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今日は七夕 盧溝橋事件

2008-07-07 17:34:30 | 歴史
「 いくさな(1937)がびく七夕の、盧溝橋、支那事変」と覚える。37から25を引いて12。昭和12年7月7日、盧溝橋事件である。

 今日はいまから71年前に、北京の西南12キロほどの地点にある、盧溝橋において日本と蒋介石の国民党軍が軍事衝突を起こした日である。この戦火は、上海、南京に飛び火し、その後日本と支那との全面戦争に拡大した。
 というのが今まで、私たちが歴史の教科書等で習った、盧溝橋事件に対する知識である。ちなみに中共政府はこの盧溝橋に「中国人民抗日戦争記念館」を設置し、日本軍の残虐行為などを紹介する展示を行っている。

 ところが事態はそのような単純なものではなかった。こんにちどのような歴史書にもこの盧溝橋事件の発端について、この戦争を仕掛けてきたのは日本軍の陣営に打ち込まれた、7月7日深夜から、翌日にかけての数発の銃弾であったことが明確に記してある。
 もっとも反日的ともおもえるアイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』でさえも国民党軍盧溝橋守備隊長の金振中の証言として「休憩中、暗闇の中、数発の銃弾が日本軍に撃ち込まれた。日本軍は点呼をかけたが、一兵士の姿が見えなかった。」としている。そして「日本軍はこの地域に勢力を拡大する口実としてこの事件を利用しようと思い立った。」というのが、いわゆる日本軍謀略説であり、「日本が支那を侵略した」という中共の主張である。

 しかし逆に、もしもこの「数発の銃弾」が日本軍の謀略ではないとしたら、「日本が支那を侵略した」ということは否定されることになる。これはまさしくいままでわたしたちが学校で習ってきた歴史がくつがえることになるのではないだろうか。そしてその可能性は非常に強いのである。

 まずなぜ日本軍はこのとき、この地で、国民党軍と対峙していたのか知っておかねばならない。

 それは1900年、清朝末期、義和団という政治結社が支那国内に駐留する列強の外国人たちにたいして反乱を企てた北清事変鎮圧の翌年に、清国政府と列強が締結した北京議定書(辛丑条約)に由来する。この条約によって日本は北京・天津地方における無期限駐兵権を獲得したのであり、盧溝橋近辺における日本軍の駐留は全く合法的なものであったことはいうまでもない。

 盧溝橋における数発の銃弾の発砲が、「日本軍の謀略」であるのか、それとも「シナの謀略」であるのかは、いまだに日中の専門家によっても結論が出されていないのである。
 にもかかわらず中共の一方的な主張である、「日本は中国を侵略した」ということを諾々と受け入れてきたことは「自虐史観」以外の何ものでもないであろう。
 さらにいうならば「日本は中国を侵略した」と盛んに主張する中共政府軍と日本軍は、この段階から日本軍の南京制圧の時点まで一度たりとも戦火を交えてはいないばかりか、中共軍は日本が米国等との戦争に負けてシナから撤退したのち、国民党と戦って、ついには蒋介石をを台湾に追い出しているのである。

 極めて面妖ではないか。様々な事件の謀略を疑う際に誰が最も得をしたかということで、その謀略の主を疑うべきである。答えは自ずから準備されているであろう。

 『神皇正統記』を読む、更新しました。
http://blog.goo.ne.jp/ryogonsanpo/


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