前回、長崎の南西の海上にある高島の、
国内で最初の洋式炭鉱施設「北渓井坑」をアップしたので、
今回は、その高島炭鉱に関して軽く見て行ければと思います。
鎌倉時代に平家の落武者が住みだした頃から人の歴史が始まる高島。
やがて時代は下り時は元禄の8年(1695)、
「五平太」という人が石炭を発見したことにより、
その炭鉱島の歴史は始まると言われますが、
その後ほどなくして石炭販売をいち早く事業化し、
伊万里の陶釜用燃料等として販売をしていたようです。
さらに1800年代に入る頃には、すでに6つの炭鉱が開坑していたようですが、
これら江戸時代の坑道跡はいずれも現存せす(と思います)、
また坑口名も、手元の資料で記述されたものはありません。
伊王島炭鉱の記事でも少し触れた長崎海軍伝習場の教官、カッテンディーケは、
伊王島と同時に高島も視察し、その時すでに蒸気力で運搬する方法を示唆しています。
一般的には前回の記事でアップした北渓井坑が蒸気力による最初の竪坑と言われますが、
蒸気機関の導入に関しては、既にその以前から考えられていた事がわかります。
ただし坑道は竪坑ではなく斜坑のようでした。
国内の炭鉱史に燦然と輝く北渓井坑は、
しかし採炭が不十分で水揚げに費用がかかり過ぎ、
わずか7年で閉坑してしまいます。
画像は北渓井坑におくれること2年、
明治4年 (1871) に開坑された南洋井坑の排気竪坑跡。
グラバー商会の倒産後に進出したオランダ商会による開発です。
当初はすぐ付近にある南洋井坑で入気と排気を同時に行っていたそうですが、
ほどなく排気竪坑が別に造られたようです。
今でも矩形煉瓦巻きの竪坑の一部が残存していますが、
ここで使われている煉瓦は、蒟蒻煉瓦ではありません。
この事に関しては、以前の記事『特集 中ノ島 #22』で触れているので、
そちらをご覧下さい。
南洋井坑のすぐ近くに、解説板だけ残る尾浜坑跡。
こちらは斜坑で、明治7年 (1974) に開坑されていますが、
この明治7年という年は、
高島炭鉱が外国資本の排斥を目的として官営化された一年です。
明治維新後、一気に流れ込んだ西洋技術への脅威とともに、
イギリスやオランダの商売方法が、当時の日本にとっては、
すごく狡猾なやり方に写り、ビビったんではないでしょうか。
古い時代の坑道で、しかも斜坑なので、
画像でも分かる様に、もうどこが坑道の跡かはわかりません。
また少し離れたところには、中山新坑(高島新坑)の坑口も残っています。
こちらは前の大戦の際に、戦時石炭増産政策のもと開削された坑道で、
事実その稼働は昭和12年(1937)~20年(1945)の間でした。
戦時中は沢山の大陸からの抑留者による労働が強いられた時期でもあるので、
特にこの坑道に特別な想いを持つ方は少なくないと思います。
付近には尾浜坑同様、申し訳程度の解説板が立っていますが、
ご覧の様に建築資材が無造作におかれるなど、
ぞんざいな扱いです。
■シリーズ:長崎さるく■
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国内で最初の洋式炭鉱施設「北渓井坑」をアップしたので、
今回は、その高島炭鉱に関して軽く見て行ければと思います。
鎌倉時代に平家の落武者が住みだした頃から人の歴史が始まる高島。
やがて時代は下り時は元禄の8年(1695)、
「五平太」という人が石炭を発見したことにより、
その炭鉱島の歴史は始まると言われますが、
その後ほどなくして石炭販売をいち早く事業化し、
伊万里の陶釜用燃料等として販売をしていたようです。
さらに1800年代に入る頃には、すでに6つの炭鉱が開坑していたようですが、
これら江戸時代の坑道跡はいずれも現存せす(と思います)、
また坑口名も、手元の資料で記述されたものはありません。
伊王島炭鉱の記事でも少し触れた長崎海軍伝習場の教官、カッテンディーケは、
伊王島と同時に高島も視察し、その時すでに蒸気力で運搬する方法を示唆しています。
一般的には前回の記事でアップした北渓井坑が蒸気力による最初の竪坑と言われますが、
蒸気機関の導入に関しては、既にその以前から考えられていた事がわかります。
ただし坑道は竪坑ではなく斜坑のようでした。
国内の炭鉱史に燦然と輝く北渓井坑は、
しかし採炭が不十分で水揚げに費用がかかり過ぎ、
わずか7年で閉坑してしまいます。
画像は北渓井坑におくれること2年、
明治4年 (1871) に開坑された南洋井坑の排気竪坑跡。
グラバー商会の倒産後に進出したオランダ商会による開発です。
当初はすぐ付近にある南洋井坑で入気と排気を同時に行っていたそうですが、
ほどなく排気竪坑が別に造られたようです。
今でも矩形煉瓦巻きの竪坑の一部が残存していますが、
ここで使われている煉瓦は、蒟蒻煉瓦ではありません。
この事に関しては、以前の記事『特集 中ノ島 #22』で触れているので、
そちらをご覧下さい。
南洋井坑のすぐ近くに、解説板だけ残る尾浜坑跡。
こちらは斜坑で、明治7年 (1974) に開坑されていますが、
この明治7年という年は、
高島炭鉱が外国資本の排斥を目的として官営化された一年です。
明治維新後、一気に流れ込んだ西洋技術への脅威とともに、
イギリスやオランダの商売方法が、当時の日本にとっては、
すごく狡猾なやり方に写り、ビビったんではないでしょうか。
古い時代の坑道で、しかも斜坑なので、
画像でも分かる様に、もうどこが坑道の跡かはわかりません。
また少し離れたところには、中山新坑(高島新坑)の坑口も残っています。
こちらは前の大戦の際に、戦時石炭増産政策のもと開削された坑道で、
事実その稼働は昭和12年(1937)~20年(1945)の間でした。
戦時中は沢山の大陸からの抑留者による労働が強いられた時期でもあるので、
特にこの坑道に特別な想いを持つ方は少なくないと思います。
付近には尾浜坑同様、申し訳程度の解説板が立っていますが、
ご覧の様に建築資材が無造作におかれるなど、
ぞんざいな扱いです。
■シリーズ:長崎さるく■
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私は今月から暗渠の散歩が主旨のブログをはじめておりまして、そもそも暗渠へ興味を示し始めたのも最近なのですが、その情報収集にと貴ブログの「東京暗渠」を拝読していました。
また、最近長崎へ行く機会があり、かねてより興味があった軍艦島について、調べようとしたらまたここへ辿り着きました。しかもなんと、軍艦島オデッセイの方なのですね!?私はJCOMオンデマンドで拝見しましたが、と~っても素敵でした!!
と、勝手に感動しまくり、超初心者なのに恥ずかしい、と思いつつも、コメントさせていただいた次第です。
また、私のブログにリンクを貼らせていただけたら、とてもうれしいのですが、お許しいただけますでしょうか?
拙blogをご覧になって頂き、ありがとうございます。
また軍艦島オデッセイもご覧になって頂き、重ねてお礼申し上げます。
軍艦島に関しては多少はお話できるとは思いますが、
暗渠に関しては殆どなにも知らず、
ただ昔から水回りの言葉、例えば「運河」とか「暗渠」とかが好きだったので、
その流れで巡ってみただけです。
リンクもありがとうございます。
こちらからもリンクさせて頂きます。
東京暗渠のカテゴリは、私の熱意をとーーーっても高めてくれたのですよ~。ほかのカテゴリも、気になるものが多いので、これから読ませていただきますね。
今後ともよろしくお願いします。
熱意をとーーーっても高めて頂けてとっても嬉しいです!
こちらこそ、これからもよろしくお願い致しますm(_ _)m