくこと。なりわい。「―の営み」「―を過ごす」
10 ある期間。時期。機会。「二条の后の宮まだ帝にも仕うまつり給はで、ただ人におはしましける―に」〈大和・一六一〉
11 国家。国。また、世界。「国王の仰せ言を、まさに―に住み給はむ人の、承り給はでありなむや」〈竹取〉
12 男女の仲。恋情。「むげに―を思ひ知らぬやうにおぼほれ給ふなん、いとつらき」〈源・帚木〉
[下接語]徒(あだ)し世・彼(あ)の世・新た世・有らぬ世・幾千代・幾世・今の世・浮き世・現(うつ)し世・彼(か)の世・上つ世・神代・仮の世・君が代・此(こ)の世・先の世・末の世・千代・塵(ちり)の世・露の世・時世・常(とこ)世・中つ世・後(のち)の世・人の世・一世・又の世・三(み)世・御(み)世・百(もも)世・八千代・夢の世・代代・万(よろず)代
   ・・・・・・・・・・
・せい 【世】
[音]セイ(漢) セ(呉) [訓]よ
[学習漢字]3年
〈セイ〉
1 家督を継いでから子に引き継がれるまでの期間。また、人の一代。「世子/終世・早世・隔世遺伝」
2 先祖代々。「世系」
3 一定の尺度で区切られる時間。時代。「世紀/隔世・季世・近世・後世(こうせい)・盛世・中世」
4 世の中。「厭世(えんせい)・経世・警世・在世・時世・辞世・処世・人世・絶世・治世・遁世(とんせい)・乱世」
5 地質時代の区分の一。紀をさらに細分したもの。「沖積世」
〈セ〉
1 の1に同じ。「世代」
2 先祖代々。「世襲」
3 世の中。「世界・世間・世事・世上・世情・世相・世論・世話/出世」
4 仏教で、過去・現在・未来のこと。「現世・後世(ごせ)・三世(さんぜ)・宿世(すくせ・しゅくせ)・前世・来世」
〈よ〉「世論/浮世・時世(ときよ)」
[名のり]つぎ・つぐ・とき・とし
   ・・・・・・・・・・
・せい 【世】
[接尾]助数詞。受けついだ世代・地位・称号などの代数や順序を表すのに用いられる。「日系二―」「九―団十郎」
 
◆せい【世】
( 接尾 )
助数詞。受け継いだ世代・地位・称号などの代数や順序を表す。 「日系三-」 「チャールズ二-」
 
◆世   ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説.
せい
epoch
地質年代区分の紀より小さく期より大きい単位。年代層序区分の統に対応する。化石群の進化に基づき区分される。更新世,完新世などと用いる。
 
◆世 【せい】   百科事典マイペディア
地質年代区分の単位の一つ。紀をさらに細分したもの。たとえば中新世。世に相当する地質系統は統。


・同和問題 

2014年08月24日 09時08分05秒 | 色んな情報

・同和問題 
◆同和問題    人権啓発用語辞典
日本社会の歴史的発展の過程において形成された身分階層構造に基づく差別により、日本国民の一部の集団が経済的・社会的・文化的に低位の状態におかれ、現代社会においてもなお著しく基本的人権を侵害され、とくに近代社会の原理として何人にも保障されている市民的権利と自由を完全に保障されていないという、最も深刻にして重大な社会問題である。」
(1965年「同和対策審議会答申」より)
 
◆問題(ぶらくもんだい) http://urx.nu/bhos
差別に関する、日本の人権問題、利権問題を含む社会問題の一つである。
 
◆概要
中世から近世を通して存在した問題を処理するために明治政府は、維新後の改革の一つとして新しい社会階級制度の中に「」を設けた。明治・大正・昭和と時代を経て、の暮らしにおける諸問題は、表面化し社会問題となる。第二次大戦後の新憲法により、皇室を特別として、社会階級制度の消失となった後でも、多くの課題が残る。現在では[いつ?]、社会問題に対処するために団体・政府・地方自治体などが主張・提訴・改善・解決しようと取組む課題の総称となっている。政治的・法的・因習文化的な諸問題を多く含む社会問題であり、現代では世系差別と地域に対する差別を同和問題という。
 
◆「」の概念
「」は本来「集落」の意味であるが、歴史的にエタ村あるいはエタ()と称されたの集落や地域を、行政が福祉の客体として「被差別民(略して民)」などと呼んだことから、特に西日本では被差別を略した呼び名として定着した。2011年3月4日に第68回全国大会で決定された解放同盟綱領では、「民とは、歴史的・社会的に形成された被差別に現在居住しているかあるいは過去に居住していたという事実などによって、差別をうける可能性をもつ人の総称である。被差別とは、身分・職業・居住が固定された前近代に・などと呼称されたあらゆる被差別民の居住集落に歴史的根拠と関連をもつ現在の被差別地域である」と定義されている。ただし、その一方で『問題事典』(解放出版社、1986年)では「民とみなされる人、あるいは自ら民とみなす人を民という。この同義反復的なことでしか、民を定義することはできない」(野口道彦)とも述べられており、「被差別」や「被差別民」を定義する方法がないことも指摘されている。また、被差別にはやに起源をもつもののほか、夙、鉢屋衆、きよめなど多種多様な起源をもつものがある(雑種賎民)。静岡県では院内という民間陰陽師がもともと被差別民ではなかったところ、明治初期に陰陽師廃止令が発布されたために失職し貧困化して被差別民と同一視されるようになった例が報告されている。また、山窩の集住地を同和対策事業の対象とした自治体もごく少数ある。
 
◆呼称の変遷
近現代に「」の語が用いられるに伴い、「地区」の意味での「」と混同されないよう民自らが「特殊民」と称するようになった。なお、「特殊」の語の初出は小島達雄の研究によれば1902年「明治三四年度奈良県学事年報」である。しかし「特殊民」との呼称も蔑称として使われたことから、「細民」「被圧迫」「未解放」「被差別民」などの呼び方に換えられた。

歴史学者井上清が1954年の論文で、従来使われていた「特殊」「未解放」の語に代わって「被差別」の語を考案した。なお井上は、問題研究所理事として運営にも関わるなど、解放運動に積極的に関わっていた。

蔑称として「民」「特殊民」ほか、近年は「同和行政」という語に由来して「」が使われることもある。

灘本昌久は、1968年頃以降、共産党系は「未解放」、解放同盟系は「被差別」、行政関係者は「地区」(2002年の地対財特法失効後は「旧地区」)を用いる傾向があるが、近年は共産党系も「地区」(「旧地区」)で統一している、と指摘している。ただし「被差別」と「地区」は同義語ではなく、封建時代の被差別民の集住地でありながら「地区」指定をみずから拒否し、同和事業を拒んだ地区(未指定地区)は日本全国で約1000箇所にのぼる。この未指定地区は、地区に比べて経済的に恵まれている地域が多い。

なお、「差別」という呼び方から「集住している人々」に対する差別であるという受け止め方が多いが、これは必ずしも正しくなく、地域的に差が見られる。都市部や農山漁村部を問わず集住している場合が少なくないものの、被差別でない集落の近隣に単独若しくは少数で暮らしている場合もある。たとえば、九州の一部地域のように下級刑吏として被差別民に該当する身分、あるいは社会集団に属する人が隠れ切支丹監視のために一家族ずつ分散して派遣された場合などである。
 
◆『●問題●逆差別』 http://amba.to/1pryU2S
 
◆『歴史や文化も含めて差別に詳しいけど何か質問ある?』 http://amba.to/1tU5ATq
 
◆●氏素性【ウジスジョウ】  http://urx.nu/bhoU