焼け跡のバラックに似る土手の畑
広尾から天現寺橋までの大通り、左手はずっとバラックが続いていた。今は有名人が住むマンションやブランドショップが並ぶ。
1964年のオリンピックに向けて、この辺りは囲い込まれて、住人は八王子あたりへ移動されたと聞いた。都電七番が雑草の中を走っていた。その都電停留所の前の崖の上にはコンクリートが爆撃で崩れたまま、木や草が伸び放題の空き地が広がっていた。小さい頃からの私の遊び場だったが、いつも誰もいなかった。季節ごとに沈丁花や梔子が咲き、崖から迫り出して枇杷の実がたくさんなっていた。小学生くらいまではひとりで登って取っていた。体が小さくて痩せていたので、枝が折れる心配などはなくて、猿歳だから木登りは得意なんだと思っていた。甘いくだものはとても貴重で、塀から下がっていたよその家の柿を取って、父親にひどく叱られた。それで台風の後、道端に落ちた柿を後生大事に拾ってきた記憶がある。食べたか、美味しかったかの覚えはない。
高校一年生の頃だから昭和三十五年だろうか。飯田橋駅から九段へ向かう橋のたもとにブリキトタンを立て掛けた小さなバラックがあった。まだこんな所に暮らしている人もいるんだ、という気持ちで見ていたある日、ドアだったか布だったか、を少し開けて女の人が出てきた。完璧に、その頃の、ビジネスガールのいでたちで、パンプスを揃えて置き、外で履いたのを見つめてしまった。まるで丸の内で働いているようだった。
遠い遠い焼け跡の思い出のようだが、戦後十四年、誰もが背伸びして、将来の豊かな暮らしを疑わなかった。貧乏でも恥ずかしがらずに生きられた良い時代だったのかも知れない。
サラサラのカレーライスの中に
兄と争って豚こまの切れ端を見つけて
嬉しかった。
ベチャベチャの白いふかし芋、
お昼ご飯の変わりだったが
今の安寧芋より美味かったなぁ。
あの頃の方が幸せだったのかも。
そう!絶対に幸せだった。