皆さん、だいぶん久しぶりの更新です。
最近なにかと「フェイス ブック」にハマっております。ごめんなさい。
これから、ブログもできるだけ更新しますので
どうぞよろしくお願い致します。
そして、昨夜のフィリピンでのM7.6の地震は
太平洋沿岸に津波が...
南海トラフ巨大地震・大津波の被害予想のニュースが発表されたばかりでしたので
緊張が走りましたね。驚きました。
さて、本日の話題です。
「フェイス ブック」にも書きましたが、一昨日、南海トラフ巨大地震の話から
大津波の凄まじさを思うと、ある事を考えました。
なにぶんネガティブで不謹慎な仮説の話ですので
気分を悪くされる方もいると思いますが、
どうぞ、ご容赦下さい。
私の考えた仮説の話です。証拠など全然ありません。
その話とは、邪馬台国:宮崎県平野部説です。
もし、あの女王「卑弥呼」のいた「邪馬台国」が栄えた西暦200~270年の後
西暦270~350年頃の1700年前のどこかの時期に
宮崎県の日向灘に南海トラフ巨大地震が起こり、深夜、大津波が
沿岸の平野部に来ていたらば、一瞬にして邪馬台国が滅亡したのではと思ったのです。
私が住む延岡市では、西暦250~350年頃には、旧南方村地域に南方古墳群があるのですが
海岸からの距離が西に8~10kmでなく4~8km位の場所にあり、海岸に近い東側には、古墳がありません。
日向市周辺には、なぜか殆ど、古墳がありません。
宮崎市内にも、広大な地域のわりに、古墳が内陸にしかありません。
西都市の西都原古墳群には、多くあるのにです。
私の仮説です。沿岸部の平野部が海岸から10kmでなく5~6km位の場所まで
大津波の影響で、大被害にあったのではと思うのです。
そのため、海岸に近い海抜の低い東側(日向灘側)の場所が大被害にあったんじゃないかと思います。
そこには、集落の中心があったと思われます。
当時、邪馬台国は、7万戸の大国だったようです。約25~30万人の大国です。九州全体で人口120万人位?の時代ですから
その人口の多さは、驚くべき凄い数です。
たぶん、延岡・門川・日向・都農・川南・高鍋・新富・佐土原・宮崎・西都・日南の一帯が同じ邪馬台国又は同盟国だったと思われます。
大津波では、内陸の西都市が影響が無かったと思われます。
なぜ、邪馬台国は、そこまで栄えたのか。
たぶん、紀元前200頃の徐福伝説も絡みます。
秦の始皇帝の時代から、魏の時代まで昔の中国との直接交易があったと思われます。
中国の文献には、魏の張政という役人が246年から20年間、邪馬台国にいたという資料もあります。
それから、雪の降らない地域で、温暖で作物が育ちやすく、飢饉が無く
豊かな国だったと思うのです。
それから、邪馬台国というぐらいですから、大陸から連れてきた馬がいたと思うのです。
この当時など、武力、農作業には、馬は必要です。
これ位の差でも、倭国内の邪馬台国近隣の国に、優位にたっていたのではないかと思います。
そのため倭の20国が連合国家になり、その女王が邪馬台国の卑弥呼になったと思われます。
長々となりますので
それでは、私が考える仮説の行程の図です。
魏志倭人伝に記されている「邪馬台国への行程」を書くと
帯方郡→狗邪韓国 7,000里
→対馬 1,000里
→壱岐 1,000里
→末蘆国(唐津)1,000里
→伊都国(糸島半島)南東へ陸行 500里
→奴国 東へ陸行 100里
→不弥国 東へ陸行 100里
→投馬国 南へ水行 20日
→邪馬台国 南へ水行 10日、陸路 1月
総距離(帯方郡→邪馬台国):12,000里
と書いてあります。
伊都国までは、地名に近い場所が残っていますので、分かるのですが
奴国から不明です。
ただ、東へ陸行の記載は、東国の方へで解決しそうです。
中国・関西の方向が東だと思います。
不弥国から投馬国へのルートは
南へ水行 20日とあります。
東国を東と考えると、邪馬台国の場所は南です。
ですから、南へ水行 20日は、私が考えるに、海上ルートと思います。
ただ、船が小型・梅雨時期・台風の影響・海賊・関門海峡が難所等の影響で
時間がかかり、投馬国に到着(今の宇佐市・中津市周辺)
その後、南へ水行 10日 一度、同じ投馬国支配地域(別府市・大分市周辺)に移動
この場所から、なぜ陸行になったかというと
当時の佐伯~延岡までのリアス式海岸に海賊がいたと思われます。
ですから、安全性で、陸路をとったのでしょうが
この地域の陸路も山越が難所です。
昔は、そんなに道が整っていたわけでもないでしょうから
時間がかかり
その後、邪馬台国(延岡)へ
たぶん当時の延岡は、邪馬台国の別府?
ここで、魏の使者に接待があり、日向の別府でも接待があれば
邪馬台国の都(宮崎)への到着が陸行 1月かかったのではないかと思います。
西都?は、邪馬台国の都を起点に考えると、邪馬台国の西の都です。
しかし歴史が残っていません。
ここから、だいぶん、ネガティブで不謹慎な話になります。
つまり、月明かりもない深夜、大津波の影響で、宮崎県の平野部が被害にあい、邪馬台国が滅亡したと言う事ですので
いろんな文献、資料、装飾品、建物、多くの住民が一瞬にして海の藻屑となったと思います。
当時の人々は、明かりや情報がなく、深夜の大津波を恐ろしさのあまり、龍や八俣のオロチと思ったかもしれません。
夜が明けて、その残骸の光景を見て愕然とし黄泉の国と思った事と思います。
生き残った人々は、相当、落ち込んでしまったので、
この後の歴史は、恐ろしい現実には触れず、生き残った王族は、この地域を離れたと思われます。
それが、西暦270~350年頃と思います。中国も魏・蜀・呉の三国志の時代なので、他国に構っている余裕などなかったと思われます。
空白の4世紀と言われる訳です。内戦・内乱が起こったと思われます。
それが、神武天皇の東征に繋がるのかと思うのです。
神武天皇の別名は カムヤマトイウレビコノミコト(神倭伊波礼比古命)
ヤマトが倭と呼びます。倭の国の神?
以上、私の個人的な仮説の話ですので、そこの所、よろしくお願い致します。
それから、神話の天照大御神 ( あまてらすおおみかみ )と卑弥呼は
同一人物ではと言う話もありますね。
卑弥呼については、またの機会に
最近なにかと「フェイス ブック」にハマっております。ごめんなさい。
これから、ブログもできるだけ更新しますので
どうぞよろしくお願い致します。
そして、昨夜のフィリピンでのM7.6の地震は
太平洋沿岸に津波が...
南海トラフ巨大地震・大津波の被害予想のニュースが発表されたばかりでしたので
緊張が走りましたね。驚きました。
さて、本日の話題です。
「フェイス ブック」にも書きましたが、一昨日、南海トラフ巨大地震の話から
大津波の凄まじさを思うと、ある事を考えました。
なにぶんネガティブで不謹慎な仮説の話ですので
気分を悪くされる方もいると思いますが、
どうぞ、ご容赦下さい。
私の考えた仮説の話です。証拠など全然ありません。
その話とは、邪馬台国:宮崎県平野部説です。
もし、あの女王「卑弥呼」のいた「邪馬台国」が栄えた西暦200~270年の後
西暦270~350年頃の1700年前のどこかの時期に
宮崎県の日向灘に南海トラフ巨大地震が起こり、深夜、大津波が
沿岸の平野部に来ていたらば、一瞬にして邪馬台国が滅亡したのではと思ったのです。
私が住む延岡市では、西暦250~350年頃には、旧南方村地域に南方古墳群があるのですが
海岸からの距離が西に
日向市周辺には、なぜか殆ど、古墳がありません。
宮崎市内にも、広大な地域のわりに、古墳が内陸にしかありません。
西都市の西都原古墳群には、多くあるのにです。
私の仮説です。沿岸部の平野部が海岸から
大津波の影響で、大被害にあったのではと思うのです。
そのため、海岸に近い海抜の低い東側(日向灘側)の場所が大被害にあったんじゃないかと思います。
そこには、集落の中心があったと思われます。
当時、邪馬台国は、7万戸の大国だったようです。約25~30万人の大国です。九州全体で人口120万人位?の時代ですから
その人口の多さは、驚くべき凄い数です。
たぶん、延岡・門川・日向・都農・川南・高鍋・新富・佐土原・宮崎・西都・日南の一帯が同じ邪馬台国又は同盟国だったと思われます。
大津波では、内陸の西都市が影響が無かったと思われます。
なぜ、邪馬台国は、そこまで栄えたのか。
たぶん、紀元前200頃の徐福伝説も絡みます。
秦の始皇帝の時代から、魏の時代まで昔の中国との直接交易があったと思われます。
中国の文献には、魏の張政という役人が246年から20年間、邪馬台国にいたという資料もあります。
それから、雪の降らない地域で、温暖で作物が育ちやすく、飢饉が無く
豊かな国だったと思うのです。
それから、邪馬台国というぐらいですから、大陸から連れてきた馬がいたと思うのです。
この当時など、武力、農作業には、馬は必要です。
これ位の差でも、倭国内の邪馬台国近隣の国に、優位にたっていたのではないかと思います。
そのため倭の20国が連合国家になり、その女王が邪馬台国の卑弥呼になったと思われます。
長々となりますので
それでは、私が考える仮説の行程の図です。
魏志倭人伝に記されている「邪馬台国への行程」を書くと
帯方郡→狗邪韓国 7,000里
→対馬 1,000里
→壱岐 1,000里
→末蘆国(唐津)1,000里
→伊都国(糸島半島)南東へ陸行 500里
→奴国 東へ陸行 100里
→不弥国 東へ陸行 100里
→投馬国 南へ水行 20日
→邪馬台国 南へ水行 10日、陸路 1月
総距離(帯方郡→邪馬台国):12,000里
と書いてあります。
伊都国までは、地名に近い場所が残っていますので、分かるのですが
奴国から不明です。
ただ、東へ陸行の記載は、東国の方へで解決しそうです。
中国・関西の方向が東だと思います。
不弥国から投馬国へのルートは
南へ水行 20日とあります。
東国を東と考えると、邪馬台国の場所は南です。
ですから、南へ水行 20日は、私が考えるに、海上ルートと思います。
ただ、船が小型・梅雨時期・台風の影響・海賊・関門海峡が難所等の影響で
時間がかかり、投馬国に到着(今の宇佐市・中津市周辺)
その後、南へ水行 10日 一度、同じ投馬国支配地域(別府市・大分市周辺)に移動
この場所から、なぜ陸行になったかというと
当時の佐伯~延岡までのリアス式海岸に海賊がいたと思われます。
ですから、安全性で、陸路をとったのでしょうが
この地域の陸路も山越が難所です。
昔は、そんなに道が整っていたわけでもないでしょうから
時間がかかり
その後、邪馬台国(延岡)へ
たぶん当時の延岡は、邪馬台国の別府?
ここで、魏の使者に接待があり、日向の別府でも接待があれば
邪馬台国の都(宮崎)への到着が陸行 1月かかったのではないかと思います。
西都?は、邪馬台国の都を起点に考えると、邪馬台国の西の都です。
しかし歴史が残っていません。
ここから、だいぶん、ネガティブで不謹慎な話になります。
つまり、月明かりもない深夜、大津波の影響で、宮崎県の平野部が被害にあい、邪馬台国が滅亡したと言う事ですので
いろんな文献、資料、装飾品、建物、多くの住民が一瞬にして海の藻屑となったと思います。
当時の人々は、明かりや情報がなく、深夜の大津波を恐ろしさのあまり、龍や八俣のオロチと思ったかもしれません。
夜が明けて、その残骸の光景を見て愕然とし黄泉の国と思った事と思います。
生き残った人々は、相当、落ち込んでしまったので、
この後の歴史は、恐ろしい現実には触れず、生き残った王族は、この地域を離れたと思われます。
それが、西暦270~350年頃と思います。中国も魏・蜀・呉の三国志の時代なので、他国に構っている余裕などなかったと思われます。
空白の4世紀と言われる訳です。内戦・内乱が起こったと思われます。
それが、神武天皇の東征に繋がるのかと思うのです。
神武天皇の別名は カムヤマトイウレビコノミコト(神倭伊波礼比古命)
ヤマトが倭と呼びます。倭の国の神?
以上、私の個人的な仮説の話ですので、そこの所、よろしくお願い致します。
それから、神話の天照大御神 ( あまてらすおおみかみ )と卑弥呼は
同一人物ではと言う話もありますね。
卑弥呼については、またの機会に
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