窓を開け放しで寝ているのだから仕方ない。この冷たい風は木の近いお陰、時計を見ると、まだ四時四十分、日の出は遅くなっているようだ。
しばらくすると仲間の方に行ったのか、声が遠のいた。と同時に私は再び心地よい眠りに。
次に目を開けたのは東の窓から入る光りがすっかり強くなった六時半。あっという間の二時間だった。今日も暑くなりそうだ。
西の窓からはまあるくなってきた隣りの栗の実が見える。この間いただいたでっかくて曲がったチクチクのキューリ、糠漬にしたら、ほんと、美味しかったなぁ。
災害と戦後の暮らしと
例年より二十日以上も早い梅雨が明けると真夏日と大雨。日本列島は一体どうなってしまったのか。広島や多くの町での信じられない光景が、毎日のようにテレビに映し出される。日本はもう確かに亜熱帯になってしまったのだろうか。それでいて冬の降雪量も増えているというのだから始末が悪い。
「お天気に文句を言ってはいけない」が家訓みたいだった実家では、というか私たち子どもにとっては、台風も大雪も遊びの種でしかなかった。それは安全が確保されているという前提のもとでの冒険だったのか、親が忙しくて気づかなかったのか、今では幸運だっただけかもしれないと思っている。
しかし今回のように数時間もたたないうちに自宅前の道路が濁流の川と化したとか、裏山が崩れて家を飲み込んでしまうとかの激しさには、無理な宅地造成や道路建設など、人為的要素もきっとあると思う。世代ごとに自分の家を建てたいとか、限りない便利さのみを求める街づくりにも問題があるのではないか。人の住まない家が三分の1にも達し、相続されずに放置された土地が九州と同じくらいの面積になるとも聞いた。
その昔、欧米人から見ると日本の家は「ウサギ小屋」だといわれた。我々の世代が自分たちのために建てた家や,その頃の公団住宅は、今や手狭になって、通勤にも不便なため、子供たちは自分の価値観で新しい住処を求める。古い家は親がいなくなれば見向きもされないが、更地への税金や相続の煩雑さから、とりあえず放置されてしまうのだとか。
我が家も同じ。五十年、百年ももつようにと頑丈な基礎、土台にこだわったけれど、我々が死んだら誰が引き継いでくれるのだろうか。数年遅れて建てた母の家は、屋根や設備の不具合から使用し続けるにはお金がかかるし、何よりも愛着がないから、子供たちの関心もない。
生活設計のしっかりしたオーストラリアの友人は、子供を育てたプール付きの大きな家を自分たちの老後のために売って、二人の思い出の詰まった海辺の町に、余生のための小さな家〈といっても私の家より広いけれど〉を買った。シニアビレッジの中なので、家そのものも老人向きだし、庭師、管理人、医療設備など、が完備している。同年代の家族が多いので、趣味の会や、パーティーなども盛んだ。親を自宅で介護するという習慣は無く、公的資金での施設介護が整っているようだ。
日本は戦後に、家族制度から教育、土地の所有、すべてが新しくなったばかり。七十年はたかだか人の一生にも満たない時間だ。価値観が定着するにはまだ短すぎるのだろう。この短い間に都市は世界一の設備を要求され、人は快適さを当然のものと考えるようになった。地面に足の着いた暮らし方は、高層ビルとともに遥かな高さに消えてしまったのかもしれない。
今、シニア世代に限らず、若い人の間でも農村への移住に関心が高まり始めているそうだ。パソコンのシステムに明るい世代が腰を落ち着ければ、過疎の村にも新しい暮らしがきっと生まれる。「勤め人」というカテゴリーも多様化してゆくだろう。
干し終わった梅を甕に移しながら、中途半端な世代の独り言だ。 20180712