ナチュラルな暮らし

穏やかな日常の一コマ

市内の絹産業遺産群~その一部~

2021-09-19 | ドライブと散策

かつて世界1位の生糸生産地のこともあった岡谷市…市内にはその産業遺産群が残されています。かつてその見学ツアーでほぼ巡ったのですが(近代化産業遺産巡りツアー2018-05-07 )身近な所でまだ見学していなかった場所があったので、巡ってみました。まずはこの「丸山タンク」です。

 

市内にあった製糸工場では水をたくさん使いました。ここはその製糸工場への給水タンクがあった場所です。大正3年にできたこのタンク、天竜川から水をくみ上げていたそうです。

 

現在は金属製のタンクの台座としていた三重円筒型の巨大なレンガ積みが残されています。

 

 

風格のあるレンガ積み…隙間から覗く風景も隙間から芽を出す植物も感慨深いものです。

 

 

街中の小高い場所にあるこの遺構…そこに立って、かつての製糸産業でにぎわった市内を思い描きました。

 

次に訪れたのは「旧山上宮坂製糸所」です。ここは創業明治7年で大正~昭和の全盛期に発展した製糸工場です。昭和2年に建築された事務所が残されています。

 

 

 

 

工場の一部も残されていました。

 

居宅は「欅御殿」と呼ばれたそうです。屋根は鉄平石で葺いてあり、大屋根正面の棟飾りは「雀おどし」と呼ばれています。

 

 

 

蔵の梁も立派でした。

 

 

産業遺産ではないけれど市内の古民家「寉龍庵」…国の登録有形文化財に指定されている建物です。

 

 

この建物は時々ギャラリーなどに開放されているようです。機会があったら内部も見てみたいものです。

 

 

この建物は「旧岡谷市役所庁舎」です。この建物も国の登録有形文化財に指定されています。昭和11年に製糸家の尾澤福太郎が市制施行を記念して建築、寄贈したものです。

 

 

 

この庁舎は昭和62年まで使われていました。レンガの壁がレトロな建物です。

 

ちなみに、こちらが現在の市役所庁舎です。

 

市役所の近くにはこんな建物も残されています。きっと繭蔵だった建物かと思うのですが…

 

最後は「丸中宮坂製糸所繭倉庫」です。こちらは市内で唯一、製糸業を現在も続けている会社です。

    

 

 

 

実はこの会社は「岡谷蚕糸博物館」で操業しています。今も「諏訪式繰糸機」が使われて製糸業が続けられています。その工場のある「岡谷蚕糸博物館」です。

 

市内の近代化産業遺産群は「旧片倉組事務所」や「旧林家住宅」「旧山一林組製糸事務所」など立派な建物があるのですが、今回はまだじっくり見ていなかったごく身近な遺産を巡ってみました。改めて古き時代に思いを馳せる時間でもありました。

最後に蚕糸博物館の庭の「しだれ桑」の木です。冬にはかなり剪定されていたのですが、今は地面に着くほど繁って枝垂れていました。

 

 

 

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6 コメント

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絹産業遺産群 (ran1005)
2021-09-20 14:21:11
岡谷は代表的な生糸の産地でしたから
沢山の遺産群が在っても不思議はありませんネ。
私は機織りにはかなり興味が在りましたが、
生糸の事はあまり良く知りません。
水が生糸を作るのに絶対的な役割を果していたのですね。
それで岡谷は最適地だったのですネ。
その昔「ああ、野麦峠」を見ました。
様々な人間模様が脳裏をよぎります。
姑も多少糸取り(?)に駆り出された時期が在る様でした。
私が判る生糸関係の建物は旧市役所位しかありません。
それと「丸中宮坂製糸所繭倉庫」を目にしています。
場所ははっきり覚えて居ません。
水門近いウナギ屋さんの通りに立派な「雀おどし」の屋根の
重厚な古民家が在りますネ。
現在もお住まいになっている様な・・・
生糸の最盛期に関与した先祖が建築された建物だろうと
目にする度に感じております。
私が機織りを教えて下さった先生のお宅にも
この様な雀おどしが付いていましたヨ。
先生を紹介して下さった方は
先生の事を岡谷の機織りの一人者だと、紹介されました。
主人が健康を害してすっかり御無沙汰してしまいました。
もしお元気ならとっくに100才を越えられているかも??
当時は工房もお持ちでした。
東京で開催された工房の展示会には主人と一緒に参りましたヨ。
主人たら何を思ったのか黄八丈を買ってくれました。が・・・
黄八丈は昔、お医者さんの作務衣の様な役割を果たした絹織物だそうですネ
きっと丈夫で長持ちしたのでしょうネ。
きっと普段着にしたら良いと思って買ってくれたのかも知れません。
一度も手を通すことなく箪笥の肥やしです。
先生のお宅の場所もおぼろげで・・・判りません。
主人は鮎釣り名人(自称)で、先生のご希望で
天然アユをお届けした事も何度か在ったのですが・・・
先生からは山繭についての興味あるお話も多く伺いましたヨ。
今ではとてつもなく遠い昔に感じます。
数えれば20年余の月日が経っていますから・・・。
返信する
ran1005さんへ (タッジーマッジー)
2021-09-20 21:35:49
こんばんは。
諏訪地域全体で製糸業が盛んだったと思いますが、
ことに岡谷は最盛期の生糸輸出の中心となった時期もあったようです。
何故最適地だったのかは、水が豊富だったことも大きな要因だそうです。
製糸の現場を見たことがありますが、お湯が絶えずある場所で糸を紡いでいました。
大きな機械で大量生産するには大量の水が必要だったことでしょう!
諏訪湖~天竜川の水は大きな役割を果たしたことと思います。
それに「諏訪式繰糸機」の開発も大きかったことでしょう。
そのうえ、片倉家など優れた経営者がいたこと、
「ああ野麦峠」にも出てきますが、大勢の女工さんなど労働力が得られたこともあるようです。
お姑さんも糸取りに駆り出された!
それほど活気ある製糸業がいい時期だったのでしょうね。

「ああ野麦峠」では女工さんの過酷な状況がクローズアップされていましたが、
実際は女工さんの待遇はかなり良かった(学校や運動場、温泉施設などを整えた)…
以前、そう話してくれたのは産業遺産ツアーの時の蚕糸博物館の館長さんでした。
確かに諏訪の片倉館も女工さんへの福利厚生を主な目的に建てられたようです。
休日に街で楽しそうに買い物をする女工さんたちの写真も残っています。

ranさんは機織りを学ばれたのでしたね。
私も機織りに興味があって義母や叔母の機織りを何度も見せてもらいました。
でも見学だけで自分で織る所までは至りませんでした。
義母や叔母の手織りの生地が手元にありますが使いこなせていません…
機織りの先生のお宅は立派な建物だったのですね。
今でも市内で雀おどしのある重厚な建物のお宅を見かけることがあります。
当時の繁栄を物語る建物かもしれません…

東京に旦那様と出かけられてその場で黄八丈を買っていただく!
これは気前のいい旦那様!すごいことですね。
せっかくの黄八丈、旦那様との思い出の品でもあるのでしょうからお召しになったらいかがでしょう。
ranさんでしたら素敵に着こなせそうです…
旦那様は釣りが趣味と伺っていたのですが、アユ釣りの名人でいらした!
あちらこちらに出かけられたことも、美味しい天然アユの味もいい思い出ですね。
たくさんの思い出があって素敵なことと思います…
返信する
絹産業!! (take)
2021-09-23 00:33:36
こんばんは。
多くの産業遺産群に驚きました。
「丸山タンク」「旧山上宮坂製糸所」居宅は「欅御殿」・・「丸中宮坂製糸所繭倉庫」
さすがに「生糸の都」!!

「旧岡谷市役所庁舎」のレンガを見ては片倉のレンガを想い
鉄平石葺きとは? 画像検索で見えた「神長官守矢史料館」・・あの屋根は石葺きでしたか~。
そもそも石葺きの屋根なんてあったのですね~、と驚きながら
拝見していました。

蚕糸博物館の庭の「しだれ桑」の木には 特に注目しながらね

長くなりますが 思い出話を・・
私が小さいときには実家でも養蚕をしていました。

「たねやさんの娘だ」(悪い響きではなかったような)と言われていたのですが
三年生の時、隣のクラスの先生から
「あら、○○ちゃんのところは まだお蚕さんを飼っているの」と言われました。
「まだ」という響きは
「遅れてるのねぇ、世間はみんな果樹栽培に移っているのに」と聞こえて
私の心は傷つきました。(このことは前にも聞いていただいたような・・)

町村合併で「勝沼町」(ブドウとワイン=当時は「葡萄酒」の町)になり釈迦堂遺跡博物館あたりの桑畑はみな果樹に変換していた時代です。

今回 タッジ―マッジーさんのブログから繋げて「お勉強」したのは
「たねやさん」のことです。
表記は「蚕種屋(たねや)」だと。
特に この記事は詳しく↓
http://edu.umic.jp/zukan/histry/04kawatoseikatsu_07-00.htm
☆産業界と教育界が一体となって蚕種業を中心とした「蚕都上田」がつくられた。
「蚕都上田」という言葉を知ったのは
タッジ―マッジーさんのブログでした。
・・ 私が「信州大学の繊維学部があるのは ここからなのですね」と反応したような・・
(夫が仕事で繊維学部に行っている間、私は上田城を見学していました)

上田は「養蚕業」、岡谷は「製糸業」かと思ってしまいましたが
そうも 単純なすみ分けでははありませんね両方ともに・・ですか。

いずれにしても
私のまわりでは 養蚕・製糸での「産業遺産群」は見たこともありません。
松本に行くようになって「カタクラ」を知り タッジ―マッジーさんから「岡谷」を知りました。

5歳下の弟は我が家の「おかいこさん」は知らないで育ったと思います。
兄に知らせよう「たねや」さんのこと。
兄は 京都勤務の時に「たねや」さん(近江八幡)のおいしいお菓子を送ってくれたものでした。
「たねやさん」・・養蚕をしていたのかと思ったりして・・

以上。
おやすみなさい。
返信する
欅・・・・御殿・・・ (くちかずこ)
2021-09-23 11:49:36
市庁舎、素晴らしいわ。
その当時の心意気もね。
台中に訪問した時の市庁舎、日本統治時代の建物でした、ちょっと似た感じだったかしら、と。
ああ、野麦峠・・・ね。
山本茂実さん、娘が作文の表彰式会場で談笑?していただいた方です。
作文についても褒めて貰ったらしい?
サインまで貰い、会食も同席したらしいです。
まあ、大昔、娘が中一だった時のことですが。
ちなみに、くちこ母は、中卒で女工になり、結核になって帰郷、その後父と結婚した経緯があります。
返信する
takeさんへ (タッジーマッジー)
2021-09-23 20:58:50
こんばんは。
市内の産業遺産はたくさんあるのですが、
前回のツアーの時に見られなかった所を見てきました。
(近代化産業遺産巡りツアーのブログ記事を追加しておきました)
レンガの建物は松本の片倉工業にも諏訪の片倉館にも岡谷の旧片倉組事務所にもあります。
鉄平石の屋根は「神長官守矢史料館」もそうです。
諏訪に鉄平石が取れる場所があって、この地方では屋根に使っている所もあるのです。
大きな家ですと相当量の鉄平石を使い、薄い石板とはいえ、重いかと思うのですが…

ご実家では養蚕をされていたのですね。
釈迦堂遺跡博物館あたりが一面桑畑だった!
今とはずいぶん雰囲気が違っていたことでしょうね。
そちらで養蚕が盛んだったことは、若き日の同僚がそちらの養蚕農家に嫁いだことからも知っていました。
ご実家で養蚕をされていた時期とはずれがあるでしょうけど…
こだわりの生糸を作るために今はまたこちらでも養蚕をする方がいるようです。
蚕糸博物館でも桑を育てて、お蚕さんを飼っています。

「蚕種屋」さんは重要な役割を持っていたのですね。
養蚕のことは少しばかり知っていても「蚕種屋」さんのことは知りませんでした。
この記事を見せていただいて、私は松本のカタクラモール近くにあったレトロな建物を思い浮かべていました。
その「片倉蚕糸研究所」(現 生物化学研究所)も蚕種屋さん繋がりかと思うのですが…
そして「蚕都上田」が出てくるのですね。
まさに信大繊維学部があるのは蚕都ならではかと思います。
蚕都ならではの「サントミューゼ」の存在も思い浮かべます…
蚕種屋さんの存在は興味津々!
教えてくださってありがとうございました
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くちかずこさんへ (タッジーマッジー)
2021-09-23 21:00:22
こんばんは。
レンガ造りの市庁舎は当時とすればモダンな建物だったのでしょう。
今でもレトロな素敵な建物ですが…
そしてそれを建築して市に寄贈した製糸家の存在もすごいこと!
くちこさんの言われる通り、その心意気にも打たれます。
台湾の似た感じの建物の存在…
それは日本との繫がりのある時代のものだったのですね。
建物でその国の歴史も感じることができるのは意義深いことと思います。

山本茂実さんに褒められた娘さん、すごいことですね。
作文で表彰とは、さすがくちこさんの娘さん、文才があってのことでしょう!
それにしても作家さんが同席の表彰式とは、よほど大きな賞だったのだと思います。
くちこさんのお母様の経験は「ああ野麦峠」の時代とは違うでしょうが、
結核も経験され、本当に大変なことだったと思います。
産業遺産を巡りながら、その当時働いていた方々にも思いを馳せました…
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